平泉にも春の訪れ

(毛越寺大泉が池)
 


 
 
 
春分の日の翌日、小春日和の平泉に出かけた。春夏秋冬この大泉が池は、様々な姿に変化し、宇宙の深淵を垣間見せる。この日も、息を呑むような荘厳な美しさがそこには在った。

初代清衡公は、平和への祈りを込めて、この地奥州平泉の地に西方浄土にあるという楽土を再現しようと中尊寺を創建した。二代基衡公は、父の思いを引き継ぎ、永遠に涸れることのない平和の泉を、毛越寺の浄土庭園「大泉が池」として実現させた。

この日も、奥州を平泉を開いた彼らの思いが池の奥底から波動となって伝わって来るのを感じた。金鶏山が仄かに霞をまとって、春の装いになっている。松の木陰には、根雪が消えずに残っている。ここに在るすべてのものが美しい・・・。

それでも、どうしたものか、心が晴れないのだ。憂鬱の原因は、イラク戦争勃発によるものであった。清衡公、基衡公にあやかった訳ではないが、気がつけば、イラクの人々のために、池のほとりで、目を瞑り祈っていた。

華やぎの春を前にし池の辺に祈りたきこと念じつつ立つ
祈らでか今この時も罪もなく殺され逝きし人あまた居て
金鶏の山吹き下ろす春風に立つささ波の寄せ来る磯辺


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2003/3/25 Hsato