満福寺の笛供養祭

笛供養の日、腰越の満福寺本堂越しに片瀬江ノ島方面を見る
(2004.6.5佐藤撮影)

在りし日にこの地に座して判官は思いの丈を涙で綴る




1 満福寺の笛供養

6月5日、小田急に乗って、片瀬江ノ島に向かった。この日に、腰越の満福寺で開催される「笛供養祭」を見学するためである。
 
義経公の思いが笛の音となって境内に閑かに響く
この祭りは、昨年の6月から行われるようになった新しいお祭りである。きっかけは、鎌倉の「古雅楽之会」代表の長谷川景光氏が、義経公の時代の「龍笛古譜(りゅうてきこふ)」という古楽譜の解読を一部終わったことを記念して、古くなった横笛の供養を、横笛の名手といわれる源義経公の縁の寺とされる満福寺の岡沢嘉春住職に申し出たことから始まったものである。本年から正式に寺の祭りとなり、6月の第一土曜日の本日開催されることになっていた。

折から、江ノ島は、日差しが眩しいほどの晴天に恵まれていて、私は、片瀬江ノ島から腰越の満福寺まで、江ノ島の景色を満喫しながら、のんびりと歩いた。歩いていると、龍ノ口の龍口寺の前で江ノ電が汽笛を鳴らしながら、遠慮がちに私を抜いていった。江ノ島の景色も、マンションなどの高い建物が建ってずいぶんと変わってしまった。それに蜘蛛の巣状に張られた電柱がやたらと気になる。

ところが腰越になると、あまり風景に変化がない。昔ながらの町並みがよく残っている。神戸川(ごうどがわ)を渡る時、下を覗くと、白鷺が、小魚を狙って歩いているのが見えた。腰越駅から、先ほどの江ノ電からはき出された人々が、満福寺に流れてゆく。私もその中に混じって、「笛供養祭」に向かった。辻を曲がって、江ノ電の線路を越えると、すぐに満福寺の参道の階段がある。既に門の付近には、人で溢れかえっていて通れない様子だった。仕方なく、右の車道の坂道を登ってゆくと、すでに笛供養の儀式が執り行われていた。

引き続いて、奏楽奉納の儀が始まった。演奏は、「古雅楽之会」の長谷川氏らである。氏は義経公が播州普賢院に奉納したとされる龍笛「青龍」のレプリカを手に、古楽譜から解読した「武徳楽」などの曲を、本殿前に集まった多くの聴衆に披露した。その音色は、現代の音楽とは、いささか異なっていた。実に優雅であり、音が小さく、心に染み渡るように響いてくる。喩えるならば、凪っている夏の夜、海原に小舟をこぎ出して、昇ってくる満月を静かに観る心地がした。

 龍笛の音(ね)を喩うれば内海に昇る望月待つ波の音(おと)
 
 

2 「白拍子の歌舞」

龍笛の奉納演奏に続き、静御前を彷彿とさせる白拍子の舞が披露された。歌舞は、「えぼしの会」(代表 桜井真樹子さん)の面々が演じた。
静が切なく舞う

長谷川氏の横笛の調べにのせて舞が始まると、何故か、静御前が、楚々とした風情で稀代の英雄源義経公への熱い思いを歌いながら舞った鎌倉での出来事が脳裏をよぎった。

その昔、白拍子の静御前は、当代一の舞手と呼ばれた女性だった。義経公と恋仲となり、いつも側にいて、義経公がもっとも愛した女性だった。しかし運命は、ふたりに試練を与えた。あらぬ嫌疑により、謀反人とされた義経公は、西海に乗り出した時、海は突然に荒れて、ふたりの乗った舟は、難破してしまう。吉野山に逃げのびたものの、女人禁制のために静は、やむなく恋する人と別れた後、捕らえられて、鎌倉に送られた。鎌倉殿は、噂の白拍子の舞を観たいと、静の思いを無視して、鶴岡八幡宮の舞殿に上らせ、舞を舞わせようとした。

初めは拒絶していたが、静は、意を決し、次のふたつの歌を即興で歌いながら舞った。
 

吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人のあとぞ恋しき
(歌意:吉野山の深い白雪を踏み分けて消えた人(義経さま)だけが恋しいのです)

しづやしづ、しづのをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
(歌意:「しずや、しず」とあなた様は繰り返して私をお呼びになった。糸を巻くおだまきのように私の名を繰り返し呼ぶ、そんな昔が今であったらどんなに良いことか)


静にとって、この時は、まさに女の戦さの気構えで舞殿に上った。静は、恋する女性代表のように歌いそして舞った。もちろん鎌倉殿は激怒する。「何故、義経への恋心を、よりにもよって、このワシの前で披露するのか」もちろん静は、罰せられることなど怖くなった。死ぬことも覚悟している静にとって、辛いのは、愛する人と離れていることである。

その時、鎌倉殿の妻政子は、夫をたしなめた。「私も同じ気持ちで、あなた様を待っていたことがあります」静は、この後、しばらく、尋問されたが、義経公の行方については、一切話さなかった。悲しいかな、この時、彼女のお腹には、愛する人の子が宿っていた。女の子だったら、放免されることになっていたが、生まれてきたのは、男児だった。泣いて、わが子を放さない静だったが、親子は引き裂かれ、その子は殺されて、由比ヶ浜に捨てられてしまったのだ。

その後、静の行方は歴史から消えてしまう。京に帰ったとも、四国に渡ったとも、義経の後を追って、奥州にゆく途中、病に倒れて亡くなったとも、云われる。

私は、今日の舞を鑑賞しながら、伝説の彼方に消えた義経公と次々に押し寄せてくる試練をものともせず、一途に己の思いを貫いた静という女性の心の強さとやさしさを思った。そして龍笛の名手であったと伝えられる義経公と当代一の舞手であった静御前が、815年の時を超えて再会したかのような錯覚にとらわれた。これは過去の恋物語ではない。きっとふたりの愛は、日本人の心のなかに深く刻まれているのだろう。

 この人と永久に生きんと舞ふ人の覚悟のほどの恋や今なし

 「しずやしず愛する女(ひと)は君のみ」と静の耳に判官の声
 
 

3 満福寺の参道で見つけた花菖蒲
満福寺の参道で見つけた花菖蒲

日が小動岬の上方に傾き、俄に本殿の前に設えられた舞舞台を照らし始めた。それまで翳っていた舞台の奥までがくっきりと見えるようになった。眩しさに眉に寄せた皺が静の表情を一層切なくする。時はすでに午後の3時半を過ぎている。舞台の前の観客は、かなり減っているが、それでも真夏のような陽射しの中を熱心に観ている人が沢山いた。

やがて、今年の笛供養祭も静に幕を閉じようとしていた。私は、舞台が終える前に、舞台に立つ静と笛の音に心を残しながら、満福寺の参道の階段を下っていった。江ノ電の線路を越えて、少し歩くと、美しい花菖蒲が民家の一角で日を浴びて輝いている姿が見えた。

息を呑むほどの美しさだった。思わず、バッグにしまい込んだカメラを取り出して、その花菖蒲にレンズを向けた。望遠レンズ越しに見る花の美しさはまた格別だった。「静のようだ」そんなことを思った。さっき観た白拍子の舞を思い出した。静はまさにこの盛りの花ようであった。そして明日この花菖蒲は、萎んでしまうかもしれないのだ・・・。

 心をば静の舞に残しつつ道を下れば花菖蒲に遇ふ

「いとおしむ」という言葉がある。「いとおしみ」は、漢字で表記すれば「愛おしむ」となり、「愛」+「おしむ」となるが、私は「いと」+「おしむ」で、「たいそう惜しむ」という意味もあるのではないかと思った。失われてゆく美をたいそうあわれに思う日本人特有の感覚だ。

古来より、日本人が「いとおしむ」と言う時には、移ろうもの、やがて萎み枯れてゆくものに対する「惜しむ」の情があるのではないか。そうなると西洋流の単なる「愛でる」(愛する=Love)とは違う感情が、日本人の恋愛観には含まれていることにもなる。

考えてみれば、義経と静の恋は、まさに互いを「いとおしむ」ような恋愛であった。ふたりの恋愛期間は驚くほど短かった。ほんの瞬きの一瞬であった。しかしお互いに生涯でもっとも輝かしい花の時期の刹那を「いと」、「おしむ」ように燃え上がった稀有な恋であった。

カメラのレンズの向こうで、花菖蒲が輝いている。そして私は、6月13日の群読の儀を予定している腰越の浜に向かった。
 
 

3 腰越の浜で義経公を思う
腰越の浜から稲村ヶ崎の彼方に鎌倉を望む

路地を左に折れると、80mほどで小動岬の東岸にある腰越の浜に着く。ところがこの小動の信号が長い。なかなか青に変わらない。計った訳ではないが、体感では少なくても3分は待たされる気がする。

浜に降りれば、日は既にかなり傾いていて、来週私たちが腰越状の群読の儀を執り行う予定の砂浜は、黒い影が長く伸びていた。風光明媚な場所だが、この辺り一帯に置かれているテトラポッドが風景を壊していることは否定できない。江ノ島からも小動岬から腰越廻らされたテトラポッドがはっきりと確認できる有様である。聞くところによれば、海が荒れた時には、浜まで波が上がってくるということで、数十年前に設置したもののようだ。でも日本有数の観光地江ノ島と鎌倉の境にあって、このテトラポッド見える風景は、どのように考えても配慮を欠いているとしか言いようがない。

昨年(2003年)7月に国土交通省が発表した「美しい国づくり政策大綱」にも、美的な景観を壊す元凶として、テトラポットや電線、看板、コンクリート塀いなどが上げられている。一日も早く、腰越から七里が浜にかけての景観が、かつての美しさを取り戻すようになることを期待したい。

  腰越の浜をぐるりと取り囲むテトラポッドに違和感覚ゆ

沖合の方に視線を移せば、小さなヨットがいく艘も波の間を西日を浴びながら漂っているのが見えた。梅雨入り間近の6月5日でありながら、今日の天気は真夏そのものだ。このような天気の中で、義経公の首実検は執り行われたのであろうか。その首実検の行われた場所について、吾妻鏡は、ただ「腰越の浦」とのみ伝えている。この一帯の地形は、今とはかなり異なっていて、海はもっと現在の龍ノ口の龍口寺から常行寺の周辺まで深い入り江を形成したと伝えられる。そうなると、龍口寺の日蓮の法難の場所辺りや蒙古から来た使節が伐られた常行寺周辺も、義経公の首実検の比定地として考えられるのではあるまいか。ともかく、文治5年6月13日、奥州の藤原泰衡の使いとして鎌倉に参上した弟の高衡は、黒漆の櫃(ひつ)に美酒を浸し、その中に義経公の首を納めて、腰越の浦に持参したのであった。

  物言わぬ御霊となりて再びに腰越に入る人ぞ悲しき

つづく

片瀬江ノ島の彼方に富士山を望む

富士を見つ沸き立つ無念抑へては九郎兄との和解を願ふ


2006.06.06−18 Hsato

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