鑑真和上展を見る

鑑真和上像の


 

2001年2月4日、鑑真和上展に行く。上野の森は相変わらず烏が多い。低空を滑空し、せわしく鳴き、糞をたれ流す。わずかな残飯を漁るために、人に寄生し、人混みでなければ生きていけないトリである。鳩も同じだ。鳩の柔らかな羽が宙を舞うと思うと、条件反射で、くしゃみが出そうになる。

野鳥だった烏や鳩がいつの間にか、人に媚びる鳥になり、私にとっては、この情景がたまらないほど嫌いである。彼らの糞と羽毛とゴミが風に舞う春分の日の午後、上野に着き、真っ直ぐに「東京都美術館」に入館した。奈良「唐招提寺」の秘宝「鑑真和上像」(国宝)を見る期待に胸が高鳴った。

入口付近には、梵天立像と帝釈天立像の二体と仏を守護する四天王像四体が展示してある。いずれも国宝である。次には、鑑真和上が55歳で日本に渡ることをことを決意し、やって来るまでの苦難の姿を描いた絵巻物「東征伝絵巻」(国宝)が、展示してある。これらの宝物も、素晴らしいものではあるが、私の頭には、「鑑真和上像」しかない。

さらっと流して、お目当ての鑑真さんの向かう。

鑑真和上(688-763)という人物は、今から1200年以上も前の人物である。唐の時代の高僧で、唐に留学していた僧から、「日本に来て仏法を説いて欲しい」と請われた。しかしその時、既に五十五歳となっていた和上は、弟子達に「誰が、私に代わって、日本に行く者はいないか」と問うた。しかし誰も手を上げる者はいない。それどころが、日本という国が、いかに辺鄙(へんぴ)で危険な国であるかを、言い出す始末。
和上は、その声を制止して、このように言い放った。

「よろしい。仏の道は、そのような国にこそ拡げられねばならない。聞けば彼の国には、その昔、聖徳太子という人物が居られたと聞く。しかもそのお方は、我が教えの祖の生まれ変わりと言われておるとか。よって皆がそのように尻込みをするのであれば、私が、彼の地に行くこととしよう」

それを聞いた弟子達は、びっくりした。日本からの留学僧は、声を上げて感激の涙を流した。それから和上は、唐の戒律を違反しながらも、自らの信念を貫くために、五度の渡海を試みたが、その度に難破をして、日本に辿り着くことはできなかった。しかし六度目にして、その宿望を果たされたのである。何と意を決してから十二年の歳月が流れ、鑑真和上は、六十七歳の齢となっていた。この苦労のため、師は盲目の人となっていた。

和上に付き従う者の中には、行くことに反対した弟子達の他にや建築や彫像、土木などに長けた者達が付き従い、さながら和上一行は、唐文化の精髄が、日本に大挙して渡ってきたようなものだった。時は、奈良時代の末期にあたり、和上の伝えた教えと文化は、若い国家「日本」を宗教的に支える重要な働きをなしたのである。それにしても本物の宗教者の信念というものは、「一念岩をも通す」と言われが本当である。

丁度、鑑真和上が、大阪の難波から、奈良の都(平城京)に入られたのが、1247年前の2月4日ということで、不思議な偶然を感じながら、前に進む。

そしてお目当ての「鑑真和上像」の前に立つ。 
その像は、まさに信じられないような荘厳さと静謐な雰囲気を漂わせて存在していた。ガラスのケースに収まり、僅かな電球の光に照らされた鑑真和上は、生きている如く、座っていらっしゃる。人混みが出来ていて、なかなか前には進めなかったが、少しづつ、少しづつ、鑑真さんに近づいて行った。真正面に像に正対し、やや斜めから拝見し、左右の真横で見、やや離れ、又近づき、不思議なことに気が付いた。この像が放つオーラのようなものを感じたのだ。どうもそれは像の周囲3m50cm位の範囲に及ぶようである。その周囲に行くと、別に暖房があるわけではないのだが、体の芯から、ぽかぽかとしてくるののである。何か像が持っている慈悲の力に包まれている感じがする。実に不思議だ。仕舞いには、うっすらと汗を掻いている自分を発見した。

鑑真さんの表情を見る。その表情は、ことの外穏やかであった。艱難辛苦の果てに自分の宿願を成し遂げた人物でありながら、少しも気負いや自負のような増長は微塵も感じられない。まさに大乗の菩薩道を体現した人物に相応しくひたすら内面の己自身と対話を交わすかのように見えた。つまり外に向かって、何か自分の主張のようなものを説くというものではなく、自分の内なるものと話して居られるような感じだ。言葉で言えば内省的と言えよう。またその表情には、微笑が浮かんで見える。おそらくこれはギリシャのアルカイックスマイルの影響であろうか。そう言えば、唐招提寺の入口の巨大な柱は、アテネのパルテノン神殿の影響があると言われている。きっとシルクロードを通じて、渡ってきたギリシャ文化が、自然な形で異文化の中に花開いたということだろう。そのようにして見ると、鑑真さんの纏っている薄い僧衣のヒダにもギリシャ的なる影を感じた。

ギリシャ、ローマでも私は、傑作と言われる様々な彫像に見る機会を得てきた。しかし正直な所、「鑑真和上像」ほどの内省的な美しさと高貴さを讃えた作品を私は知らない。ただただ息を呑む美しさが、そこにはある。まさに美とは、見かけの形の整いや若々しさなどではない。私はこの「鑑真和上像」という稀有の彫像を見終えて、模写する者の内面を伝え、さらに写し取ろうとする対象者の無意識領域までも表現しうる作品も存在するものでことを知った。そのような意味で、私は最後に「鑑真和上像ほど美しい彫像はどこにもない」と、敢えて言いたいと思う。

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最後に残念なことを書く。それは館内が余りに汚れていたことだ。誰が行っても、おそらくは、鑑真さんという当代屈指の彫像を展示するには、似つかわしくないほどに、東京都美術館内が汚れていることを感じるであろう。信じられないことだが、階段の端と言わず、部屋の隅と言わず、綿埃が雲のようにぷかぷかと浮遊しているのである。本当に我が目を疑ったほどだ。警備員や係員が、部屋の四端の隅に居て目を光らせているが、どうやら清掃までは気を掛けていないようだ。ちらほらと外国人が見ている様子を見ながら、都民として、あるいは日本人として、実に恥ずかしく思った。これほど汚れているのは、構えの問題か、それとも主催者が、清掃費をケチっているのか。実に不愉快な気分がする。最終日の3月25日まではまだ間があり、是非とも態勢を整えて貰いたいものだ。佐藤


鑑真和上展にて
鑑真の御霊に捧げ奉る十一首

鑑真の像を拝めばほかほかと体の芯の熱くなる不思議 
言葉なく立ち尽くすなり吾独り他の人見えず吾と鑑真
鑑真は慈悲の笑みをば浮かべをりほの暗き中御目瞑りて
暖かきこのまま居たき師の前に慈悲の温みや言葉意味なき
六回の決死の渡海乗り越へて和上は遂に生く仏となり
ほの暗き光りの中に只坐して鑑真和上微笑みてをり
「鑑真さん聞こえますか」と我問えば答えは笑みに含まれをるや
これほどに鑑真和上日ノ本に執着せる訳今に問いたき
如月は鑑真和上難波から奈良に入る月鑑真展行く
和上像吾(あ)が見し二月四日はや和上が奈良に入りし日とか
何もかも振り捨て来たり鑑真はただ一念を貫くために


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2001.2.5