平家物語 巻第九  (流布本元和九年本)
 
 

1 生きずきの沙汰(いけずきのさた)

寿永三年正月一日(ひとひのひ)、院の御所は大膳大夫業忠(なりただ)が宿所、六条西洞院なりければ、御所のていしかるべからずとて、院のはいらいもおこなはれず。院のはいらいなかりければ、だいりのこでうはいもおこなはれず。平家は讃岐国八島の磯におくりむかへて、としのはじめなれども、ぐわんにちぐわんざんのぎしきことよろしからず。しゆしやうわたらせたまへども、せちゑもおこなはれず、しはうはいもなし。はらかもそうせず、よしののくずもまゐらず。「よみだれたりしかども、みやこにてはさすがかくはなかりしものを」とぞ、おのおののたまひあはれける。せいやうのはるもきたり、うらふくかぜもやはらかに、ひかげものどかになりゆけど、ただ平家のひとびとは、いつもこほりにとぢこめられたるここちして、かんくてうにことならず。とうがんせいがんのやなぎちそくをまじへ、なんしほくしのうめ、かいらくすでにことにして、はなのあしたつきのよ、しいかくわんげん、まり、こゆみ、あふぎあはせ、ゑあはせ、くさづくし、むしづくし、さまざまきようありしことどもおもひいで、かたりつづけて、ながきひをくらしかねたまふぞあはれなる。

「宇治川」おなじき正月じふいちにち、木曽のさまのかみ義仲院ざんして、平家追討のために、西国へはつかうすべきよしをそうもんす。おなじきじふさんにち、すでにかどいですときこえしかば、鎌倉のさきのひやうゑのすけ頼朝、木曽が狼藉しづめんとて、のりより義経をさきとして、すまんぎのぐんびやうをさしのぼせられけるが、すでにみののくに、いせのくににもつくときこえしかば、木曽おほきにおどろき、宇治せたのはしをひいて、ぐんびやうどもをもわかちつかはす。折節せいこそなかりけれ。まづせたのはしへは、おほてなればとて、いまゐのしらうかねひら、はつぴやくよきにてさしつかはす。

宇治橋へは、にしな、たかなし、やまだのじらう、ごひやくよきでつかはしけり。いもあらひへは、をぢのしだのさぶらうせんじやうよしのり、さんびやくよきでむかひけり。さるほどに東国よりせめのぼるおほてのたいしやうぐんには、かまの御曹司範頼、からめでのたいしやうぐんには、九郎御曹司義経、むねとのだいみやうさんじふよにん、つがふそのせいろくまんよきとぞきこえし。そのころ鎌倉どのには、いけずき、するすみとて、きこゆるめいばありけり。いけずきをば梶原源太かげすゑしきりにしよまうまうしけれども、「これはしぜんのことのあらんとき、頼朝がもののぐしてのるべきむまなりこれもおとらぬめいばぞ」とて、梶原にはするすみをこそたうでげれ。そののちあふみのくにのぢうにん、ささきしらうのおんいとままうしにまゐられたるに、鎌倉どのいかがおぼしめされけん。「しよまうのものはいくらもありけれども、そのむねぞんぢせよ」とて、いけずきをばささきにたぶ。ささきかしこまつてまうしけるは、「こんどこのおむまにて、宇治がはのまつさきわたしさふらふべし。もししにたりときこしめされさふらはば、ひとにさきをせられてげりと、おぼしめされさふらふべし。いまだいきたりときこしめされさふらはば、さだめてせんぢんをば、たかつなぞしつらんものをと、おぼしめされさふらへ」とて、おんまへをまかりたつ。さんくわいしたるだいみやうせうみやう、「あつぱれくわうりやうのまうしやうかな」とぞ、ひとびとささやきあはれける。おのおの鎌倉をたつて、あしがらをへてゆくもあり、はこねにかかるせいもあり、おもひおもひにのぼるほどに、するがのくにうきしまがはらにて、梶原源太景季、たかきところにうちあがり、しばらくひかへて、おほくのむまどもをみけるに、おもひおもひのくらおかせ、いろいろのしりがいかけ、あるひはのりくちにひかせ、あるひはもろくちにひかせ、いくせんまんといふかずをしらず、ひきとほしひきとほししけるなかにも、かげすゑがたまはつたるするすみにまさるむまこそなかりけれと、うれしうおもひてみるところに、ここにいけずきとおぼしきむまこそいつきいできたれ。きんぶくりんのくらおかせ、こぶさのしりがいかけ、しろぐつわはげ、しろあわかませて、とねりあまたついたりけれども、なほひきもためず、をどらせてこそいできたれ。梶原うちよつて、「これはたがおむまぞ」。「ささきどののおむまざふらふ」とまうす。「ささきはさぶらうどのかしらうどのか」。「しらうどののおむまざふらふ」とてひきとほす。梶原、「やすからぬことなり。

おなじやうにめしつかはるるかげすゑを、ささきにおぼしめしかへられけることこそ、ゐこんのしだいなれ。こんどみやこへのぼり、木曽どののみうちに、してんわうときこゆるいまゐ、ひぐち、たて、ねのゐとくんでしぬるか、しからずは、西国へむかつて、いちにんたうぜんときこゆる平家の侍どもといくさして、しなんとこそおもひしに、このごきしよくでは、それもせんなし。せんずるところ、ここにてささきをまちうけ、ひつくみ、さしちがへよき侍ににんしんで、鎌倉どのにそんとらせたてまつらん」と、つぶやいてこそまちかけたれ。ささきなにごころもなうあゆませていできたり。梶原おしならべてやくむ、むかうざまにあてやおとすべきとおもひけるが、まづことばをぞかけける。「いかにささきどのは、いけずきたまはらせたまひてのぼらせたまふな」といひければ、ささき、あつぱれ、このじんも、ないないしよまうまうしつるとききしものをとおもひ、「ささふらへば、こんどこのおんだいじにまかりのぼりさふらふが、さだめて宇治せたのはしをやひきたるらん。のつてかはをわたすべきむまはなし。いけずきをまうさばやとはぞんじつれども、ごへんのまうさせたまふだに、おんゆるされなきとうけたまはつて、ましてたかつななどがまうすとも、よもたまはらじとおもひ、ごにちにいかなるごかんだうもあらばあれとぞんじつつ、あかつきたたんとてのよ、とねりにこころをあはせて、さしもごひざうのいけずきを、ぬすみすまして、のぼりさうはいかに、梶原どの」といひければ、梶原このことばにはらがゐて、「ねつたい、さらばかげすゑもぬすむべかりけるものを」とて、どつとわらうてぞのきにける。
 
 

2 宇治川先陣(うぢがはのせんぢん)

ささきしらうのたまはられたりけるおむまは、くろくりげなるむまの、きはめてふとうたくましきが、むまをもひとをも、あたりをはらつてくひければ、いけずきとはつけられたり。やきのむまとぞきこえし。梶原がたまはつたりけるおむまも、きはめてふとうたくましきが、まことにくろかりければ、するすみとはつけられたりいづれもおとらぬめいばなり。さるほどに東国よりせめのぼるおほてからめでのぐんびやう、をはりのくによりふたてにわかつてせめのぼる。おほてのたいしやうぐんには、かまの御曹司範頼、あひともなふひとびと、たけだのたらう、かがみのじらう、いちでうのじらう、いたがきのさぶらう、いなげのさぶらう、はんがへのしらう、熊谷のじらう、ゐのまたのこへいろくをさきとして、つがふそのせいさんまんごせんよき、あふみのくにのぢしのはらにぞぢんをとる。からめでのたいしやうぐんには、九郎御曹司義経、おなじくともなふひとびと、やすだのさぶらう、おほうちのたらう、畠山の庄司次郎、梶原源太、佐々木四郎、糟屋藤太、渋谷右馬允(むまのじよう)、平山の武者所をさきとしてつがふそのせいにまんごせんよき、いがのくにをへて、宇治橋のつめにぞおしよせたる。宇治もせたもはしをひき、みづのそこにはらんぐひうつておほづなはり、さかもぎつないでながしかけたり。ころはむつきはつかあまりのことなれば、ひらのたかね、しがのやま、むかしながらのゆきもきえ、たにだにのこほりうちとけて、みづは折節まさりたり。

はくらうおびたたしうみなぎりおち、せまくらおほきにたきなつて、さかまくみづもはやかりけり。よはすでにほのぼのとあけゆけど、かはぎりふかくたちこめて、むまのけも、よろひのけもさだかならず。たいしやうぐん九郎御曹司、かはのはたにうちいで、みづのおもてをみわたいて、ひとびとのこころをみんとやおもはれけん、「よどいもあらひへやむかふべき、またかはちぢへやまはるべき。みづのおちあしをやまつべき、いかがせん」とのたまふところに、ここに武蔵国の住人畠山の庄司次郎重忠、しやうねんにじふいちになりけるがすすみいでて、「このかはのごさたは、鎌倉にてもよくよくさふらひしぞかし。かねてもしろしめされぬうみかはの、にはかにいできてもさふらはばこそ。あふみのみづうみのすゑなれば、まつともまつともみづひまじ。はしをばまたたれかわたいてまゐらすべき。さんぬる治承のかつせんに、あしかがのまたたらうただつなが、しやうねんじふしちさいにてわたしけるも、おにがみにてはよもあらじ。しげただまづせぶみつかまつらん」とて、たんのたうをむねとして、ごひやくよきひしひしとくつばみをならぶるところに、ここにびやうどう院のうしとら、たちばなのこじまがさきより、むしやにきひつかけひつかけいできたり。いつきは梶原源太景季、いつきはささきしらうたかつななり。ひとめにはなにともみえざりけれども、ないないさきにこころをかけたるらん、梶原はささきにいつたんばかりぞすすんだる。ささき、「いかに梶原どの、このかははさいこくいちのたいがぞや。はるびののびてみえさうぞ。しめたまへ」といひければ、梶原さもあるらんとやおもひけん、たづなをむまのゆがみにすて、さうのあぶみをふみすかし、はるびをといてぞしめたりける。

ささき、そのまに、そこをつとはせぬいて、かはへざつとぞうちいれたる。梶原たばかられぬとやおもひけん、やがてつづいてうちいれたり。梶原、「いかにささきどの、かうみやうせうとてふかくしたまふな。みづのそこにはおほづなあるらん、こころえたまへ」といひければ、ささきさもあるらんとやおもひけん、たちをぬいて、むまのあしにかかりけるおほづなどもをふつふつとうちきりうちきり、宇治がははやしといへども、いけずきといふよいちのむまにはのつたりけり。いちもんじにざつとわたいて、むかふのきしにぞうちあげたる。梶原がのつたりけるするすみはかはなかよりのためがたにおしながされ、はるかのしもよりうちあげたり。そののちささきあぶみふんばり、だいおんじやうをあげて「うだのてんわうにくだいのこういん、あふみのくにの住人、ささきさぶらうひでよしがしなん、ささきしらうたかつな、宇治がはのせんぢんぞや」とぞなのつたる。畠山ごひやくよきうちいれてわたす。むかひのきしよりやまだのじらうがはなつやに、畠山むまのひたひをのぶかにいさせ、はぬれば、ゆんづゑをついておりたつたり。

いはなみかぶとのてさきへざつとおしかけけれども、畠山これをことともせず、みづのそこをくぐつて、むかひのきしにぞつきにける。うちあがらんとするところに、うしろよりものこそむずとひかへたれ。「たそ」ととへば、「しげちか」とこたふ。「おほぐしか」。「さんざふらふ」。おほぐしのじらうは、畠山がためには、ゑぼしごにてぞさふらひける。「あまりにみづがはやうて、むまをばかはなかよりおしながされさふらひぬ。ちからおよばでこれまでつきまゐつてさふらふ」といひければ、畠山、「いつもわどのばらがやうなるものは、しげただにこそたすけられんずれ」といふまま、おほぐしをつかんできしのうへへぞなげあげたる。なげあげられて、ただなほり、たちをぬいてひたひにあて、だいおんじやうをあげて、「武蔵のくにの住人、おほぐしのじらうしげちか、宇治がはのかちだちのせんぢんぞや」とぞなのつたる。

かたきもみかたもこれをきいて、いちどにどつとぞわらひける。そののち畠山のりがへにのつて、をめいてかく。ここにぎよりようのひたたれに、ひをどしのよろひきて、れんぜんあしげなるむまに、きんぷくりんのくらをおいて、のつたりけるむしやいつき、まつさきにすすんだるを、畠山、「ここにかくるはいかなるものぞ、なのれや」といひければ、「これは木曽どののいへのこに、ながせの判官だいしげつな」となのる。畠山、けふのいくさがみいははんとて、おしならべてむずとくんでひきおとし、わがのつたりけるくらのまへわにおしつけ、ちつともはたらかさず、くびねぢきつて、ほんだのじらうがくらのとつつけにこそつけさせけれ。これをはじめて、宇治橋かためたりけるつはものども、しばしささへてふせぎたたかふといへども、東国のおほぜいみなわたいてせめければ、ちからおよばず、こはたやま、ふしみをさしてぞおちゆきける。せたをばいなげのさぶらうしげなりがはからひにて、たなかみのぐごのせをこそわたしけれ。
 
 

3 河原合戦(かはらがつせん)

戦敗れにければ、九郎御曹司義経、ひきやくをもつて鎌倉どのへ、かつせんのしだいをくはしうしるいてまうされけり。鎌倉どの、まづおつかひに、「ささきはいかに」とおんたづねありければ、「宇治川のまつさきざふらふ」とまうす。さてにつきをひらいてみたまへば、「宇治川の先陣、ささきしらうたかつな、にぢん、梶原源太景季」とぞかかれたる。宇治せたやぶれぬときこえしかば、木曽はさいごのいとままうさんとて、院の御所ろくでうどのへはせまゐる。木曽もんぜんまでまゐりたりしかども、さしてそうすべきむねもなくして、とつてかへし、ろくでうたかくらなるところに、はじめてみそめたりけるにようばうのありければ、そこにうちよつて、さいごのなごりをしまんとて、とみにいでもやらざりけり。ここにいままゐりしたりける越後のちうだいへみつといふものあり。「おんかたきすでにかはらまでせめいつてさふらふに、なんとてさやうにうちとけてはわたらせたまひさふらふやらん。ただいまいぬじにせさせたまひさふらひなんず。とうとうおんいでさふらへ」とまうしけれども、なほいでもやらざりければ、「ささふらはば、いへみつはまづさきだちまゐらせて、しでのやまにてこそまちまゐらせさふらはめ」とて、はらかききつてぞしににける。

木曽、「これはわれをすすむるじがいにこそ」とて、やがてうつたちたまひけり。ここにかうづけのくにの住人、なはのたらうひろずみをさきとして、そのせいひやくきばかりにはすぎざりけり。ろうでうかはらにうちいでてみれば、東国のせいとおぼしくて、まづさんじつきばかりでいできたる。そのなかよりむしやにきさきにすすんだり。いつきはしほのやのごらうこれひろ、いつきはてしがはらのごさぶらうありなほなり。

しほのやがまうしけるは、「ごぢんのせいをやまつべき」。またてしがはらがまうしけるは、「いちぢんやぶれぬればざんたうまつたからず。ただかけよや」とて、をめいてかく。木曽はけふをさいごとたたかへば、東国のおほぜい、木曽をなかにとりこめて、われうつとらんとぞすすみける。たいしやうぐん九郎御曹司義経、いくさをばぐんびやうどもにせさせ、わがみは、院の御所のおぼつかなきに、しゆごしたてまつらんとて、ひたかぶとごろくき、院の御所ろくでうどのへはせまゐる。御所には、だいぜんのだいぶなりただ、御所のひんがしのついがきのうへにのぼりあがつて、わななくわななくみわたせば、ぶしごろくきのけかぶとにたたかひなつて、いむけのそではるかぜにふきなびかさせ、しらはたざつとさしあげ、くろけぶりけたててはせまゐる。

なりただ、「あなあさまし、木曽がまたまゐりさふらふ」とまうしければ、院ぢうのくぎやうてんじやうびと、かたへのにようばうたちにいたるまで、こんどぞよのうせはてとて、てをにぎり、たてぬぐわんもましまさず。なりただかさねてそうもんしけるは、「けふはじめてみやこへいる東国のぶしとおぼえさふらふ。いかさまにもみなかさじるしがかはつてさふらふ」とまうしもはてぬに、たいしやうぐん九郎御曹司義経、もんぜんにてむまよりおり、もんをたたかせ、だいおんじやうをあげて、「鎌倉のさきのひやうゑのすけ頼朝がおとと、くらう義経こそ、うぢのてをせめやぶつて、この御所しゆごのためにはせまゐつてさふらへ。あけていれさせたまへ」とまうされたりければ、なりただあまりのうれしさに、いそぎついがきのうへよりをどりおるるとて、こしをつきそんじたりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼえず、はふはふ御所へまゐつて、このよしそうもんしたりければ、ほふわうおほきにぎよかんあつて、もんをあけさせてぞいれられける。義経そのひのしやうぞくには、あかぢのにしきのひたたれに、むらさきすそごのよろひきて、くはがたうつたるかぶとのををしめ、こがねづくりのたちをはき、にじふしさいたるきりふのやおひ、しげどうのゆみのとりうちのもとを、かみをひろさいつすんばかりにきつて、ひだりまきにまいたる。これぞけふのたいしやうぐんのしるしとはみえし。ほふわう、ちうもんのれんじよりえいらんあつて、「ゆゆしげなるものどもかな。みななのらせよ」とおほせければ、まづたいしやうぐんくらう義経、つぎにやすだのさぶらうよしさだ、畠山庄司重忠、梶原源太景季、佐々木四郎たかつな、渋谷右馬じようしげすけとぞなのつたれ。

義経ぐしてぶしはろくにん、よろひはいろいろかはつたりけれども、つらだましひことがら、いづれもおとらず。なりただおほせうけたまはつて、義経をおほゆかのきはへめして、かつせんのしだいをくはしうおんたづねあり。義経かしこまつてまうされけるは、「鎌倉のさきのひやうゑのすけ頼朝、木曽が狼藉しづめんとて、のりより義経をさきとして、つがふろくまんよきをさしのぼせさふらふが、のりよりはせたよりまゐりさふらへども、いまだいつきもみえさふらはず。義経はうぢのてをせめやぶつて、この御所しゆごのためにはせさんじてさふらへ。木曽はかはらをのぼりにおちさふらひつるを、ぐんびやうどもをもつておはせさふらひつるが、いまはさだめてうつとりさふらひなんず」と、いとこともなげにぞまうされける。ほふわうおほきにぎよかんあつて、「また木曽がよたうなどまゐつて、狼藉もぞつかまつる。なんぢはこの御所よくよくしゆごつかまつれ」とおほせければ、かしこまりうけたまはつて、しはうのもんをかためてまつほどに、つはものどもはせあつまつて、ほどなくいちまんよきばかりになりにけり。木曽はしぜんのことあらば、ほふわうとりたてまつて、西国へおちくだり、平家とひとつにならんとて、りきしやにじふにんそろへてもつたりけれども、御所にはまたくらう義経まゐつて、きびしうしゆごしたてまつるときいて、いまはかなはじとやおもひけん、かはらをのぼりにおちゆきけるが、ろくでうかはらとさんでうかはらのあひだにて、すでにうつとられんとすることどどにおよぶ。木曽なみだをながいて、「かくあるべしともごしたりせば、いまゐをせたへはやらざらまし。えうせうちくばのむかしより、しなばいつしよでしなんとこそちぎりしか。いまはところどころでうたれんことこそかなしけれ。さりながら、いまいちどいまゐがゆくへをきかん」とて、かはらをのぼりにかくるほどに、ろくでうかはらとさんでうかはらのあひだにて、かたきおそひかかれば、とつてかへしとつてかへし、木曽わづかなるこぜいにて、うんかのごとくなるかたきのおほぜいを、ごろくどまでおひかへし、かもかはざつとうちわたり、あはたぐち、まつざかにもかかりけり。きよねん信濃をいでしには、ごまんよきときこえしが、けふしのみやがはらをすぐるには、主従しちきになりにけり。ましてちううのたびのそら、おもひやられてあはれなり。
 
 

4 木曽最期(きそさいご)

木曽は信濃をいでし頼朝ゑ、やまぶきとてににんのびぢよをぐせられたり。やまぶきはいたはりあつてみやこにとどまりぬ。なかにもともゑはいろしろうかみながく、ようがんまことにびれいなり。くつきやうのあらむまのりの、あくしよおとし、ゆみやうちものとつては、いかなるおににもかみにもあふといふ、いちにんたうぜんのつはものなり。さればいくさといふときは、さねよきよろひきせ、つよゆみ、おほだちもたせて、いつぱうのたいしやうにむけられけるに、どどのかうみやう、かたをならぶるものなし。さればこんどもおほくのものおちうせ、うたれけるなかに、しちきがうちまでも、ともゑはうたれざりけり。木曽はながさかをへて、たんばぢへともきこゆ。りうげごえにかかつて、またほくこくへともきこえけり。かかりしかども、いまゐがゆくへのおぼつかなさに、とつてかへして、せたのかたへぞおちゆきたまふ。いまゐのしらうかねひらも、はつびやくよきにてせたをかためたりけるが、ごじつきばかりにうちなされ、はたをばまかせてもたせつつ、しゆのゆくへのおぼつかなさに、みやこのかたへのぼるほどに、おほつのうちでのはまにて、木曽どのにゆきあひたてまつる。なかいつちやうばかりより、たがひにそれとみしつて、主従こまをはやめてよりあひたり。木曽どの、いまゐがてをとつてのたまひけるは、「義仲ろくでうかはらにて、いかにもなるべかりしかども、なんぢがゆくへのおぼつかなさに、おほくのかたきにうしろをみせて、これまでのがれたるはいかに」とのたまへば、いまゐのしらう、「ごぢやうまことにかたじけなうさふらふ。

かねひらもせたにてうちじにつかまつるべうさふらひしかども、おんゆくへのおぼつかなさに、これまでのがれまゐつてさふらふ」とまうしければ、木曽どの、「さてはちぎりはいまだくちせざりけり。義仲がせい、さんりんにはせちつて、このへんにもひかへたるらんぞ。なんぢがはたあげさせよ」とのたまへば、まいてもたせたるいまゐがはたさしあげたり。これをみつけて、きやうよりおつるせいともなく、またせたよりまゐるものともなく、はせあつまつて、ほどなくさんびやくきばかりになりたまひぬ。木曽どのなのめならずによろこびて、「このせいにてはさいごのいくさ、ひといくさなどかせざるべき。あれにしぐらうてみゆるは、たがてやらん」。「かひのいちでうのじらうどののおんてとこそうけたまはつてさふらへ」。「せいいかほどあるらん」。「ろくせんよきときこえさふらふ」。「さてはたがひによいかたき、おなじうしぬるとも、おほぜいのなかへかけいり、よいかたきにあうてこそうちじにをもせめ」とて、まつさきにぞすすみたまふ。木曽どのそのひのしやうぞくには、あかぢのにしきのひたたれに、からあやをどしのよろひきて、いかものづくりのたちをはき、くはがたうつたるかぶとのををしめ、にじふしさいたるいしうちのやの、そのひのいくさにいて、せうせうのこつたるを、かしらだかにおひなし、しげどうのゆみのまんなかとつて、きこゆる木曽のおにあしげといふむまに、きんぷくりんのくらをおいてのつたりけるが、あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげて、「ひごろはききけんものを、木曽のくわんじや、いまはみるらん、さまのかみけんいよのかみあさひのしやうぐんみなもとの義仲ぞや。かひのいちでうのじらうとこそきけ。義仲うつて、ひやうゑのすけにみせよや」とてをめいてかく。いちでうのじらうこれをきいて、「ただいまなのるは、たいしやうぐんぞや。あますなものども、もらすなわかたう、うてや」とて、おほぜいのなかにとりこめて、われうつとらんとぞすすみける。木曽さんびやくよき、ろくせんよきがなかへかけいり、たてさまよこさま、くもでじふもんじにかけわつて、うしろへつといでたれば、ごじつきばかりになりけり。そこをやぶつてゆくほどに、とひのじらうさねひら、にせんよきでささへたり。そこをもやぶつてゆくほどに、あそこにてはしごひやくき、ここにてはにさんびやくき、ひやくしごじつき、ひやくきばかりがなかを、かけわりかけわりゆくほどに、主従ごきにぞなりにける。ごきがうちまでも、ともゑはうたれざりけり。木曽どのともゑをめして、「おのれはをんななれば、これよりとうとういづちへもおちゆけ。義仲はうちじにをせんずるなり。もしひとでにかからずは、じがいをせんずれば、義仲がさいごのいくさに、をんなをぐしたりなどいはれんこと、くちをしかるべし」とのたまへども、なほおちもゆかざりけるが、あまりにつよういはれたてまつて、「あつぱれよからうかたきのいでこよかし。木曽どのにさいごのいくさしてみせたてまつらん」とて、ひかへてかたきをまつところに、ここに武蔵のくにの住人、おんだのはちらうもろしげといふだいぢからのかうのもの、さんじつきばかりでいできたる。

ともゑそのなかへわつていり、まづおんだのはちらうにおしならべ、むずとくんでひきおとし、わがのつたりけるくらのまへわにおしつけて、ちつともはたらかさず、くびねぢきつてすててんげり。そののちもののぐぬぎすて、東国のかたへぞおちゆきける。てづかのたらううちじにす。てづかのべつたうおちにけり。木曽どのいまゐのしらうただ主従にきになつてのたまひけるは、「ひごろはなにともおぼえぬよろひが、けふはおもうなつたるぞや」とのたまへば、いまゐのしらうまうしけるは、「おんみもいまだつかれさせたまひさふらはず、おむまもよわりさふらはず。なにによつていちりやうのおんきせながを、にはかにおもうはおぼしめされさふらふべき。それはみかたにつづくせいがさふらはねば、おくびやうでこそさはおぼしめしさふらふらめ。かねひらいつきをば、よのむしやせんぎとおぼしめしさふらふべし。ここにいのこしたるやななつやつさふらへば、しばらくふせぎやつかまつりさふらはん。あれにみえさふらふは、あはづのまつばらとまうしさふらふ。きみはあのまつのなかへいらせたまひて、しづかにごじがいさふらへ」とて、うつてゆくほどに、またあらてのむしやごじつきばかりでいできたる。「かねひらはこのおんかたきしばらくふせぎまゐらせさふらふべし。

きみはあのまつのなかへいらせたまへ」とまうしければ、義仲、「ろくでうかはらにて、いかにもなるべかりしかども、なんぢといつしよでいかにもならんためにこそ、おほくのかたきにうしろをみせて、これまでのがれたんなれ。ところどころでうたれんより、いつしよでこそうちじにをもせめ」とて、むまのはなをならべて、すでにかけんとしたまへば、いまゐのしらう、いそぎむまよりとんでおり、しゆのむまのみづつきにとりつき、なみだをはらはらとながいて、「ゆみやとりは、としごろひごろいかなるかうみやうさふらへども、さいごにふかくしぬれば、ながききずにてさふらふなり。おんみもつかれさせたまひさふらひぬ。おむまもよわつてさふらふ。いふかひなきひとのらうどうにくみおとされて、うたれさせたまひさふらひなば、さしもにつぽんごくにおにがみときこえさせたまひつる木曽どのをば、なにがしがらうどうのてにかけて、うちたてまつたりなんぞまうされんこと、くちをしかるべし。ただりをまげて、あのまつのなかへいらせたまへ」とまうしければ、木曽どの、さらばとて、ただいつきあはづのまつばらへぞかけたまふ。いまゐのしらうとつてかへし、ごじつきばかりがせいのなかへかけいり、あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげて、「とほからんものはおとにもきけ、ちかからんひとはめにもみたまへ。木曽どののめのとごに、いまゐのしらうかねひらとて、しやうねんさんじふさんにまかりなる。さるものありとは、鎌倉どのまでもしろしめされたるらんぞ。かねひらうつてひやうゑのすけどののおんげんざんにいれよや」とて、いのこしたるやすぢのやを、さしつめひきつめさんざんにいる。ししやうはしらず、やにはにかたきはちきいおとし、そののちたちをぬいてきつてまはるに、おもてをあはするものぞなき。ただ、「いとれやいとれ」とて、さしつめひきつめ、さんざんにいけれども、よろひよければうらかかず、あきまをいねばてもおはず。木曽どのはただいつき、あはづのまつばらへかけたまふ。ころは正月にじふいちにち、いりあひばかりのことなるに、うすごほりははつたりけり。

ふかたありともしらずして、むまをざつとうちいれたれば、むまのかしらもみえざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。かかりしかどもいまゐがゆくへのおぼつかなさに、ふりあふのぎたまふところを、さがみのくにの住人、みうらのいしだのじらうためひさおつかかり、よつぴいてひやうどはなつ。木曽どのうちかぶとをいさせ、いたでなれば、かぶとのまつかふをむまのかしらにおしあててうつぶしたまふところを、いしだがらうどうににんおちあひて、すでにおんくびをばたまはりけり。やがてくびをばたちのさきにつらぬき、たかくさしあげ、だいおんじやうをあげて、「このひごろにつぽんこくにおにがみときこえさせたまひつる木曽どのをば、みうらのいしだのじらうためひさが、うちたてまつるぞや」となのりければ、いまゐのしらうはいくさしけるが、これをきいて、「いまはたれをかばはんとて、いくさをばすべき。これみたまへ、東国のとのばら、につぽんいちのかうのもののじがいするてほんよ」とて、たちのきつさきをくちにふくみ、むまよりさかさまにとびおち、つらぬかつてぞうせにける。
 
 

5 樋口の斬られ(ひぐちのきられ)

いまゐがあにのひぐちのじらうかねみつは、じふらう蔵人うたんとて、そのせいごひやくよきで、かはちのくにながののじやうへこえたりけるが、そこにてはうちもらしぬ。きのくになぐさにありときいて、やがてつづいてよせたりけるが、みやこにいくさありときいて、とつてかへしてのぼるほどに、よどのおほわたりのはしにて、いまゐがげにんにゆきあうたり。「これはされば、いづちへとてわたらせたまひさふらふやらん。みやこにはいくさいできて、きみうたれさせたまひさふらひぬ。いまゐどのもおんじがいさふらふ」といひければ、ひぐちのじらう、なみだをはらはらとながいて、「これききたまへとのばら、きみにおんこころざしおもひまゐらせんひとびとは、これよりとうとういづちへもおちゆき、いかならんこつじきづだのぎやうをもして、きみのごぼだいをとぶらひまゐらさせたまへ。かねみつはみやこへのぼりうちじにして、めいどにても、きみのおんげんざんにいり、いまゐをもいまいちどみばやとおもふためなり」とて、うつてゆくほどに、ごひやくよきのせいども、あそこここにひかへひかへおちゆくほどに、とばのみなみのもんをすぐるには、そのせいわづかににじふよきにぞなりにける。ひぐちのじらう、けふすでにみやこへいるときこえしかば、たうもかうけも、しちでうしゆしやか、つくりみち、よつづかへはせむかふ。ひぐちがてに、ちののたらうみつひろといふものあり。

よつづかにいくらもありけるせいのなかへかけいり、あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげ、「このせいのなかに、かひのいちでうのじらうどのおんてのひとやまします」ととひければ、「いちでうのじらうがてでないは、いくさをばせぬか。たれにもあへかし」とて、どつとわらふ。わらはれてなのりけるは、「かうまうすものは、信濃のくにすはのかみのみやの住人、ちののたいふみついへがこに、ちののたらうみつひろといふものなり。かならずいちでうのじらうどののおんてのひとをたづぬるにはあらず。おととのしちらうそれにあり。こどもににん信濃のくににおいたるが、あつぱれわがちちは、ようてやしんだるらん、あしうてやしんだるらんと、なげかんずるところに、おととのしちらうがまへにてうちじにして、こどもにたしかにきかせんとおもふためなり。かたきをばきらふまじ」とて、あれにはせあひ、これにはせあひ、むしやさんききつておとし、しにんにあたるかたきにおしならべ、むずとくんでどうどおち、さしちがへてぞしににける。ひぐちのじらうはこだまたうにむすぼほれたりければ、こだまのひとどもよりあひて、「そもそもゆみやとりの、われもひともひろなかへいるといふは、しぜんのときひとまづのいきをもつぎ、しばしのいのちをもいかうどおもふためなり。さればひぐちがわれらにむすぼほれけんも、さこそありけめ。

いのちばかりをたすけん」とて、ひぐちがもとへししやをたてて、「木曽どののみうちに、いまゐ、ひぐち、たて、ねのゐときこえさせたまひてさふらへども、木曽どのうたれさせたまひさふらひぬ。いまゐどのもおんじがいさふらふうへは、なにかくるしうさふらふべき。われらがなかへかうにんになりたまへ。こんどのくんこうのしやうにまうしかへて、おんいのちばかりをば、たすけたてまつらん」といひおくつたりければ、ひぐちのじらうはきこゆるつはものなりしかども、うんやつきにけん、おめおめとこだまたうのなかへ、かうにんにこそなりにけれ。たいしやうぐんのりより義経にこのよしをまうす。院へうかがひまうされたりければ、院ぢうのくぎやうてんじやうびと、つぼねのにようばう、めのわらはにいたるまで、「木曽がほふぢうじどのへよせて、御所にひをかけやきほろぼし、おほくのかうそうきそうをうしなひたりしには、あそこにもここにも、いまゐ、ひぐちといふこゑのみこそありしか。

これらをたすけられんは、むげにくちをしかるべし」と、くちぐちにまうされたりければ、かなはずして、またしざいにぞさだめられける。おなじきにじふににち、しんせつしやうどのとどめられさせたまひて、もとのせつしやうくわんちやくしたまふ。わづかろくじふにちのうちにかへられさせたまひぬれば、いまだみはてぬゆめのごとし。むかしあはたのくわんばくはよろこびまうしののち、ただしちかにちだにありしぞかし。これはろくじふにちとはまうせども、そのあひだにせちゑもぢもくもおこなはれぬれば、おもひでなきにあらず。おなじきにじふしにち、木曽のさまのかみ、よたうごにんがくびみやこへいつて、おほぢをわたさる。ひぐちのじらうはかうにんたりしが、しきりにくびのともせんとまうしければ、さらばとてあゐずりのひたたれ、たてゑぼしにてぞわたされける。あくるにじふごにち、ひぐちのじらうつひにきられにけり。のりより義経、さまざまにまうされけれども、いまゐ、ひぐち、たて、ねのゐとて、木曽がしてんわうのそのいつなれば、これらをたすけられんは、やうこのうれへあるべしと、ことにさたあつてきられけるとぞきこえし。つてにきく、こらうのくにおとろへて、しよこうはちのごとくにおこつしとき、はいこうさきにかんやうきうへいるといへども、かううがのちにきたらんことをおそれて、さいはびじんをもをかさず、きんぎんしゆぎよくをもかすめず、いたづらにかんこくのせきをまもつて、ぜんぜんにかたきをほろぼして、てんがをぢすることをえたりき。さればいまの木曽のさまのかみも、まづみやこへいるといへども、頼朝のあそんのめいにしたがはましかば、かのはいこうがはかりごとにはおとらざらまし。さるほどに平家はこぞのふゆのころより、讃岐国八島の磯をいでて、つのくになにはがたにおしわたり、にしはいちのたにをじやうくわくにかまへ、ひんがしはいくたのもりをおほてのきどぐちとぞさだめける。そのあひだふくはら、ひやうご、いたやど、すまにこもるせい、せんやうだうはつかこく、なんかいだうろくかこく、つがふじふしかこくをうちしたがへて、めさるるところのぐんびやう、じふまんよきとぞきこえし。いちのたにはきたはやま、みなみはうみ、くちはせばくておくひろし。きしたかくしてびやうぶをたてたるにことならず。きたのやまぎはより、みなみのうみのとほあさまで、たいせきをかさねあげ、おほぎをきつてさかもぎにひき、ふかきところにはおほふねどもをそばだてて、かいだてにかき、じやうのおもてのたかやぐらには、しこくちんぜいのつはものども、かつちうきうせんをたいして、うんかのごとくになみゐたり。やぐらのまへには、くらおきむまども、とへはたへにひつたてたり。つねにたいこをうつてらんじやうす。いつちやうのゆみのいきほひは、はんげつむねのまへにかかり、さんじやくのけんのひかりは、あきのしもこしのあひだによこだへたり。たかきところにはあかはたおほくうつたてたれば、はるかぜにふかれて、てんにひるがへるは、ただくわえんのもえあがるにことならず。
 

6 六ケ度合戦(ろくかどかつせん)

さるほどに平家いちのたにへわたりたまひてのちは、しこくのものどもいつかうしたがひたてまつらず、なかにもあは讃岐のざいちやうら、みな平家をそむいて、源氏にこころをかよはしけるが、さすがきのふけふまで、平家にしたがひたてまつたるみの、けふはじめて源氏へまゐりたりとも、よももちひたまはじ。平家にやひとついかけたてまつて、それをおもてにしてまゐらんとて、かどわきのへい中納言のりもり、越前のさんみみちもり、のとのかみ教経ふしさんにん、備前のくにしもつゐにましますときいて、ひやうせんじふよそうでぞよせたりける。能登殿おほきにいかつて、「きのふけふまで、われらがむまのくさきつたるやつばらが、いつしかちぎりをへんずるにこそあんなれ。そのぎならば、いちにんももらさずうてや」とて、こぶねどもおしうかべておはれければ、しこくのものども、ひとめばかりにやひとついて、のかんとこそおもひしに、能登殿にあまりにていたうせめられたてまつて、かなはじとやおもひけん、とほまけにしてひきしりぞき、あはぢのくにふくらのとまりにつきにけり。そのくにに源氏ににんありときこえけり。ころくでうの判官ためよしがばつし、かものくわんじやよしつぎ、あはぢのくわんじやよしひさときこえしを、たいしやうにたのうで、じやうくわくをかまへてまつところに、能登殿おしよせて、さんざんにせめたまへば、かものくわんじやうちじにす。

あはぢのくわんじやはいたでおうて、いけどりにこそせられけれ。のこりとどまつてふせぎやいけるものども、にひやくさんじふよにんがくびきりかけさせ、うつてのけうみやうしるいて、ふくはらへこそまゐらせられけれ。それよりかどわきどのは、いちのたにへぞまゐられける。しそくたちは、いよのかはののしらうがめせどもまゐらぬをせめんとて、しこくへぞわたられける。あに越前のさんみみちもりのきやうは、あはのくにはなぞののじやうにぞつきたまふ。おととのとのかみのりつねは、讃岐の八島につきたまふよしきこえしかば、いよのくにの住人、かはののしらうみちのぶは、あきのくにの住人、ぬたのじらうはははかたのをぢなりければ、ひとつにならんとて、あきのくにへおしわたる。能登殿このよしをききたまひて、八島をたつておはれけるが、そのひはびんごのくにみのしまといふところについて、つぎのひぬたのじやうへぞよせられける。ぬたのじらう、かはののしらうひとつになつて、じやうくわくをかまへてまつところに、能登殿やがておしよせて、さんざんにせめたまへば、ぬたのじらうかなはじとやおもひけん、かぶとをぬぎゆみのつるをはづいてかうにんにまゐる。かはのはなほもしたがはず、そのせいごひやくよきありけるが、ごじつきばかりにうちなされ、じやうをおちてゆくところに、ここに能登殿の侍に、へいはちびやうゑためかずといふもの、にひやくきばかりがなかにとりこめられ、主従しちきにうちなされ、たすけぶねにのらんとて、ほそみちにかかつてみぎはのかたへおちゆくところを、へいはちびやうゑがしそく、讃岐のしちらうよしのり、くつきやうのゆみのじやうずなりければ、おつかかり、よつびいて、しちきをごきいおとす。

主従にきにぞなりにける。かはのがみにかへておもひけるらうどうに、讃岐のしちらうおしならべ、むずとくんで、どうどおち、とつておさへて、くびをかかんとするところに、かはののしらうとつてかへし、わがらうどうのうへなる讃岐のしちらうがくびかききつてふかたへなげいれ、だいおんじやうをあげて、「いよのくにの住人、かはののしらうをちのみちのぶ、しやうねんにじふいち、いくさをばかうこそすれ。われとおもはんひとびとは、よつてとどめよや」となのりすてて、らうどうをかたにひつかけ、そこをばなつくにげのび、いよのくにへおしわたる。能登殿かはのをばうちもらされたりけれども、ぬたのじらうがかうにんたるをめしぐして、いちのたにへぞまゐられける。またあはのくにの住人、あまのろくらうただかげ、これも平家をそむいて、源氏にこころをかよはしけるが、おほぶねにそうにひやうらうまいつみ、もののぐいれ、みやこをさしてのぼりけるを、能登殿ふくはらにて、このよしをききたまひて、こぶねどもおしうかべておはれければ、にしのみやのおきにて、かへしあはせてふせぎたたかふ。

能登殿、「あますな、もらすな」とて、さんざんにせめたまへば、あまのろくらうかなはじとやおもひけん、いづみのくにふけひのうらにたてこもる。またきのくにの住人、そのべのひやうゑただやす、これも平家にこころよからざりけるが、あまのろくらうが能登殿にていたうせめられたてまつて、いづみのくにふけひのうらにありときいて、そのせいひやくきばかりで、いづみのくにへうちこえて、あまのろくらう、そのべのひやうゑひとつになつて、じやうくわくをかまへてまつところに、能登殿やがておしよせて、さんざんにせめたまへば、あまのろくらう、そのべのひやうゑかなはじとやおもひけん、みがらはにげてきやうへのぼる。のこりとどまつて、ふせぎやいけるつはものども、ひやくさんじふよにんがくびきつて、ふくはらへこそまゐられけれ。またぶんごのくにの住人、うすきのじらうこれたか、をがたのさぶらうこれよし、いよのくにの住人、かはののしらうみちのぶひとつになつて、つがふそのせいにせんよにん、こぶねどもにとりのつて、備前のくにへおしわたり、いまぎのじやうにたてごもる。能登殿、ふくはらにて、このよしをききたまひて、やすからぬことなりとて、そのせいさんぜんよきで、備前のくににはせくだり、いまぎのじやうをせめたまふ。能登殿、きやつばらはこはいおんかたきでさふらふ。かさねてせいをたまはるべきよしまうされたりければ、ふくはらよりすまんぎのぐんびやうをさしむけらるるよしきこえしかば、じやうのうちのつはものども、てのきはたたかひ、ぶんどりかうみやうしきはめて、かたきはたぜいなり、みかたはこぜいなりければ、「とりこめられてはかなふまじ。ここをばおちて、しばしのいきをつげや」とて、うすきのじらうこれたか、をがたのさぶらうこれよしは、ぶんごのくにへおしわたり、かはのはいよへぞわたりける。能登殿、いまはせむべきかたきなしとて、ふくはらへこそまゐられけれ。おほいとのいげのげつけいうんかくよりあひたまひて、能登殿のまいどのかうみやうをぞ、かんじあはれける。
 
 

7 三草勢揃(みくさせいぞろへ)

おなじき正月にじふくにち、のりより義経院ざんして、平家追討のために、西国へはつかうすべきよしをそうもんす。ほんてうには、じんだいよりつたはれるおんたからみつあり。しんし、ほうけん、ないしどころこれなり。ことゆゑなうみやこへかへしいれたてまつるべきよしおほせくださる。りやうにんていしやうにかしこまりうけたまはつてまかりいづ。にんぐわつよつかのひ、ふくはらにはこにふだうさうこくのきにちとて、ぶつじかたのごとくとげおこなはる。あさゆふのいくさだちに、すぎゆくつきひはしらねども、こぞはことしにめぐりきて、うかりしはるにもなりにけり。よのよにてあらましかば、いかなるきりふたふばのくはだて、くぶつせそうのいとなみも、あるべかりしかども、ただなんによのきんだちたちさしつどひて、なげきかなしみあはれけり。ふくはらには、このついでにぢもくおこなはれて、そうもぞくもみなつかさなされけり。なかにもかどわきのへい中納言のりもりのきやうをば、じやうにゐのだいなごんにあがりたまふべきよし、おほいとのよりのたまひつかはされたりければ、のりもりのきやう、

けふまでもあればあるかのわがみかはゆめのうちにもゆめをみるかな W067

とおんぺんじまうさせたまひて、つひにだいなごんにはなりたまはず。だいげきなかはらのもろなほがこ、すはうのすけもろずみだいげきになる。ひやうぶのせうまさあき、ごゐの蔵人になされて、蔵人のせうとぞめされける。むかしまさかどとうはつかこくをうちしたがへて、しもふさのくにさうまのこほりにみやこをたて、わがみをへいしんわうとしようじて、ひやくくわんをなしたりしには、こよみのはかせぞなかりける。これはそれにはにるべからず。しゆしやうきうとをこそいでさせたまふといへども、さんじゆのしんきをたいして、ばんじようのくらゐにそなはりたまへば、じよゐぢもくおこなはれんもひがごとにはあらず。へいじすでにふくはらまで、せめのぼつたるよしきこえしかば、ふるさとにのこりとどまりたまふひとびと、みないさみよろこびあはれけり。なかにもにゐのそうづせんしんは、かぢゐのみやのとしごろのごどうじゆくにておはしければ、かぜのたよりにもまうされけり。みやよりもまたおんふみあり。
「たびのそらのよそほひ、おんこころぐるしけれども、みやこもいまだしづまらず」など、こまごまとあそばいて、おくにはいつしゆのうたぞありける。

ひとしれずそなたをしのぶこころをばかたぶくつきにたぐへてぞやる W068

そうづこれをかほにおしあてて、かなしみのなみだせきあへず。さるほどにこまつのさんみのちうじやうこれもりのきやうは、としへだたりひかさなるにしたがつて、ふるさとにとどめおきたまへるきたのかた、をさなきひとびとのことをのみなげきかなしみたまひけり。あきんどのたよりに、ふみなどのかよふにも、きたのかたのみやこのおんすまひ、こころぐるしうききたまひて、さらばこれへむかへまゐらせて、いつしよでいかにもならばやとはおもはれけれども、わがみこそあらめ、おんためいたはしくてなど、おぼしめししづんで、あかしくらしたまふにぞ、せめてのおんこころざしのふかさのほどはあらはれにける。にんぐわつよつかのひ、源氏ふくはらをせむべかりしかども、こにふだうしやうこくのきにちときいて、ぶつじとげさせんがために、そのひはよせず。いつかはにしふさがり、むゆかはだうこにち、なぬかのひのうのこくに、いちのたにのひんがしにしのきどぐちにて、源平やあはせとぞさだめける。

されどもよつかはきちにちなればとて、おほてからめでのぐんびやう、ふたてにわかつてせめくだる。おほてのたいしやうぐんには、かまの御曹司範頼、あひともなふ
ひとびと、たけだのたらうのぶよし、かがみのじらうとほみつ、おなじきこじらうながきよ、やまなのじらうのりよし、おなじきさぶらうよしゆき、侍だいしやうには、梶原へいざう景時、ちやくしの源太景季、じなんへいじかげたか、おなじきさぶらうかげいへ、いなげのさぶらうしげなり、はんがへのしらうしげとも、おなじきごらうゆきしげ、をやまのこしらうともまさ、なかぬまのごらうむねまさ、ゆふきのしちらうともみつ、讃岐のしらうだいふひろつな、をのでらのぜんじたらうみちつな、そがのたらうすけのぶ、なかむらのたらうときつね、えどのしらうしげはる、たまのゐのしらうすけかげ、おほかはづのたらうひろゆき、しやうのさぶらうただいへ、おなじきしらうたかいへ、しやうだいのはちらうゆきひら、くげのじらうしげみつ、かはらのたらうたかなほ、おなじきじらうもりなほ、ふぢたのさぶらうだいふゆきやすをさきとして、つがふそのせいごまんよき、にんぐわつよつかのひのたつのいつてんにみやこをたつて、そのひのさるとりのこくには、つのくにこやのにぢんをぞとつたりける。からめでのたいしやうぐんには、九郎御曹司義経、おなじうともなふひとびと、やすだのさぶらうよしさだ、おほうちのたらうこれよし、むらかみの判官だいやすくに、たしろのくわんじやのぶつな、侍だいしやうには、とひのじらうさねひら、しそくのやたらうとほひら、みうらのすけよしずみ、しそくのへいろくよしむら、畠山のしやうじじらうしげただ、おなじきながののさぶらうしげきよ、さはらのじふらうよしつら、わだのこたらう義盛、おなじきじらうよしもち、さぶらうむねざね、ささきしらうたかつな、おなじきごらうよしきよ、熊谷のじらうなほざね、しそくのこじらうなほいへ、ひらやまのむしやどころすゑしげ、あまののじらうなほつね、こがはのじらうすけよし、はらのさぶらうきよます、たたらのごらうよしはる、そのこのたらうみつよし、わたりやなぎのやごらうきよただ、べつぷのこたらうきよしげ、かねこのじふらういへただ、おなじきよいちちかのり、げんぱちひろつな、かたをかのたらうつねはる、伊勢三郎義盛、あうしうのさとうさぶらう継信、おなじきしらう忠信、えだのげんざう、くまゐのたらう、武蔵ばうべんけい、これらをさきとして、つがふそのせいいちまんよき、おなじひのおなじときにみやこをたつて、たんばぢにかかり、ふつかぢをひとひにうつて、たんばとはりまのさかひなるみくさのやまのひんがしのやまぐち、おのばらにぢんをぞとつたりける。
 
 

8 三草合戦(みくさかつせん)

平家のかたのたいしやうぐんには、こまつのしんざんみのちうじやうすけもり、おなじきせうしやうありもり、たんごのじじうただふさ、備中のかみもろもり、侍だいしやうには、いがのへいないびやうゑきよいへ、えみのじらうもりかたをさきとして、そのせいさんぜんよきで、みくさのやまのにしのやまぐちにおしよせてぢんをとる。そのよのいぬのこくばかりに、たいしやうぐん九郎御曹司義経、侍だいしやうとひのじらうさねひらをめして、「平家はこれよりさんりへだてて、みくさのやまのにしのやまぐちに、おほぜいでひかへたり。ようちにやすべき、またあすのいくさか」とのたまへば、たしろのくわんじやすすみいでて、「平家のせいはさんぜんよき、みかたのおんせいはいちまんよき、はるかのりにさふらふ。あすのいくさとのべられさふらひなば、平家にせいつきさふらひなんず。ようちよかんぬとおぼえさふらふ」とまうされければ、とひのじらう、「いしうもまうさせたまふたしろどのかな。たれもかうこそまうしたうさふらひつれ。ようちよかんぬとおぼえさふらふ」とまうしければ、つはものども、「くらさはくらし、いかがせん」とくちぐちにまうしければ、御曹司、「れいのおほだいまつはいかに」とのたまへば、とひのじらう、「さることさふらふ」とて、をのばらのざいけにひをぞかけたりける。これをはじめて、のにもやまにも、くさにもきにもひをかけたれば、ひるにはちつともおとらずして、さんりのやまをぞこえゆきける。このたしろのくわんじやとまうすは、ちちはいづのくにのさきのこくし、ちうなごんためつなのばつえふなり。

はははかののすけもちみつがむすめをおもうてまうけたりしを、ははかたのそぶにあづけて、ゆみやとりにはしたてたんなり。ぞくしやうをたづぬれば、ごさんでうの院のだいさんのわうじ、すけひとのしんわうにごだいのそんなり。ぞくしやうもよきうへ、ゆみやをとつてもよかりけり。平家のかたには、そのよ、ようちにせんずるをばゆめにもしらず、「いくさはさだめてあすのいくさにてぞあらんずらん。いくさにもねぶたいはだいじのものぞ。よくねていくさせよものども」とて、せんぢんはおのづからようじんしけれども、ごぢんのつはものどもは、あるひはかぶとをまくらにし、あるひはよろひのそでえびらなどをまくらとして、ぜんごもしらずぞふしたりける。そのよのやはんばかり、源氏いちまんよき、みくさのやまのにしのやまぐちにおしよせて、ときをどうとぞつくりける。平家のかたには、あまりにあわてさわいで、ゆみとるものはやをしらず、やをとるものはゆみをしらず、あわてふためきけるが、むまにあてられじとやおもひけん、みななかをあけてぞとほしける。源氏はおちゆく平家を、あそこにおつかけ、ここにおつつめ、さんざんにせめければ、やにはにごひやくよにんうたれぬ。ておふものどもおほかりけり。たいしやうぐんしんざんみのちうじやうすけもり、おなじきせうしやうありもり、たんごのじじうただふさ、みくさのてをやぶられて、めんぼくなうやおもはれけん、はりまのたかさごよりふねにのつて、讃岐の八島へわたりたまひぬ。備中のかみもろもりばかりこそ、なにとしてかはもれさせたまひたりけん、へいないびやうゑ、えみのじらうをめしぐして、いちのたにへぞまゐられける。
 
 

9 老馬(らうば)

おほいとの、あきのむまのすけよしゆきをししやにて、ひとびとのもとへのたまひつかはされけるは、「くらう義経こそ、みくさのてをせめやぶつて、すでにみだれいるよしきこえさふらふ。やまのてがだいじでさふらへば、おのおのむかはれさふらひなんや」とのたまひつかはされたりければ、みなじしまうされけり。能登殿のもとへも、「たびたびのことではさふらへども、こんどもまたごへんむかはれさふらひなんや」とのたまひつかはされたりければ、能登殿のへんじに、「いくさはさやうにかりすなどりなどのやうに、あしだちのよからうかたへはむかはう、あしからんかたへはむかはじなどさふらはんには、いくさにかつことはよもさふらはじ。いくたびでもさふらへ、こはからんかたへは、教経うけたまはつて、まかりむかひさふらふべし。いつぱううちやぶつてまゐらせさふらはん。おんこころやすうおぼしめされさふらふべし」とまうされたりければ、おほいとのなのめならずによろこびたまひて、ゑつちうのせんじもりとしをさきとして、いちまんよき、能登殿にぞつけられける。あに越前のさんみみちもりのきやうをあひぐして、やまのてへぞむかはれける。このやまのてとまうすは、いちのたにのうしろ、ひよどりごえのふもとなり。みちもりのきやう、能登殿のかりやへ、きたのかたむかへよせたまひて、さいごのなごりをしまれけり。

能登殿おほきにいかつて、「このてはだいじのかたとて、教経むけられさふらふが、まことにこはうさふらふなり。ただいまもうへのやまよりかたきおとすほどならば、とるものもとりあへさふらふまじ。たとひゆみをばもつたりとも、やをはげずはあしかるべし。たとひやをばはげたりとも、ひかずはなほもあしかるべし。ましてさやうにうちとけてわたらせたまひては、なんのようにあはせたまふべき」といさめられて、みちもりのきやうげにもとやおもはれけん、いそぎもののぐして、ひとをばかへしたまひけり。いつかのひのくれがたに、源氏こやのをたつて、やうやういくたのもりへせめちかづく。すずめのまつばら、みかげのまつ、こやののかたをみわたせば、源氏てんでにぢんをとつて、とほびをたく。ふけゆくままにながむれば、やまのはいづるつきのごとし。平家もとほびたけやとて、いくたのもりにもかたのごとくぞたいたりける。あけゆくままにみわたせば、はれたるそらのほしのごとし。これやむかしかはべのほたるとえいじたまひけんも、いまこそおもひしられけれ。かやうに源氏は、あそこにぢんとつてはむまやすめ、ここにぢんとつてはむまかひなどしけるほどにいそがず。

平家のかたには、いまやよす、いまやよするとあひまつて、やすいこころもせざりけり。おなじきむゆかのひのあけぼのに、たいしやうぐん九郎御曹司義経、いちまんよきをふたてにわけて、とひのじらうさねひらに、しちせんよきをさしそへて、いちのたにのにしのきどぐちへさしつかはす。わがみはさんぜんよきで、いちのたにのうしろ、ひよどりごえをおとさんとて、たんばぢよりからめでへこそむかはれけれ。つはものども、「これはきこゆるあくしよにてあんなり。おなじうしぬるとも、かたきにあうてこそしにたけれ。あくしよにおちてはしにたからず。あつぱれこのやまのあんないしややある」とくちぐちにまうしければ、ここに武蔵のくにの住人、ひらやまのむしやどころすすみいでて、「すゑしげこそこのやまのあんないよくぞんぢつかまつてさふらへ」とまうしければ、御曹司、「わとのは東国そだちのものの、けふはじめてみる西国のやまのあんないしや、おほきにまことしからず」とのたまへば、すゑしげかさねてまうしけるは、「こはごぢやうともおぼえさふらはぬものかな。よしのはつせのはなをば、みねどもかじんがしり、かたきのこもつたるじやうのうしろのあんないをば、かうのむしやがしりさふらふ」とぞまうしける。これまたばうじやくぶじんにぞきこえし。また武蔵のくにの住人、べつぷのこたらうきよしげとて、しやうねんじふはつさいになりけるが、すすみいでてまうしけるは、「ちちにてさふらひしよししげぼふしがをしへさふらひしは、たとへばやまごえのかりをせよ、またはかたきにもおそはれよ、しんざんにまよひたらんずるときは、らうばにたづなむすんでうちかけ、さきにおつたててゆけ、かならずみちへいでうずるぞとこそをしへさふらひしか」とまうしければ、御曹司、「やさしうもまうしたるものかな。ゆきはのばらをうづめども、おいたるむまぞみちはしるといふためしあり」とて、しらあしげなるらうばに、かがみぐらおき、しろぐつわはげ、たづなむすんでうちかけ、さきにおつたてて、いまだしらぬしんざんへこそいりたまへ。

ころはきさらぎはじめのことなれば、みねのゆきむらぎえて、はなかとみゆるところもあり、たにのうぐひすおとづれて、かすみにまよふところもあり。のぼればはくせつかうかうとしてそびえ、くだればせいざんががとしてきしたかし。まつのゆきだにきえやらで、こけのほそみちかすかなり。あらしにたぐふをりをりは、ばいくわともまたうたがはれ、とうざいにむちをあげ、こまをはやめてゆくほどに、やまぢにひくれぬれば、みなおりゐてぢんをとる。ここに武蔵ばうべんけい、あるらうおういちにんぐしてまゐりたり。

御曹司、「あれはいかに」とのたまへば、「これはこのやまのれふしでさふらふ」とまうしければ、「さてはあんないよくしつたるらん」。「いかでかぞんぢつかまつらではさふらふべき」。御曹司、「さぞあるらん。これより平家のじやうくわくいちのたにへおとさうとおもふはいかに」。「ゆめゆめかなひさふらふまじ。およそさんじふぢやうのたに、じふごぢやうのいはさきなどをば、たやすうひとのかよふべきやうもさふらはず。そのうへ、じやうのうちには、おとしあなをもほり、ひしをもうゑてまちまゐらせさふらふらん。ましておむまなどはおもひもよりさふらはず」とまうしければ、御曹司、「さてさやうのところは、ししはかよふか」。「ししはかよひさふらふ。せけんだにあたたかになりさふらへば、くさのふかきにふさんとて、はりまのししはたんばへこえ、せけんだにさむくなりさふらへば、ゆきのあさりにはまんとて、たんばのししははりまのいなみのへこえさふらふ」とぞまうしける。御曹司、「さてはばばござんなれ。ししのかよはんずるところを、むまのかよはざるべきやうやある。さらばやがてなんぢあんないしやせよ」とのたまへば、「このみはとしおいて、いかにもかなひさふらふまじ」とまうす。「さてなんぢにこはないか」。「さふらふ」とて、くまわうとてしやうねんじふはつさいになりけるせうくわんをたてまつる。御曹司、やがてもとどりとりあげさせたまひて、ちちをばわしのをのしやうじたけひさといふあひだ、これをばわしのをのさぶらうよしひさとなのらせて、いちのたにのさきうちせさせ、あんないしやにこそぐせられけれ。平家ほろび、源氏のよになつてのち、鎌倉どのとなかたがうて、あうしうへくだりうたれたまひしとき、わしのをのさぶらうよしひさとなのつて、いつしよでしににけるつはものなり。
 

10 一二の懸け(いちにのかけ)

六日の夜半ばかりまでは、熊谷、ひらやまからめでにぞさふらひける。熊谷、しそくのこじらうをようでいひけるは、「このてはあくしよであんなれば、たれさきといふこともあるまじきぞ。いざうれ、とひがうけたまはつてむかうたるにしのてへよせて、いちのたにのまつさきかけう」どいひければ、こじらう、「このぎもつともしかるべうさふらふ。たれもかくこそまうしたうさふらひつれ。さらばとうよせさせたまへ」とまうす。熊谷、「まことやひらやまもこのてにあるぞかし。うちごみのいくさこのまぬものなれば、ひらやまがやうみてまゐれ」とて、げにんをみせにつかはす。あんのごとくひらやまは、熊谷よりさきにいでたつて、「ひとをばしるべからず、すゑしげにおいてはひとひきもひくまじいものを、ひくまじいものを」と、ひとりごとをぞしゐたる。げにんがむまをかふとて、「につくいむまのながぐらひかな」とてうちければ、ひらやま、「さうなせそ。そのむまのなごりもこよひばかりぞ」とてうつたちけり。げにんわしりかへつて、しゆにこのよしつげければ、さらばこそとて、これもやがてうつたちけり。熊谷がそのよのしやうぞくには、かちのひたたれに、あかがはをどしのよろひきて、くれなゐのほろをかけ、ごんだくりげといふきこゆるめいばにぞのつたりける。しそくのこじらうなほいへは、おもだかをひとしほすつたるひたたれに、ふしなはめのよろひきて、せいろうといふしらつきげなるむまにぞのつたりける。はたさしはきぢんのひたたれに、こざくらをきにかへいたるよろひきて、きかはらげなるむまにぞのつたりける。主従さんきうちつれ、おとさんずるたにをばゆんでになし、めてへあゆませゆくほどに、としごろひともかよはぬたゐのはたといふふるみちをへて、いちのたにのなみうちぎはへぞうちいでける。いちのたにちかうしほやといふところあり。いまだよふかかりければ、とひのじらうさねひら、しちせんよきでひかへたり。熊谷よにまぎれて、なみうちぎはより、そこをばつとはせとほり、いちのたにのにしのきどぐちにぞおしよせたる。そのときもいまだよふかかりければ、じやうのうちにはしづまりかへつておともせず。熊谷、しそくのこじらうにいひけるは、「このてはあくしよであんなれば、われもわれもとさきにこころをかけたるものどもおほかるらん。

すでによせたれども、よのあくるをあひまつて、このへんにもひかへたるらんぞ。こころせばうなほざねいちにんとおもふべからず。いざなのらん」とて、かいだてのきはにあゆませより、あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげて、「武蔵のくにの住人熊谷のじらうなほざね、しそくのこじらうなほいへ、いちのたにのせんぢんぞや」とぞなのつたる。じやうのうちにはこれをきいて、「よしよしおとなせそ。かたきのむまのあしつからかさせよ。やだねをいつくさせよ」とて、あひしらふものこそなかりけれ。ややあつてうしろよりむしやこそにきつづいたれ。「たそ」ととへば、「すゑしげ」とこたふ。「とふはたそ」。「なほざねぞかし」。「いかに熊谷どのはいつよりぞ」。「よひより」とこそこたへけれ。「すゑしげもやがてつづいてよすべかりつるを、なりだごらうにたばかられて、いままではちちしたりつるなり。なりだがしなばいつしよでしなんとちぎりしあひだ、うちつれてよせつれば、『いたうひらやまどのさきがけばやりなしたまひそ。いくさのさきをかくるといふは、みかたのせいをうしろにおいて、さきをかけたればこそ、かうみやうふかくをもひとにしらるれ。あのおほぜいのなかへただいつき、かけいつてうたれたらんは、なんのせんにかあふべき』といふあひだ、げにもとおもひ、こざかのありつるをうちのぼせ、くだ(原本かな無し)りさまにむまのかしらをひきたてて、みかたのせいをまつところに、なりだもつづいていできたり、うちならべていくさのやうをもいひあはせんずるかとおもひたれば、さはなくして、すゑしげがかたをばすげなげにみなしつつ、そばをつとはせとほるあひだ、あつぱれこのものすゑしげたばかつて、さきかくるよとおもひ、ごろくたんばかりすすんだるを、あれがむまはわがむまよりよわげなるものをとめをかけ、ひとむちうつておつつき、『いかになりだどのは、まさなうもすゑしげほどのものを、たばかりたまふものかな』といひかけ、うちすててよせつれば、いまははるかにさがりぬらん。よもうしろかげをばみたらじ」とこそかたりけれ。

さるほどにしののめやうやうあけゆけば、熊谷ひらやま、かれこれごきでぞひかへたる。熊谷はさきになのつたりけれども、ひらやまがきくまへにて、またなのらんとやおもひけん、かいだてのきはへあゆませより、あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげて、「そもそもいぜんなのつつる武蔵のくにの住人熊谷のじらうなほざね、しそくのこじらうなほいへ、いちのたにのせんぢんぞや」とぞなのつたる。じやうのうちにはこれをきいて、「いざよもすがらなのる熊谷おやこをひつさげてこん」とて、すすむ平家の侍たれたれぞ。ゑつちうのじらうびやうゑもりつぎ、かづさのごらうびやうゑただみつ、あくしちびやうゑかげきよ、ごとうないさだつねをさきとして、むねとのつはものにじふよき、きどをひらいてかけいでたり。ここにひらやまはしげめゆひのひたたれに、ひをどしのよろひきて、ふたつひきりやうのほろをかけ、めかすげといふきこゆるめいばにぞのつたりける。はたさしはくろかはをどしのよろひに、かぶとゐくびにきなしつつ、さびつきげなるむまにぞのつたりける。「保元へいぢにかどのいくさに、さきがけてかくみやうしたる武蔵のくにの住人、ひらやまのむしやどころすゑしげ」となのつてをめいてかく。熊谷かくればひらやまつづき、ひらやまかくれば熊谷つづき、たがひにわれおとらじと、いれかへいれかへ、なのりかへなのりかへ、もみにもうで、ひいづるほどにぞせめたりける。

平家の侍ども、熊谷ひらやまにあまりにていたうせめられて、かなはじとやおもひけん、じやうのうちへざつとひいて、かたきをとざまになしてぞふせぎける。熊谷はむまのふとばらいさせ、はぬれば、ゆんづゑついておりたつたり。しそくのこじらうなほいへも、しやうねんじふろくさいとなのつて、まつさきかけてたたかひけるが、ゆんでのかひなをいさせ、これもむまよりおり、ちちとならんでぞたつたりける。熊谷、「いかにこじらうはておうたるか」。「さんざふらふ」。「よろひづきをつねにせよ。うらかかすな。しころをかたぶけよ、うちかぶといさすな」とこそをしへけれ。

熊谷はよろひにたつたるやどもかなぐりすて、じやうのうちをにらまへ、だいおんじやうをあげて、「こぞのふゆ、鎌倉をたちしよりこのかた、いのちをばひやうゑのすけどのにたてまつり、かばねをいちのたにのみぎはにさらさんと、おもひきつたるなほざねぞかし。さんぬるむろやまみづしまにかどのいくさにうちかつて、かうみやうしたりとなのるなる、ゑつちうのじらうびやうゑ、かづさのごらうびやゑ、あくしちびやうゑはないか。能登殿はおはせぬか。かうみやうふかくもかたきによつてこそすれ。ひとごとにはえせじものを。ただ熊谷おやこにおちあへや、くめやくめ」とぞののしつたる。じやうのうちにはこれをきいて、ゑつちうのじらうびやうゑもりつぎ、このむしやうぞくなれば、こむらごのひたたれに、あかをどしのよろひきて、くはがたうつたるかぶとのををしめ、こがねづくりのたちをはき、にじふしさいたるきりふのやおひ、しげどうのゆみわきにはさみ、れんぜんあしげなるむまに、きんぷくりんのくらをおいてのつたりけるが、熊谷おやこをめにかけてあゆませよる。熊谷おやこもなかをわられじと、あひもすかさずたちならび、たちをぬいてひたひにあて、うしろへはひとひきもひかず、いよいよまへへぞすすんだる。

ゑつちうのじらうびやうゑこれをみて、かなはじとやおもひけん、とつてかへす。熊谷、「あれはいかに、ゑつちうのじらうびやうゑとこそみれ。かたきにはどこをきらはうぞ。おしならべてくめやくめ」といひけれども、じらうびやうゑ、「さもさうず」とてひつかへす。かづさのあくしちびやうゑこれをみて、「きたないとのばらのふるまひかな。しやくまんずるものを。おちあはぬことはよもあらじ」とて、すでにかけいでくまんとしければ、じらうびやうゑ、あくしちびやうゑがよろひのそでをひかへて、「きみのおんだいじこれにかぎるべからず。あるべうもなし」とせいせられて、ちからおよばでくまざりけり。そののち熊谷はのりがへにのつてをめいてかく。ひらやまも熊谷おやこがたたかふまに、むまのいきやすめ、これもおなじうつづいたり。平家のかたにはこれをみて、ただいとれやいとれとて、さしつめひきつめ、さんざんにいけれども、かたきはこぜいなり、みかたはおほぜいなりければ、せいにまぎれてやにもあたらず。「ただおしならべてくめやくめ」とげぢしけれども、平家のかたのむまはかふはまれなり、のりしげし。ふねにひさしうたてたりければ、みなゑりきつたるやうなりけり。熊谷ひらやまがのつたるむまは、かひにかうたるだいのむまどもなり。ひとあてあてば、みなけたふされぬべきあひだ、さすがおしならべてくむむしやいつきもなかりけり。ここにひらやまは、みにかへておもひけるはたさしをうたせて、やすからずやおもひけん、じやうのうちへかけいり、やがてそのかたきがくびとつてぞいでたりける。熊谷おやこも、ぶんどりあまたしてげり。熊谷はさきによせたれども、きどをひらかねばかけいらず。ひらやまはのちによせたれども、きどをあけたればかけいりぬ。さてこそ熊谷ひらやまが、いちにのかけをばあらそひけれ。
 
 

11 二度の懸け(にどのかけ)

さるほどになりだごらうもいできたる。とひのじらうさねひらしちせんよき、いろいろのはたさしあげ、をめきさけんでせめたたかふ。おほていくたのもりをば、源氏ごまんよきでかためたりけるが、そのせいのなかに、武蔵のくにの住人、かはらたらう、かはらじらうとておとといあり。かはらたらう、おととのじらうをようでいひけるは、「だいみやうはわれとてをおろさねども、けにんのかうみやうをもつてめいよす。われらはみづからてをおろさではかなひがたし。かたきをまへにおきながら、やひとつをだにいずしてまちゐたれば、あまりにこころもとなきに、たかなほはじやうのうちへまぎれいつて、ひとやいんとおもふなり。さればせんまんがいつも、いきてかへらんことありがたし。なんぢはのこりとどまつて、のちのしようにんにたて」といひければ、おととのじらう、なみだをはらはらとながいて、「ただきやうだいににんあるものが、あにをうたせて、おととがあとにのこりとどまつたればとて、いくほどのえいぐわをかたもつべき。ところどころでうたれんより、いつしよでこそうちじにをもせめ」とて、げにんどもよびよせ、さいしのもとへ、さいごのありさまいひつかはし、むまにはのらでげげをはき、ゆんづゑをついて、いくたのもりのさかもぎをのぼりこえて、じやうのうちへぞいつたりける。

ほしあかりによろひのけさだかならず。かはらたらうだいおんじやうをあげて、「武蔵のくにの住人、かはらたらうきさいちのたかなほ、おなじきじらうもりなほ、いくたのもりのせんぢんぞや」とぞなのつたる。じやうのうちにはこれをきいて、「あつぱれ東国のぶしほどおそろしかりけるものはなし。このおほぜいのなかへ、ただきやうだいににんかけいつたらば、なにほどのことをかしいだすべき。ただおいてあいせよや」とて、うたんといふものこそなかりけれ。かはらきやうだい、くつきやうのゆみのじやうずなりければ、さしつめひきつめさんざんにいる。じやうのうちにはこれをみて、「いまはこのものあいしにくし。うてや」といふほどこそありけめ、西国にきこえたるつよゆみせいびやう、備中のくにの住人、まなべのしらう、まなべのごらうとておとといあり。あにのしらうをばいちのたににおかれたり。おととのごらうはいくたのもりにありけるが、これをみて、よつぴき、しばしたもつてひやうどいる。かはらのたらうがよろひのむないたを、うしろへつといぬかれて、ゆんづゑにすがりすくむところを、おととのじらうはしりより、あにをかたにひつかけて、いくたのもりのさかもぎのぼりこえんとするところを、まなべがにのやに、おととのじらうがよろひのくさずりのはづれをいさせて、おなじまくらにふしにけり。まなべがげにんおちあはせて、かはらきやうだいがくびをとる。たいしやうぐんしん中納言知盛のきやうのおんげんざんにいれたりければ、「あつぱれかうのものや、これらをこそ、いちにんたうぜんのよきつはものどもともいふべけれ。あつたらものどもがいのちをたすけてみで」とぞのたまひける。

そののちかはらがげにんはしりちつて、「かはらどのきやうだいこそ、ただいまじやうのうちへまつさきかけて、うたれさせたまひぬるは」とよばはつたりければ、梶原へいざうこれをきいて、「これはしのたうのとのばらのふかくでこそ、かはらきやうだいをばうたせたれ。ときよくなりぬるぞ、よせよや」とて、梶原ごひやくよき、いくたのもりのさかもぎをとりのけさせて、じやうのうちへをめいてかく。じなんへいじあまりにさきをかけうどすすむあひだ、ちちへいざうししやをたてて、「ごぢんのせいのつづかざらんに、さきがけたらんずるものには、けんじやうあるまじきよし、たいしやうぐんよりのおほせぞ」といひおくつたりければ、へいじしばらくひかへて、
「もののふのとりつたへたるあづさゆみひいてはひとのかへすものかは W069

とまうさせたまへや」とて、をめいてかく。梶原これをみて、「へいじうたすなものども、かげたかうたすなつづけや」とて、ちちのへいざう、あにのげんだ、おなじきさぶらうつづいたり。梶原ごひやくよきの、おほぜいのなかへかけいり、たてさま、よこさま、くもで、じふもんじにかけわつて、ざつとひいていでたれば、ちやくしのげんだはみえざりけり。梶原らうどうどもに、「げんだはいかに」ととひければ、「あまりにふかいりして、うたれさせたまひてさふらふやらん。はるかにみえさせたまひさふらはず」とまうしければ、梶原なみだをはらはらとながいて、「いくさのさきをかけうどおもふもこどもがため、げんだうたせて、景時いのちいきてもなににかはせんなれば、かへせや」とて、またとつてかへす。そののち梶原あぶみふんばりたちあがり、だいおんじやうをあげて、「むかしはちまんどののごさんねんのおんたたかひに、ではのくにせんぶくかなざはのじやうをせめたまひしとき、しやうねんじふろくさいとなのつて、まつさきかけ、ゆんでのまなこをかぶとのはちつけのいたにいつけられながら、そのやをぬかで、たうのやをいかへし、かたきいおとし、けんじやうかうぶり、なをこうだいにあげたりし鎌倉のごんごらうかげまさに、ごだいのばつえふ、梶原へいざう景時とて、東国にきこえたるいちにんたうぜんのつはものぞや。われとおもはんひとびとは、よりあへやげんざんせん」とて、をめいてかく。

じやうのうちにはこれをきいて、「ただいまなのるは東国にきこえたるつはものぞや。あますな、もらすな、うてや」とて、梶原をなかにとりこめて、われうつとらんとぞすすみける。梶原まづわがみのうへをばしらずして、げんだはいづくにあるやらんと、かけわりかけまはりたづぬるほどに、あんのごとく、げんだは、むまをもいさせかちだちになり、かぶとをもうちおとされ、おほわらはにたたかひなつて、にぢやうばかりありけるきしをうしろにあて、らうどうににんさうにたて、うちものぬいて、かたきごにんがなかにとりこめられて、おもてもふらずいのちもをしまず、ここをさいごとせめたたかふ。梶原これをみて、げんだはいまだうたれざりけりとうれしうおもひ、いそぎむまよりとんでおり、「いかにげんだ、景時ここにあり。おなじうしぬるとも、かたきにうしろをみすな」とて、おやこしてごにんのかたきをさんにんうつとり、ににんにておはせて、「ゆみやとりは、かくるもひくもをりにこそよれ。いざうれげんだ」とて、かいぐしてぞいでたりける。梶原がにどのかけとはこれなり。
 

12 逆落(さかおとし)

これをはじめて、みうら、鎌倉、ちちぶ、あしかが、たうには、ゐのまた、こだま、のゐよ、よこやま、にしたう、つづきたう、そうじて、しのたうのつはものども、源平たがひにみだれあひ、をめきさけぶこゑはやまをひびかし、はせちがふるむまのおとはいかづちのごとく、いちがふるやはあめのふるにことならず。あるひはうすでおうてたたかふものもあり、あるひはひつくみさしちがへてしぬるもあり、あるひはとつておさへてくびをかくもあり、かかるるもあり、いづれひまありともみえざりけり。かかりしかども、源氏おほてばかりでは、いかにもかなふべしともみえざりしに、なぬかのひのあけぼのに、たいしやうぐん九郎御曹司義経、そのせいさんぜんよき、ひよどりごえにうちあがつて、じんばのいきやすめておはしけるが、そのせいにやおどろきたりけん、をじかふたつめじかひとつ、平家のじやうくわくいちのたにへぞおちたりける。平家のかたのつはものどもこれをみて、「たとひさとちかからんししだにも、われらにおそれてやまふかうこそいるべきに、ただいまのししのおちやうこそあやしけれ。いかさまにも、これはうへのやまよりかたきおとすにこそ」とて、おほきにさわぐところに、ここにいよのくにの住人、たけちのむしやどころきよのりすすみいでて、「たとひなにものにてもあらばあれ、かたきのかたよりいできたらんずるものを、とほすべきやうなし」とて、をじかふたついとどめて、めじかをばいいでぞとほしける。ゑつちうのせんじこれをみて、「せんないとのばらのししのいやうかな。ただいまのやひとすぢでは、かたきじふにんをばふせがんずるものを。つみつくりにやだうなに」とぞせいしける。さるほどにたいしやうぐん九郎御曹司義経、平家のじやうくわくはるかにみくだしておはしけるが、むまどもおといてみんとて、せうせうおとされけり。あるひはちうにてころんでおち、あるひはあしうちをつてしぬるもあり。されどもそのなかに、くらおきむまさんびき、さうゐなくおちついて、ゑつちうのせんじがやかたのまへに、みぶるひしてこそたつたりけれ。御曹司、「むまはぬしぬしがこころえておとさんには、いたうはそんずまじかりけるぞ。くはおとせ、義経をてほんにせよ」とて、まづさんじつきばかり、まつさきかけておとされければ、さんぜんよきのつはものども、みなつづいておとす。そこしもこいしまじりのまさごなりければ、ながれおとしににちやうばかりざつとおといて、だんなるところにひかへたり。それよりしももみくだせば、だいばんじやくのこけむしたるが、つるべおろしにじふしごぢやうぞくだつたる。それよりさきへはすすむべきともみえず。またうしろへとつてかへすべきやうもなかりしかば、つはものども、ここぞさいごとまうして、あきれてひかへたるところに、みうらのさはらのじふらうよしつら、すすみいでてまうしけるは、「われらがかたでは、とりひとつたつてだにも、あさゆふかやうのところをばはせありけ。これはみうらのかたのばばぞ」とて、まつさきかけておとしければ、おほぜいみなつづいておとす。ごぢんにおとすもののあぶみのはなは、せんぢんのよろひかぶとにさはるほどなり。あまりのいぶせさに、めをふさいでおとしける。えいえいごゑをしのびにして、むまにちからをつけておとす。おほかたひとのしわざとはみえず、ただきじんのしよゐとぞみえし。おとしもはてぬに、ときをどつとぞつくりける。さんぜんよきがこゑなれども、やまびここたへてじふまんよきとぞきこえける。むらかみの判官だいやすくにがてよりひをいだいて、平家のやかたかりやを、へんしのけぶりとやきはらふ。くろけぶりすでにおしかけければ、平家のつはものども、もしやたすかると、まへなるうみへぞおほくはしりいりける。

なぎさにはたすけぶねどもいくらもありけれども、ふねいつそうにはよろうたるものどもが、しごひやくにん、せんにんばかりこみのつたらうに、なじかはよかるべき。なぎさよりさんちやうばかりこぎいでて、めのまへにておほぶねさんぞうしづみにけり。そののちは、よきむしやをばのするとも、ざふにんばらをばのすべからずとて、たちなぎなたにてうちはらひけり。かくすることとはしりながら、かたきにあうてはしなずして、のせじとするふねにとりつきつかみつき、あるひはひぢうちきられ、あるひはうでうちおとされて、いちのたにのみぎはに、あけになつてぞなみふしたる。さるほどにおほてにもはまのてにも、武蔵さがみのわかとのばら、おもてもふらずいのちもをしまず、ここをさいごとせめたたかふ。能登殿はどどのいくさに、いちどもふかくしたまはぬひとの、こんどはいかがおもはれけん、うすずみといふむまにうちのつて、にしをさしてぞおちたまふ。はりまのたかさごより、おふねにめして、讃岐の八島へわたりたまひぬ。
 
 

13 越中前司最期(ゑつちゆうのせんじさいご)

新中納言知盛卿は、いくたのもりのたいしやうぐんにておはしけるが、ひんがしにむかつてたたかひたまふところに、やまのそばよりよせけるこだまたうのなかより、ししやをたてて、「きみはひととせ武蔵のこくしにてわたらせたまへば、そのよしみをもつて、こだまのものどもがなかよりまうしさふらふ。いまだおんうしろをばごらんぜられさふらはぬやらん」とまうしければ、しん中納言いげのひとびと、うしろをかへりみたまへば、くろけぶりおしかけたり。「あはや、にしのてはやぶれにけるは」といふほどこそありけれ、とるものもとりあへず、われさきにとぞおちゆきける。ゑつちうのせんじもりとしは、やまのての侍だいしやうにてましましけるが、いまはおつともかなはじとやおもひけん、ひかへてかたきをまつところに、ゐのまたのこべいろくのりつな、よきかたきとめをかけ、むちあぶみをあはせてはせきたり、おしならべてむずとくんでどうどおつ。ゐのまたははつかこくにきこえたるしたたかものなり。かのつののいちにのくさかりをば、たやすくひきさきけるとぞきこえし。

ゑつちうのせんじも、ひとめにはにさんじふにんがちからあらはすといへども、ないないはろくしちじふにんしてあげおろすふねを、ただいちにんしておしあげおしおろすほどのだいぢからなり。さればゐのまたをとつておさへてはたらかさず、ゐのまたしたにふしながら、かたなをぬかうどすれども、ゆびのまたはだかつて、かたなのつかをにぎるにもおよばず、ものをいはうどすれども、あまりにつようおさへられてこゑもいでず。されどもゐのまたはだいかうのものにてありければ、しばしのいきをやすめて、「かたきのくびをとるといふは、われもなのつてきかせ、かたきにもなのらせて、くびとつたればこそたいこうなれ。なもしらぬくびとつて、なににかはしたまふべき」といひければ、ゑつちうのせんじげにもとやおもひけん、「もとは平家のいちもんたりしが、みふせうなるによつて、たうじは侍になされたるゑつちうのせんじもりとしといふものなり。わぎみはなにものぞ。なのれ、きかう」どいひければ、「武蔵のくにの住人、ゐのまたのこべいろくのりつなといふものなり。ただいまわがいのちたすけさせおはしませ。さだにもさふらはば、ごへんのいちもん、なんじふにんもおはせよ、こんどのくんこうのしやうにまうしかへて、おんいのちばかりをばたすけたてまつらん」といひければ、ゑつちうのせんじおほきにいかつて、「もりとしみふせうなれども、さすが平家のいちもんなり。もりとし源氏をたのまうどもおもひもよらず。源氏またもりとしにたのまれうども、よもおもひたまはじ。にくいきみがまうしやうかな」とて、すでにくびをかかんとしければ、「まさなうざふらふ。かうにんのくびかくやうやある」といひければ、「さらばたすけん」とてゆるしけり。まへはかただのはたけのやうなるが、うしろはみづたのごみふかかりけるくろのうへに、ふたりながらこしうちかけて、いきつぎゐたり。ややあつて、ひをどしのよろひきて、つきげなるむまに、きんぷくりんのくらおいてのつたりけるむしやいつき、むちあぶみをあはせてはせきたる。ゑつちうのせんじあやしげにみければ、「あれはゐのまたにしたしうさふらふひとみのしらうでさふらふが、のりつながあるをみて、まうでくるとおぼえさふらふ。くるしうもさふらはぬ」といひながら、あれがちかづくほどならば、しやくまんずるものを、おちあはぬことはよもあらじとおもひてまつところに、あはひいつたんばかりにはせきたる。ゑつちうのせんじ、はじめはふたりのかたきをひとめづつみけるが、しだいにちかづくかたきをはたとまぼつて、のりつなをみぬひまに、ゐのまたちからあしをふんでたちあがり、こぶしをつよくにぎり、ゑつちうのせんじがよろひのむないたを、ばくとついて、うしろへのけにつきたふす。

おきあがらんとするところを、ゐのまたうへにのりかかり、ゑつちうのせんじがこしのかたなをぬき、よろひのくさずりひきあげて、つかもこぶしもとほれとほれと、みかたなさいてくびをとる。さるほどにひとみのしらうもいできたり。かやうのときはろんずることもありとて、やがてくびをばたちのさきにつらぬき、たかくさしあげ、だいおんじやうをあげて、「このひごろ平家のおんかたにおにかみときこえつるゑつちうのせんじもりとしをば、武蔵のくにの住人、ゐのまたのこべいろくのりつながうつたるぞや」となのつて、そのひのかうみやうのいちのふでにぞつきにける。
 

14 忠度最期(ただのりさいご)

薩摩守忠度は、にしのてのたいしやうぐんにておはしけるが、そのひのしやうぞくには、こんぢのにしきのひたたれに、くろいとをどしのよろひきて、くろきむまのふとうたくましきに、いかけぢのくらおいてのりたまひたりけるが、そのせいひやくきばかりがなかにうちかこまれて、いとさわがず、ひかへひかへおちたまふところに、ここに武蔵のくにの住人、をかべのろくやたただずみ、よきかたきとめをかけ、むちあぶみをあはせておつかけたてまつり、
「あれはいかに、よきたいしやうぐんとこそみまゐらせてさふらへ。まさなうもかたきにうしろをみせたまふものかな。かへさせたまへ」とことばをかけければ、「これはみかたぞ」とて、ふりあふのぎたまふうちかぶとをみいれたれば、かねぐろなり。「あつぱれみかたに、かねつけたるものはなきものを。いかさまにもこれは平家のきんだちにてこそおはすらめ」とて、おしならべてむずとくむ。これをみてひやくきばかりのつはものども、みなくにぐにのかりむしやなりければ、いつきもおちあはず、われさきにとぞおちゆきける。薩摩守はきこゆるくまのそだちのだいぢから、くつきやうのはやわざにておはしければ、ろくやたをつかうで、「につくいやつが、みかたぞといはばいはせよかし」とて、ろくやたをとつてひきよせ、むまのうへにてふたかたな、おちつくところでひとかたな、みかたなまでこそつかれけれ。

ふたかたなはよろひのうへなればとほらず、ひとかたなはうちかぶとへつきいれられたりけれども、うすでなればしなざりけるを、とつておさへて、くびをかかんとしたまふところに、ろくやたがわらは、おくればせにはせきたつて、いそぎむまよりとんでおり、うちがたなをぬいて、薩摩守のみぎのかひなを、ひぢのもとよりふつとうちおとす。薩摩守いまはかうとやおもはれけん。「しばしのけ、さいごのじふねんとなへん」とて、ろくやたをつかうで、ゆんだけばかりぞなげのけらる。そののちにしにむかひ、「くわうみやうへんぜうじつぱうせかい、ねんぶつしゆじやうせつしゆふしや」とのたまひもはてねば、ろくやたうしろよりより、薩摩守のくびをとる。よいくびうちたてまつたりとはおもへども、なをばたれともしらざりけるが、えびらにゆひつけられたるふみをとつてみければ、りよしゆくのはなといふだいにて、うたをぞいつしゆよまれたる。

ゆきくれてこのしたかげをやどとせばはなやこよひのあるじならまし W070

忠度とかかれたりけるゆゑにこそ、薩摩守とはしりてげれ。やがてくびをばたちのさきにつらぬき、たかくさしあげ、だいおんじやうをあげて、「このひごろにつぽんごくにおにかみときこえさせたまひたる薩摩守どのをば、武蔵のくにの住人、をかべのろくやたただずみがうちたてまつたるぞや」と、なのつたりければ、かたきもみかたもこれをきいて、「あないとほし、ぶげいにもかだうにもすぐれて、よきたいしやうぐんにておはしつるひとを」とて、みなよろひのそでをぞぬらしける。
 
 

15 重衡生捕(しげひらいけどり)

本三位中将重衡卿は、生田森の副将軍にておはしけるが、そのひのしやうぞくには、かちにしろうきなるいとをもつて、いはにむらちどりぬうたるひたたれに、むらさきすそごのよろひきて、くはがたうつたるかぶとのををしめ、こがねづくりのたちをはき、にじふしさいたるきりふのやおひ、しげどうのゆみもつて、どうじかげといふ、きこゆるめいばに、きんぷくりんのくらおいてのりたまへり。めのとごのごとうびやうゑもりながは、しげめゆひのひたたれに、ひをどしのよろひきて、さんみのちうじやうのさしもひざうせられたる、よめなしつきげにぞのせられたる。主従にきたすけぶねにのらんとて、なぎさのかたへおちたまふところに、しやうのしらうたかいへ、梶原源太景季、よきかたきとめをかけ、むちあぶみをあはせておつかけたてまつる。なぎさにはたすけぶねどもおほかりけれども、うしろよりかたきはおつかけたり。

のるべきひまもなかりければ、みなとがは、かるもがはをもうちわたり、はすのいけをめてにみて、こまのはやしをゆんでになし、いたやど、すまをもうちすぎて、にしをさしてぞおちたまふ。さんみのちうじやうは、どうじかげといふきこゆるめいばにのりたまへり。もりふせたるむまども、たやすうおつつくべしともみえざりければ、梶原、もしやと、とほやによつぴいてひやうどはなつ。さんみのちうじやうのむまのさんづをのぶかにいさせてよわるところに、めのとごのごとうびやうゑもりなが、わがむまめされなんとやおもひけん、むちをうつてぞにげたりける。さんみのちうじやう、「いかにもりなが、われをばすてていづくへゆくぞ。ひごろはさはちぎらざりしものを」とのたまへども、そらきかずして、よろひにつけたるあかじるしどもかなぐりすてて、ただにげにこそにげたりけれ。さんみのちうじやう、むまはよわる、うみへざつとうちいれたまふ。みをなげんとしたまへども、そこしもとほあさにて、しづむべきやうもなかりければ、はらをきらんとしたまふところに、しやうのしらうたかいへ、むちあぶみをあはせてはせきたり、いそぎむまよりとんでおり、「まさなうざふらふ。いづくまでもおんともつかまつりさふらはんずるものを」とて、わがのつたりけるむまにかきのせたてまつり、くらのまへわにしめつけたてまつて、わがみはのりがへにのつて、みかたのぢんへぞいりにける。めのとごのもりながは、そこをばなつくにげのびて、のちにはくまのぼふしに、をなかのほつけうをたのうでゐたりけるが、ほつけうしんでののち、ごけのにこうのそしようのために、みやこへのぼるにともしてのぼつたりければ、さんみのちうじやうのめのとごにて、じやうげおほくはみしられたり。「あなにくや、ごとうびやうゑもりながが、さんみのちうじやうのさしもふびんにしたまひつるに、いつしよでいかにもならずして、おもひもよらぬごけのにこうのともしてのぼつたるよ」とて、みなつまはじきをぞしける。もりながもさすがはづかしうやおもはれけん、あふぎをかほにかざしけるとぞきこえし。
 
 

16 敦盛(あつもり)

さるほどにいちのたにのいくさやぶれにしかば、武蔵のくにの住人、熊谷のじらうなほざね、平家のきんだちのたすけぶねにのらんとて、みぎはのかたへやおちゆきたまふらん、あつぱれよきたいしやうぐんにくまばやとおもひ、ほそみちにかかつてみぎはのかたへあゆまするところに、ここにねりぬきにつるぬうたるひたたれに、もよぎにほひのよろひきて、くはがたうつたるかぶとのををしめ、こがねづくりのたちをはき、にじふしさいたるきりふのやおひ、しげどうのゆみもち、れんぜんあしげなるむまに、きんぷくりんのくらおいてのつたりけるものいつき、おきなるふねをめにかけ、うみへざつとうちいれ、ごろくたんばかりぞおよがせける。熊谷、「あれはいかに、よきたいしやうぐんとこそみまゐらせてさふらへ。まさなうもかたきにうしろをみせたまふものかな。かへさせたまへかへさせたまへ」と、あふぎをあげてまねきければ、まねかれてとつてかへし、みぎはにうちあがらんとしたまふところに、熊谷なみうちぎはにておしならべ、むずとくんで、どうどおち、とつておさへてくびをかかんとて、かぶとをおしあふのけてみたりければ、うすげしやうしてかねぐろなり。

わがこのこじらうがよはひほどして、じふろくしちばかんなるが、ようがんまことにびれいなり。「そもそもいかなるひとにてわたらせたまひさふらふやらん。なのらせたまへ。たすけまゐらせん」とまうしければ、「まづかういふわとのはたそ」。「ものそのかずにてはさふらはねども、武蔵のくにの住人、熊谷のじらうなほざね」となのりまうす。「さてはなんぢがためにはよいかたきぞ。なのらずともくびをとつてひとにとへ。みしらうずるぞ」とぞのたまひける。熊谷、「あつぱれたいしやうぐんや。このひといちにんうちたてまつたりとも、まくべきいくさにかつべきやうなし。またたすけたてまつたりとも、かちいくさにまくることもよもあらじ。けさいちのたににて、わがこのこじらうがうすでおうたるをだにも、なほざねはこころぐるしくおもふに、このとの(のちち)、うたれたまひぬとききたまひて、さこそはなげきかなしみたまはんずらめ。たすけまゐらせん」とて、うしろをかへりみたりければ、とひ、梶原ごじつきばかりでいできたる。熊谷なみだをはらはらとながいて、「あれごらんさふらへ。いかにもしてたすけまゐらせんとはぞんじさふらへども、みかたのぐんびやううんかのごとくにみちみちて、よものがしまゐらせさふらはじ。あはれおなじうは、なほざねがてにかけたてまつて、のちのおんけうやうをもつかまつりさふらはん」とまうしければ、「ただなにさまにも、とうとうくびをとれ」とぞのたまひける。熊谷あまりにいとほしくて、いづくにかたなをたつべしともおぼえず、めもくれこころもきえはてて、ぜんごふかくにおぼえけれども、さてしもあるべきことならねば、なくなくくびをぞかいてげる。

「あはれゆみやとるみほどくちをしかりけることはなし。ぶげいのいへにうまれずは、なにしにただいまかかるうきめをばみるべき。なさけなうもうちたてまつたるものかな」と、そでをかほにおしあてて、さめざめとぞなきゐたる。くびをつつまんとて、よろひひたたれをといてみければ、にしきのふくろにいれられたりけるふえをぞこしにさされたる。「あないとほし、このあかつきじやうのうちにて、くわんげんしたまひつるは、このひとびとにておはしけり。たうじみかたに東国のせい、なんまんぎかあるらめども、いくさのぢんにふえもつひとはよもあらじ。じやうらふはなほもやさしかりけるものを」とて、これをとつてたいしやうぐんのおんげんざんにいれたりければ、みるひとなみだをながしけり。のちにきけば、しゆりのだいぶつねもりのおとご、たいふ敦盛とて、しやうねんじふしちにぞなられける。それよりしてこそ、熊谷がほつしんのこころはいできにけれ。くだんのふえは、おほぢ忠盛、ふえのじやうずにて、とばの院よりくだしたまはられたりしを、つねもりさうでんせられたりしを、敦盛ふえのきりやうたるによつて、もたれたりけるとかや。なをばさえだとぞまうしける。きやうげんきぎよのことわりといひながら、つひにさんぶつじようのいんとなるこそあはれなれ。
 
 

17 知章最期(はまいくさ又はともあきらのさいご)

門脇殿の末子、蔵人大夫業盛は、常陸国住人、ひぢやのごらうしげゆきとくんでうたれたまひぬ。くわうごぐうのすけつねまさは、武蔵国住人、河越小太郎重房が手にとりこめたてまつて、つひにうちたてまつる。をはりのかみきよさだ、あはぢのかみきよふさ、わかさのかみつねとし、さんぎつれてかたきのなかへわつていり、さんざんにたたかひ、ぶんどりあまたして、いつしよでうちじにしてげり。しん中納言知盛のきやうは、いくたのもりのたいしやうぐんにておはしけるが、そのせいみなおちうせうたれにしかば、おんこ武蔵のかみともあきら、侍にけんもつたらうよりかた、主従さんぎみぎはのかたへおちたまふところに、ここにこだまたうとおぼしくて、うちはのはたさしたるものどもがじつきばかり、むちあぶみをあはせておしかけたてまつる。けんもつたらうは、くつきやうのゆみのじやうずなりければ、とつてかへし、まづまつさきにすすんだるはたさしがくびのほねを、ひやうつばといて、むまよりさかさまにいおとす。そのなかのたいしやうとおぼしきもの、しん中納言にくみたてまつらんとてはせならぶるところに、おんこ武蔵のかみともあきら、ちちをうたせじと、なかにへだたり、おしならべ、むずとくんで、どうどおち、とつておさへてくびをかき、たちあがらんとしたまふところに、かたきがわらはおちあはせて、武蔵のかみのくびをとる。

けんもつたらうおちかさなり、武蔵のかみうちたてまつたりけるかたきのわらはをもうちてげり。そののちやだねのあるほどいつくし、うちものぬいてたたかひけるが、ゆんでのひざぐちをしたたかにいさせ、たちもあがらでゐながらうちじにしてげり。このまぎれにしん中納言知盛のきやうは、そこをつとにげのびて、くつきやうのいきながきめいばにはのりたまひぬ。うみのおもてにじふよちやうおよがせて、おほいとののおんふねへぞまゐられける。ふねにはひとおほくとりのつて、むまたつべきやうもなかりければ、むまをばなぎさへおつかへさる。あはのみんぶしげよし、「おむまかたきのものになりさふらひなんず。いころしさふらはん」とて、かたてやはげていでければ、しん中納言、「たとひなんのものにもならばなれ、ただいまわがいのちたすけたらんずるものを。あるべうもなし」とのたまへば、ちからおよばでいざりけり。このむま、ぬしのわかれををしみつつ、しばしはふねをはなれもやらず、おきのかたへおよぎけるが、しだいにとほくなりければ、むなしきなぎさへおよぎかへり、あしたつほどにもなりしかば、なほふねのかたをかへりみて、にさんどまでこそいななきけれ。

そののちくがにあがつてやすみゐたりけるを、河越のこたらうしげふさ、とつて院へまゐらせたり。もともこのむま院のごひざうにて、いちのみむまやにたてられたりしを、ひととせむねもりこうないだいじんになつて、よろこびまうしのありしとき、くだしたまはられたりしを、おととちうなごんにあづけられたりしかば、あまりにひざうして、このむまのいのりのためにとて、まいぐわつついたちごとに、たいざんぶくんをぞまつられける。そのゆゑにやむまのいきもながう、しゆのいのちをもたすけけるこそめでたけれ。このむまもとは信濃のくにゐのうへだちにてありければ、ゐのうへぐろとぞめされける。こんどは河越がとつて院へまゐらせたりければ、河越ぐろとぞめされける。そののちしん中納言知盛のきやう、おほいとののおんまへにおはして、なみだをながい
てまうされけるは、

「武蔵のかみにもおくれさふらひぬ。けんもつたらうをもうたせさふらひぬ。いまはこころぼそうこそまかりなつてさふらへ。さればこはあつて、おやをうたせじと、かたきにくむをみながら、いかなるおやなれば、このうたるるをたすけずして、これまでのがれまゐつてさふらふやらん。あはれひとのうへならば、いかばかりもどかしうさふらふべきに、わがみのうへになりさふらへば、よういのちはをしいものにてさふらひけりと、いまこそおもひしられてさふらへ。ひとびとのおぼしめさんおんこころのうちどもこそ、はづかしうさふらへ」とて、よろひのそでをかほにおしあてて、さめざめとなかれければ、おほいとの、「まことに武蔵のかみのちちのいのちにかはられけ
るこそありがたけれ。てもきき、こころもかうにして、よきたいしやうぐんにておはしつるひとを。あのきよむねとどうねんにて、ことしはじふろくな」とて、おんこゑもんのかみのおはしけるかたをみたまひて、なみだぐみたまへば、そのざにいくらもなみゐたまへるひとびと、こころあるもこころなきも、みなよろひのそでをぞぬらされける。
 

18 落足(おちあし)

小松殿の末子、備中守師盛(もろもり)は、主従七人小舟に乗りおち給ふところに、ここに新中納言知盛の卿の侍に、せいゑもんきんながといふもの、むちあぶみをあはせてはせきたり、「あれはいかに、備中のかうとののおんふねとこそみまゐらせてさふらへ。まゐりさふらはん」とまうしければ、ふねをなぎさへさしよせたり。だいのをとこのよろひきながら、むまよりふねへかはととびのらうに、なじかはよかるべき。ふねはちひさし、くるりとふみかへしてげり。備中のかみ、うきぬしづみぬしたまふところに、畠山がらうどう、ほんだのじらうちかつね、主従じふしごき、むちあぶみをあはせてはせきたり、いそぎむまよりとんでおり、備中のかみをくまでにかけてひきあげたてまつり、つひにおんくびをぞかいてげる。しやうねんじふしさいとぞきこえし。越前のさんみみちもりのきやうは、やまのてのたいしやうぐんにておはしけるが、そのせいみなおちうせうたれ、おほぜいにおしへだてられて、おととのとのかみにはおくれたまひぬ。こころしづかにじがいせんとて、ひんがしにむかつておちゆきたまふところに、あふみのくにの住人、ささきのきむらのさぶらうなりつな、武蔵のくにの住人、たまのゐのしらうすけかげ、かれこれしちきがなかにとりこめまゐらせて、つひにうちたてまつてげり。そのときまでは、侍いちにんつきたてまつたりけれども、これもさいごのときはおちあはず。およそとうざいのきどぐち、ときうつるほどにもなりしかば、源平かずをつくしてうたれにけり。やぐらのまへ、さかもぎのしたには、じんばのししむらやまのごとし。いちのたにをざさはら、みどんのいろをひきかへて、うすくれなゐにぞなりにける。いちのたに、いくたのもり、やまのそば、うみのみぎはに、いられきられてしぬるはしらず、源氏のかたにきりかけらるるくびども、にせんよにんなり。こんどいちのたににてうたれさせたまへるむねとのひとびとには、まづ越前のさんみみちもり、おとと蔵人のたいふ業盛、薩摩守忠度、武蔵のかみともあきら、備中のかみもろもり、をはりのかみきよさだ、あはぢのかみきよふさ、つねもりのちやくしくわうごぐうのすけつねまさ、おととわかさのかみつねとし、そのおととたいふ敦盛、いじやうじふにんとぞきこえし。いくさやぶれにければ、しゆしやうをはじめまゐらせて、ひとびとみなおふねにめして、いでさせたまふこそかなしけれ。しほにひかれかぜにしたがつて、きのぢへおもむくふねもあり、あしやのおきにこぎいでて、なみにゆらるるふねもあり。あるひはすまよりあかしのうらづたひ、とまりさだめぬかぢまくら、かたしくそでもしをれつつ、おぼろにかすむはるのつき、こころをくだかぬひとぞなき。

あるひはあはぢのせとをおしわたり、ゑじまがいそにただよへば、なみぢはるかになきわたり、ともまよはせるさよちどり、これもわがみのたぐひかな。ゆくすゑいまだいづくとも、おもひさだめぬかとおぼしくて、いちのたにのおきにやすらふふねもあり。かやうにうらうらしまじまにただよへば、たがひのししやうもしりがたし。くにをしたがふること
もじふしかこく、せいのつくこともじふまんよき、みやこへちかづくこともわづかにいちにちのみちなれば、こんどはさりともとたのもしうこそおもはれつるに、いちのたにをもせめおとされて、いとどこころぼそうぞなられける。
 
 

19 小宰相身投げ(こざいしやうみなげ)

越前のさんみみちもりのきやうの侍に、くんだたきぐちときかずといふものあり。いそぎきたのかたのおふねにまゐつてまうしけるは、「きみはけさみなとがはのしもにて、かたきしちきがなかにとりこめまゐらせて、つひにうたれさせたまひてさふらひぬ。なかにもことにてをおろいてうちたてまつたりしは、あふみのくにの住人、ささきのきむらのさぶらうなりつな、武蔵のくにの住人、たまのゐのしらうすけかげとぞ、なのりまゐらせてさふらひつれ。ときかずもいつしよでうちじにつかまつり、さいごのおんともつかまつるべうさふらひつれども、かねてよりおほせさふらひしは、みちもりいかになるとも、なんぢはいのちをすつべからず。いかにもしてながらへて、おんゆくへをもたづねまゐらせよと、おほせさふらひしほどに、かひなきいのちばかりいきて、つれなうこそこれまでまゐつてさふらへ」とまうしければ、きたのかた、とかうのへんじにもおよびたまはず。ひきかづいてぞふしたまふ。いちぢやううたれたまひぬとはききたまへども、もしひがごとにてもやあるらん、いきてかへらるることもやと、にさんにちは、あからさまにいでたるひとを、まつここちしておはしけるが、しごにちもすぎしかば、もしやのたのみもよわりはてて、いとどこころぼそくぞなられける。

ただいちにんつきたてまつりたりけるめのとのにようばうも、おなじまくらにふししづみにけり。かくとききたまひしなぬかのひのくれほどより、じふさんにちのよまでは、おきもあがりたまはず。あくればじふしにち、八島へおしわたるよひうちすぐるまでは、ふしたまひたりけるが、ふけゆくままに、ふねのうちしづまりければ、めのとのにようばうにのたまひけるは、「けさまでは、さんみうたれにしとはききしかども、まことともおもはでありつるが、このくれほどより、げにさもあらんとおもひさだめてあるぞとよ。そのゆゑは、みなひとごとに、みなとがはとやらんにて、さんみうたれにしとはいひしかども、そののち、いきてあうたりといふものいちにんもなし。

あすうちいでんとてのよ、あからさまなるところにて、ゆきあひたりしかば、いつよりもこころぼそげにうちなげいて、『みやうにちのいくさには、かならずうたれんとおぼゆるはとよ。われいかにもなりなんのち、ひとはいかがはしたまふべき』などいひしかども、いくさはいつものことなれば、いちぢやうさるべしともおもはでありつることこそかなしけ
れ。それをかぎりとだにおもはましかば、などのちのよとちぎらざりけんと、おもふさへこそかなしけれ。ただならずなりたることをも、ひごろはかくしていはざりしかども、あまりにこころぶかうおもはれじとて、いひいだしたりしかば、なのめならずうれしげにて、『みちもりさんじふになるまで、こといふものもなかりつるに、あはれおなじうはなんしにてもあれかし。うきよのわすれがたみにもとおもひおくばかりなり。さていくつきにかなるらん、ここちはいかがあるらん。いつとなきなみのうへ、ふねのうちのすまひなれば、しづかにみみとならんとき、いかがはしたまふべき』などいひしは、はかなかりけるかねごとかな。まことやらん、をんなはさやうのとき、とをにここのつはかならずしぬるな
れば、はぢがましう、うたてきめをみて、むなしうならんもこころうし。しずかにみみとなつてのち、をさなきものをそだてて、なきひとのかたみにもみばやとはおもへども、それをみんたびごとには、むかしのひとのみこひしくて、おもひのかずはまさるとも、なぐさむことはよもあらじ。つひにはのがるまじきみちなり。もしふしぎにこのよをしのびすごすとも、こころにまかせぬよのならひは、おもはぬほかのふしぎもあるぞとよ。それもおもへばこころうし。まどろめばゆめにみえ、さむればおもかげにたつぞとよ。

いきてゐて、とにかくにひとをこひしとおもはんより、みづのそこへもいらばやと、おもひさだめてあるぞとよ。そこにいちにんとどまつて、なげかんずることこそこころぐるしけれども、わらはがしやうぞくのあるをばとつて、いかならんそうにもたてまつり、なきひとのごぼだいをもとぶらひまゐらせ、わらはがごしやうをもたすけたまへ。かきおきたるふみをばみやこへつたへてたべ」など、こまごまとのたまへば、めのとのにようばう、なみだをおさへて、「いとけなきこをもふりすて、おいたるおやをもとどめおき、はるばるとこれまでつきまゐらせてさぶらふこころざしをば、いかばかりとかおぼしめされさぶらふらん。こんどいちのたににてうたれさせたまふごいつけのきんだちたちのきたのかたのおんなげき、いづれかおろかにおぼしめされさぶらふべき。かならずひとつはちすへとおぼしめされさぶらふとも、しやうかはらせたまひなんのち、ろくだうししやうのあひだにて、いづれのみちへかおもむかせたまはんずらん。

ゆきあはせたまはんこともふぢやうなれば、おんみをなげてもよしなきおんことなり。しづかにみみとならせたまひて、いかならんいはきのはざまにても、をさなきひとをそだてまゐらせ、おんさまをかへ、ほとけのみなをとなへて、なきひとのごぼだいをとぶらひまゐらせたまへかし。そのうへみやこのおんことをば、たれみつぎまゐらせよとて、かやうにはおほせられさぶらふやらん。うらめしうもうけたまはりさぶらふものかな」とて、さめざめとかきくどきければ、きたのかた、このことあしうもしらせなんとやおもはれけん、「これはこころにかはつても、おしはかりたまふべし。おほかたのよのうらめしさ、ひとのわかれのかなしさにも、みをなげんなどいふは、つねのならひなり。されどもさやうのことは、ありがたきためしぞかし。まことにおもひたつことあらば、そこにしらせずしてはあるまじきぞ。いまはよもふけぬ。いざやねん」とのたまへば、めのとのにようばう、このしごにちはゆみづをだに、はかばかしうごらんじいれさせたまはぬひとの、かやうにこまごまとおほせらるるは、まことにおぼしめしたつこともやとかなしうて、「およそはみやこのおんことも、さるおんことにてさぶらへども、げにおぼしめしたつことならば、わらはをもちひろのそこまでも、ひきこそぐせさせたまはめ。

おくれまゐらせなんのち、さらにかたときながらふべしともおぼえぬものかな」とまうして、おんそばにありながら、ちとうちまどろみたりけるひまに、きたのかたやはらふなばたへおきいでたまひて、まんまんたるかいしやうなれば、いづちをにしとはしらねども、つきのいるさのやまのはを、そなたのそらとやおぼしけん、しづかにねんぶつしたまへば、おきのしらすになくちどり、あまのとわたるかぢのおと、をりからあはれやまさりけん、しのびごゑにねんぶつひやくぺんばかりとなへさせたまひつつ、「なむさいはうごくらくせかいのけうじゆ、みだによらい、ほんぐわんあやまたず、あかでわかれしいもせのなからひ、かならずひとつはちすに」と、なくなくはるかにかきくどき、なむととなふるこゑともに、うみにぞしづみたまひける。いちのたにより八島へおしわたらんとての、やはんばかりのことなりければ、ふねのうちしづまつて、ひとこれをしらざりけり。そのなかにかんどりのいちにんねざりけるが、このよしをみたてまつて、「あれはいかに。あのおんふねより、にようばうのうみへいらせたまひぬるは」とよばはつたりければ、めのとのにようばううちおどろき、そばをさぐれどもおはせざりければ、ただ「あれよあれよ」とぞあきれける。ひとあまたおりて、とりあげたてまつらんとしけれども、さらぬだに、はるのよは、ならひにかすむものなれば、よものむらくもうかれきて、かづけどもかづけども、つきおぼろにてみえたまはず。

はるかにほどへてのち、とりあげたてまつりたりけれども、はやこのよになきひととなりたまひぬ。しろきはかまに、ねりぬきのふたつぎぬをきたまへり。かみもはかまもしほ
たれて、とりあげけれどもかひぞなき。めのとのにようばう、てにてをとりくみ、かほにかほをおしあてて、「などやこれほどにおぼしめしたつことならば、わらはをもちひろのそこまでも、ひきこそぐせさせたまふべけれ。うらめしうもただいちにんとどめさせたまふものかな。さるにても、いまいちどものおほせられて、わらはにきかさせたまへ」とて、もだえこがれけれども、はやこのよになきひととなりたまひぬるうへは、いちごんのへんじにもおよびたまはず。わづかにかよひつるいきも、はやたてはてぬ。さるほどにはるのよのつきも、くもゐにかたぶき、かすめるそらもあけゆけば、なごりはつきせずおもへども、さてしもあるべきことならねば、うきもやあがりたまふと、こさんみどののきせながのいちりやうのこつたるを、ひきまとひたてまつり、つひにうみにぞしづめける。めのとのにようばう、こんどはおくれたてまつらじと、つづいてうみにいらんとしけるを、ひとびととりとどめければ、ちからおよばず。せめてのこころのあられずさにや、てづからかみをはさみおろし、こさんみどののおんおとと、ちうなごんのりつし、ちうくわいにそらせたてまつり、なくなくかいをたもつて、しゆのごせをぞとぶらひける。むかしよりをとこにおくるるたぐひおほしといへども、さまをかふるはつねのならひ、みをなぐるまではありがたきためしなり。

さればちうしんはじくんにつかへず、ていぢよはじふにまみえずとも、かやうのことをやまうすべき。このにようばうとまうすは、とうのぎやうぶきやうのりかたのむすめ、きんちういちのびじん、なをばこざいしやうどのとぞまうしける。じやうせいもん院のにようばうなり。このにようばうじふろくとまうししあんげんのはるのころ、によ院ほつしようじへはなみのごかうのありしに、みちもりのきやう、そのころは、いまだちうぐうのすけにてぐぶせられたりけるが、みそめたりしにようばうなり。はじめはうたをよみ、ふみをつくされけれども、たまづさのかずのみつもつて、とりいれたまふこともなし。すでにみとせになりしかば、みちもりのきやう、いまをかぎりのふみをかいて、こざいしやうどののもとへつかはす。あまつさへとりつたへけるにようばうにだにあはずして、つかひむなしうかへりけるみちにて、折節こざいしやうどのは、さとより御所へぞまゐられける。つかひむなしうかへりまゐらんことのほいなさに、そばをつとはしりとほるやうにて、こざいしやうどのののりたまへるくるまのすだれのうちへ、みちもりのきやうのふみをぞなげいれたる。とものものどもにとひたまへば、「しらず」とまうす。さてかのふみをあけてみたまへば、みちもりのきやうのふみなりけり。

くるまにおくべきやうもなし。おほぢにすてんもさすがにて、はかまのこしにはさみつつ、御所へぞまゐりたまひける。さてみやづかへたまひしほどに、ところしもこそおほけれ、ごぜんにふみをおとされたり。によう院これをとらせおはしまし、いそぎぎよいのたもとにひきかくさせたまひて、「めづらしきものをこそもとめたれ。このぬしはたれなるらん」とおほせければ、御所ぢうのにようばうたち、よろづのかみほとけにかけて、「しらず」とのみぞまうしける。そのなかにこざいしやうどのばかりかほうちあかめて、つやつやものもまうされず。によう院も、ないないみちもりのきやうのまうすとはしろしめされたりければ、さてこのふみをあけてごらんずれば、きろのけぶりのにほひことにふかきに、ふでのたてどもよのつねならず。「あまりにひとのこころづよきも、いまはなかなかうれしくて」など、こまごまとかいて、おくにはいつしゆのうたぞありける。

わがこひはほそたにがはのまろきばしふみかへされてぬるるそでかな W071

によう院、「これはあはぬをうらみたるふみや。あまりひとのこころづよきも、なかなかいまはあたとなんなるものを。なかごろをののこまちとて、みめかたちうつくしう、なさけのみちありがたかりしかば、みるひときくもの、きもたましひをいたましめずといふことなし。されどもこころづよきなをやとりたりけん、はてにはひとのおもひのつもりとて、かぜをふせぐたよりもなく、あめをもらさぬわざもなし。やどにくもらぬつきほしは、なみだにうかび、のべのわかな、さはのねぜりをつみてこそ、つゆのいのちをばすごしけれ」。によう院、「これはいかにもへんじあるべきことぞ」とて、おんすずりめしよせて、かたじけなくもみづからおんぺんじあそばされけり。

ただたのめほそたにがはのまろきばしふみかへしてはおちざらめやは W072

むねのうちのおもひは、ふじのけぶりにあらはれ、そでのうへのなみだは、きよみがせきのなみなれや。みめはさいはひのはななれば、さんみこのにようばうをたまはつて、たがひのこころざしあさからず。さればさいかいのなみのうへ、ふねのうちまでもひきぐして、つひにおなじみちへぞおもむかれける。かどわきのちうなごんは、ちやくし越前のさんみ、ばつし業盛にもおくれたまひぬ。いまたのみたまへるひととては、のとのかみ教経、そうにはちうなごんのりつしちうくわいばかりなり。こさんみどののかたみとも、このにようばうをこそみたまふべきに、それさへかやうになりたまへば、いとどこころぼそうぞなられける。
 
 
 
 

巻第九 了



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2000.11.20
2001.10.07Hsato

原テキスト作成 荒山慶一氏

荒山氏のURLは以下の所にある。

平家物語協会(Heike Academy International)
http://www.cometweb.ne.jp/ara/

佐藤弘弥一部改変中