五体投地とは何か

 
 「五体投地」とは何か?

あるテレビで、聖地カイラスの風景を見させてもらった。そしたら五体投地しながら、カイラスを目指す僧侶が現れた。

五体投地。この言葉を知っている人は、いるだろうか?

それは言葉ではない。五体投地は、実践そのものであり、極限の巡礼スタイルである。同時にそれは、我々拝金主義の社会にいるものには想像もつかない荒業である。

五体投地とは、チベット仏教の僧侶達が、巡礼のため聖地に赴く時、文字通り、五体を地面に投げ出し、尺取り虫のように、大地にひれ伏しては、また立上がりながら、進んでいくことを云う。何故そんな時間の掛かる方法で、巡礼しなければならないのか。資本主義社会にいる人間にとっては、頭の周りを「?」マークがクルリクルリと周り出すような行為である。「時が命、スピードが全て」と思っている人間には、「クレイジー」としか映らないかもしれない。確かに見方によっては、呆れるほどの不合理かつ壮大な時間の浪費にしか思えない行為に違いない。

手にはグローブのような手袋をはめ、その僧侶は、自動車であれば半日で行けるような距離を何年もかけて、進んでいく。傍らには、付き添いの若い僧侶が、二人荷車を牽きながら付き添っている。聖地カイラスを目指すその僧侶は、年齢が50歳。仏に感謝を捧げながら、大地にひれ伏し、己とこの世の安寧を祈りながら、黙々と進んでいくではないか。遅い早いは問題ではない。途中で行き倒れて死んでしまうことも、もちろん覚悟の上だ。その時は、鳥葬と言って、死んだ者の死体を解体し、禿鷹に摘まれて、極楽浄土に運ばれて行く。禿鷹に己の肉体を、捧げるのも一種の功徳と考えられている。僧侶の頭上では、聖なる鳥、禿鷹が旋回して、次ぎに極楽へ召される者を今や遅しと、待っている。その景色は、荘厳と異様が入り交じった不思議な光景だった。

五体投地をするものは、元々すでに己を捨てている。生きるも死ぬも、越えた境地で進んで行く。その境地そのものが、まさに仏の境地そのものだ。その意味で、五体投地をしている僧侶自身が、生き仏なのである。仏とは、広義の意味で云えばブッタその人では、本来の自分を取り戻して、広くこの社会に、功徳を施したいと願い、そのことを実践している人のことだ。だからこの五体投地をしている僧侶を目にした人たちは、両手を合わせて、その人物に対して、ひたすら崇敬の念を抱くのである。

丁度、宗教心を無くしかけた多くの日本人が、五体投地を見て、「クレイジー」「時間の浪費」「???」と思うのとは、まさに対局である。

あなたはやがて短い一生を終えることを運命付けられた一人の人間として「五体投地」にどんな感慨を抱くだろうか?佐藤
 


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2000.6.28