個性の時代に逆行する
平泉「平準化」の道


 
 
 
巷では、「個性の時代」、「地方の時代」と言われて久しい。行政も、「地方自治」、「地方の個性の重視」と口では、異口同音に掲げながら、実際に行われていることは、全国統一規格品のような没個性の道路を造り橋を造ることに終始しているようにしか見えない。つまりは全国画一的な風土や景観が出来上がって、どこに行っても同じような町が、同じような看板を掲げて軒を連ねているという風である。

平泉という東北にある小さな田舎町も、今その画一化の波に洗われている。もしもこの町が、他の町のようにさほどの歴史も文化も持たない普通の町であったならば、そのまま全国画一化の波がこの町全体を、覆って、まったく没個性の普通の町にいとも容易く変えてしまったに違いない。

ところがそうはいかなかった。1981年、かつての政庁「柳の御所」の上を規格品の平泉バイパスが通るという計画が持ち上がると、そこからかつての栄華を偲ばせる土器やらカワラケが続々と出土するに当たって、内外からバイパスに対して批判の声が上り、あっという間に20万人もの署名が集まったのである。そして日本文化史上の第一級の史跡を守ろうという声は、ついにこの計画の変更を余儀なくさせたのであった。

柳の御所の発掘から、平泉の都市の全体像が徐々に明らかとなっていった。それまで平泉という中世都市は、単なる京都の模倣文化ではないかとの不当に低い評価を受けていた。実に皮肉なことではあるが、公共工事(平泉バイパス計画)の前提となった発掘調査が、平泉の稀少性あるいは個性というものを発見したことになる。

考古学という新たな実証的な光りが当てられ、それまで文献史料からばかりなされていた平泉のという中世都市が、突如として金色堂のように輝きはじめたのであった。そして京都の模倣都市というような単純すぎる形容から、かつての日本のどの都市とも違う極めて個性的な文化都市平泉像が、こうしている間にもどんどんと浮かび上がってきているのである。

きっと中尊寺供養願文に清衡公の思いが散りばめられているように、その願文には単にその草稿や能筆家ばかりではなく、実際の平泉建都にあたっては当時最先端の都市プランナーあるいはデザイナーの如き人物が、平泉に幾人も駆り集められたことと想像される。

初代清衡から三代秀衡に引き継がれた100年の栄華は、まるで今、中尊寺の大池の夏を彩る蓮のように儚くも美しい花そのものだ。その滅びから800年以上の時を経た今でも、かつて京都に次ぐような黄金に彩られた都市をこしらえたという誇りは、この町あるいはこの町の周辺に住む人々の誇りであり、もちろんこのように書く私の中にも、明確なアイデンティティーとして魂の中心にあって、私自身を突き動かす原動力となっているのである。平泉バイパスは、平泉を没個性な町にしてしまう悲しい計画である。心ある人は、この計画が、平泉という掛け替えのない歴史と文化の町をどのように変貌させ、その計画の結果形成される町とその景観の変貌が、未来においてどのような評価を受けるかをも視野において、明確な意志決定をすべきであると思う。

個性化の時代に何故か平準化、平泉らしさ何処にありや

佐藤
 

 


2002.9.13
 

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