雑感
言語の複雑さから
日本という国家を考える


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最近「言語」というものを考えながら、民族間における言語の相違は、国家というものの発生とその生成に無縁ではない、という気がしてきている。日常何気なく話している我々の日本語という言語が、何故こんなに複雑にかつ難しく出来上がっているのか、少し考えてみたい。

まず言語が出来上がる過程を推理する。元々、国家が未成熟な古代社会においては、ひとつの家族がやがて血縁を増やして部族を形成し、その社会の中で、ひとつの共通認識(コミュニケーション手段)としての共通の原初的な言語が形作られていく。この過程で、各部族間での交易必要となると、そのコミュニケーション手段としての共通の言語が、次第に共通認識として誕生していくのであろう。

古代社会における部族は、互いに相反する利害を抱えながら、対立と集合を繰り返し、次第に原初的な国家のようなものに成長していく。その中で、共通の認識としての言語は、様々に変化し、広がりが出てくる。文字の創造もまた、この過程で出てくるひとつの言語の可能性の拡張である。文字の創造は、認識の保持、あるいは歴史の記述として、社会をより高度で成熟化していくのに役に立つ。すなわちそれまでは、人の記憶とその口承によって伝えられていた人間の経験や出来事が歴史として、文字化され記述されるのである。そうなると言語の可能性は、飛躍的に増すこととなる。例えば原始的な詩歌が文字化されることにより、口承の段階では考えられなかった味わいが生まれ、文字の世界の中で独自の進化を遂げていくことになる。つまり文字が部族というものの言語形成に強力なインパクトを与え、部族の文化そのものを別の段階の文化に引き上げていくのである。

そうなってくると、言語とは、一般に共通の文化を共有するものがコミュニケーションの道具として使用する社会基盤ということができる。共通の言語を使用することにより、当然価値観もまた共通化の方向へ向かう。したがって、小さな部族が国家に発展する過程では、言語の共通化による価値観の集合化が図られることになる。


例えば、多神教を基本とする社会においては、Aという部族の神が、a神としての何らかの役割を持ち、またBという部族の神は、b神としてまた別の役割を持って社会の中に確立するのである。しかし部族社会が、平和的に国家として、拡大していくことは、稀であり、より強い部族が、弱小の部族を征服する形で自身の文化そのものを強引に押しつけることがある。

しかし国家の生成とは言っても、一般に考えられているような、戦争により、一方的に他方を殲滅したりするような征服という手段で、弱小の国家が、強国の支配下に収まるタイプだけではないのだ。やはり国家生成の過程には、様々な種類のプロセスがある。例えば古代のローマがそうであったように、そこに存在する文化国家をそのまま、ローマという巨大な国家に糾合することにより、その現政権というか社会機構をそのままにして、ローマが持っている最先端の技術を与えることによって、ローマ社会に参加した方が、メリットがあるという形で、古代ローマは、あのように巨大な国家に成長を遂げたのである。

日本という国家が生成する過程でも、大和朝廷は、出雲に在ったと思われるもう一つの国家を「国譲り」という形を持って糾合し、より強力な国家を誕生させて行った。もちろん戦争状態はあったが、それはあくまで外交手段としての戦争であり、武力であった。この「国譲り」で際立っているのは、出雲の王族を「出雲大社」の神に祭り上げて、その地域の文化そのものを、大和朝廷の一文化として集合してしまったことだ。つまりそれまで敵対していた人物や文化をそのものを、神として、あるいは共通の文化基盤の中に押し込めてしまうのである。その中心に神としての「オオミカミ」であるヒミコの一族が存在するのである。

戦後の歴史学では、神武東征の神話は、崇神朝の東征を反映し、天武時代に藤原氏が中心になって意図的に創り上げられたものとの見方が一般的であったが、私は敢えて、年代の特定は別にして、ヒミコの血を受け継ぐ、神武に比定される人物がいて、神武東征に近い史実が現実にあったのではないかと、思っている。

すると、もう一つの国家であった出雲は、後発の国家である大和朝廷によって、糾合されてしまったことになる。今日での、十月を日本では、神無月と呼ぶが、出雲地方だけは、これを神在月と呼ぶ風習がある。これは出雲王朝が存在した古代の日本においては、出雲の王のもとに、その年に取れた米を上納し、一年の豊饒の感謝の祭りのようなものが、神事としてあったということが当然の如くに考えられる。となると出雲という国家は、かなり大きな社会基盤を持った農業国家であることが想像される。

もちろんこれも国家の生成の過程でよく見られる征服のひとつのパターンでに過ぎず、けっして特殊なケースではない。国家の以前の文化をそっくり継承し、それをより大きな国家として組み込んでしまうのだから、実に巧妙なやり方と言えないこともない。古代の出雲が、朝鮮半島に近いことから、古代の出雲の征服者たちは、朝鮮半島から渡来した人物ないしは、朝鮮半島の文化をより積極的に吸収した人物によって、形成された文化であった。当然古代の出雲で話されていた古代の出雲語も、古代の朝鮮半島の人々が話していた言語の影響があったことは明らかであろう。

ところでよく言われることだが、出雲の訛りは、東北弁と同じズーズー弁と言われる独特の訛りがあることで知られている。そうなると、古代の出雲王朝が、大和朝廷に征服糾合される過程で、出雲の人間たち、もしくは出雲と同じ言語という共通の会話手段を持っていた連中が、東北にも存在したか、それとも古代出雲語とも言うべき言語を話していた、連中が東北に大量に逃げたかのどちらかということになる。


東北は、出雲の連中が日本列島のどの辺りまで支配領域(出雲文化圏)を抱えていたかははっきりしないが、もしも出雲の言語が、東北の言語のイントネーションや語彙の点で似通っているものがあるとしたら、東北のある地域方にまで、その支配権は及んでいたのかもしれない。

少なくても諏訪大社で有名な長野には、国譲りの折りに、大和朝廷の使者であるタケミナカタの脅しに屈せず戦ったオオクニヌシの息子のタケミナカタは、諏訪湖の辺まで逃げて行ったとすれば、知らない所に逃げるわけはないので、身内か、あるいは同盟関係にある者が存在した場所に落ちのびて行ったと考える方が自然である。かつて長野や新潟には、かつて大和朝廷に従わない連中である蝦夷(エミシ)たちが住んでいた地域であった。

そこでこれは仮説であるが蝦夷と言われる人々は、出雲の影響下にあった出雲文化圏の民が、新しい為政者であるアマテラス一族である大和朝廷に従うことを嫌い、抵抗をしていたことも十分に考えられる。

その後、大和朝廷は、畿内を中心に中国、四国、中部、関東、九州などを次々と平定し、大和朝廷文化圏を拡大していった。そしてそれに最後まで、抵抗を続けたのが、東北地方の蝦夷などと呼ばれる連中であった。かつてこの地域との民との交渉には、通訳が必要であったというから、それがかつての出雲文化の影響を受けた人々だったかどうかははっきりしないが、少なくても大和朝廷の文化圏とは、言語も生活習慣もかなり、異なる文化圏の人々であったことは明白である。

大和朝廷は、地勢的位置から常に大陸を意識して国家機構を発展させていった。法律にしろ宗教にしろ、中国の文字を日本語に当てはめて使用するなど、大陸文化を積極的に取り入れることで、国家としての体裁を整えていった。
 


畿内地方から見て、東の方には蝦夷(えみし)と呼ばれる連中がいたことになっているが、いったいこの民がどの辺まで、住んでいたかは、必ずしも定かではない。ただ日高見という本国に住み、、景行天皇の御代にその王子であるヤマトタケルによって服属させられたということになっている。

さて今でも、神官が神前で唱える祝詞(のりと)の中にも「大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)を安国と定め給う」という言葉があり、これは、歴史学者の喜田貞吉博士(1871−1939)の解釈によれば、大和朝廷は、神武天皇が平定された大和と蝦夷の本国としての日高見国を併せて、安国として統治することになったという意味の他に、もうひとつ、大和そのものが元々日高見国で、神武天皇がそれを平定したということにもなる。

考えて見れば、神武天皇が、大和に進出してきたおり、大和には、すでに大王と呼ばれる人物がいた。これが饒速日命(ニギハヤヒノミコト)という人物で、神武が大和に入る数十年前に大和に総勢32名で、天磐船(アメノイワフネ)に乗って、河内国にやって来て、続いて大和に入った。おそらく当時とすれば、驚異的な軍事力を持って、先住の民を圧倒したのであろう。まるで黒船現るか、未知との遭遇のETの円盤のようなものだ。

そこで困った大和の先住の民は、おそらく国家観というものを持ち合わせていなかったはずで、部族連合のような状態であったろう。その長の長髄彦(ナガスネヒコ)が、自分の妹をこの饒速日命に嫁がせて、主従関係を結ぶ。饒速日命の出自であるが、日本全体を出雲系の人物で、オオクニヌシに繋がる人物であろうと思う。おそらくこの民の一族を、神武天皇以前に従えて、大和の大王として君臨していたのであろう。

そこに神武天皇が、強力な軍事力を背景に、大和にやってくる。そして大王である饒速日命に圧力をかける。この時、ニギハヤヒは亡くなっていて、その息子のウマシマジが統治していたが、ついに屈服し、神武はこれを配下に置くことに成功。しかし叔父である先住の民のオサのナガスネヒコは、配下に収まることを潔しとせず激しく抵抗したが、悲しくも命を賭けて守ろうとしたニギハヤヒの一族と神武の連合軍に滅ぼされてしまう。この後、大王一族だったニギハヤヒの子孫たちは、物部氏として、大和新政権の一翼を担う名族として生き延びていく。一方のナガスネヒコの一族であるが、この時ナガスネヒコの兄と言われる連中は、北へ向かって逃げていって安倍一族を形成したようだ。この話は秋田氏の系図にある。まるで、この話は出雲からタケミカズチに追われて逃げた敗北して諏訪大社に祭られたタケミナカタのエピソードにどこか似ている。
 

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「日本語の領域は以前は今とはちがっていた。上古は日本語は、朝鮮半島の西南部の任那地方にも行われていたようで他方、今の福島県、新潟県の北部以北はアイヌ語の領域だった。そのほかにも辺境の地には日本語以外の言語があったかもしれない。その後、任那の日本語は百済に圧迫されて消滅し、他方、奥羽へは、阿倍野比羅夫、坂上田村麻呂などの進撃が厳しく、源頼朝の奥州攻略によって、本州北部まで、ほぼ完全な日本語の勢力範囲となった。北海道は江戸時代までほとんど全部がアイヌ語の領域であったが明治になって日本人の進出が盛んでとうとう千島までを日本語の領域とした、明治にかけて、台湾・カラフト南半・朝鮮半島およびカロリン群島まで日本語を国語としたが、昭和二十年の敗戦で、これらの地は、千島もろとも日本語の領域外となった。」

これは国語学の権威金田一春彦氏がその著「日本語」(上)(岩波新書1988年刊)からの抜粋である。日本語の歴史と変遷が、実にシンプルにまとめられていて、目から鱗ものの文章である。ただ日本の古代史を一通り一望する時には、大変参考になる文章ではあるが、日本語の系統を厳密に辿ろうとするときには、注意をして読むべき文章である。

注意の第一は、この著者が上古の日本語とアイヌ語を別の言語として、明確に分けて認識している点だ。この文章によれば著者は、日本語文化圏とアイヌ語文化圏の境界線を、福島から新潟の以北と明確に分けて考えている。つまり東北を言葉も文化も違う異国という認識である。少なくても私はこの考え方には、少々違和感を持つ。先に書いたように、喜田貞吉博士のように、蝦夷という国家が、仮に関東から奈良盆地にまで存在していたとすれば、蝦夷とアイヌが同民族かどうかは別にしてもアイヌ語という共通言語を使用する文化圏に存在していた可能性はどうなるのであろう。つまり古代の日本語の基底部にアイヌ語(縄文的と言ってもよい)が存在し、そこに大陸から新しい言語が入ってきて、今日の日本語の原型が出来たことも考えられるのであるが、金田一氏の思考には、どうもその辺りの認識がそっくり欠落しているように感じるのである。

氏の認識は、日本の歴史学の常識的な認識の枠内にとどまっており、アイヌ語は、従来の大和朝廷の北進とともに、北へ北へと圧迫を受けて、ついには本州では消滅し、アイヌ語地名や様々な方言として日本語化し存続したということになるのであろう。

このような考え方は、日本語という言語のダイナミックな変遷を無視する硬直した見方ではあるまいか。この原因はおそらく、春彦氏の父君である大国語学者でアイヌ学の権威であった故金田一京助氏の影響であろう。父君の京助氏は、日本語とアイヌ語は、元々別の言語だ、という基本的な考え方で、アイヌ語及びアイヌ文化を研究された大学者であった。

私は個人的にも金田一京介氏の「アイヌ文化研究」に果たされた研究に敬意と尊敬を払っているものだが、日本語とアイヌ語の間に別の言語と決めてかかるやり方には、少なからぬ違和感を持っている。日本語とアイヌ語は違う、という固定観念は、長い間、日本語の系統の研究の呪縛となっていたことも事実である。このことをもっとも厳しく指摘しているのが日本の歴史そのものに大胆な発想と独特の方法論を持って取り組んでいる梅原猛氏である。

梅原氏は、「日本の深層」(集英社文庫1985年刊)のなかで、「金田一京助によって、アイヌ語は日本語とまったく関係のない、滅びつつある異国人の言語にすぎないものとされた以上、だれがいったい好んでアイヌ語を勉強しようか。金田一理論は、無意識にアイヌ語の研究の息の根をとめたと私は思う。」と辛辣な批判を加えている。
 

日本語とアイヌ語の関係については、既に昭和30年、世界的な言語学者である故服部四郎東大名誉教授が、アイヌ学者の知里真志保博士とともに25日間の北海道のアイヌ方言の現地調査を踏まえて、朝日新聞に次のような注目すべき文章を投稿している。

「これらの調査結果は、(中略)アイヌ語と日本語とが同系である蓋然性(がいぜんせい)があると考えられてきたのだ。私は今まで、アイヌ語は系統的には日本語と日本語と関係がなさそうだとばかり思っていたので、多少の類似に気づいても、それを両言語の親族関係と関連づけて考えることをしなかった。ところが頭を切りかえて両言語を比較してみると、親族関係に起因すると考え得る類似点がかなり目に映ってくる。そればかりでなく、アイヌ語と朝鮮語との間にもかなり類似点が見出される。(中略)アイヌ語との比較研究により日本語の歴史以前の状態に関する暗示をうる点が少なくなく、日本語の系統の研究にとってもアイヌ語は非常に重要な言語として脚光を浴びるにいたった。」(朝日新聞昭和30年7月28日附、岩波文庫「日本語の系統」1999年刊所収)

つづく
 

 


2001.6.2
2001.6.7

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