「北上川フォーラム」に意見する


 
 
 

NHK教育テレビ4月13日午後23時に放映された「北上川フォーラム」を拝見した。このフォーラムは昨年の11月18日一ノ関で開催された同名のフォーラムの録画である。

         1 平泉文化と北上川の関係の説明不足

 北上川の紹介はほどほどであったが、肝心の平泉文化の成り立ちとの関係の部分の説明が少なかったのが、気になった。初代清衡公が豊田の館を平泉に移した理由は、平泉が北上川という大河の湊として、京の都以上の可能性を見たからである。四方を山や川に囲まれ、船で北上川を下り石巻から太平洋に通じる平泉という都市は、館として攻めるに難しく守るに易しい。同時に商業貿を考えたならば、かつての平泉は絶好の水の都であったことだろう。そのような意味で北上川の可能性に最初に着目した奥州藤原氏初代清衡公の北上川を中核に据えた都市造りの思想を平川南氏に語って欲しかった。

前沢町にお住まいの三好京三氏の言に期待したが、少し話がずれているような気がした。それは政庁としての柳の御所という文化財を守るためには川の流れを変えることは、仕方ない。人間の文化という為にはそれも許される、という論理には、異質なものを感じた。少なくても私は、この三好氏の発想は、明治以来の治水思想に根ざした所の人間の科学の力によって自然を作り替えこともやむを得ない。また辞さない。という 一種の科学技術に対する過信のようなものに根ざした考え方に思われたからだ。
 

         2 平泉文化の独創性について 

もしも平泉に花開いた平泉文化が大切だというのであれば、中世都市平泉の学術的解明を徹底し、平泉という都市の過去の姿の復元図を作るべきである。今平泉の古地図や、遺跡の発掘によって、次第に平泉の全貌が明らかになりつつある。先に書いていただいた前川氏は、最新の研究成果を基礎として、中世都市平泉が全体として苑池構造をしていたという仮説を述べられている。確かに平泉は、様々な性格を持った都市である。湊であり、館であり、苑池であり、仏を観相できる楽土である。すなわち商業貿易が容易にでき、しかも館としてもあり、また雅な遊びにも興ずることができ、仏教の平和の思想を教える土地なのである。

ここまで書くと、平泉が、完璧な京都の模倣(コピー)であるという考え方が、間違いであることが明確になるであろう。都市である平泉と京都の違い。その第一は、北上川と鴨川の違いをみればすぐに分かる。北上川は、北上川のまま、大洋に流れ込んでいる。しかし鴨川は、そうではない。川の性格の違いが、都市としての平泉と京都の違いとなって反映している。第二は、館としての性格を持つ平泉に対し、京都の御所は、政庁ではあっても館ではない。京都は地形を利用しながらも、街を碁盤の目のように配列した。一方平泉は古地図を見、発掘の成果をみる限り、人工的に成形したというよりは、段丘は段丘として、遊水池は遊水池のまま、むしろ自然の景観をそのまま利用しているようなふしがが多く見られることである。今後平泉の中世時代の姿が明らかになるにつれて、平泉という都市を造った思想の独自性が明らかになって行くはずである。

        3 近代河川工法の限界 

三好氏は、平泉文化の大切さは認識しておられると思う。しかし残念ながら平泉文化の何が、オリジナルで、現代に生きる我々が、その文化の思想を未来に向かって、どのように伝えて行かなければならないのか、という認識が少し我々と違っているように思えて残念だ。おそらくそれは氏が戦後すぐにやってきたカスリン台風とアイオン台風の被害者であり、その災害によって、友人などを亡くされた経験が心の傷としてあるからであろう。確かにあの台風がもたらした大水は、いまでも語りぐさになっているほどのすごさであった。

あのような災害が起こらないようにするには、護岸工事によって、川と岸辺は、高い堤防を構築して防ぐしかないかもしれない。しかしよく考えてみればこれは明治以来の治水の考え方で、災害に対する対処療法的な発想である。過去にももちろん災害はあった。しかしあの戦後すぐに起きた災害をもう一度原点に立ち返って考えるならば、明治以来北上川沿岸で繰り広げられてきた治水の為の堤防による治水の限界という側面を見過ごしてはいないだろうか。

 明治以降、高い堤防によって、守られたため、田畑の耕作面積は飛躍的に増えた。また本来で在れば、遊水地となって草や葦などばかりの土地に人家まで建てられるようになった。そこでは近代河川工法が自然に勝ったと評価されていたはずだった。しかし北上川の至る所にあった水の遊び場としての遊水地が、近代河川工法によって、次々となくなってしまう中で、たまり場、遊び場を失った川の水は、これまで以上に勢いよく、下流へ流れることになってしまったのである。平泉北上川は一ノ関をかすめて川崎町に向かうが、ご存じの通り、あそこは、狭い谷間を北上川が流れていて、水が集中的に集まってしまう場所である。近代の河川工法の限界がここにあるのである。そこで次ぎに登場するのが、ダム論争である。水がいっぺんに流れないように、ダムを造ればよい。こんな対処療法的な考えによって、すぐに日本では昭和30年代にかけて一大ダム建設ラッシュが起こった。北上川でもそれは例外ではなかった。北上川の支流の上流にダム建設が盛んに進められた。勢いダム工事は公共事業でもあり、ゼネコンや地元に多くの利権となって降り注いだ。

 しかし今や、ダム下流の地域で起こっていることはと言えば、水質が落ちたことや、途中の土砂崩れなどで、支流の川そのものが瀕死の状態になっていることを否定することはできない。今必要なことは、近代河川工法を頼りにした対処療法的な護岸工事ではなく、カスリン台風やアイオン台風が何故あのような災害をもたらすに至ったのかの再検討をし、水と真の意味で共生できる河造りを実現していくことではないだろうか。

        4 清衡公の「水と共生する都市平泉」というグランドデザインに学ぶ 

そのためにも、我々は中世都市の平泉を建設した清衡公の平泉建設の思想に学ばなければならないと思う。清衡公の考え方は、中尊寺供養願文に余すところなく表現されているが、それは一言でいえば、「水と共生する都市平泉」ということである。だからこそその子の基衡公も孫の秀衡公も、水をふんだんに活用した苑池や堤、堀などとして、上手に配置したかつて日本のどこにも存在しえない都市平泉を、奥州の地に出現させることができたのである。

 あの北上川フォーラムにおいて出てきた河川に対する思想は、明治以来の対処療法的な河川工学の域を抜け出ていない論議で残念ながら、問題の核心をついているとは到底思えない不毛な論議であった。元建設省の河川局の尾田栄章氏が、最後の方にいみじくも云われたが、「川の流れを変えて果たして川を守れるのか」という考え方は、一つの問いかけとしては意味があったと思う。河川の専門家が、高館と柳の御所前で蛇行する北上川の流れを変えて、それで大丈夫か、ということは、大いに議論されなければならない。

 さて最後に、「フォーラム」を総括してみよう。おそらく奥州藤原氏が滅んだ後の平泉には、多くの河川の氾濫があったことだろう。平泉は、放って置けば、自然にでも水が溜まりやすい地形の場所である。そしてそこは江戸期の治水の考え方にしたがい、田畑化もされないままになっていた。それは自然が500年の年月を費やして造り上げた廃墟の面影があった。その場所を訪れた俳聖松尾芭蕉は、その茫漠とした景色に涙を零しながら生涯の一句をを詠んだのである。「夏草や兵どもが夢の跡」確かに芭蕉の感性が捕らえた高館からの景観は、ただ夏草と北上川と束稲山と北へ向かう古道と、霞む衣川くらいしか見えないのだが、誰もが「平泉の原風景」として納得してしまうほどの凄味のある景色なのである。さて今回の「フォーラム」は、この高館の景観をまったく無視した形で進められた今回の「北上川フォーラム」には少なからぬ落胆と奥州文化の未来への継承に赤信号が灯っていることを皆さんに訴えたいと思う。佐藤
       
       冠に「史跡」とあれば高館を守る人ありや文化行政

 

 


2001.4.14

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