学ぶことの楽しさ

江崎玲於奈氏の発言に思う


 

最近「ゆとりある教育」という言葉が盛んに叫ばれるようになって、少し首をかしげている所へ、3月23日、江崎玲於奈氏(えざきれおな:ソニーからアメリカの大学へ渡ってノーベル賞受賞、元筑波大学学長:「教育改革国民会議」座長)が、学ぶ楽しさを教えて「子供の能力の限界に挑戦するような教育が必要である」と小渕総理に向かって話したという。その通り。実に痛快。しかも明快である。確か元東北大学学長の西澤教授も同じようなことを言っていたのを思い出す。「脳というものはプレッシャーがあってこそ発達する」微妙に言葉は、違うかも知れないが、同じようなことを言っている。そもそも学問あるいは教育の最終目標とはいったい何であろう。

どうも現在の日本の大学教育は、世界の中でも、話にならないほど立ち後れてしまったようだ。江崎氏は指摘している。「日本の大学生の一日の平均勉強時間が一時間なのに対して、アメリカの大学生は、3?4時間、これではいかん」と。この違いは、いったいなんなのだ。昔から日本の大学は、入るのが難しくて、出るのは以外に容易いと言われ続けてきたが、ついにその悪癖を直せずに、世界の中でも、こと大学という高等教育の面で遙かに立ち後れてしまったというのが、偽らざる現実だ。日本の将来を担うべき若者がこれでは、様々な分野で競争を繰り広げている日本という国が、他の先進諸国に五分の戦いをすることは不可能である。

それは日本の義務教育が、良い(偏差値の高い?)大学へ入学するための教育制度に成り下がってしまったことに起因しているように思われる。私自身が、学校の勉強で楽しいと感じたことは一度もなかった。でも本来学問は、楽しいものである。本を読み、知識を広げ、それまでまったく知らなかった世界が目の前に開けて、パッと光が差して、一瞬何かを悟ったような気分にさえなる。余りにうれしくて、わなわなと震えるような興奮に襲われたいう経験を是非子供たちにも味わわせてみたいものだ。そうすれば子供は、親や先生に「勉強をしなさい」などと言われなくても、猛烈な勢いで勉強に励むに違いない。

学問の面白さとは、受験のための勉強とはまったく異質なものだ。我々の世代も含めて、あたかも18才の受験の時が、人生の岐路の如くに錯覚させてしまう現在の受験教育体制は、本来あるべき教育の質をゆがめ、学問本来の楽しさを奪い、まさに良いと世間が思っている大学(単に偏差値が高かったり、公務員になるのに有利だったりという意味)に入るための勉強にすり替わっているからだ。

最近では、小子化を叫ばれる中、皮肉にも受験テクニックを教える予備校が、経営的には気を吐いているようである。確か「何であの子が東大に」?とかいうキャッチコピーを最近見て嫌悪感を覚えたことがあった。個人的な意見だが、受験などはっきり言ってどうでもよい。子供の才能を見つけて、社会全体がその才能を伸ばしてあげるような教育制度の創設はそんなに難しいことなのだろうか。もしも子供自身が、楽しい、面白いと思える目標を自らで見つけ、そこに向かってがむしゃらに突き進むそんな子供を応援するような教育制度ができれば、日本はもっと明るい世の中になるにちがいない。土曜日を休みをし、「ゆとりの教育」をと、強調したところで、今のままでは、その土曜日だって、子供は受験のために塾通いするハメになるだけだのことだ…。

結論である。教育の最終目標は、その人物の能力を見きわめてあげるだけのことではあるまいか。自ずから能力というものには差があることは自明である。したがって学問(あるいは学ぶこと)の最終目標は、学問するだけとは限らない。つまり手先の器用な人間は、その道を天職と思って、芸術でもなんでも再考のものを目標にして励めばいいし、スポーツの才能に長けた人間は、西武の松坂のようになればいい。一人一人の個性と才能を花開かせてやることこそ、教育の真の姿ではないか。江崎氏の今後の発言に注目したい。

学ぶことは、自己の限界に挑戦することであり、しかもそれは自分のアイデンティティを見つけることであり、本来楽しい行為なのだ・・・。佐藤
 


義経伝説ホームへ

2000.3.24