平泉世界遺産コア・ゾーン
骨寺論


骨寺 駒形根神社

駒形根神社
(07年5月4日 佐藤弘弥撮影)

駒形根神社の奥宮は、栗駒山の頂上付近にある。この本寺で も、奥宮の遙拝所としてこの地に建てられたものであろう。栗駒山の奥宮を拝むように西向きに建てられていいる。

 は じめに

2007年5月4日午後、桜が散り、田植え間近の一関市本寺(ほんでら)に向かった。今、本寺は、俄に全国的な注目を浴びている。その理由は、平泉の世界 遺産登録にからんで、当初は、登録される候補に入っていなかった本寺の美しい田園風景が、歴史的文化景観として、平泉の世界遺産のコア・ゾーンのひとつと して、推薦されることのなったためだ。

元々本寺は、「骨寺」とも記述される。(この理由については、本稿の中で、説明を加えることにする。)平泉中尊寺の経蔵辺当の領として、あの「吾妻鏡」に も、記載され中世の面影を色濃く撮す山間地の農村である。中尊寺には、当時の本寺の田園風景を伝える「陸奥国骨寺村絵図」(「在家絵図」、神仏絵図)とい う二枚の古地図が遺されている。


 1 骨寺と吾妻鏡  頼朝に本寺が征服されなかった理由 

この本寺が、頼朝率いる鎌倉軍の奥州侵攻の中で、この地を荘園として所有していた中尊寺の僧侶たちが、自らの正当性を主張し、自らの生存権を守り抜いた過 程を追いながら、奥州の地に生きた人々の心の歴史を吾妻鏡の記述を追いながら考えてみたい。

「吾妻鏡」には、骨寺に関連することが次のように記されている。

文治五年九月十日
十日、丁卯、(中 略)今日、奥州関山中尊寺の経蔵別当の大法師心蓮が、二品(源頼朝)の滞在されている場所に参上して、愁いながら、次のように申しました。

「中尊寺は、経蔵以下仏閣塔婆など、みなこれ藤原清衡公が建設されたものです。ありがたいこと に鳥羽院の御願寺として長年の間、寺領をご寄附くださり、また国家鎮護の御祈祷をする場所となって来ました。経蔵には、金銀泥行交りの一切経を納められて おります。まさに厳粛な霊場であります。ですのでどうか、今後とも苦境に陥ることなどのないようにお取りはからいください。次に今回の奥州における合戦に よりまして、中尊寺領に住んでおりました民百姓らは、恐れをなして、みなどこかへ逃亡してしまいました。ですからできるだけ早く、寺領安堵するとの御命令 を出していただくようお願い申し上げる次第でございます。」(現代語訳 佐藤)

これは、文治五年(1189)9月10日、鎌倉から全国からかき集めた 28万という兵をもって、秀衡、義経亡き後の奥州平泉に攻め込んできた源頼朝の下へ、中尊寺の「心蓮」という高僧が、直訴に参上した際に述べた主張であ る。それによれば、「中尊寺」は、鳥羽院の発願によって建てられた「御願寺」(ごがんじ)であり、初代藤原清衡公によって、中尊寺は、寺領を寄進されて、 独自で運営を行っていること。しかしながら、今回の鎌倉軍の奥州侵攻によって、寺領の民百姓は、怖れをなして、逃げてしまったこと。それ故に、出来るだけ 早く、寺と寺の持つ荘園について、安堵のお触れを出してもらいたい旨を、頼朝に直訴に及んだのである。

おそらく、これは中尊寺、毛越寺、無量光院など、繁栄を誇っていた宗教 都市平泉の僧侶の総意というよりは、10万人以上と言われる中世都市平泉住民の総意というべき主張であった。まず「平泉」と「中尊寺」の関係を明確にし て、「中尊寺は御願寺である」との主張が面白い。この裏には、寺は、奥州政権のものではなく、朝廷に連なり、国家安寧を願う思想によって、存在するもので あって、ひとり奥州のために、仏に祈りを捧げているのではない、ということになる。つまり、奥州を征服することは容易かも知れないが、「中尊寺」は、奥州 のためだけにあるのではなく、広く国家の平和のために存在する独立した存在であるとの主張であり、今回鎌倉軍の侵攻によって、この独立が妨げられたなら ば、それは鎌倉の総指揮官であるあなた様(頼朝)の責任にもなります。という一種の恫喝の意味も込められているのである。

しかしながら、いかに高僧と言えども、命がけの訴えに違いない。この騒 ぎによって、骨寺界隈の民百姓は、一時的に姿を隠してしまったことが、はっきりと分かる。少なくても、平泉の都市周辺には、この中尊寺の荘園として「本 寺」あったように、農村地帯が、点在していたことが推測できるのである。

「心蓮」の主張を静かに聞いていた頼朝は、このように言った。

この僧をお近くに呼んで、清衡、基衡、秀衡三 代の間に、建立した寺塔の事などを、訊ねて聞いた上で、明解に答えて、平泉のことを細大漏らさず報告しなさいとのご命令をくだされた。これによって、まず 経蔵領の境界である東の鎰懸(いつかけ)、西の山王の窟(いはや)、南は岩井河、北は峯の山堂の馬坂まで、所領安堵の御奉免状を下されたのでした。逃亡し た民百姓らは、ただちに土地に戻るべきとの命令を出すように言い渡され、これを散位の親能に執行させたのでした。(現代語訳 佐藤)

頼朝は、心蓮の言い分を呑んだ。というよりは、「中尊寺」という存在 が、朝廷(院)の権威に連なるように細工をしていた清衡の政治的配慮に犯しがたい理があることを理解し、難しいところには足を入れないように配慮したので ある。ここで、注目すべきは、中尊寺の荘園の東西南北の境界線が示されていることである。「東の鎰懸」、「西 の山王の窟」、「南は岩井河(磐井 川)」、「峯の山堂の馬坂」まである。こ れは非常に分かりやすい境界であり、要は狭い山峡の田園に拡がる本寺の田園が、北は山を境に、南は深い峡谷をなしている磐井川を、また西には、山王窟(さ んのういわや)として有名な納骨霊場を限りに、東にはこれまた橋で区切られる鎰懸(いつかけ)を境として、そこで耕作される米が、中尊寺の米倉を支える地域として存在していたのである。

この中尊寺経蔵別当の荘園としての「骨寺」の古地図は、中尊寺に今も遺 されているが、現在もその形状はほとんど変化なく存在している。もちろん、近代的土地所有制度の中で、農地は農民の私有となっているが、神社の配置や、田 畑の形状など多小の違いはあるものの、これはひとつの奇跡的な偶然というべきかもしれない。

そして、平泉の寺とその寺領(荘園)については、正式に安堵のお触れが 出る運びとなった。

「○文治五年九月十七日。
十七日、甲戌、清衡以後三代が造立 する堂舎の事につき、源忠巳講、心蓮大法師らが報告書を献上しました。親能朝宗がこれを拝見しまして、二品(頼朝)は、たちまち感心なさられました。そし て寺領の件は、これをすべて寄附されて、「国家鎮護の御祈祷を怠らぬようにしなさい」と云われました。このことをすぐ紙に書いて毛越寺の円隆寺南大門の前 に書状として張り出すようにとご命令なされました。僧侶たちはこれを拝見して、口々に安心して暮らすことができると言い合ったとのことです。その書状に は、このように書かれてありました。

『平泉内の寺領においては、先例に任せて、寄附する所となった。堂塔はたとえ荒廃の地であったとしても、聖なる仏の 法灯を絶やさぬための務めであるから、地頭らはくれぐれもそれを妨害することのないようせよ』(現代語訳 佐藤)

当時、頼朝と主だった主力軍数万は、現在の毛越寺周辺に駐屯していたものと考えられる。「先例にならい」とは、初代清衡公にならってという意味である。頼 朝は、自らの腹の大きい人物であることを示そうとした。いや、これは「御願寺」にしておいたという清衡公の深謀遠慮に屈服したということが正直なところで あろう。結局、奥州平泉の民の心の中心に存在するアイデンティティとしての「中尊寺」を自己の私利私欲の内に占拠することは叶わなかったと見るべきだ。




駒形根神社付近から東に平泉方向を望む
(07年5月4日 佐藤弘弥撮影)

本寺川は、一級河川ではあるが、本寺の田園地帯の中央を流れ下り、東に流れ下り、 磐井川と合流をする。残念なのは、コンクリートの水路化していることであり、世界遺産登録を機会に、是非自然の川の姿に再生を試みてもらいたいものであ る。



  2 骨寺の平泉野には中尊寺があった?!

菅江真澄(1754−1829)の著「はしわのわか葉」(菅江真澄全集 第一巻所収 未来社 1971年刊)に、このような記述がある。

五 串(イツクシ)村(達谷の西南二キロ)にやって来た。(中略)ここには厳美(イツクシミ)の神が鎮座し、特に社(やしろ)はないのであるが、瑞玉山(ミヅ タマヤマ)の奥に古い宮地跡が残っていて、今はそのあたりを水山(現在の一関市瑞山)の山王が窟(さんのうがいわや)と言うのである。

この奥に平泉野(へいせんの)といふところがある。ここに大日山中尊寺 の趾、高林山法福寺の蹟、栗駒山法範寺の跡、尼寺の趾、円位(西行)法師の庵の趾があり、骨寺の跡がある。このあたりの寺々を、むかし七十四代鳥羽院の御 宇(オホムトキ)、天永、永久の頃に、この平泉野より今の中尊寺のある関山に遷したということで、そこも平泉の里となったのである。現在の平泉にも「逆柴 山」といふ地名があり、これも平泉に存在する山名である。尚、骨寺の事及び尼寺の事は「選集抄」にその記述が見える。」(現代語訳佐藤)

菅江真澄の「はしわのわか葉」は、天明八年六月十日(1788)の日記とされる。この頃、菅江は前沢の鈴木常雄宅に寄宿していた。「はしわ」とは現一関市 の「配志和神社」(はしわじんじゃ)を指し、そこを尋ねた際の若葉の鮮明さに心を動かされた菅江が、紀行の文全体のタイトルとしたものと推測される。

この文章の中には、現中尊寺が、実は、この骨寺の平泉野にあった寺院が、鳥羽院(1103−1156)の御代に現在の中尊寺に移したものという注目すべき 記述がある。この時期は、平泉初代の藤原清衡(1056−1128)の時期に当たる。中尊寺には、中尊寺建立時に記述された「中尊寺供養供養願文」という 歴史的名文が遺されていて、この骨寺の平泉野から移転させたということが事実であれば、その痕跡のようなものが、山上にも存在するはずであり、同時に願文 の中にも、その辺りの事情が、記述されているのが自然である。尚、落慶供養願文
の最後には、「天治三年三月廿四日弟子正六位上藤原朝臣清衡敬白」の記名があり、天治(てんじ)3年は崇徳天皇の 年号で、1126年3月24日ということになり、中尊寺の平泉移転の時節がおおよそ推測される。

また菅江が書いている中に、平泉野にあったとする具体的な寺名として、「大日山中尊寺」の「大日山」という「山号」、同じく 「栗駒山法範寺」の「栗駒山」の「山名」に注目したい。栗駒山で一番高い山が「大日山」(大日嶽=1628m)と呼ばれる頂上である。しかも「大日」は、 天台密教の流れを感じさせる。また「栗駒山」に関しては、「駒ヶ嶽(1573m)」という名称も使われており、もしもかなり以前からこの使い分けが、なさ れていたとすれば、これは大きな発見と言わなければならない。そして尼寺や骨寺があったとなると、壮大な伽藍群が現在の駒形根神社の背後に聳える山上に平 地が開かれ、骨寺伽藍群が存在していたことになる。




要害橋付近から代掻きをするトラクターを撮す
(07年5月4日 佐藤弘弥撮影)


 3 藤原清衡の戦争体験と平和思想の形成について

本寺周辺は、呰麻呂(アザマロの乱=780)が生き、坂上田村麻呂(758-811)が阿弖流為(?−802)と渡り合った時代を含め、前九年後三年の頃 (1051−1087)に至るまで、戦場となったところだ。この周辺には、窟(いわや)と呼ばれる地名が沢山ある。山王窟や達谷窟など、その多くは敵味方 にいたる無数無名の兵士たちの躯(むくろ)が集められ、葬られた宗教施設だった可能性がある。

須川嶽(栗駒山)に源を発し、急流によって深く抉られた磐井川の流れは、敵と味方を峻別するほどの厳しさを持つ鋭さである。今本寺橋の上に立って、しみじ みと往時を思い起こすと、戦の当事者たちにとっては、私たちが「本寺」を概観して「素晴らしく美しい景色」などという感慨を抱くのとは、まったく別の思い でこの地を見ていたに違いない。

現在墓地となっている山の頂上付近の平地の上の平泉野の周辺に、骨寺の伽藍群があったという伝説が残っている。それは、先に菅江真澄の記述にある通りであ る。しかし残念ながら、この周辺は考古学的な検証は、ほとんどなされていない。数年前に少し掘ったところ、縄文中期の土器の破片が出たとのことである。山 上の台地には、白山社も存在し、今後の発掘調査によって、この平泉野が、中尊寺の前身であったかどうかということは、容易に結論がでるものと思われる。

今私たちは、数百万の大戦戦死者の犠牲の上に、平和を享受し、一方は「憲法九条を守れ」と主張し、また一方では「いや有事に備えて憲法を改定しろ」と主張 をしている。清衡のような人物にしてみれば、「愚かしい者たちよ。何をためらっている」と歯がゆい思いをしているであろう。

考えてみれば、平和と戦争の起こる度に、日本人のみならず、世界人類は、自己の闘争本能と攻撃性をむき出しにして、それを何だかんだと言い訳を拵えては、 己の欲望のままに歴史を刻んできたのである。

この戦の愚かしい歴史に永遠に終止符を打たなければならない、と思う人物がいた。それが奥州藤原氏初代藤原清衡(1056−1128)である。彼は前九年 の戦によって、安倍氏に荷担した父藤原経清(?−1062)の遺児であるが、縁あって、朝廷軍源頼義(988−1075)に応援参戦して功を上げ、鎮守府 将軍となった出羽の豪族清原武則(生没年不詳)の息清原武貞(生没年不詳)に生母(安倍頼時の娘)が再嫁し、清原清衡として、育てられた運命の男子であ る。この時、清衡は物心がついたばかりの7歳の少年だった。

前九年の役で敗者となった父経清の最後は、源頼義の憎しみを買い刃こぼれの鈍刀をゆっくりとノコ引きにて惨殺され、その首は京都に運ばれて晒された。また 清原氏内部の抗争に端を発した戦とも言うべき後三年の役が起こった折には、清衡は、実弟の清原家衡(?−1087)のために、目の前で妻子が焼き殺される という経験をしている。結局、運命のいたずらにより最後に勝者となり、奥州のトップの座に上り詰めた清衡が考えたことは、戦で亡くなった無数の命を浄土へ 送ることと、生きとし生けるものが安寧のうちに暮らす平和の楽土の実現だったのである。

まず、清衡は、嘉保・康和年間(1094-1104)に、父や亡き妻子の辛い思い出の残る豊田の柵から、奥州の中心を「平泉」に遷した。おそらくそれは、 安倍氏や館が点在し、北上川の水上交通網などのインフラも比較的容易に修繕整備できるとの見通しがあってのことだろう。次に彼は戦争の深い傷を負っている 奥州の人々を信仰の力によって、回復させることを考えた。

そこで平泉の関山と呼ばれる高地に中尊寺の伽藍群を建設することにしたのである。そして、ここには、平和祈願の記念事業ともいうべき「金銀泥一切経」の書 写が多くの僧侶によって執り行われることになった。もしかすると、この事業には、奥州の数多くの武士とそれに準ずる人々を武装解除させ、心を自然な形で信 仰に向かわせる意図があったようにも考えられるのである。

つづく



遠西遺跡付近からの田園風景

遠西遺跡付近からは12、3世紀の土器類が発見されているが、この付近から田園の 奥に駒形根神社、そして遙か遠方には、青い栗駒山がなだらかに聳えている。

磐井川

磐井川の急流を本寺橋の上からみる


本寺橋から栗駒山を望む

本寺橋から栗駒山を望む



2007.5.10 佐藤弘弥

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