犯罪国家と化した日本

−犯罪国家日本の処方箋−


最近の日本は、どう考えても、凶悪事件が多すぎる。ひと頃、アメリカ社会の暴力的な傾向を、「日本はその点平和な国だ」という声が強かったが、今や、日本は暴力と犯罪の蔓延するひどい国となった。アメリカの事に言っているうちに、いつの間にか、日本は、アメリカ以上の無法国家に脱落してしまったのである。

「東京とニューヨークを比べた場合、むしろニューヨークの方が安全な気がする」と、ニューヨークから帰ったばかりの知人が言った。これは旅行者の実感として、分かるようなような気がする。

何故こうなったのだろう。道徳教育の問題、警察の問題など様々な要素が、この日本の犯罪社会化の背後に在りそうだ。ただその場合、ひとつの問題が、原因というのではなく、日本社会全体の構造的な問題が複雑に絡み合って、日本という犯罪国家を形成しているように見える。

考えてみれば、戦後、日本は軍国主義的な感覚を一夜にして捨て去って、アメリカの民主主義を唯一のスタンダードとして、社会の隅々に移植した。古来より日本という国家は、常に異文化を日本化して取り込んできたと言われているが、今回も、また異質な文化であったアメリカの民主主義と合理精神を大戦の敗北を号令として取り込んできたのであった。

そしてそれこそ、昭和20年から30年代、日本人はしゃにむに働いた。家族も犠牲にとにかく、「お国のために」を「会社のために」と言い換えて、滅私奉公に務めた。その結果もたらされたのが、奇跡と言われた経済復興だった。世界の中で、粗悪品の代名詞だった「メイド・イン・ジャパン」は、いつの間にか、高級品のイメージに変わった。ソニーやホンダが世界に羽ばたき、世界的なメーカーとなる企業まで現れた。

日本人は、そこで有頂天になった。輸出でたまった外貨は、サラリーとして個人手元に行き、勤勉なだけで貧しかった日本人は、そのお金をアリの如く貯蓄した。その結果、日本の銀行は、資金量においては、いつの間にか世界の大銀行と肩を並べるまでに巨大化した。

そこで日本人の慢心は、エスカレートし、日本人も当の銀行家も、その急成長が、自分の力であると錯覚した。また政治家や官僚達は、自分たちの書いたシナリオが功を奏したのだ、と自画自賛した。

日本的資本主義の特徴は、中央集権的な国家システムにあった。これを見たソ連(現ロシア)の官僚は、「日本は社会主義的な国家で、我々もこのような国家システムを目指したい」と語ったことがある。

確かに日本の戦後を支えたシステムは、政治家と中央官庁を中心とした中央集権的な社会システムであった。そこで大事なことは、官僚がシナリオを書き、民はその通りに動くこと、これが日本の社会システムの特徴であった。

これが金融の面では「護送船団方式」と呼ばれ、丁度旧日本海軍の如く、巨大戦艦を中心として、隊列を組み、みな同じ方向に向かって大海原(金融市場)を進んで行くのである。そこでは個性はわがままとして映り、当然認められない。

皮肉を込めて言えば没個性で群れたがる日本人にはぴったりのシステムだったかもしれない。しかしある時を期に、このやり方は、まったく機能しなくなっていく。いやそれどころか、90年代の不動産バブルの崩壊を契機として、このシステムが足かせとなり、日本社会の構造改革の構想は遅々として進んでいない。

日本社会とアメリカ社会の違いは、個性に対する考え方の違いが最も大きい。つまり個性重視のアメリカは、他民族を抱えるが故に様々な考え方が存在することを前提として物事を考える。それが多様性としてアメリカの強みともなっている。

一方日本は、同じ方向ばかり見ているものだから、一人がこければ皆こけてしまう。不動産投資に酔い結局それが、バブルだったと分かった時、日本企業は、多様な考え方を出来なかったが故に、致命的とも言える深いキズを負ってしまったのである。今日それから10年を経ても立ち直れないのは、個性とか多様性を重視するアメリカの社会システムの哲学を理解しないまま行った文化移植の付けがまわって来ているということになるのである。

先頃、沖縄のアメリカ軍のトップがEメール上で沖縄の知事について「馬鹿で弱虫」と酷評したことが、問題になっているが、この認識は、ある意味では一般的なアメリカ人の「現代の日本人に対する見方と認識」に近いものがあるように思う。

もちろんこの言葉を弁護するつもりはないが、我々は、もうアメリカという社会の持つ多様性というキーワードを手がかりとして、学ぶ必要があるのではないか、と思うのである。

その上で、我々日本人の英知を結集し、「日本という国家をどのようにするか」という、基本的な問題から、考え直す時がきているのである。つまり犯罪の蔓延をひとつ取り上げるのでなく、日本をどのような国にしていくのか。という根元的な部分から、始めなければならないと思うのである。

考えても見よう。今日も国会で論戦が続けられているが、その飛び交う言葉の何と不毛で空しいことか。本当にトップに就くべき人間は、総理大臣となれない日本という国家は、真の意味での民主国家ではない。こんな単純な問いかけをしてみても、日本人が、犯罪に走りたくなる気持ちになっても不思議なことではない。

今の犯罪社会の根源には、日本人の諦めから来るある種のニヒリズムとフラストレーションが横たわっているのかもしれない。確かに一生懸命に働いても、アメリカのように「アメリカン・ドリーム」があるわけではない。どうにもならない諦めのムードが、今の日本には蔓延しているのだ。そのことが、犯罪の増加を助長していることは、事実であろう。

だからこの犯罪社会を、撲滅する最良の処方箋は、この日本に住む日本人が、自分の意志で、政府に働きかけ、それが実現し、悪いことは悪いと罰せられ、良いことをすれば褒められる、そんなシンプルな国家に作りかえる以外にはないのである。

もちろん歴史を見れば、いつの時代にも、犯罪者がいた。しかし今の日本ほど、教育が行き届いた、しかも飢えのない社会で、これほどの犯罪が起こるのは、社会的な不安が個人の不安として形を変えて、心の不安として反映している為である。

今こそ智恵を結集し、日本という国の在り方に対する基本的なデザインを見直す時であると思う。佐藤
 


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2001.2.9