劇評「劇場の神様」(振付 丹下左膳) 


原作 原田宗典/林 不忘
脚本・演出 大谷亮介
音楽 野田晴彦

於:北千住 シアター1010
2005年1月5〜23日
 

1 芝居全体について

「劇場の神様」(極付丹下左膳)という芝居を観た。理屈なく楽しめる芝居だった。最近の芝居は、理屈っぽい芝居が目立って面白くないと思っていた矢先、この芝居を観て、考えが変わった。劇中劇の丹下左膳を芝居の柱に据えて展開するテンポの良さは秀逸だった。台本のセリフ回しも小気味の良いテンポがあり、時々象徴的な言葉が、耳に残るように鏤められていた。演出も観る者を舞台に引き込む力に満ち、細部に至るまで、考えつくされていて、非の打ち所がない。丹下左膳という痛快な時代劇とペーソスに富む「盗みクセ」の抜けない演劇青年の話が、無理なくひとつになっていて、ほのぼのとした情感を感じさせた。
 

 役者について

盗みクセのある演劇青年須賀一郎を岡本健一が好演していた。また座長役の五十嵐幸夫役の近藤正臣の丹下左膳は、文句なしの痛快な演技で、この芝居の華とも云える存在感を示した。演劇青年の先輩役城之内オサムを演じた尾藤イサオの江戸弁のセリフ回しは相変わらず小気味がいい。それからこの左膳芝居の命とも云える殺陣の素晴らしは特筆ものだ。音響とのズレが一度もないというのには驚いた。稽古の賜物であろう。大ベテラン玉川スミの三味線と小唄は、一服の清涼剤かオアシスのように緊張感のある舞台に、一瞬の間を出していた。芸の力と演出の妙を感じた。

最後になったが、野田晴彦の音楽は、芝居と良く絡み好感がもてた。とかく活劇の音楽となれば、大げさになりがちなものであるが、実に抑制が利いていて、それでいてインスピレーションを刺激する演奏であった。特に主題歌の「左膳は誰の味方でもない」は、耳に心地良く残った。
 

3 丹下左膳について

舞台を楽しんだ後、さて何故、今頃、時ならぬ丹下左膳人気なのかと思った。昨年テレビで、若手の中村獅童主演で丹下左膳が高視聴率を得たとのことである。周知のように、丹下左膳は、林不忘(1900ー1935)という作家が、「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」(1927ー1928)の題で、「毎日新聞」に連載した中に登場した片眼片腕の怪剣士である。

何しろ髑髏(どくろ)の紋を染めた白の衣裳に黒の襟。中には朱色の襦袢(じゅばん)をセクシー着こなし、一人もの、金はなく、金を欲しそうでもない。ボロ長屋に住み、大酒飲み、血を見るのが何よりも好き、右でも左でもないアナーキーな人物。時々、大暴れをして、大声で「ワッハッハッ」と下品に笑い飛ばし、それでいて女や子供にはからきし弱い。こんなおよそありえない型破りなキャラクターの左膳が、何故これほどの人気を得たのか。戦前では名優大河内伝次郎が、戦後では大友柳太朗や萬屋錦之助が、左膳役を演じ大好評を博している。

考えてみれば、左膳というキャラクターを見る時に、妙に気持ちがハイになるのは、息の詰まりそうな社会を一時忘れて、官僚や政治家の悪事のセコさを笑い飛ばし、あるいは悪人どもを左膳と一緒にバッタ、バッタと切り刻んで、ウサ晴らしをしているのかもしれない。

昨夜の観客席、気が付くと、左膳が朱色の襦袢を見せて、刀を振り上げ見栄を切る時、世の中は、これで少しばかり良くなのではないかと、一緒に「ワッハッハッ」と笑って、左膳に共感の拍手を送っている自分がいた。
 

4 ストーリーについて

「劇場の神様」の成功は、偏にこの左膳の荒唐無稽な物語を劇中劇に据えて、一人(須賀一郎)の現代青年の弱い内面を浮き立たせたことによるものだ。原作は原田宗典の「劇場の神様」と林不忘の「丹下左膳、こけ猿の巻」。脚本と演出は、大谷亮介。ストーリーは、青年が演劇を通じて自分の弱点である盗みグセを乗り越えるというシンプルなものだ。

幕が開くと、丹下左膳の芝居(劇中劇)が始まる。それがプロローグとなり、一瞬で場面は展開し、青年の子供の頃のエピソードがスピーディーに展開する。父親はなく母子家庭で育った一郎は、盗みクセがあり、何度か補導される。その度に母を泣かすが、そのクセが直らず、高校では、先生の財布を盗んで退学処分となり、役者の道を志すことになった。

当然はじめから良い役などつくわけはない。「どうか悪いクセが出ませんように」と神棚に祈る一郎だが、そんな時、「劇場には神様がいる」という話を聞く。それは良い芝居をした時に現れるという役者仲間の他愛もない言い伝えである。

芝居はどんどんと展開する。幕間に、先輩俳優城之内オサム(尾藤イサオ)の言葉に怒りを覚えた一郎は、その先輩の大事にしていた金のローレックスを盗んで懲らしめようとする。このローレックスは、座長である五十嵐幸夫(近藤正臣)から送られたもので、本人が大切にしているものだ。幸いこの芝居には、その役者がいると物が無くなると悪い噂のある古参役者の角南源八という役者がいる。いざとなったら、この男に罪を被って貰えばよいと一郎は思ってしまう。

ちょっとしたタイミングを狙いバックの中にある時計を奪って、トイレの水槽に隠す一郎。二幕目が終わって、楽屋に帰った先輩役者は、大騒ぎをしている。自分の時計がない、と大騒ぎをしているのだ。そしてついに、古参役者の角南を罵る始末。しかしこの時、角南は、これを今日は大事な芝居、集中しろと一喝する。その気合いに呑まれた城之内も再び開いた舞台に飛び込んでゆく。

さあここからが丹下左膳のクライマックス。こけ猿の壺をめぐって、丹下左膳と柳生一族の丁々発止のチャンバラ劇が始まる。素晴らしい緊張感で芝居は続く。しかし一郎だけは、母を悲しませるかも知れないと思ったのか、動きが遅れ気味だ。そして成功裏に幕は下りる。ところが一郎は、最後の幕が下りた時、真っ暗になった城之内の手をひくことを忘れてしまう。舞台は、大成功で、みんなが「今日は舞台の神様が来ていたよな」と互いの演技をたたえ合っている。

ひとり浮かない顔の一郎。彼は良心の呵責に嘖まれていて、気持ちが潰れそうになっている。側によってくる城之内、てっきり「手を引くのを忘れたな」と怒鳴られるかと思いきや、「いやー良いタイミングだった」と褒められる始末。どうなっているのだと思っているうちに、時計があったと言い出す城之内。本人は、確かにバッグにしまったのに、時計をしたまま舞台に立ったのかと頭を掻く。呆気に取られているが、どうやらこの細工は、盗んだ一郎のことを思った古参の角南が、水槽から時計をすくい上げて、幕が下りた時に城之内の手を引いた時にはめて、くれたもののようだ。「舞台の神は、何度も現れるが、本当の神様は一回しか現れないよ」角南はそんな言葉を残して、楽屋を立ち去っていく。一郎はそんな角南の後姿に本物の神様を見ていたのかもしれない…。

最後にこの舞台の東京公演は、1月23日で千秋楽を迎える。この後は、京都の南座で2月1日から2月6日まで開催する予定とのこと。
 

5 作品論(父性の喪失と再生の物語)

「劇場の神様」の主人公である盗みグセの抜けない青年というのは、およそ小説のテーマとしては極く小さいもので、見過ごされがちだ。ところが、原作者原田宗典は、そこに光を当てる。しかもこの主人公は、母子家庭である。現代日本社会のひとつの家族の形(タイプ)がそこにはある。

戦後の日本社会では、子供が急速に減った。戦前の子供は、親の専制支配の対象でしかなかったが、戦後では民主主義の間違った受容もあって、人間としての常識が備わる前に、子は皆大人のように振る舞うようになった。もしも盗みが見つかるものならば、戦前の親であれば、折檻(せっかん)に近いやり方で、子を強く諫めることがあった。しかし戦後の親は、「うちの子に限って・・・」と言う言葉に象徴されるように、強い態度を取らなくなった。いや取れなくなった。

何故だろう。社会全体が、変わったためだ。昔は地域全体が、ひとりの子に関わって、その成長を見守った。どの街角にも頑固オヤジがいて、顔見知りの子供が悪いことでもしようものなら、目の色を変えて、怒鳴りつけるようなことがあった。今の社会は、マンションであれば、隣に誰が住んでいるかもしれないようなところがある。田舎でも同じで、余所の子を怒鳴りつけるような地域的な結びつきも稀薄になっている。

現代は「遊び」のなくなった社会だ。どんな意味か。「遊び」とは「プレイ」の遊びではなく、「余裕」あるいは「隙」のことだ。社会には、余裕やちょとした隙が必要なのだが、戦後はそれがなくなった。例えば子が万引きなどしようものなら、警察に通報されるか、退学されるかどっちかになってしまう。子の方は、そこで自室に引きこもってしまうしかない。

このように考えてみると、「劇場の神様」という作品は、「怖いオヤジ」、「街角の頑固オヤジ」のいなくなった戦後の日本社会へのオマージュということができるだろう。頑固オヤジのひとつのイメージが、「丹下左膳」という荒唐無稽なヒーローの中にあるのかもしれない。

またもしかすると、丹下左膳を何か懐かしくて暖かいものと感じる感覚の中には、失墜してしまった父親の権威(父性の喪失)に対するノスタルジーがあるのかもしれない。

でも、虚構の丹下左膳は、失われたオヤジのカッコイイイメージはあるものの、所詮、現実の助けにはならない。最後の最後で、主人公の青年を助けたのは、誰であったか。彼の盗みグセを諫めたのは、落ちぶれたはずの古参役者角南源八であった。主人公にとって、この落ちぶれた役者こそ神様であったことになる。

作者は、実はこの角南源八という人物に戦後落ちぶれ果てた父性というものを象徴させているのであろう。ローレックスを取られたと角南に喰ってかかった城之内を一喝したあの剣幕は、まさに戦後失った父性そのものであった。些細なテーマを扱いながら、現代社会の深層を父性の喪失と再生の物語としてスケッチして見せた作者の非凡な構想力に敬意を表したい。

京都南座二月公演「劇場の神様」に参集あれ!!
 



2005.1.22 佐藤弘弥

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