清衡が金色堂を秘した訳?!

−日本文化の根底にある観念−

 
「秘すれば花」という言葉がある。云わずと知れた世阿弥の「風姿花伝」の中の一節である。古来日本人は、秘することによって、むしろそこに美を見出してきた。満開の花が、我が世の春と咲いていたところで、風流人はそれを少しも尊いと思わない。むしろ花を秘する心が花を生かし、花の美しさを際立たせるのだ。

利休と秀吉の話で有名な話がある。ある夏の茶事でのことだ。利休が天下人秀吉のために朝顔の花を何百と育てているとの噂が耳に入った。どんな色の花か、どれほどの丹精を込めて、利休が育てているのか、秘されていればいるほど、早く見て見たいという思いが、秀吉の中で膨らんで行った。

秀吉は人を差し向けて、どんなものか探らせたかもしれない。するともの凄い数の朝顔を用意しているようだとの情報が秀吉にもたらされた。さてその茶事の朝、利休は、朝顔をたったひとつ残してすべてつみ取ってしまった。そして、利休好みの質素な茶室の奥の床の間にたった一輪の蕾を生けて置いたというのである。そこには一筋の日の光が差している。

その部屋に秀吉が入ってくる。そしてさしもの天下秀吉も、腰を抜かさんばかりに驚いたのである。ここに利休という芸術家の美意識が表現されている。花は秘するからこそ花なのである。おそらく利休は、世阿弥の花伝書は、花のように秘せられていたのだから、読んでいることはなかろう。しかし見事に、利休は世阿弥の美意識に連なっているのだ。

さて時代は江戸時代に入り、松尾芭蕉は、俳諧という世界一短い文学の大家となったが、それまでの俳諧は、滑稽味を出した庶民の言葉遊びの領域の芸に過ぎなかった。しかし芭蕉という人物は、己の美意識を世阿弥や利休の同じ領域に踏み込むことによって、俳諧というものに「秘すれば花」という日本文化が持つ独特の美意識を注入した。芭蕉の俳諧の特徴は、いかに語るかではなく、いかに言いたい言の葉を秘すか、というところに主眼が置かれている。ことそのことによって、俳諧はいつか江戸庶民の言葉遊びの次元を飛び越えて日本文化の魂に連なる高みに達してしまったのである。

さて今日ここで云いたいのは、金色堂についてである。金色堂について、奥州藤原氏初代清衡は思いの丈を込めて奏上した「中尊寺供養願文」の中で言及していない。そのためにこれまで様々な憶測がなされた。ある人は、自分の入る霊廟だから、「願文」では触れなかったと語り、又ある人は、結局「願文」そのものが中尊寺についての言っていないのだから「金色堂」もないのも当然、「願文」そのものが中尊寺の建立ではなく、毛越寺のことを指しているのではないか、などと言うのである。

今日は、清衡が、願文で金色堂について、何故触れなかったのか、そのことを学問的に云々するつもりは毛頭ない。私は清衡が、秘したことの意味は、金色堂を秘すべき花のように思っていたからだ、と単純に考えてみたいのである。確かに金色堂は、金色の蓮華のような形状をしている。この小さな阿弥陀堂を造るにあたり、清衡は、何も語らずに、そのことを秘すべき花として秘したのではないか?そう考えたののである。秘すほどに人は、その花を見たく思うものだ。丁度、利休が、秀吉に秘したように。結局、このことにより、その噂は、マルコポーロのような海外の人物にまで、伝わることとなり、黄金の国ジパングの伝説が、平泉の金色堂という黄金の華から出来上がったのではあるまいか・・・。

「秘す」あるいは「秘する」という日本人独特の感性を、縄文の血を受け継ぐ清衡が、本当に意識していたかどうかは謎である。しかし「願文」を一読すれば、清衡がどれほど慈愛に満ちた人物であるかは、一目瞭然であり、その可能性は十分にある。あえて「秘す」という感性をどこから得たのかということを、批判を怖れずに推理すれば、天台密教の教えから受け継いでいる可能性があるとだけは最後に指摘しておきたい。

佐藤
 

 


2003.2.26
 

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