アテネオリンピックに観るアテネの自然



 

アテネオリンピックを観戦しながら、アテネの自然を美しいと感じる人と思ったより緑が少ないと感じる人がいるはずだ。私は間違いなく後者だ。

以前、ギリシャを訪れた私は、ギリシャ神話に登場する神々の山々のほとんどが禿げ山であることに気づいてあ然とした。実はアテネも含めギリシャは、緑の山々が悠然と聳える森林地帯であったという。しかしいつの間にか、森林が切り倒され、大理石の採掘などが進められて、現在のような見るも無惨な姿を曝すことになった。

要は文明化の波によって、ギリシャの風景は一変してしまったのである。森林が無くなれば、当然山肌は雨によって洗い流されてしまう。そうすれば雲煙が湧き出る日本の山々のような景色にはならない。したがって我々が通常深い考えもなくイメージするギリシャの景色とは、文明による自然破壊がもたらした負の遺産を美しいと感じているに過ぎない。あの白い岩盤の上に、低い植物しか生存し得なくなったのは、木を切りすぎたことによる弊害なのである。聞くところによれば、今回のアテネオリンピックが始まってから、まだ一度も雨が降っていないということだ。

私がギリシャを訪れた時(6月中旬)にも、まったく雨らしい雨は降らずにカラカラの状態だった。だからとても昼間は積極的に何かをする気にはなれない。夕方なって、幾分涼しくなって、動き出すような状況だった。

さて、ギリシャの文明は、西洋文明の原点であると云われる。ギリシャ文明の流れを厳密に辿れば、それはエジプトの石の文明を受け継いで発展した当時の地方文化に過ぎなかった。それが大きく栄えた理由は、様々あろうが、やはり海上交易による都市国家の発展を上げないわけにはいかない。そこで発展した人間主義(民主主義)と哲学は、確かに今日の西洋文明の基盤をなす文明となった。

しかしこの西洋文明には、自ずと限界というものがあった。その限界とは、極限に解釈された人間至上主義的なギリシャ哲学であったと思われる。それは結局、今日の西洋人の自然観にも受け継がれていると思うのだが、極限すれば、自然は人間の文明に従うべきものというおごり高ぶった考え方である。

一方、日本も含む東洋の考えでは、人間はそもそも自然の一部であり、木一本にも、木霊と称する神が宿るのだから、その地に根付いた木を切り倒すことには躊躇が生まれる。古来、日本の社などには必ず大木があり、その木は神木とされ、崇められてきた。東洋では、木を伐る行為は、神からその肉体を一時借用するような行為である。

ところが西洋文明にとって、木は木に過ぎない。これは岩でも、石でも同じである。自然は神によって人間に与えられたもの(環境)という意識がどこかにある。この考え方がギリシャの思考にはあり、それがそのまま西洋文明の限界に通じていると考えられる。しかし明治以降、西洋化を国是としたた日本人もいつしか、西洋流の自然観に染まってきて、自然を大切にしない風潮が、この100年以上に渡って日本の自然を壊し続けてきた。そして日本の緑なす山々はどんどんと伐採されているのである。

私たちの国である日本には、それでも広大な緑の自然がまだまだ残り、そこから雲が湧き雨が降る。ギリシャの禿げ山に近い白っちゃけた山々と、雲ひとつ浮いていない青い空を見る時、それが古代ギリシャ人たちが我々に無言の教訓を遺してくれたのではないかと思う。

西洋文明の限界を乗り越える知恵が、我が日本の自然には間違いなくある。それはユネスコ世界遺産となった白神山地や屋久島の自然を見れば一目瞭然である。21世紀は、日本の山々に対する畏敬の念を世界に伝え、世界中の山に緑を取り戻す運動をするべきではないだろうか。

 


2004.8.23

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