柳の御所に 佇みながら・・・


ー柳の御所の変貌と御所桜ー

 2003年4月26日柳の御所跡の景観

平泉御所桜
(2003.4.26/佐藤撮影)
2003年4月の段階では、目の前に北上川が見える。しかし11月に行った時にはこの前に巨大な盛り土がなされ、更に景観は変貌してしまった。

2001年4月28日の柳の御所の景観

平泉御所桜
(2001.4.28/佐藤撮影)
二年前の4月には、旧高館橋があって、このような景色が拡がっていた。

景色がすっかり変わってしまった柳の御所跡に佇みな がら、こんな句を思い出した。

    「世の中は三日見ぬ間に桜かな

この句は、実景というよりは、世の中の移り変わりの早さを、桜の花の開花に喩えて詠んだ句のように思える。

確かに柳の御所も、「三日」ならぬ気が付いたら、高館橋もなくなってこの垂れ桜だけになってしまった。今や柳の御所は、バイパス工事の現場と成り下がって しまった。工事現場にポツンと独りでいる垂れ桜を見ながら、哀れを感じた。垂れている分、やけに寂寥感が漂っている。仮にこの垂れ桜を「御所桜」と呼ぶこ とにしよう。

「御所桜」は、平泉の里人によって、戦後に植えられたものといわれている。戦後すぐに植樹されたとすれば、あのカスリン台風(1947年9月)やアイ オン台風(1948年9月)の猛威にも耐えてきたことになる。もしかすると台風後に植えられたものかもしれないが、ともかく、柳の御所という奥州藤原三代 の政務を執った宿館の地にあって、毎年美しい花を咲かせてきたのである。

土地や樹木というものには、かつてそこに生きた者たちの想念が留まるものといわれる。だとすれば、この「御所桜」には、奥州に平和の楽土を夢想した勇者た ちの思いが宿っているはずだ。確かにこの桜の木の前に佇んでいると、何かただならぬ気配を強く感じて背筋が寒くなる。それを迷信と否定することは簡単だ。 しかし誰しもこの柳の御所や高館の地を訪れて、ここを流れる風を全身で受けていると、芭蕉(1644ー1694)の才はなくとも、自然に涙がこぼれ、歌心 をそそられてノートを取り出して何かをメモらずには居られなくなる。

 「御所桜」垂れにけりな木枯らしも心地よきとぞ御所跡に立つ

冒頭に、引用した句は、大島蓼太(おおしまりょうた:1718-1787)の句だ。彼は芭蕉を慕い続けた信濃生まれの俳人である。寛保2年(1742)、 24才の若き俳人 は、心の師芭蕉の事跡を辿りながら、奥州(平泉)を周遊した。この時の旅の印象かどうかは不明だが、彼の詩に「高舘懐古」というものがある。

高舘懐古

前後の戎衣一に治まり 平泉の盛んなるを見るに 大路に車の行あり帰あり
左右の家々は軒睦び 柱契りて いとめでたし
蟻の如くに集まれる人も 顔新しう過がてに 何方行らんもしらず
猛き武士は金鞍に跨り 嫋やかなる女房は銀簪を挿頭す
糸による柳の御所は翠に 琴の音を絶やさず
風かほる伽羅の御所には 袖を翻し裳を掲ぐ
猶四方の風色をいわば
衣の関は もろともにたたましものをと いづみ式部が離情をつくし
衣川は たもとまでこそ波はたちけれと 源重之が涙をそそぐ
衣が滝ころものさとの月の山は ながれに湧き 白山には雪の曙を思ふ
 国見山 室根山 束稲山は 花雲に聳え 稲瀬の辺りは 時鳥のいなせ鳴くなり
磐井の里は木立しぐらみ 金鶏山は暁を報じて 時守が鼓を和するに似たり
はた毛越寺堂塔の四十余 禅房五百余宇
中尊寺金色堂 経堂 吉祥堂 荒ぶる神社仏閣 山々日に映じ月に輝く
就中 琵琶の柵は義士和泉三郎の砦にして
碧流岸を打ち北上川に落て 高舘に沿うたり
源延尉に傳きたる屋敷は 衆星の北辰を回るが如く 
ここに立ちかしこに分かつ
まいて秀衡一門の栄耀さらにいうべくもあらず
口を甘んずるには鳳を裂き
燐を放る目を喜ばしむるには炎天の梅花玄冬の桜も 凡てこの時に遅れじと装う
鶴は九皐の巷に千秋を諷 亀は十符の浦に万代を寿しも たゞ今ただ
山そびえ川ながれたり秋の風

                                                                                                     大島蓼太 「蓼本句集 明和六年秋の部」

現代語に訳してみる。
     
    「高舘懐古
            (佐藤訳)

    安倍・清原の争乱治まって平 泉は黄金の都と化す
    都大路を牛車は行き来し
    彼方に続く町並みは
    軒を連ね
  柱は群をなして北へと続く

    人は蟻の如く群集いて
    行き交う人の数知れぬほど
    奥州の武者は、金の鞍の馬に跨(またが)り
    若き女たちは碧の黒髪に銀の櫛を飾る

    柳の御所からは朝に夕に琴の音が聞こえ
    北上のそよ風は伽羅御所の女たちの袖を翻して赤面を誘う

    衣の関は四方から風を受け
    旅立つ殿方を恋しい和泉式部は
    「もろともに立たましものを陸奥の衣の関をよそに聞くかな」
    (金葉和歌集964)と離れ難き思いをこの歌枕に託した

    源重之もまた
    「衣河みなれしひとのわかれにはたもとまでこそ波はたちけれ」
    (新古今集865)と辛い別れを忍んで涙を落とした

    白山には雪降る朝を思う
    国見山、室根山、束稲山は花雲に霞みて聳え立つ
    稲瀬の辺りは時鳥が甲高い声でさえずり
    磐井の里は木立が鬱そうと繁り
    金鶏山は朝の訪れを伝え 時を告げる鼓の音となる

    毛越寺の堂塔は四十余 禅房は五百余を数え
    中尊寺は金色堂、経堂、吉祥堂、荒ぶる神を祀る神社仏閣など
    山々は陽に照り映えて 月の光に浮かび上がる

    中でも琵琶の柵(注:泉が城のこと)は義士和泉三郎の砦にして
    館を巡る水は岸を打って北上川に下り高館を巡る

    源義経公の屋敷と伝えられる高館は 
    北極星の如くに凛としてここに建ちここに聳えていた
    ましてや秀衡一門の栄耀栄華は並ぶべくもなく
    食する時は大鳥をさばき
    あわれを催し目を喜ばすため
    夏に梅 冬には桜を咲かす
    鶴は九皐の咲く野辺に千年の秋を謳(うた)い
    亀は十符の水辺に万年の栄華を寿(ことほ)いでいた
    でも今はただ・・・

    山そびえ川ながれたり秋の風

大島
蓼太は、明和6年(1769)に、この詩をつくった と言われている。しかしどう見ても若い頃に書いたものを、後に発表したものと推測される。その理由は、この詩 から、通俗的な平泉のイメージあるいは歴史書の羅列以上のものを感じ取ることができないからだ。結局は、芭蕉の奥の細道の印象をベースにした凡庸な作 だ。この地に辿り着いてどうしようもなく、詩情というものをそそられて書いたものとは到底思われない。もっと言えば、「奥州に平和の楽土を夢想した勇者た ちの想念」と自己の魂の出会いが観じられないのだ。芭蕉はかつて、高館を訪れずに書いた人物の漢詩を、実感がないと批判したことがあるが、大島の作は、こ の批判と同じことが言える。

芭蕉の辿り着いた立場を首肯するのであれば、芭蕉の人生観あるいは生命観や芸術観までも共有する次元まで、句作を深めるべきであろう。明和6年といえば、 彼が高館を訪れてから27年の歳月が経っていたことになり、51歳の時の作となる。最後の「山そびえ川ながれたり秋の風」の句も、芭蕉の「夏草や」の句の 芭蕉の実感を下敷きにしたものであり、論ずるに値しない平凡なものだ。

でも私は、この大島蓼太という俳人が、凡なる才を一生懸命に奮って、芭蕉の辿った跡を追おうとしたことは、評価していいと思う。平泉高館ということで、つ い厳しい口調となった。天国の大島蓼太が聞いたならば、怒り出すかもしれない。そんな彼には、偶然だが、こんな歌もある。

  「むつとしてもどれば庭に柳かな

「むつとして」とは「むっとして」という意味だ。何に「むっとした」のかは不明だが、とにかく、むっとして、庭に出てみれば、柳が風にゆらゆらと揺れてい たという句だ。要は、自分が怒っている体を固くしているのに、庭の柳ときたら、「風に柳」の喩えにあるように、独り超然と佇んでいるというのである。どこ となく俳諧特有の滑稽味も感じるやはり面白い句である。

すると柳の御所跡に独り寂しく立っている垂れ桜が木枯らしに揺れて、どことなく柳の木のように見えた。

 蓼太の句口から洩れて御所跡は「三日見ぬ間の桜」のみ

 


2003/8/ Hsato

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