2004年5月23日
毛越寺「曲水の宴」のスケッチ
 

延年の舞「若女」の披露

曲水の宴で披露された延年の舞「若女」


延年の古き舞など観つめ居て往時の奥州あれこれ浮かぶ





5月23日、毛越寺に行く。「曲水の宴」(ごくすいのえん)を見るためである。いったいどんなものか、一度見てみたかった。
宴の開催の一時まで時間があるので、隣の観自在王院を散策する。もうすっかり舞鶴が池の藤の花は萎びている。小阿弥陀堂の後ろにポツンと佇んでいる基衡公の室の墓に頭を垂れ、観自在王院と毛越寺を隔てていたかつての車宿の道に出る。ふと毛越寺と観自在王院は、都市平泉という聖地に入るための入口に位置しているが、阿吽の意味を込めながら、雄雌一対で狛犬の役割を果たしている可能性があると感じた。歩いていくと、雅楽が流れている。時計を見れば、一時を僅かに過ぎていた。石垣の隙間から見れば、既に十二単を着た平安婦人がすでに、大泉が池を舟で渡り遣水(やりみず)の先に伸びた敷物の上を歩き始めているのが見えた。


遣水に向かう斎宮役(マドンナ)横沢裕子さん

雛巫女は水辺に伸びた真白なる毛氈の道踏みしめありく

 
慌てて、入場すると、楽人と歌人を乗せた舟が、雅楽を奏で、さざ波を立てながら大泉が池を渡たり切ろうとしていた。これが参宴者の最後の舟渡しである。私は出島と呼ばれる池の東南から、立石越しに行く舟にレンズを向け、夢中でシャッターを押した。

 来てみれば龍頭鷁首の舟出でて浄土の池を早渡らんとす
 

曲水の宴は、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の「舟渡し」から始まる

曲水の宴は、龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の「舟渡し」から始まる

借景の金鶏山を蓬莱の山と見つれば遣水は昇龍(たつ)


曲水の宴は、遣水の遺構が、83年に大泉が池の東に発見され、それを記念して86年から始まったものである。それから毎年5月の第四日曜日に催され、今年で19回目となる。曲水の宴は、古代中国の周の時代から始まったと云われる。後に日本にも伝わり、平安貴族たちの優雅な遊びとなった。見ていると、まさに平安絵巻そのものである。

その昔 蘭亭集ふ詩人(うたびと)もかくやありなむ水辺に座して

毛越寺の曲水の宴は、かつて南大門と呼ばれる地点から、参宴者を龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の二艘一対の舟に乗せ、対岸に渡す儀式で幕を開ける。その舟が目指すのは、かつて毛越寺の本堂であった金堂円隆寺の南端付近に設けられた小さき湊である。そこは遣り水が池に流れ落ち入るの直前の地域に当たる。参宴者たちは、そこから歩いて、予め遣水の辺(ほとり)に設けられた所定の席に着座する。

「龍頭鷁首」(りゅうとうげきしゅ)の舟とは、龍の頭にと鷁(げき=サギに似た姿の鳥)の首を付けた舟のことを云う。両方とも古代中国の想像上の動物だ。平安時代には、宮中や貴族の祭礼や宴の席で、二艘の舟に、楽人や舞人を乗せ管弦を奏し楽しんだと云われる。

曲水の宴を見ながらふと気づいた。それは余りにも時がゆっくりと過ぎることだ。もちろんアインシュタインの相対性理論を持ち出すまでもなく、時は常識において一定と定められている。しかしそこに人間の主観というものが入ってくると時間は四次元空間のようにくねくねとねじ曲がってくる。時は人間の感情によって伸びたり縮んだりするのなのだ。

もちろん宴を催している当の毛越寺の関係者の方々は、大変な思いでタイムスケジュールに沿って、それこそ汗だくで宴を運ばれているはずだ。でも、宴のどこにも焦った様子が感じられない。そこがとても心地よい。とかく時間を浪費し、時間の召人(めしゅうど)のようになっている現代人にとって、このゆったりと過ぎる時は、砂漠で見つけたオアシスのようにすら思える。

出島付近から、右に回るのが近いのだが、宴の日は通行止めのために、南大門から左に回って遣水のある「曲水の宴」の会場に急がざるを得ない。既に多くの人が遣水の前に集まっていて、見やすい場所がない。良い席を取るために早い人は、11時頃には、着座して待っているとのことだ。
 
 

斎宮役水辺へ着座(水辺着座の儀)
 

水辺にて十二単の斎宮を見詰めていたり媼(おうな)の視線




遣水の上流付近に行くと、少しだけ視界が開けた。丁度、主催の二人の高僧を挟んで真ん中には、今回歌人たちが詠む歌の披講をする柳原従光氏(宮中歌会始 披講会)が着座されていた。少しして白い幕が開いて、十二単(じゅうにひとえ)を着た斎宮役の婦人が二人の女官役の女性に付き添われ遣水の辺(ほとり)に静に腰を下ろした。今回の曲水の宴のマドンナ役は、地元紫波町在住の横沢裕子さんとのことだ。重さにして二十キロもあるという着物を着ていて実に大変そうだ。しかしその重みがまた雅さを演出しているのも事実だ。平安の貴婦人も体力がなければ務まらないと思った。

 遣水の辺(ほとり)に集ふ人人の前を斎宮しめやかにゆく
 
 


曲水の宴の開宴に先立ち、参宴者の衣裳の説明が流れた。アクセントが京都弁であった。おそらく、この宴を開催するまでには、考証などを含めて京都人の力添えが不可欠であったのだろう。多少の違和を覚えたが、考えてみれば、かつての平泉という都市の成り立ちが、京都の文化を発展継承するということでなされたものだ。この辺り毛越寺の「曲水の宴」も、もうひと工夫いるのではと正直に思った。これは束稲山の大文字焼きでも同じだが、単なる観光のための模倣では意味がない。いかに平泉の文化に馴染ませるかという問題は、9百年前からの文化受容際の懸案事項である。

奥州藤原氏の時代、ふたつの大寺院を抱えた宗教都市平泉は、単なる京都の擬態ではなかった。初代清衡公は、恒久平和への願いを込めて平泉という平和の都市を建設しようとした。私たちは今日、その清衡公の強い思いを「中尊寺供養願文」という古文書を通して知ることができる。この文書を一読すれば、平泉という都市に込められた清衡公の祈りの深さに触れて身震いが起こる。おそらく清衡公の心には、父(藤原経清)を亡くし、自らの妻子をも目の前で焼かれるという奥州全土を巻き込んだ長い戦の苦い思い出が根底にあり、二度とこのようなことを、生きとし生けるものに味わわせてはいけないという平和への強い意志があった。この初代清衡公の祈りこそ「平泉」が世界に誇るべき価値なのである。清衡公に限らず、今でも奥州人のDNAの中には、アザマロやアテルイの時代から大和勢力によって、故郷を戦火で焼かれ、親兄弟を殺害されたりした地獄のような記憶が眠っている。恒久平和の祈りを込めた宗教都市「平泉」の中で行われる「曲水の宴」だからこそ、できることが何かあるはずだと思った。
 

 何をもて「平泉」となむ中尊寺供養願文その問いを解く

 曲水の宴で聞きたる京訛り違和持ちながら受け入れむとす
 

南洞貫主による開宴の辞

戦争の足音聞こゆさればこそ平和祈りて本日の宴



毛越寺の南洞頼教貫主(なんどうらいきょうかんす)の「開宴の辞」に続き、女官役の女性に支えられながら十二単のマドンナ(斎宮役)がおもむろに立ち上がり、「お題は草でございます」と二度読み上げる。その瞬間、マドンナの表情がゆるんだ。ほっとしたようなとても和んだ表情を見せた。そこでこんな歌が浮かんだ。

 「草」というお題一語を語り終ゑマドンナほっと曲水の宴

斎宮役横沢さんによる「歌題披露」

 

 「草」というお題一語を語り終ゑマドンナほっと曲水の宴




次に5人の楽人によって「催馬楽」(さいばら)の演奏が始まる。曲目は季節にちなんで「衣更」(ころもがえ)だった。音楽というものは実に不思議なもので、人間の気分まで変えてしまうところがある。雅楽の音色が流れた瞬間、平安の世にタイムスリップしてしまったような気分になった。そこに、常行堂の脇に張られた白い幕の隙間から、若女(じゃくじょ)の面を着けた舞人が現れ、畳二丈ほどの白い舞台に上り、延年の舞「若女」を舞い始めた。実に優雅で深い精神性を感じた。延年の舞は、開祖円仁(慈覚大師)が、唐より伝えたとされ、開山以来、続けられてきた伝統芸能である。芸能史的にも、能以前の舞踊の原型を伝えるものと云われる。

毛越寺での「延年の舞」は、毎年正月20日夜、常行堂の常行三昧の修法の後、常行堂の内陣において結願の法楽として、常行堂の奥に鎮座する「摩多羅神」(またらじん)に奉納されてきたことで知られる。又寺院の法会の際、参集者への感謝を込め、無病息災と家内安全を祈念して行われる。

現在、毛越寺の延年の舞は、日本の重要無形文化財に指定されているが、私は近いうちに、新しく世界遺産に新設されたユネスコ世界遺産の「無形文化遺産」に登録されることになるであろうと思う。その根拠は以下ふたつの「無形文化遺産」への登録基準を読めば一目瞭然となる。
 
 

1.顕著な価値をもつ無形文化遺産の集積であること。
2.歴史的・芸術的・民族学的・言語的・文学的観点のいずれかによって顕著な価値をもつ、一般的もしくは伝統的な文化表現であること。


誰が見ても、このふたつの条件を、毛越寺の延年の舞は、いずれも明確にクリアしている。そうなると、「延年の舞」そのものが、世界遺産として登録されることを期待したい。
 
 

延年の舞披露
(若葉もせり出して延年の舞を見ている)

青葉から薄日零れる延年の「若女」の舞を寿ぐよふに



今年の「曲水の宴」では、題目として「若女」が披露された。宴の最後の「終宴の辞」で、毛越寺の千葉秀海権大僧正(ちばしゅうかいごんだいそうじょう)は、「今日この曲水の宴に来た頂いた方々の寿命は延びました」と率直に語られた。まさに大僧正は、延年の舞の本質をズバリと言われたのだ。この舞は、古来からの人間の願いである永遠の若さを祈念し、持って生まれた寿命を全うするという「延年」祈願にこそある。

若女の仮面を付けて、ゆっくりと舞い踊る舞人の姿を見ていると、そこに歳ノ神が憑依しているように思えきて、その歳ノ神から「老いも若きも皆もう寿命を越したというまで、生きなければ駄目だぞ」と、やさしく諭されたような気がした。

 寿命まで生きる術ありその極意「若女」の舞に諭され来たり

併せて私見であるが、毛越寺という不思議な寺名の由来も、この「延年祈願」から来ているのではないかと感じた。つまり「毛越寺」という寺名には、「お主はもう(毛)寿命を越こしたか」という祈りが込められているのではないかということだ。そうすると「延年の舞」の精神は、毛越寺開山の根本精神ということにもなる可能性がある。だからこそ毛越寺では、1200年もの長きに渡って、連綿とこの舞を伝えてきたのではなかろうか。

 延年の舞に秘されし延年の祈りがありて毛越寺建つ
 

 

延年の舞が終ると、いよいよ、宴は佳境に入る。「流觴曲水」(りゅうしょうごくすい)の儀が始まった。

「流觴曲水」(りゅうしょうごくすい)の儀
 

蓮の葉の羽觴(うしょう)に金の盃を乗せて流せば童子が主役




主催僧が、羽觴(うしょう)と呼ばれるオシドリと蓮を象った器に杯を川上より流すと、これを水干姿のかわいい童子たちが、80mに及ぶ曲がりくねった遣水の辺に座している歌人たちに、ひとつひとつ運んでゆくのである。この間に歌人はお題に沿った二首の歌を詠み短冊にしたためなければならない。これを「一觴一詠」(いっちょういちえい)という。水辺に緊張が走る。童子たちは、色とりどりの水干を付けて、羽觴(うしょう)を長い棒で流しながら、これを歌人たちに届ける。見ている限り、どうもこの宴では童子たちが主役のようにも思えてくる。必死で歌を短冊に書く歌人たちとは裏腹に、童子たちは、笹舟流しを楽しんでいるかのように、涼しい顔で右に左に飛び回っている。心和む光景である。
 

 さてもやは宴の主役誰なるや水辺の童子歌人焦らす

 童らはこの日の宴歳を経て何と思ふや翁となりて


「流觴曲水」(りゅうしょうごくすい)の儀が始まる

「一觴一詠」(いっちょういちえい)の儀

雅とか見ると詠むとは大違い時に追われて歌作は難(かた)し

 
童子たちが和やかな雰囲気を醸し出した後、歌人たちは、盃を受け取って御神酒を飲むことになる。これを「御酒拝載の儀」云う。今年の主客歌人には、現在朝日新聞の岩手版に「奥州藤原氏の興亡」を連載中の前岩手県立博物館館長の金野静一氏が撰ばれ、続いて青森県の歌人五人が招待されている。
 
 

「御酒拝載の儀」
歌人は御酒の盃を飲み乾し短冊を渡す

短冊を童に渡す手の震へ分かる気のする歌人(うたびと)ならば




いよいよ、講師役の柳原従光氏(宮中歌会始披講会)による披講が始まる。先ほど、延年の舞が舞われた舞台に上った講師は、独特の歌うような節回しで、六名の歌人たちの歌を披露してゆく。歌人たちは、自分の順番が来ると、かしこまって立ち上がり、講師に一礼して、自らの歌の出来映えを聞くことになる。さすがに曲水の宴が歌の会であると思ったのは、客席に陣取った観客の多くの人が、懐から手帳を出して、次々と披講される歌を書き取っている光景を目撃した時である。隣の人物と歌について批評している人もいた。

 水辺にて披講の歌を真剣に書き留め評す人の白髪


「披講の儀」始まる

古式にて歌詠まれたり遣水の園に披講の声響きたり

 
今年の曲水の宴で詠まれた歌は次の六首であった。
 
高館をめぐりて座する遣水の草萌え匂う庭のすがしさ 静一
やりみづのほとりあかるき芝草にいにしへ人の所作をたのしむ 邦男
草むらをすばやくはしりゆくものを風ともわれの時間(とき)とも思う 茉莉子
遣水に天うつりゐて八千草は天にそよげりはにかむように 久美子
少年の吹く草笛にきらきらと目を輝かせ子馬寄り来る 晶二
向きむきに苞(つと)ひるがへり斉唱のごとく白噴く水芭蕉園 博


そこで私もこんな歌を詠ってみた。

 我も又講師(こうじ)の和歌を聞きたきと青葉若葉もせり出して来ぬ
 


宴の終わりというものは、いつも寂しいものだ。曲水の宴は、時間にしてみれば、わずか二時間一五分程の間の出来事だが、明らかにいつもの日常とは違う時の流れに、己の感覚が同調し始めてきた感じがしていただけに、妙に宴の終了が寂しい気持ちになってしまうのだ。

終宴の辞(典儀)
 
 

「本日の宴に来られし皆さまは長寿叶ふ」と終宴の辞あり




千葉秀海権大僧正の終宴の辞が終わると、西光寺のある西方の方で遠雷が鳴ったような気がした。空耳だったかもしれない。ゴロゴロと一度鳴った切り、後は聞こえなくなった。そして今までの遣水前の混雑があっという間に解消された。参宴者は主催者も客人の立ち上がり、遣水が池に注ぐ付近に待ちかまえている渡し舟の方に向かった。

 西方に遠雷鳴って神仏に祈り届くや本日の宴
 
 

今年の曲水の宴のマドンナ役は紫波町の横沢祐子さん

退座の後、舟に乗って宴は終わる
終宴は寂しきものよ斎王(マドンナ)の席立ち歩み舟乗る姿も


歌人たちの舟渡し

 

宴終ゑて浄土の池を帰りゆく歌人の舟に薄日の褒美

つづく



2004.05.29 Hsato

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