義経記の構造(覚え書き)
 
 

 −義経伝説の源泉としての「義経記」−


高舘での義経最期(丹緑本義経記)

物語(ストーリー)としての「義経記」を考えるために、まずその構造を見てみよう。

「義経記」には、物語として面白味を出すための、多くの誇張や強調などの工夫が多く見受けられる。それは、侍としては欠陥にも通じる義経の意外な情に脆い性格付け。また弁慶の極端に剛胆な性質等が上げられる。更に時には現実を勝手に作り替えて箇所なども少なくない。その例としては、静御前の下りである。実際には義経の子を身籠もりながら、鶴ヶ岡八幡宮で、良人(おっと)の宿敵頼朝の前で踊っているはずなのだが、「義経記」ではなぜか、産み落とした子を既に殺害された後で踊ることになる。これは一層、静の生涯に哀れと劇的効果を演出するための細工と見なすことができるかもしれない。

物語としての「義経記」は、平家物語を源流として起こった。そこから当時の民衆の趣向に合わせて、語りとしての義経小物語(ショートストーリー)が全国各所で創作されていった。ある時には、地元の民衆の要望によって、琵琶法師が即興的に語ったものが、大受けして、一般化したものもあるだろうし、当時の教養人の僧侶が作ったものもあるだろう。また全国各地の地理に詳しい、山伏たちが、手を入れて、一層のリアリティーを附加したこともあったかもしれない。

ともかく、義経記は、気の遠くなるような長い年月をかけて形成された。それは語りという民衆の娯楽から発展して、ある時期にひとまとめに編集された口承文学である。一般に義経記の成立年代は、太平記(建徳年間1370年前後)より後と見られている。したがって平家物語の成立が、一般に云われる如く承久年間(1220年前後)であるとすれば、少なくても、平家物語から、義経記の成立までには、百五十年以上時が経っていることになる。

当初民衆は、「平家物語」を聞いて義経という人物に並々ならぬ興味を示した。そこで平家物語の義経描写に飽き足らない民衆は、さらに固有の義経物語を志向する。この民衆の心理が、物語としての「義経記」成立の前提条件となった。したがってこの物語の随所に、散りばめられている「判官びいき」(敗者義経に対する独特の哀感と思いやりのような感情)を誘うような逸話は、当時の民衆の義経に対する思いの反映と見て差し支えないはずである。

英雄没落物語としての「義経記」は、「平家物語」から発した新たな種の桜である。そしてこの美しい桜は、その後日本各地で、色とりどりに脚色されて数々の義経英雄伝説となって開花することとなった。周知のように全国各地の義経伝説には、確証の高い伝説もあるが、こんな所に何で、と思われるような信じがたい義経伝説も少なくない。しかしその事の真意をここで云々するつもりはない。ただ言えることは、義経に対する民衆の思いが、ただの憧れや哀れみとは違う特別のものであったということに尽きる。それ故に、各地では、時に愛らしい、時に悲しい、時に奇想天外な、物語が「義経伝説」として語られ、受け継がれてきたのである。

それでは巻一から、見ていくこととしよう。


巻一 

父義朝の没落から、牛若の幼年期を描く。

牛若は、鞍馬寺に預けられて成長。

鞍馬は都人にとっては、異界であり、

そこで異人としての天狗に剣術や兵法を習ったという伝説が生じるのは、

自然な(?)な流れとも言える。

やがて狂言回し役とも云うべき金売吉次に導かれて、奥州に下ることとなる。

全巻の序章であり、多くの牛若伝説を生み出す源泉となっている。
 

巻二

牛若は元服し、自ら義経という名を名乗る。

義経の並々ならぬ自意識の高さと、アイデンティティを強調した巻。

この巻で、生涯の支援者とも云うべき、藤原秀衡と遇う。

又、初めて伊勢三郎を家来とする。

鬼一法眼の逸話。
 

巻三

弁慶の登場。弁慶記とも云うべき巻。

弁慶の猛々しい性格が強調され、物語に面白味を加える。

そして義経と弁慶の出会い。その主従関係が契約であることに注目。

平泉での日々は語られず、急に兄頼朝が、関東において、平家追討に立ち上がる。

義経は、周囲徳に秀衡の反対も聞かずに、頼朝の許へ駆け付ける。
 

巻四

義経、運命の兄頼朝と、対面を果たす。

さてここから、軍事の天才義経の華とも云うべき、平家追討の大活躍が始まるわけだが、その描写は、実にあっけない。

「御曹司、寿永三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八島、壇浦、諸所の忠を致し、先駆け身を砕き、終(つい)に平家を攻め滅して云々、」

まさに端折っている感じを受けるほどだ。そしていきなり、義経の運命は反転し、勝者から逃亡者へと早変わりをする。

腰越での逸話が早くも登場し、腰越状全文を添えて、義経の生涯の悲劇性を際立たせると同時に、現実性(リアリティー)を持たせる効果を発揮している。

義経の逃避行の開始。

鎌倉勢の刺客として土佐坊が義経を襲撃するが、あっさりと撃退する。

義経は、一旦西海に退き、体制を立て直そうと、大物浦から船出するが、一度反転した運命は、容赦なく義経を討つ。そして船は難破し、再び都に舞い戻る。
 

巻五

義経一行の吉野山逃避行を描く。

愛妾静との別れが、強調され、佐藤忠信の忠義がクローズアップされる。

この巻は、佐藤忠信の巻とも云うべきものである。
 

巻六

引き続き、忠信の活躍が、描かれる。京の都に潜伏している所を、馴染みの女の裏切りにより、隠れ家を襲撃され、大暴れして、自刃。その首は、直ちに鎌倉の頼朝の許に送られる。その首を見て、その最後の有様を聞いた頼朝は、忠信の忠義を褒める。

さて、この頃都では、義経に関する様々な噂が、飛び交っており、東大寺の院主の勧修坊が匿っているとの噂もその一つ。

そこで頼朝は、この人物を鎌倉に呼んで尋問する。

勧修坊は、覚悟を決めて、鎌倉に入り、心の丈を頼朝に話す。頼朝はその弁に心を動かされ、鎌倉の寺に迎えることとなる。

吉野山で捕まった静の動静が、細かく描写される。鎌倉に送られてきた静は、男の子を産んで、あっけなく殺される。さらにその後、鶴ヶ岡八幡宮で、頼朝夫妻の前で、白拍子の舞いを見せ、傷心の静は、鎌倉を発って京に戻る。巻六の後半は、静の巻とも云うべきものがある。
 

巻七

義経の北陸逃避行とも云うべき巻。

次々と降りかかる難関を、弁慶の機転にて乗り越えて、平泉に入る。

あの有名な安宅の関もこの巻にある。
 

巻八

平泉に入った義経は、すぐに自分の身替わりとなって死んだ佐藤継信忠信兄弟の母と妻子に会い、子供らには、名を与えて、名付け親となる。

平泉に戻った義経であるが、運命は再び反転することなく、悲運の波はますます激しくなるばかり。唯一の義経の理解者とも云うべき秀衡が、この世を去る。義経を中心にまとまれとの秀衡の遺言も空しく、凡庸な嫡子泰衡は、頼朝の脅迫とも云える威圧に絶えきれずに、衣川に義経を襲い、最後を悟った義経は、妻子を我が手で殺害し自刃。その首は、鎌倉に送られる。

頼朝は、してやったりとばかり、平泉を大軍を以て攻め滅ぼしてしまう。


以上の物語の構造から、「義経記」という物語は、物語としては、義経の一番華やかな部分を大幅に割愛しているなど、ひとりの英雄物語としては、大きな欠陥を含んでいる。おそらくその原因は、この義経記が、一人の作者によって、始めから意図的に書かれた物語ではなくて、いくつかの義経にまつわる語りのテキストを、ある時期において、誰かが編集(寄せ集めた)した結果であろう。

つまり平家物語で語られなかった義経の逸話に対する民衆の興味が、琵琶法師達をして、平家物語では語り得ない義経物語(義経記)を誕生させたという訳である。佐藤



 

 
参考文献 「義経記」 岩波文庫 島津久基校訂 1939年


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2000.4.9 Hsato
2000.4.13