奥州の一隅を照らす


旧高館橋の袂から束稲山を望む
(2001.4.21撮影)


 

2001年3月に発刊された「東方に在り」第五号(平泉文化会議所情報誌)の中で千田孝信貫首が「目に見えない遺産」と題して次のように語っておられる。
 

 「平成十一年、東京国立博物館に平成館が竣工開館した際、当山からは金色堂の仏像を協賛展示した。・・・名だたる仏像群の中にあって、わが金色堂のみことけたちは、整った定朝様式の美意識を御身の隅々まで満ちわたらせて、何らの遜色もなく、ひとしお高く尊い後光を放っているではないか、とくに地蔵菩薩の微笑みは、群を抜いた美しさであった。

 掌を合わせて瞑目したら、清衡公が「どうだお前、わかったか!」と、直々に喚びかけてこられたような感動が、胸一杯にこみ上げてきて、溢れる涙を抑えきれなかった。みちのくの土の匂いを金色堂の仏像の形象から、敢えて拭い去ったお心の程が納得されて、「あくまでも完璧の普遍を目指されたのですね」と、清衡公にお応えしたのだった。

 十二世紀の平安末期、都から遙か僻遠(へきおん)の地みちのくに在って、しかも、みやこを凌ぐ普遍の花を目指した清衡公の「五分の魂」が私の胸を打って止まないのである。

 ・・・(中略)人間は、宿命的な、それぞれの「一隅」で生きるほかない。その場は、それぞれに個別なLOCAL・地方である。しかしLOCALに徹しぬいて、おのれの立つ一隅を掘り起こして生きるとき、不思議にも人は滅びゆく「個別」から滅びない「普遍」に達することが出
      来るのである。・・・このように生きるとき、滅びゆく人間の宿命が、滅びない中尊の光芒を放つのである。・・・(後略)。」
 

 金色堂は、実に不思議な御堂である。中尊寺のすべて伽藍が焼失して新たに建てられたのに、唯一この御堂だけは、焼失を免れた。そのことの大きな理由は、まさに金色堂だけはおのれの一命を賭しても、守り抜くのだ、という奥州の人々の決意があったからに違いない。

まずこの地が頼朝率いる鎌倉勢の手に落ちた時も、早速に中尊寺の心蓮大法師が、頼朝に会いに行って「ここは清衡公が開いた霊場であり、狼藉のないように」と、堂々と直談判をして、存立のお墨付きを得たのであった。(吾妻鏡 文治五年九月10日)

以来この中尊寺の象徴としての金色堂は、数多の焼失の危機を人々の決死の覚悟によって守り抜かれ今日に至っているのである。さや堂は、それから百年あまりして出来たものだが(1288:正応元年)、これも人々の思いが鎌倉幕府を動かして出来たものである。

芭蕉はそれから五百年して、この地を訪れ、高館で「夏草や兵どもが夢の跡」を詠み、中尊寺を訪れ、さや堂の偉容に感動して「五月雨を降り残してや光堂」と詠んだ。更に金色堂に入ると、不思議な光りが、蛍のように現れ、柱の中に消え入る光景を眼にした。この時、芭蕉は金色堂そのものが生きていることを実感したに違いない。もしかしたら芭蕉はこのような清盛公の声を聞いたのかもしれないとさえ思う。

   「そなたに儂の思いが分かるかな?この堂に込めた儂の思いが・・・」
   そして、芭蕉は、この不思議な瞬間を句にしようとした。

      蛍火の昼に消えつゝ柱かな

この句は、「おくの細道」には収載されていないが、芭蕉の稀有な芸術的感性が捉えた一瞬の中にある永遠なのではないだろうか。

千田貫首の一文を読ませていただきながら、奥州の「一隅」の「平泉」を支えている目に見えない不思議な力の存在を感じざるを得ないのである。佐藤
 

 


2001.4.4

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