母は光る蓮
1 兄からの知らせ

2003年雨の降る7月8日午前6時59分、母佐藤タメ子はあの世へと旅だって逝った。享年87歳であった。 早朝外に出て倒れた母は、雨に打たれ、虫の息となっていた所を、発見され、救急車で、近くの病院に運ばれたものの、雨によって衰弱した母は帰らぬ人となっ た。

朝5時20分頃、兄から突然電話が入り、「かあちゃん。駄目だ。今死ぬところだ」と言った。
「どうした?何かあった?」
「朝、寝床に居ないと思って探したら、外で倒れていて、『うー、うー』となっていた・・・」

受話器から小さく救急車のサイレンが聞こえ、兄は「それじゃ、救急車来たから、また後でな」と云った。

しばらくし、兄の携帯に電話をすると、姉が出て、「体力がないので、かなり厳しい状況と、先生に言われた」と 小さく言った。

そして、7時過ぎ、姉から電話があり、「午前6時59分、お母さんは亡くなってしまった。弘弥ちゃん。ごめん なさい。」とのことだった。

 垂乳根の母逝き給ふ降りしきる雨の命日七月八日

何も悔いはない。義経さんの生誕祭で田舎に帰り、7月5日(土)、6日(日)母の顔を見たばかりだ。
土曜日の夕方頃、実家に着くと、母は実家の猫と仲良くソファで眠っていた。肩を叩いて、「帰ったよ」と声をかける と、「何だ?夢を見ているのか。弘弥か」と言った。

 不意打ちの母の訃報に愕然としかし覚悟の吾でもありし

その夜に食卓を囲んだのだが、食が細っているので、これはまずいな思った。人はよく食べなければ死んでしま う。もちろん食べ過ぎてはいけないが、食欲は、寿命のバロメーターなのかもしれない。日曜日に帰る時、「またお盆には来るからね。元気でいなさいよ」と言 うと、 「うん」と言って横を向いた。

思えば、これが最後の別れの言葉となった。母は気丈な人で、最後の最後まで、人に面倒をかけるのを嫌った。心 臓の病気により、薬を服用しているので、トイレが近く、医者にオシメを勧められても頑として断るようなところがあった。やはり、母は最後まで、女性として 生きていたかったのだろう。

 とうとうこの日が来たと言うべきか人は死ぬもの尊き母 も
 

2 母の大きさ

午後3時50分。母が眼を落としてから、8時間が経過していた。栗駒の実家に着く。雨はこ止みなくふり続いて いる。7月8日だというのに、妙に肌寒く、背筋に冷たいものが走った。母がこの世にもういないということが、まだ信じられない。母は今朝の今朝まで呼吸を していた。それが数時間前に呼吸することを止めた。生きていて、わが子を思い、言いたくもない小言を子のために精一杯に並べて、老いてすっかり小さくなっ てしまい、せっぽちの体を引きずるように生きてきた母は、もういない。

 年老いて小さくなった母なれど眠ってみれば無限に大き し

玄関を入ると、兄たちの手で、すっかり仏壇ができあがっていた。その前に、金糸の布団に覆われ、母は、閑かに 眠っていた。お香の心地よい匂いが立ちこめる座敷の奥に仏壇は、据えられていた。刻々と、どこからともなく、人がやって来ては、お線香を上げて、一言・二 言、喪主である兄や姉と話し帰ってゆく。
「あらタメ子さん。起きろ。どうした。この前まで、元気だったのに。何で。お前。寝てるのや」
近所のお年寄りが、そう言いながら、母の顔の覆いを上げて、母の顔を覗き込む。
「何で。雨の日に、外になんど、行ったってや」そう言いながら、すすり泣きの声が聞こえる。

 母送るために集ひし里人の涙に母の大きさを知る

次第に供物や花が、運ばれて母の亡骸を覆い尽くすようになってしまった。
兄たちは、これから執り行われる式次第を練って、誰が来るか、どんなことをするか、話をしている。死者の家族は忙し い。悲しむ暇などない。しかし暇がないことがせめてもの救いだ。こうして家族は、心にぽっかりと開いた悲しみ忙しさというものに癒されているのかもしれな い。

 塵ひとつ残さず逝った母のこと美しと思ふやはり母は美 し

 花たちはひしめき合ってわが母をいとしむように並んで をれり

田舎における葬儀というものは、まさに儀式そのものの堅苦しいものに見られがちだが、実はそうであない。かつ ての古き良き日本がそこにはある。葬式というものは、田舎に住む人々にとって、ある種のコミュニケーションの場を提供する機会である。そこで死者を弔い野 辺送りをしながら、実はそこに住む人々の対話の場であり、信頼回復の場であり、協力し合う場だ。佐藤タメ子という87歳の老女が亡くなったのを契機とし て、自分たちのコミュニティの和を保ち確認し合う場なのだ。

台所では、近所の奥さんたちが、当たり前のように、弔い客をもてなす食事を作りそして運ぶ。今や都会では、 すっかり、葬儀屋が、幅を利かせてしまったが、わが実家では昔ながらの地域総出の葬式が、続いている。そのことに妙に感銘を受けた。今、日本中で、都会の ドライな人間関係が、田舎の方にまで蔓延してしまったが、今こそ田舎の良き風習を都会人が学ぶべきではないかと思った。

 古き良き日本はここにふる里の母の葬儀につくづく思ふ
 

3 母の戒名は「光る蓮」に

夜になり、母の眠る座敷で、兄弟親類が枕を並べ、横になった。仏壇には煌々と明かりがついて眩しいほどだ。近 所の人々から送られた色とりどりの灯籠が、母の周囲で踊っているようにみえる。母の49日間の旅路は始まったばかりだ。今頃、母はどの辺りに差し掛かって いるのだろう。とりとめもないことを思いながら、線香を一本とって、合掌した。眩しい光を避けて、布団に横になると、既にみんなは床に就いて眠っている。 どんなに疲れていても簡単には眠れないはずだ。きっとそれぞれ在りし日の母のことを思い出しているのだろうか。それにしても一段と雨は、激しくなる一方 だ。このまま降り続ければ洪水にでもなりそうな勢いだ。

 今晩は旅立ち往ける母上を見送らむとて眠らむとする
 雑魚寝して母を送ると線香を絶やさず付けるまた一本と
 洪水のおそれもありそな勢いで雨降り続く母死に給ふ夜

何度か、床を起きて、線香を上げながら、浅い眠りを繰り返して、夜が明けた。外では、雀たちの囀りが聞こえ た。雨音は止んでいるが、小粒な雨がまばらに降っている。障子を開けて、外を覗くと、南の空に少し雲が割れて、青空顔を見せている。里山には、うっすらと 雨雲が懸かっている。やっと母の涙が枯れようとしているのかな、などと思いながら、家族中で、長い通夜の一日が始まった。

 母逝きて朝日に映える雨粒の匂いやさしき夏の朝かな

兄と共に、朝の六時四十分に円年寺に向かった。和尚から母の戒名を頂くためだ。
田舎の朝は早い。円年寺の和尚は、養護学校の教師をしている関係で、学校に出勤する前に、会う必要があった。和尚が 現れた。手にはふたつの位牌が握られていた。兄は、丁寧にあいさつをすると、袱紗(ふくさ)から現金を出して、賑々(にぎにぎ)しく渡した。和尚は、合掌 し、手慣れた表情で、札を勘定すると、再び合掌して、位牌を指し示し説明を始めた。

「このような法名となりました。昨日、タメ子さんを拝みに行った時、美しい蓮を思い浮かべました。光る蓮が、 こう、美しく咲いているイメージですね。それでこんな戒名を付けさせていただきました。『慈福院光室誠蓮大姉』です。慈は、昨夜云われたので、こうしまし た。本当は、ご主人が福寿院ですから寿福院としようと思ったのですが、慈母観音の慈を入れました。光室は、もちろんご主人が光弥さんですから、光弥さんの 奥さんという意味、誠はタメ子さんのタメの意味があります。蓮は先ほど云った通り、タメ子さんの印象ですね。それも光る蓮です。朝日に照らされて輝いてい る蓮を何故か、拝んだ時にそう感じたのです。それでこのような戒名になりました。」
 

「いや、和尚様。実にありがたい戒名です。蓮というものは、お釈迦様の華ですね。蓮の花は泥の中に根を下ろし て、泥の対極にあるような、美しい花を水上に結ぶ。母は、まさに様々な人生の苦労を経て咲いた蓮かもしれません。思っていたのは、母は慈母観音のような人 でした。それでこの慈しみの慈を入れて欲しかったのですが、それを戒名の先頭に入れていただいて感謝しています」と、私も云った。

私は戒名というものを重視するような人間ではない。俗名と戒名を使い分けて、それがどんな意味があると考える 人間だ。しかし今回の母の戒名を見た時は、自分でも信じられないほど感動した。

 塵ひとつ残さず逝った母タメ子慈福院なる法名受くる
 「光る蓮」思ひ浮かびてこの戒名和尚付けしとなむありがたき

戒名はかつて、受戒の際に生前に与えられるものであったが中世末期頃から、死者に与えられるようになった。こ れは仏の教えを受け継いで、生きて悟りへの道を歩むための道しるべであったのかもしれない。もしもこのような立派な戒名をもらった人間なら、戒名に泥をぬ るような悪いことはできないはずだ。その意味では、人生の道を踏み外さないためにも、生前に戒名を授かっておくのも良いかもしれない。ただどんなに良い戒 名を授かったところで、自身の人生に対する心構えがなければ、何にもならない。母が常に子供頃に私に云ったことは、

「他人に迷惑をかけるな。家族に泥をぬるようなことをしてはならない。弱い人を助けなさい。」

というような極めて単純な道徳観であった。しかし今日本の子供たちの道徳観が崩壊している。そんなことを思う につけ、母から教えられたことが、いかに自分の心の中で、重要な位置を占めているかを改めてしった。そうなのだ。人間は、特別な能力や社会への貢献ができ なくても、他人や家族に迷惑をかけず、弱い人を助けられるような人生を送ることができれば、それは立派なことなのだ。別に私の母だって、特別な女性ではな い。極めて平凡な人間であった。しかし母が死に、私の中で立派に母の教えが生きている。こうして、曲がりなりにも道を踏み外すことなく生きて来れたこと は、すべて母のお陰だ。そのことは、どんなに感謝しても、感謝し尽せないものがある。早速、家に戻ると、母の眠る仏壇に「慈福院光室誠蓮大姉」の位牌を置 いた。

 仏壇の慈母観音の手の先の「慈福院光室誠蓮大姉」の位 牌は光る
 

4 桜の大木に薄日が 

七月九日午前7時半、さっきまで小降りだった雨はどうにか上がったようだ。今夜は通夜がある。朝食を終えて、 栗駒山を遙かに見ると、雲に隠れて見えなかったが、青空が所々に覗いている。その中に在って、わが家の樹齢四百年を越える種まき桜が、深緑の葉を生い茂ら れて、どっかり腰を下ろしている。

 薄日射す桜を見上げしみじみと母の面影思ひ出したり

木に近づくと、急に朝日が、辺りを照らし出し、少し照り返しで暖かくなった。土の匂いがした。懐かしいあの雨 上がりの香りだ。大きな蟻が、忙しく辺りを歩いてゆく。シャクトリ虫が、葉の桜の木の下にある草花の葉の上を移動している。母の命は天に召されたが、別の 無数の命たちは、母の命を引き継ぎながら、未来へと進んでいるのだ。

 薄日射す桜の根もとに佇めば蟻に青虫、母の命継ぐ

もう桜の木を樹木医さんに治療して頂いて三年になる。かつては、この老木も、幹が折れ、そこから腐食が進行し ていた。また幹の中央には大きな空洞が出来て、ムササビや蛇の巣のようになっていた。正直、母と桜とどっちが先に逝ってしまうか心配したこともある。しか し三年前の春に仙台の樹木医さんに診断して頂いた結果、キチンとした治療さえ施せば、この後四百年位は生きる、との言葉を頂いた。早速治療した結果、今や 元気を回復した桜は、母の命の分まで受け継いで、年々元気になって、老年から壮年の勢いを取り戻しつつある。今は幹の表面の裏側には樹脂が張られていて痛 々しいが、桜の皮が次第にこれを包んで行って最後には見えなくなるとのことだ。何という自然の蘇生力は偉大なのだろう。

 「桜さんひとりになりましたね」と云えば、はらりと桜 の葉落つ

遠くで油蝉の鳴声がした。やはり冷夏とは云え夏なのだ。夕暮れには、蜩(ひぐらし)のカナカナと鳴く声が聞か れるだろうか。そんなことを思いながらすっかり成長した田んぼのあぜ道を歩く度に田んぼの雨蛙たちが、飛び跳ねるのが見えた。

 ふるさとの山河に生きる限りなき命は数多母は死すとも

 
今日は、母の親類縁者が来て、母の死出の旅支度をする日である。朝10時過ぎに白木のお棺が運び込まれてきた。この中に 納まって人は焼かれてゆくのか。そ う思った瞬間、元気だった頃の母の姿が脳裏に浮かんできた。

   死 出の旅、立つ母有りて白木なる 棺運ばれし冷夏の朝に

人は生まれた時かた死ぬことを運命付けられている存在だ。幼い頃、快活できかん坊だった私を「生意気云うな」と 叱って、追いかけて来た鬼の形相の母はもう この世に存在しないのだ。
金糸の布団に抱かれている母の少ししなびた顔が哀れに見えた。でも誰もが辿る道なのだ。母は亡くなったが、その生命の設 計図とも云うべきDNAは、しっか りと我々子孫たちの中に受け継がれている。私の内にも母の遺伝子はしっかりと生きている。

そして母の在りし日の姿や笑顔は、私の書いた文章や歌の中で生き生きと永遠に生き続けて行くのである。母はその意味で、 今や永遠の命を得て、ここに眠って いることになる。

  母上よあな たの命は受け継がれ永 久にし生きむ人在る限り

 
5 母の納棺

昼食を、そそくさと済ませると母の兄弟や親族、そして仲の良かった近所の人々が続々と集まって来た。母には、七人 の兄弟姉妹が在ったというが、すぐ下は、 一関の中里家に婿に入ったヒロ叔父さん。83歳だ。どこか野武士のような立派な風貌だが、今日は大事な姉を失ってか、少し悲しげに見える、
「少し、記憶が弱くなってしまってな」と云いながら、なかなか元気である。それから10歳下のコト叔父さんは、やはり弟 と見えて眼の辺りが母に似ている。 一回り違うクレ子叔母さんは、母が若返って、少しふっくらした感じの人だ。
私が、「クレ子おばちゃんが居ると、何だか、かあちゃんが、生き返っているようだね」と云うと、「そうが、かあちゃんと 思いなさい。今日から、かあちゃん になるから」と云って、励ますように笑顔を見せてくれた。

  健在 の兄弟姉妹集ひ来て母の旅立 ち見送らむとす

いよいよ、旅支度が始まる。金糸の掛け布団が取り払われ、母の体があからさまになった。白い衣にくるまった母は、胸のと ころで両手を固く結んでいる。死後 硬直が進み、柔らかだった母は、白い骸となって動かない。晩年、母を悩ませ続けた両足の浮腫(むくみ)は、何故か綺麗に消えて、白い蝋人形の足にように見 えた。この三ヶ月前の父の三十三回忌の日だったか、「何故、こんなに腫れるのか、つくづく嫌になった。この腫れさえ引けたらと思うんだ」とポロッと漏らし たことがあった。悲しいかな母の願いは、死後実現したことになる。その白い腫れの引けた足首には、包帯が巻かれていたが、外に出た際に転んで、擦りむいた 傷を押さえているのだろうと思われた。

  最後 まで母を悩ます浮腫(むく み)消へ白き御美足霞みて見ゑぬ

その足首には足袋が履かされ、最後に紫の衣が母に着せられた。
ふいに、「かあちゃん、紫の衣はいやだ、と云っていたけど、結構似合うぞ」と兄が云った。普段、そんなことを云う兄では ない。横を見ると、兄の眼には涙が 浮かんでいた。
「ほら、タメ子姉、良く似合うぞ」とクレ子叔母さんが云った。
そして母の頭には、三角の白いものが被せられた。こても風習だから仕方がないが、個人が自由に死出の旅の格好を決めれて も良いような気がした。

  紫の衣はい やと云ひしした母の感 性分かる気のする

やがて、母の体は、みんなの手によって、静かにお棺の中に横たえれた。

「さあ、皆さん、顔の周りに花を捧げてあげてください」導師役の葬儀場の人に促されながら、親類縁者の手で、母に花が献 花された。
「この色紙は入れますか?」
「もちろん、一緒に焼いてください」
色紙には、私が詠んだ歌が書かれていた。今までは、母の胸の上に置いていたものだ。私は自分の手で、「かあちゃん、お別 れだね」と念じながら、そっと母の 胸元に置いた。

 我詠める歌を抱きて旅立てる母を 悲しと言いたくはなき

 歌記す色紙を母の胸元に手向けて 涙をはなむけとせむ

兄の長女のさなえは、そっと手紙を入れた。きっと孫として、祖母に言い忘れたことがあったのだろう。生きる者は誰でも、 死に行く人に対し、言い残したこと を持っているものだ。逆にまた、死に逝く人は、生きている者に対し、もう少し伝えておきたかったということを持っているはずだ。互いにこれで100%伝え たということはない。でもだから良いとも云える。言葉で伝えられなかったものは、いつかいつの日か、生きる者が、死に行く人となる時までに、これがあの人 が伝えようとしていたことかと実感すれば好い・・・。

 生きる者、旅立てる人、様々に思 ひはあれど言わぬも華よ

白木のお棺は閉められ、女性たちのすすり泣く声が、そちこちで聞かれた。ひしひしと母がもう二度と笑うことはないのだ、という思いが込み上げてきた。遺影 を見つめ、お棺の白さを思いながら、人の人生というものが、かくも儚いものであると思った。


 棺に入る母の姿をじっと見て涙流しし叔母痛々 し 

 
 6 通夜の夜

それから瞬く間に時が過ぎて、通夜の時が来た。午前七時が近いというのに、外はまだ薄暮のようだ。実家でのお通夜 なので、杉戸から襖からすべてが取り払わ れ、そこに座布団がびっしりと敷き詰められて、通夜のお焼香客が鈴なりで座っている。ほどなくして、円年寺の和尚が到着し、周囲に軽く会釈を済ませると、 そそくさと身支度を整え始めた。その身支度も儀式のひとつなのだろう。待っていると、そんな時間も結構長く感じらるものだ。

 通夜の夜の時の長さは格別で小一 時間が無限に長き

ゆっくりと読経が始まる。通夜の読経は、死者が迷わぬように、自らが死者であることを覚り、成仏するようにと読まれるものだ。その際、和尚は導師となっ て、死者を導くのである。今頃母は、どの辺りに居るのだろう。家中に響き渡る読経の声を聞きながら、妙な言い方かも知れないが、心地良いものを感じた。た とえるならば、お経という海にプカプカと浮いて穏やかなその海上に漂っている自分を感じた。焼香の台が、前から回され、焼香を済ますと、爽やかな風が、心 の中を吹き抜けてゆくような気がした。

 読経する和尚の声の海に酔ふ我を 許せよ通夜の夜の母

やがて読経が終わり、法話となる。何を和尚が言ったのかは、余り覚えていない。ただ母の法名の話をしたことだけは覚えて いる。
若い住職は、母の面影について、確かこのように云われた。
「何か神々しい蓮の感じを思いまして、このような法名をお付けしました」
どうしようもない重たい空気を、その言葉が和らげた。実に身内にとっては、ありがたい何よりの慰めの言葉だった。

思えば、33年前、父光弥が、54歳の若さで他界した時、この若い住職の父が通夜の夜にやって来た。しかしその夜 の通夜の席ではハプニングが起こった。日 頃から友人としてつき合っていた関係でもあって、和尚が、泣いてしまって、何度もお経を中断したのだ。あの時の情景が、私の脳裏の中で甦っていた。

 父死すの報に接しし若き頃思い出 すなり母の通夜の夜

その時、先代の和尚は、「何でまた光弥いど、死んだってや」と悲しみをこらえながら、必死で導師の役割を務めようとした。母は流石に眼は真っ赤にしながら も、周囲に気配りをしながら、気丈な態度で先に逝ってしまった夫を送ろうとした…。そしてその母も、父の三十三回忌を無事に終えて、自らも天国の父の元へ 旅立っていったのだ。

 父光弥の三十三の喪も 済ませ母他界せるかな気丈な母は

あっという間に、通夜は終わり、母の訃報を聞いて集まってくれた人は家路に消えた。今夜は親類の者が、線香を絶やさぬよ うに、祭壇の周囲に床を敷いて、眠 ることになった。みんな二日目の夜とあって、疲れは隠せない。どこからか寝息が聞こえてくる。私も風呂に入り、床に就くと、夜の静けさの中で、雨音が一段 と強くなっているのを感じだ。何という豪雨だろう。母の涙腺は、完全に破れてしまったのか・・・。そんな風に思った。
 
 一段と雨強まりぬ通夜の夜は屋根 裂けるごとくに雨降りぬ

床にの中で、しみじみと母の生涯を思った。振り返れば、そんなに楽しいことがあったとは、思えない。18歳で、わが家に嫁いで来てこの方。古い家のこと、 嫁としての苦労は大変なものだったはずだ。そしてあの忌まわしい大東亜戦争。幼き二人の息子を抱えながらの終戦。終戦の年に、頼るべき夫弥八は、終戦間近 い7月某日、フィリピン、ルソン島で壮絶な戦死を遂げた。続いて、同年9月の曾母ゆきの死。同22年には家長である義父弥右衛門が、栗駒村の村長に当選し てすぐに風邪をこじらせて他界した。そして親戚が決めた弥八の弟光弥との再婚。昭和24年8月8日、ソ連のシベリアの抑留先から戻ったばかりだった。良い 悪いではない。そこには個人の感情など入り込む隙はなかったのだ。家の為、多くの日本人が、戦争の為に個人の感情を押さえ、国の為に家の為に、自分の運命 に従っていたのである。そこでふと気が付いたことがある。父もそうだったが、母は戦争当時の苦しい話をほとんど語ったことはない。余りに辛い思い出のため に語りたくなかったのか。誰しも忘れたい過去はあるものだが、母たちの世代の直接の苦しみは確かに我々の世代の想像を遙かに越えたところにあったのかもし れない・・・。


 戦争の辛き思い出伝へずに何故逝 き給ふ母の心は


7 母灰となる

2003年7月10日。母タメ子の肉体が灰になる日が来た。再び雨雲が深く朝日を覆い隠している。葬式は予め決め られた時間通りに展開する。遺族にとって は悲しんでいる暇などない。だから良いのかもしれない。これがゆっくりと進むようならば、肉親との別れの悲しみに人間は耐えられないだろう。

私たちは、そそくさと朝食をい済ませると、出棺の儀式に備えた。何故か、雨は一段と強くなるばかりだ。やはり葬式 には、雨が似合うと云うしかない。正午を 過ぎて、黒い喪服の人々が、桑畑の実家にぞくぞくと集まって来た。母の老いた兄弟や親戚たち。きっとみんな悲しみと連日の葬式で疲労困憊しているに違いな い。しかしみんなこの時を一期の別れと決めて、この場にやってきている。ここに集まってきた人たちの中で、この後、二度と顔を見ない人もいるだろう。母の 生前の生き様が、これだけの人を引き寄せているのかもしれない。そう思うと胸が熱くなった。

 ぞくぞくと集まる人ら喪服来て一 期の別れ母とせむとて

午後一時。厳粛な雰囲気が桑畑に立ちこめる中、出棺の儀が開始された。導師の和尚がゆっくりとお経を読み始めると、さらに周囲の空気は緊張に包まれたもの になった。読経が終わり、焼香の灰が前から後ろに回ると、部屋中に香の香りが充満した。仏となった者は、この香の香りを食するのだと云う。であるならば、 どうぞ、「かあちゃんよ。一杯この香りを食してください」と念じながら、お焼香をした。

雨は止みそうにない。桜の大木のある門口まで、くりはら斉苑(火葬場)のバス到着した。雨の中をゆっくりと白木の 母の棺が進んで行く。母は親戚と兄弟たち に担がれて、七〇年近い時を過ごした桑畑の家を離れようとしている。どこからかすすり泣きがもれた。「タメ子いど」「タメ子いど」と近所のお婆さんたちの 声がした。その後を、私は母の遺影を持って従った。雨にもかかわらず、母の遺骸を見送る人々は、傘も射さずに、手を合わせている。この時、葬送の音楽はな かったけれども、私の中で、ショパンのプレリュード「雨だれ」のメロディが、静かに鳴り響いていた。もう何年も聴いていないはずの曲だが、母を野辺に送ろ うとする気持ちから湧いてきたのだろうか。

 葬送の曲はなけれど母恋へばショ パンの「雨だれ」鳴り響きたり

バスに母の棺が乗せられた。私たち遺族も乗ってバスはゆっくりと雨の桑畑を離れた。向かうは、築館にある火葬場だ。いよいよ。母は焼かれてしまうのか。そ んなことを思うと亡くなる三日前の母の姿が浮かんだ。その日は、丁度四年に一度の村祭である駒形根神社の「ご巡幸祭」の日であった。

7月5日の夕方のことであった。
実家の玄関を入ると、居間のソファで母が横になっていた。白髪交じでかなり疲れ切った表情に思えた。
ふと見れば、母の手の甲に手の赤い斑点あるのが妙に気になった。

傍らでは、猫のマックが、主人に寄り添うように眠っていた。

 健気にも添い寝するのは子猫より母に懐きし愛猫マック

私は母の肩を、とんとんと叩いて、
「かあちゃん。帰ったぞ。かあちゃん。ひろやだ」と言った。
母はゆっくりと目を開けて、母は起きあがりながら言った。
「…うん…夢か。夢なのか。あーびっくりした。…ひろやか?」
「今、着いたところだ。明日お駒様の『ご巡幸』があるからな」
「ああ、そうか…」

母は、相当弱っているように見えた。それでも親不孝息子が来たことが嬉しいらしく、笑みを浮かべながら、
「来るときは、連絡してから来たらいがべ」と言った。
母らしい言葉だ。嬉しくても嬉しいと直接的な言い方はしない。
いつも別の表現に置き換えて婉曲な表現をする。それがいつもの母である。
 
「どうだ体の調子の方は?」
「あんまり、良くないな。最近頭がいっぱいになって、何か何か分からなくなることがあるしな…」
外に出ると、既に日は西の空に沈み欠けている。
仏壇と神棚を拝み、門口の種まき桜に、帰った挨拶した。

茶店の「桜っこ道」にいる道子姉さんに、帰ったことを告げた。
「母ちゃん最近どうですか?」
「2月の入院した時には、ホントにどうなるかと思ったけれど、何とか下痢もしなくなって、持ち直した感じだね。こうして 私もこっちにいるから、自分で何で もしなければいけないという気持ちがあるから、母ちゃんも自分で気を張って、やっているから、いいと思うんだよね」

その姉に、ソフトクリームを作ってもらい、母に持って行くと、
「いやこんなに食べられないな」と目を丸くした。
「いや。食べれなければ残せばいいさ。食べなさいよ」と言うと、
「うん」と言って美味そうに母は、ソフトを食べはじめた。

 山盛りのソフトクリーム食べながら「冷て」と言った母の横 顔

 
夕飯時になると、母が座敷の奥で何か言っている。聞き耳を立ててみれば、
「何で、乾かないのかなあ。雨ばっかり降って、さっぱり干し物乾がね」というようなことだった。

きれい好きの母は、きっと自分の手で、下着などを洗っているのだろう。
母は、何とか姉さん(嫁)の世話にならず、自分の出来ることは自分でやるという強い信念があるように見える。
それはやはり、自分の舅の下の世話までを十数年やった母の思いだろう。子供の頃、息子の目で見ていても、母の苦労は、並 大抵ではなかった。

父が、町会議員をしていたこともあって、連日のように、酒飲み友達がやってくる。若い母ではあっても、その心労は 大変なものだったはずだ。時には、深夜に 及ぶこともある。普段は、父を立てている母ではあったが、深酒をして、理不尽な行動をする時には、翌日の朝方、寝床で、説教とは行かないか、父にこんこん と母らしい言葉で、諭している姿を薄目を開けて見守ったこともあった。子供の頃には、大人はこんな朝早くから話をするのか、と思ったが今にして思えば、他 人や子供には見せない母の旦那を立てる姿であったのだ。

今にして思えば、7月6日の母は、精神が、衰えた精神を支えきれないほどの限界点にあったように思う。もちろん後 にじっと考えてのことだ。そしてこの時が、母との最後の晩餐となってしまった。刺身に焼き魚に野菜など、食卓に並んだ料理は、別に特別なことはなかった。 しかし母にとっては、特別な晩餐だったのかもしれない。

食卓に並んだ料理をひと目見るなり、母は、いつもより大げさに、
「いや、お正月のようなご馳走だね。こんなに食べれるかな」と言った。

ゆっくりと、箸をとって、刺身や焼き魚に口に運んで、もぐもぐとやって、
「美味しい。本当に美味しい。お母さん。いつもありがとうね」と姉に向かって言った。
最後には、フルーツを頬張って、「ごちそうさん。本当に美味かった」と子供のように言った。

母にとっては、いつ自分が倒れて解らなくなってしまうかもしれないという予感のような思いがあったのだろうか。だ からこそ、「美味しい」といつも以上に強く、周囲に分かるように表現したのかもしれない。母には、残された時間が少なかった。そのことを本人は、きっと自 覚していたに違いない・・・。

 母として最後の晩餐した夜の母の「うめな」の語気の強かり

 
夜床に就くと、隣の部屋の母の寝息が気になった。すやすやと眠っている。朝になって、8時頃、起きると、早起きだった母 と同じ頃の起床になった。洗面所 で、私が「おはよう」と言うと、母は「うん」と言った。やはり、体が辛いのだろう。動きが、ゆっくりで、悲しい位に体力が落ちているのが分かる。

 本当は7月5日のあの夜に母とふたりで語りたかった
 

7月6日は、母にとってひ孫の「かずま」のご巡幸に初めて参加する記念日にあたっていた。兄晃弥が、60年前に使 用したという馬を首から下げて、かずま は、その母の晃美と一緒に、稚児行列で、参加することになっていた。何しろ4年に一度の事なので、私としては、この古式に則った行事の一部始終を写真に納 めたいと思っていたのだ。祭は、一ノ宮の駒形根神社から、滝ノ原、桑畑、日照田、竹ノ内、万代、と沼倉の里を総勢数百の村人が、様々な格好で練り歩くこと になる。
 

朝の9時過ぎに、私が駒形根神社に行くと、既に式典は、始まっていた。やがて行列が神社を出立し、カメラのシャッターを 必死で押した。
11時頃、駒形根神社から三迫川沿いに城内を廻り、滝ノ原にご巡幸の列が移動した折り、私は桑畑の実家に一旦帰った。

実家に着くと、母が茶碗などを洗っていた。
「母ちゃん。ご巡幸来るよ。もうすぐだ。みんな年寄りたちも、県道のバス停の前に集まってるよ」
「いい。行かね」
「何で。四年に一度のことだもの。見なさいよ」
「いい。」
そこで、私は、母がいつも使っている籐の椅子を、縁側に持って行って、
「これに腰掛けて見ればいいよ」と言った。
すると母はやっと、その気になったのか、ゆっくりと歩いて、椅子に腰を下ろした。
そしてじっと種まき桜の向こうの人混みに視線をやった。

でもおそらく白内障を患い目も相当に 悪くなっていたはずだから、余り良く見えなかったはずだ。
「どうだ。こんな遠くで見ていないで、負ぶって行くから、バス停まで、行かないか?」
姉さんもやって来て、
「ばあちゃん。車で乗せて行くから、行きましょう」と言った。
「いい。ここでいい・・・」
そして白内障の手術後使うようになったぶ厚いレンズの眼鏡を掛けて、じっと視線を遠くに向けりのだった。

母としては、自分が老いてしまった姿を、ひと目に晒したくなかったのかもしれない。少し腰が曲がり、二回りも小さ くなった自分を見せたくなかった のだろう。そこには母特有の美意識のようなものがあるのかもしれない。ただ、じっとしながら、ご巡幸の到着を待つ母を見ながら、切ない気持ちになった。

見ゑぬ眼で祭来ぬかと凝視せる母の瞳に映りしものは

見えぬ眼で聞こえぬ耳で立たぬ足抱える母の老いの現実

つづく

8 野辺送りの日(未)

9 四十九日の形見分け(未)


9 母の百箇日

2003年九月21日(日)。母の百箇日の日が来た。正確に言えば七十六日目なのだが、十月の慌ただしさを考えて、九月中に終えるという運びになったので ある。我々兄弟は、法事の支度もあって、前日の20日に実家に集まった、明日のこともあり、皆10時頃には、床に就いてしまった。母の祭壇が飾られるの も、今日が最後である。この祭壇が取り払われた後の広間を思った。がらりとして広く見えるだろう。母の遺影は、小さな仏壇の片隅に置かれ、永遠のストップ モーションとなって、生きる我々を見つめるのだ。

  明日からは母の遺影も仏壇の隅 に懸かりて生者を見つむ

台風19号が四国から関東にかけて接近したのだが、オホーツク高気圧が張り出して来て、東北への台風被害を防ぐ形となった。雨の降る百箇日になると心配し ていたが、夜降り出した雨は、朝方小降りとなった。法事が開催される頃になると、すっかり止んで、どこからか薄日が射し始めるのだった。

  雨ばかり降る母の法事の恨めし く空見上げれば薄日射したり

ところで、今日とても信じられないような偶然があった。それは河北新報の日曜版に掲載される「河北歌壇」に、私の詠んだ歌が掲載されていたことだ。先月の お盆の折りに、母の供養のつもりで投稿した歌が掲載されたものだ。

  葬送の曲はなけれど吾が中で ショパンの「雨だれ」鳴り響きたり

それにしても9月21日の母の百箇日に載るという偶然に対し、とても有り難い気持ちとなった。言葉からみれば、「有り難い」という言葉は、なかなかあり得 ないことがあった時に、使うだったはずだ。それが、いつしか「ありがとう」といいう意味と同じように「感謝」の意味として解されるようになったのだろう か。そこでこんな歌が湧いてきた。

  ありがたき事かな母の百箇日河 北歌壇に吾が哀歌載る


今回の百箇日は、ごく身内でということで、兄弟親戚と隣組の人々ということだった。それでも、六十名ほどの人が集まって、実家も座敷が一杯になった。祭壇 には、新たに母の二十代の頃の写真の他に、私が晩年に撮影した写真が二枚飾られた。この前に、座ると母の人生模様がふっと蘇ってくる気がした。

  若かりし亡母(はは)の写真に 語りしは「人生は短しされど美し」

母の写真を見ながら、しみじみと人の人生を考えた。若い頃の匂うような華やぐ時を終え、やがて母は沢山の子をなして、家事と育児に追われた。田舎は核家族 ではない。旦那と子供の面倒をみれば済むのではない。農作業に家畜の世話まである。嫁には子をなす上に、様々な苦労がのし掛かってくる。おまけに母の世代 には、太平洋戦争という大きな戦争があった。唯一頼りにすべき夫は、戦地に送られ、残った家族は、老人と若い嫁だったのだ。人には言えないような苦労を重 ねて母は、戦争未亡人となり、私の父になる光弥と再婚をしたのである。再婚は昭和二十四年八月。暑い夏の日だった。

  戦争の世紀と呼ばれし二十世紀 を 母は生き抜き新世紀逝く


それから五十数年が経ち、日本はまったく別の国となった。人間の心ももちろん変わった。女性の心理も、もう母の時代とはまるで違うようになった。何か言え ば、「権利」とか「時代が違う」とか、自分に都合のいい解釈を平気でするようになった。良いこともあるだろう。自己主張することは大いに賛成だ。しかし一 見して勝手なワガママとしか言いようがないことまでが権利として通る世の中は納得がいかない。もう少し謙虚さや相手を思いやる心情があってもいいのではな いだろうか。そんなことを思った。

  大戦の辛き歴史を日本人は深く 心に刻みつけたか

やがて、読経が始まり、焼香が終了すると、喪主の兄が挨拶に立った。
「皆さま。本日は、母の百箇日の法要に来て頂きありがとうございました。本当は十月が百箇日ではありますが、本年は冷害という大変な年でもあり、九月早々 に、法事を終わらせることと致しました。今年は父光弥の三十三回忌が二月にあり、またこうして、七月には、母の葬儀もあり、こんな慌ただしい年は、私の記 憶でもなかったことであります。その度に、親戚縁者と隣組の皆さまには、一方ならぬお世話お心遣いを頂き、家族一同に成り代わりまして感謝の意を述べさせ ていただきます。思えば母の人生は、大変な労苦の人生だったと思います。でもこうして皆さまに来ていただいて、息子としては、少し褒めすぎになるかも知れ ませんが、母の穏やかな人柄の賜物ではないか、と密かに考えておりました。皆さま本当にご配慮ありがとうございました。法事はこれで終わりますが、場所を 移しまして、ささやかなお食事などを用意しておりますので、在りし日の母を偲びながら、皆さまで母の思いでなどを語っていただければと思います。」

  訥々と語る挨拶なればこそ母送 る兄の思い伝わる

つづく


2003.7.8
2003.9.25 Hsato

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