円仁」と多神教

毛越寺常行堂
(2004年7月25日佐藤撮影)


昔、日本に円仁(794-864)という僧侶がいた。円仁は、一般には慈覚大師という名で知られているが、この人物は、一生を旅に明け暮れたような人物だった。東北の古刹の多くはこの円仁が開祖となっている。山形の「山寺」の名で知られる立石寺も円仁の開いた寺である。急峻(きゅうしゅん)な山の上に参詣している時に、過労のために円仁が休んだと言われる大石が円仁の腰掛け石として残されている。日本三景松島の瑞巌寺や奥州平泉の中尊寺、毛越寺などもこの円仁開祖の寺である。

円仁は、都が京都に遷された年の延暦13年(794年)に下野(しもつけ:現在の栃木県)の国で生まれた。15才で比叡山に入門し、最澄の薫陶を受け、21才で得度し、最澄に従い故郷の下野をはじめとする東国を巡った。その後は、戦乱に傷くエミシの地東北を歩いて人心の混乱を鎮めようと自らが信じる天台宗の布教に専念したのであった。

円仁44才の頃、天台の教義の勉学のために当時の中国の唐に入る。以後9年間、一心に学んだのであったが、この円仁の入唐の理由は、空海(774?835)がもたらした密教の教義が日本国内で急速に広まる機運を見せるなかで、日本に天台宗の教義の深化をするための命がけの旅であったと推測される。

周知のように、空海は日本宗教史上でも屈指の人物である。円仁の師匠にあたる最澄(767-822)は、彼の先輩であり、ライバルであったが、密教の部分に関しては、言葉は悪いがかなりのコンプレックスを持っていて、再三後輩であった空海に中国から持ち帰った文献を借りたりしている。これに対して、空海は「書物をどんなに読んでも密教の秘法を理解することは難しい」と強い言葉で拒否したこともある。

空海という人は、若い頃から、負けず嫌いで功名心の人一倍強い人物であった。24才で書いたと言われる「三教指帰」(さんごうしいき)では、儒教、道教、仏教の教えの優劣を論じて、仏教の教義の優位を説くという攻撃的な内容であった。主著となった秘密曼荼羅十住心論でも、結局は、密教が一番高い次元に到達していると説いている。これほどの自信はいったいどこから来るのか。

思うに、空海がもたらした「密教」というものと、「ブッダの教え」との間には、大きな乖離(かいり)があるように思われる。密教の教えは、大日如来を宇宙の中心に置くどこかに一神教の匂いがある。それに対して、ブッダの教えは、謙虚で控えめで、まさに中道をゆく如くで究極とか中心とか、そのような大それた文言を使ってはいない。あるのは苦というものの実相を自覚し、その根本を見つめて、励むことである。それが行である。


そもそも、ブッダの教えには、秘密というものはなく、ひたすら苦の根源を見つめかえして、行に励むことしかない。一方、密教では、秘密の灌頂(かんじょう)を授かって教義を体得すれば、俗人でも即成仏するというようなことが可能となる。そこに空海の説く密教が時の権力者や貴族たちに急速に受け入れられてゆく素地があったのかもしれない。20年の予定を2年に縮めて日本に帰って目もくらむような出世を遂げた空海の思考と80年の生涯をひたすら歩き続けて亡くなったブッダの教えの違いは同じ仏教とは云えないくらいの違いがある。大乗仏教に変化して仏教は、変身したということなのか。

空海が20年の勉学の予定を、わずか二年で終わらせて、日本に飛ぶように帰って密教の布教を始めたこの突然の予定変更を、私はこのように考える。空海は、この時、ある確信を持った。それはある種のひらめきと悟りであり、大日如来を中心とした宗教国家建設の野望である。大日を中心としたマンダラ的世界像は、日本の文化の基底部に据えることが可能だと空海は考えたのではないだろうか。

かつて天皇を祖霊は周知のように、アマテラスである。そして空海のイメージの中で、大日如来はアマテラスに変化した。つまりマンダラの中心に天皇の祖アマテラスが据わるのである。日本人の意識構造にこのマンダラを据えることで、日本は国家としてもっと強固になる。そのように空海は考えたのである。マンダラは、空海に劇的なインスピレーションを与えた。唐の国で、憑かれたように勉学に励み、経典を収拾した空海は、神仏が様々に入り乱れる日本という国家に、新しい密教を注入することによって変わるとの確信をもって、急きょ帰国し、猛烈な布教を開始したのである。空海がもたらした密教は、いささか一神教的な匂いするというのは、この教義と日本の天皇制の構造に似たものを感じ、密教によって、空海は中央集権的な国家が構築できると閃いたのではないかということだ。

結果として、空海がもたらした、密教のマンダラ的宇宙観は、大日如来をアマテラスと見なすことで、日本の天皇制国家を思想面から補完することになった。円仁は、その流れの中にあって、最澄の教えを広める立場から、空海の、密教思想に対抗する教義を体得するという明確な目標をもって、唐に向かったのである。
 


45才壮年の円仁は、838年(和暦の承和5年)7月、文字通り死ぬような思いをして中国に渡った。砂の中に金塊を探り当てるようにして幾人かの師を探し出し、やっとの思いで密教の秘法を伝授された。経典や曼荼羅図も書写をした。ところが844年3月、突如として、武宗皇帝による仏教排斥の勅令が下った。僧侶たちは、仏法を捨てて、普通の生活に戻ることを強いられた。秦の始皇帝が行った焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)までは激しくなかったが、経典は焼かれ、仏塔や仏像、寺院は破壊されるような凄まじい状況があちこちで起こった。留学僧円仁も例外ではなかった。何とか845年(承和12年)5月、還俗(げんぞく:出家した者が俗界に戻ること)し帰国することが許された。こうして、わが円仁は学びの地を逃げるようにして帰国することになった。しかし帰途でも、苦労は絶えなかった。何とか、847年(承和14年)9月、港の(登州文登県赤山浦)まで辿り着いたのだが、当時の船は帆船である。風がなければ、じっと異国の地で待機するしかない。既に入唐してから9年。円仁は54才の初老の齢となっていた。

円仁は、日記(入唐求法巡礼行記)に、その時のことをこのように記している。
「9月6日、7日。追い風が吹いてこない。9月8日。悪い情報を聞いて非常に驚きおそれたが、風がないので出発することができない。船の人々は鏡などを海中に捨てて神を祭り、風の吹き出すのを祈った。僧らは焼香し、この島の土地神と大明神・小明神らに対して読経し、皆そろって日本国に帰り着くことができるようにと祈願した。すなわちこの土地の神と大明・小明神のために金剛教百巻を転読したのである。」(「入唐求法巡礼行記」深谷憲一訳 中公文庫1990)

この円仁の記述を私は非常に興味深く見る。何故ならば、ここに円仁という人物の多神教的な感覚がよく出ていると思うからである。本来であれば、密教の奥義を伝授されてきたのだから、大日如来を頼って、「海よ鎮まれ」と祈願するところだ。ところが、円仁は、まず地元の神々に次々と祈りを捧げたのである。つまり本質的に円仁という人物は、土地の神にというものに対する畏怖心を持っているのである。日本における神と仏の歴史は、物部氏と蘇我氏の対立(587年)を持ち出すまでもなく、あとから入ってきた仏に対する土着の神の屈服の歴史と言ってよい。それはインド仕込みの様々な神仏を糾合しながらやってきて、しかも理詰めの戒律を持つ教えと、日本古来の土着神の力の差であり、致し方ない面もあった。でも関東の地で生まれた円仁は、理詰めの仏教に帰依しながらも、どこかで土着の神を畏敬し、仏と神の和する柔軟な宗教的感覚を持っていた。このような感性が歴史の中で働いた結果、日本人は神仏混淆という形をとって神と仏の共存を計ることができたのである。

この円仁の考えをよく表している建物が平泉の毛越寺にある。
 


知のように平泉にある毛越寺は、円仁によって開かれたと伝えられる東北屈指の古刹であるが、ここに常行堂(じょうぎょうどう)という茅葺き屋根の美しい瀟洒(しょうしゃ)な御堂がある。常行堂は、南大門の跡を右手に折れて浄土庭園の大泉が池の縁を廻って行くと毛越寺の東南の角地に常行堂跡があり、さらにそこから50mばかり進むと復元された遣り水の遺構の前に端正な堂宇が聳えている。

かつて毛越寺は、わが国にふたつとないと言われたほどの繁栄を誇り、堂塔数40有余、僧坊500有余を数えていた。しかし奥州藤原氏滅亡後は、野火や戦乱の混乱に巻き込まれて、そのほとんどが焼失してしまう。その中にあって常行堂は、その東隣に立っていた法華堂と廊下で連なって立っていて、最後まで焼失を免れていたが、慶長2年(1597年)、やはり野火によって焼け落ちてしまった。今毛越寺に立つ常行堂は、消失から130年ほど経った享保13年(1728)に仙台藩主伊達吉村公によって再興されたものである。この常行堂が真っ先に再建された理由は、おそらく毛越寺という寺にとって宗教的な支柱とも言えるような「常行三昧」(毎年正月14日から20日にかけて行われる)という古い修法を伝える道場だったことに起因していると思われる。

この常行堂の前に立つと、私はいつも不思議な感じにかられてしまう。薄暗い堂の内陣の向こう側に、光に照らされた阿弥陀如来が穏やかな面持ちで座し、こっちを見ておられる。この仏は、ここにやってくる人間の一人一人の心の有り様を静かに観じておられるのだろうか。こうしていると、仏の慈悲の何たるかが、ひしひしと伝わってくる。それは、どこか、円仁という人物の心の温かさに触れるような感じにも思えるのだ・・・。

さてここからが、この御堂の秘中の秘に触れるチャンスだ。実はこの阿弥陀如来の背後に、もうひとつ「後戸」と呼ばれる壇が存在し摩多羅神(またらじん)という神像が安置されている。摩多羅神とはいったいどんな神なのだろう。平泉名勝誌(明治37年刊)によれば、それは「五方鎮守の一にして中央の鎮守なり」と極めて簡単に説明されている。

考えてみれば、阿弥陀如来の両脇には、宝依、功徳、金剛鐘、金剛憧という四菩薩が脇侍として控えていて、その中央に阿弥陀如来が存在することになり、本地(ほんち)としての阿弥陀如来が垂迹(すいじゃく)した姿が摩多羅神ということになる。簡単に言えば、仏教名がアミダで神名がマタラジンということになるのかもしれない。
 

毛越寺常行堂の阿弥陀如来
(2004年7月25日佐藤撮影)


山本ひろ子氏は、その著「異神」(ちくま学芸文庫2003)の中で、「常行堂摩多羅神事」(金山院光宗著「渓嵐拾葉集」より)という鎌倉後期の史料を現代語訳して摩多羅神のことをこのように記している。

「唐で引声念仏を学んだ慈覚大師が帰朝の途中、虚空に声がした。『私の名は摩多羅神といい、障(しょう)げ神である。私を奉斉しなければ浄土往生はかなわないだろう』。そこで円仁は常行堂にこの神を勧請したという。」

少しだけ、摩多羅神の正体が明らかになった。摩多羅神は、外国から来た厄(わざわい)をもたらす怖い神様なのである。この神様を祭らなければ、往生できないというのであれば、阿弥陀如来は、往生の時に現れる仏であるから、摩多羅神は、さしずめ阿弥陀の裏の姿ということもできる。仏になればアミダとなり神になればマタラジンとなるこの神仏の二重性が、この常行堂の秘密であり、円仁が日本の宗教の中に取り入れた一種の魔法のようにも思える。

先日、「百寺巡礼」の著述のために、毛越寺を訪れた五木寛之氏は、この常行堂に詣でて、この御堂がアミダ如来の背後にマタラジンという神を祀っていることに触れ、「エミシ文化を内包する奥州の文化の奥深さを感じた」という趣旨の発言をされていた。

五木氏は、直感的に摩多羅神が、エミシ人々の信仰の対象だった神さまと近しいのではと思われたのかもしれない。そうするとこの常行堂の摩多羅神は、江戸時代、キリスト教が禁制になった時、観音様をマリア像として信仰の対象にした隠れキリシタンの人々を連想させる。しかし残念ながら、摩多羅神は、先に見たように、地の神と言っても、唐か新羅から勧請してきた神であり、東北土着の神とは言えないようだ。

それでも五木氏の発言は、ある意味において慧眼(けいがん)であると思う。というのは、円仁という人物が、どこの出自かも簡単に分からないような異神としての摩多羅神を勧請し、これを常行堂の修法に入れたという事実は、日本の宗教の広がりにおいて大きく貢献したと思われるからだ。別の言い方をすれば、円仁が表に阿弥陀如来、奥には摩多羅神という二重構造の修法を形作ることによって、日本宗教は多神教的な広がりを獲得できたことになるのではないだろうか。

これを言葉にすればある種の「宗教的トリック」あるいは「方便」と表現しても良いかも知れない。円仁は、表向きは阿弥陀堂の姿を取りながら、実はそこで常行三昧という厳しい修行をしている者にすら、その得体を簡単には証さない摩多羅神という厄の神様を隠して祀っているのである。おそらくこの常行堂における信仰対象の二重の構造は、常行堂を発想した円仁という人物の多神教的な心の反映であり、それはそのまま日本人の神も仏も受け入れる神仏混淆の多神教的感性の現れと言うことができる。

つづく
 

 


2004.7.29
2004.8.06

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