(が)というもの

 
 

朝、会社に向かって、歩いていると、母親に連れられた小さな女の子がすねていた。年の頃なら、四、五歳位か?きっと何か気にそぐわないことがあったのだろう。

「早く行きましょう」という母親を尻目に、

「いや」と言ったきり、女の子は、その場所をテコでも動かない構えだ。

優しそうな母親は、弱りきっている。おそらく子供を幼稚園にでも連れていって、勤めにでもいくつもりなのだろう。盛んに時間を気にしている様子だ。女の子は、そんな困った母親を見透かしたように、意地悪そうに母親をにらんでいる。子供は子供なりに、何とか自分の意思(我)を通してやろうと思っているに違いない。

すでにこのような小さな子供でも、「我」というものが芽生えていることに驚いた。この子は、このまま自分の意思というものを、何が何でも通すような女性として成長するのだろうか?もしもこの場で、自分の意思というものが簡単に通らないということを、教えてやらなければ、この子の将来はきっと暗いものになるはずだ。

一見優しそうに見えるこの母親は、これまでもこの我が子の「我」を受け入れてきたのかもしれない。そうだとすれば、すねる子供に育てたこの母親にも問題がある。もちろん子供にも色々と個性の違いというものがある。この子のように我の強い子もいれば、あまり自分を主張をしないおとなしい子供もいる。その子供に合わせたやり方で接してやらなければ、正しい教育とはいえない。

この母親とすねる子のエピソードは、決して他人事ではない。我々も同じような感じで育ってきたはずだ。あの少女は私自身の子供の頃と生き写しだった可能性だってある。そうだとしたら何と醜い子供なのだろう…。

多くの人間は、自分の持っている「我」に振り回された一生を送ってしまいがちである。その原因は、幼い頃に自分の我をコントロールする感覚(術)を植え付けられていないことからきている。

私自身、自分の強い我のために、何度も失敗した経験がある。「我」とは、「我欲」とも呼ばれ人間が本来持っている生命エネルギーそのものだ。人間は、この「我」というものがあるからこそ、必死で何かに一生懸命になれることも事実である。もしも人間から「我」というものを取ったら、なにも残らないかもしれない。「我」があったからこそ、国家も生まれ、哲学も宗教も、商売だって生まれたのである。

問題は、「我」をコントロールすることにある。これを自制心と言う。だからこの自制心を養うには子供の頃から、自分の我というものが、簡単には通らないということを経験させることが必要だ。子供に自分の「我」を通させるような家庭では、まともな自制心を持った人間は育たない。しかし誤解してはならないのは、「自制」と「諦め」を混同しないことだ。自制は、けっして諦めのように、自分の我を殺してしまうことではない。それは自分の我を、別の方向に向けることである。

考えてみれば、大人になってから人間が経験することの大半は、自分の我が簡単に否定されてしまうことばかりである。私も、自分「我」について、再度学び直してみようと思う。佐藤
 


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1999.7.23