頼朝に学べ・Mr ジョージ・ブッシュ

−3月18日のブッシュ声明に思う−


2003年3月18日(現地時間3月17日)のブッシュ米大統領のイラクへの最後通牒とも言える声明を聞きながら、ふと「吾妻鏡」の文治五年6月30日の段が思い出された。

この時、源頼朝は、目の上のタンコブとも言える弟義経の首実検を6月13日に終えて、いよいよ奥州を我が手に収める時とばかりに決意を固めていた。ところが京都の朝廷から奥州征伐の色よい返事を貰えずにやきもきしていた。京都の朝廷からすれば、これで奥州まで、鎌倉にいる頼朝に牛耳られることになれば、権力機構そのものが、鎌倉に移行しかねないと苦渋していたのである。だから、これまでも奥州藤原氏を鎌倉の頼朝の政権を背後から抑えて置く勢力として存続してもらうことを望んでいた。秀衡、義経亡き後の奥州と言えども、その基本的な政策は変わらなかった。少なくても頼朝自身が、「日本一の大天狗」と表した後白河院は、そのように考えていたはずだ。

そんな6月30日。故実に長けた頼朝の臣下である大庭景能という者が、頼朝にこのように進言した。

戦というものは、将軍の命令を聞くものであって、必ずしも天皇の命令を待つ必要はありません。既に状況はお伝えしているのですから、その御返事を待つまでもありません。しかも奥州の泰衡は、源家代々のご家人の跡目を継ぐ者ではありませんか。天皇からのご命令がなくても、自身の部下に罰を加えることを遠慮されることなどありましょうか。このままでは、日本中から集まった者たちが、どうしたことだろうと、思ってしまうます。躊躇なさらず奥州に向けて出立すべきだと思います。・・・」(訳佐藤)

こうして、日本中から集められた27万に及ぶ鎌倉勢は、奥州に向けて大進軍を開始したのであった。しかしここには重大な事実誤認がある。そもそも奥州藤原氏は、源家の代々の家臣であるか、どうか、という問題がある。確かに初代藤原清衡は、源義家の力添えがあって、平泉に奥州の頭領の座に就けた。しかしそこには主従の関係はない。藤原秀郷の流れを酌む清衡が、源家の家臣になった事実はもない。だから大庭某の発言は、事実誤認も甚だしい。おそらく頼朝も、その誤認を知らなかった訳ではなかろう。おそらく後白河院が、最終的に奥州を亡ぼした暁には、既成事実として、自分の主張に対して、反論してこないだろうという自信があって、このような強引な家来の大庭景能の言い分を聞き入れたのである。

冷静に考えれば、鎌倉勢が、武家の時代になりつつある過程で、優位にいたのである。すでに政治権力は、この時点で京都から鎌倉に移っていたということにもなる。頼朝からすれば、「朝廷や公家たちは、もう黙っていろ。おまえ達は、私を認めざるを得ないのだ」と腹では考えていたはずだ。ただそれを京都側に追認させるだけのことである。

さてこのことを現代に当てはめると、ブッシュは、武力を背景にする頼朝に擬せられる。それに対し京都の公家と朝廷たちは、国連ということになる。もちろん異論は承知の上である。あくまでもこれは私の考えである。

今後ブッシュ率いるアメリカは、どうなるのか。力に頼るブッシュが、このままアメリカを、国連をないがしろにしたまま、世界(国連)をその有り余る武力によって、押さえ込んで、思いのままにしようとするのだろうか。私はどうしてもそうは思えない。不自然で道理に合わぬ策が、永く続いた例しはない。

頼朝の場合はどうであったか。あっさり奥州を平らげて、自分の思い通りに権力を握り、征夷大将軍の名を拝命した頼朝だったが、その末路は哀れだった。これから10年後には、原因不明の急病によって死んでしまう。一般には、馬から落ちて死んだということになっているが、一説によれば、ある橋の落成式において、義経の亡霊が現れて馬が暴れ出し、川に入り、しこたま水を呑んだという噂すらある。果ては、自分の後がまの頼家、実朝は、陰謀の匂いの濃い事件に巻き込まれて相次いで非業の死を遂げる。こうして源氏の血流は途絶えたのである。まだ遅くないブッシュ大統領も、頼朝の生涯を反面教師として歴史から謙虚に学ぶべきであろう・・・。
 
佐藤
 

 


2003.3.17
 

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