ハンセン病裁判に思う

隔離の思想と差別


 
さる5月11日熊本地裁において、ハンセン病回復者が、国(厚生省)などを相手取って訴えていた”「らい予防法」違憲国家賠償請求事件”の 判決が出た。結論は被告側の全面勝訴であった。今回の裁判は、この間の差別と人権無視の実態を明らかにすると同時に、国(厚生省)の責任と、立法を担う国会議員の責任を問う、形で提起されたものである。

恥ずかしい話だが、つい最近まで、ハンセン病に罹った人々が、日本という社会の中で、置かれた立場というものの真実の姿を知らなかった。私が日本におけるハンセン病患者の人たちの厳しい現実を知ったのはつい一年ほど前に見たテレビだったと思う。そこで私が見たものは、収容所のような施設に入所させられ、隔離されている患者の苦しみそのものであった。ハンセン病は、らい菌によって引き起される慢性の感染症のことである。らい腫型のタイプと類結核型のタイプのふたつ病型がある。前者の特徴は、顔や手足に褐色のらい腫が発生し、それが崩れて特異な容貌になる。また毛髪や眉毛などが抜け落ちるなどの症状もある。後者の場合は、皮膚に赤色斑を生じて知覚麻痺を伴うタイプである。

この病気は、古代から在った病気らしく、映画「ベンハー」でも、主人公の母と妹が、この病気に罹り、一般の社会から離れた洞窟に人目を避ける形で隔離された設定になっていたのを思い出す。

日本においてこの病気に対しは、1907年(明治40年)「らい予防に関する件」という法律が成立したのが最初だった。但しこれは、日本人の患者の人権や利益を守るための法律ではなく、ちまたを放浪する患者の姿を「日本の恥」とする基本的な考え方で成立した法律でしかなかった。

続いて1931年(昭和6年)に「らい予防法」が成立した。この法律は、当時の国家主義的思想に基づき、日本民族の優秀性を維持する(?)という民族浄化的な色彩の強い法律である。これによって、患者の人権はことごとく踏みにじられて行くことになる。この法律の背景にある隔離の思想は、一世紀近くに渡り継続されてきたハンセン病患者差別の根本にある思想である。しかも特効薬プロミンが1943年(昭和18年)開発され、第二次大戦後、民主化した日本社会において、1953年(しょうわ28年)らい予防法は一部改定されたにも拘わらず、ハンセン病患者隔離の思想は見直されなかったのである。

この病気と認定された者は、国立療養所という名の強制収容所に隔離され、極めて感染力の弱い感染症でありながら、患者同士で結婚する、場合でも、断種を前提にしてしか、それは認められなかった。また隔離された患者は、故郷に帰ることは、憚れる状況となり、地域では、その患者が発生した家のことを「らいの家系」などと陰口を云い、差別され、患者の身内の結婚の生涯になるなどの差別意識が助長されたのである。つまりこのハンセン病になった瞬間から、日本国民としての権利そのものが奪われたような状況があったのである。

問題は、この病気の本質がどのようなものかという正しい認識がなされない間に、どんどんとこの病気の特異な患者の容貌に対する恐怖心があおられ、やがてそれが社会のタブーとして語られなくなっていったことにある。それが語られる時には、「自分がなったらどうしよう」とか「あそこの家の何番目が、らいに罹って、連れて行かれた」とか云う話に終始してしまうのである。こうなるとますます地縁社会である田舎では、タブー化が図られ、小声でしか語られない話になってしまったのである。

テレビで、七十歳を過ぎた患者が、このような話を語っていた。「若い頃、東北の片田舎の実家に帰るのに、昼間では目立つので、夜こっそり、足を運んだ。そこでは父が居て、何故、帰ってきた。早く出ていってくれ、と云われた。当時は恨みもしたし、ショックだったが、今この歳になってみると、父の気持ちもよく分かるようになった」と。

らい予防法は、戦後も廃棄されずに1996年(平成8年)まで、続いた。つまりハンセン病患者に対する人権抑圧と差別は、1906年以来90年間続いたことになる。何故、第二次大戦後、直ちにこの法律が廃棄されなかったかと云えば、それはこの法律の背景にあるハンセン病そのものが、日本社会の中で、ある種の社会的タブーとして、語られなくなっていたことに起因していることは明白である。

今日では、1943年(昭和18年)年に特効薬プロミンが開発されて以来、以後ハンセン病気は速やかに治癒する病気となった。それによって、治癒したにも関わらず、現在でも全国13箇所の国立療養所に約4,700人のハンセン病回復者が生活していると云われている。その平均年齢は、およそ74歳。また全国の国立療養所には、心ならずも激しい差別にさらされたまま逝った2万3千柱のハンセン病患者の遺骨が、故郷に帰ることを拒絶したまま放置されている。これまでの人権差別を国が償うとしても、高齢となったハンセン病回復者の人たちの心の傷は簡単に癒えるものではない。国(厚生省)は速やかにこの裁判を受け入れるべきである。そして今後二度とこのような形での差別が発生しないよう万全の対策を講じるべきである。

本当に怖いのは、ハンセン病ではなく、ハンセン病を正しく認識することなく、小声でしか語られなくなっていった「社会的タブーとしてのらいの恐怖」である。このことを日本人は、歴史的真実として肝に銘ずるべきだ。佐藤
 


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2001.5.14