童 話
ゲンちゃんの恋


あるダイバーに関する不思議な話を聞いた。 

ある日の事、初夏の澄み渡った西伊豆の海に、一人のダイバーが姿を見せた。 

ダイバーは、周囲からゲンちゃんと呼ばれていた。誰も彼の本名を知らなかったが、会えば、「ゲンちゃんこんにちは」とみんなが挨拶をした。すると彼は、恥ずかしそうに、下を向きながら、「どうも」と一言だけ交わしてすれ違うのだった。

ゲンちゃんは、大勢で潜るというよりは、自分だけで、深い海に漂い、浅瀬とはまったく違う世界で時を過ごすことが好きだったようだ。孤独な性格と言えばそれまでだが、人間社会の雑踏に暮らす現代人にとって、暗く深い海に潜っていると、それだけで癒されるのは何も彼に限ったことではない。ダイビングの魅力は、海という大きな羊水の中に抱かれることによって、各々の胎児の記憶が蘇ってくることにあるのかもしれない。

そんなゲンちゃんをめぐって、最近こんな噂が流れ出した。 
「何か、ゲンちゃん、彼女ができたらしいよ」 
「へえ、あの人が、でやっぱりダイバー?」 
「そうだと思う。誰かがとっても美しい女性と、夕暮れ時に岩場で話しているのを見たらしい」 
「そうか。やったね。ゲンちゃん。うらやましいね」 
「何か、髪の長い人らしいよ。腰まで黒髪が棚引いていたそうだ」 
それからというもの、ゲンちゃんの彼女を見たいとみんなが言い出した。そして噂は次第にエスカレートして、「有名な女優と浜辺を歩いていた」とか「手を繋いで、潜っていたらしい」とかいうことになった。でも誰も本当にゲンちゃんの彼女を見たものはなかった。 

ある日、ゲンちゃんにこのように聞く者がいた。 
「ゲンちゃん、きれいな人と付き合っているんだってね。」 
するとゲンちゃんはびっくりしたように、手を横にふって、真っ赤になるのだった。 
やっぱり、彼女いるね。完全に照れている。誰だろう?それからは、ダイバー仲間では、ゲンちゃんの彼女探しが始まった。 

以前なら放って置かれていたのだが、みんなが、ゲンちゃんに声を掛け、視線をやるものだから、ゲンちゃんは、いつもにも増して恥ずかしげに見えた。それでもゲンちゃんは、今日もたった一人で、波間に漂い、一人で海の中に姿を消した。あるダイバーが、そんなゲンちゃんをじっと見ていた。”今日こそ、ゲンちゃんの彼女を見てやろう”と、スタンバイしていた。彼は思った。”きっとゲンちゃんが海に上がって来る頃、彼女が浜に迎えにくるのだろう?!”そんな予想を立てて、上がってくるゲンちゃんを待っていたのだ。しかしゲンちゃんは、いつになっても上がって来なかった。瞬く間に30分が経ち、1時間が過ぎ、二時間が来た。もう酸素も尽きている筈だ。体の大きいゲンちゃんにとって、酸素ボンベは、遙かに限界を超えている。既に伊豆の海には夕暮れが迫っていた。 

ダイバーは思った。”どうしたのだろう。もしかしたら・・・、いや、あのゲンちゃんに限って、そんなことはない。自分がふと、目を離した隙にでも上がって行ったのかも知れない・・・”その日、彼は諦めて家路に着くことにした。もう一度、ゲンちゃんが潜った辺りに目をやったが、水面がきらきらと光っているだけだった。ただ、その日の夕日がいつになく真っ赤に染まっていて、東の空には一三夜の月が、真っ白に掛かっていることに奇妙な印象を受けていたことも事実だった。 

翌朝。その日は、日曜日だった。浜で大騒ぎが起きた。ダイバーが、打ち上げられているのだった。ダイバーの一人が叫んだ。 
「ゲンちゃんだ。ゲンちゃんだよ」 
見れば、確かにゲンちゃんだった。顔からマスクを外すと、不思議にも、ゲンちゃんが心なしか、歓びに充ちた表情をしている。 
誰かが、 
「ゲンちゃん、どうしたんだろう。」と云うと、 
昨日、最後の彼女を見てやろうと思っていた彼が、叫んだ。 
「あの時計。確かに潜って、三〇分位で止まっているぞ。実は自分は見ていたんだ。ゲンちゃんの彼女が迎えにくるのを見てやろうと思ってさあ。四時過ぎだったと思うけど、この時計が止まったのが四時半だろう・・・。この時、ゲンちゃんに何かあったんじゃないのかなあ」 
「サメにでも襲われたか」 
「それは無いな。スーツに傷は無いし、第一、サメに襲われてこんな幸せな顔しているはずはないよ」 
ゲンちゃんの手にを見て、このように云う者がいた。 
「もしかすると、ゲンちゃんのビデオに何か映っているかもしれないぞ。このビデオ再生して見ようよ」 
警察官も、そんなダイバーに急かされるように、「うん」とうなずき、早速、署で再生してみることになった。

小さなテレビの前に、大勢の人が集まった。ゆっくりと、眩しい西日に照らし出される海が映し出された。海面がきらきらと光っている。ゲンちゃんが潜っていくごとに、次第に海は光りを失っていった。人工のライトが、ゲンちゃんの周囲だけを明るくしている。深さは、40mを越えた。様々な魚が、ゆらゆらとカメラに挨拶をするように過ぎてゆく。どこからか、ネコザメが、まるでUFOのように飛んできて、ゲンちゃんのカメラにすり寄ってきた。 
「まさか、ネコザメが」 
「そんな訳ないよ」 
「ちゃっと黙って、」 
その時、カメラが揺れた。ゲンちゃんが震えているのかも知れなかった。そして遠くから、小さな赤い魚が、妙に素早く泳いで来て、カメラの周囲にくっついた。 
「この魚は?」 
「これはアカイサキだな。それにしてもきれいだ。こんなアカイサキは見たことがない」 
「でもこれは幼魚でしょう。」 
「もちろんさ。大きくなったら、鯛のようになってしまう」 

明らかにゲンちゃんに異変が起きている。もうカメラなんて、どうでもいいという心の動きが、画面から伝わってくる。その時、アカイサキは、ヒレで手招きをするようにも見えた。するとこの美しい魚は、前方に素早く泳いで見えなくなった。その後を必死でカメラが追う。そして急に画面が暗くなって、ザァーといった。ビデオのデータによれば、カメラが停止した時間は、時計と同じく、4時30分15秒だった。

誰かが小さな声で言った。 
「魚に恋して、人が魂を奪われてしまうなんて、本当にあるのだろうか・・・。」 了

 


2002.7.5
 

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