スピルバーグの映画愛


 
 
何でも金に換算する情けない時代である。命だろうが、仏像だろうが、ともかく値段というものがつく。そんな拝金主義が高じて換金主義の権化のような国が、アメリカであろう。ところがそんなアメリカから素晴らしいニュースが飛び込んできた。

今や巨匠の域まで達しそうなスティーブン・スピルバーグが、この度、競売にかけられていたアカデミー賞の主演女優賞に渡されるオスカー像を自ら20万7500ドル(日本円で約2500万)で落札し、アカデミー賞を主催するアメリカ映画芸術科学アカデミーに返還する予定ということだ。

今回のオスカー像は、往年の大女優故ベティ・デイビスが1935年というから今から67年前に「青春の抗議」で授賞した際のものだ。スピルバーグは、96年にも名優クラーク・ゲーブルの「或る夜の出来事」(1935年)のものを60万7500ドルというから日本円で何と約7300万円も支払い、昨年もベティ・デイビスの「黒蘭の女」(1938)のオスカー像を57万8千ドルで落札し、同アカデミーに戻している。

もしもこれが、コレクターとして、買ったのであれば、これほど話題にはならなかったはずだ。私費をはたいて、アカデミーに戻した行為が凄いのである。曲がりなりにも「アカデミー賞」と言えば、世界最高峰の映画賞のひとつである。誰もがこの賞を取りたいと憧れ、映画という芸術を目指す。スピルバーグもそんな映画少年だった。彼は確か粗末な撮影機材を使い工夫を重ねて、中学生の時に映画を撮っている。今では数々の賞を総なめにしているスピルバーグであるが、このアカデミー賞というものが、映画を愛し、携わった人間にとって、お金というものなどに換算できない価値のあるものだと心から思っているのである。

しかし今、アメリカの映画界の現状はどうだろう。シナリオや原作のうちから信じられないような高額の値段で売買がなされる。はたまた主演者クラスの大スターには、何十億という出演料が湯水のように支払われる。どれほど配給でお金が集まったか、それが映画の価値を決める尺度ではないと分かっていながら、アメリカの映画人は、まるで獲物を漁るハイエナのように映画という素晴らしい芸術を食い物にしているのである。

黒澤が、晩年アカデミー賞の特別賞を受けた時、「私は映画というものが分からない。これからも映画という素晴らしいもの関わってゆきたい」と少年のような表情で語った。その脇には、自ら黒澤の息子たち(クロサワ’ズ、チルドレン)を名乗るスピルバーグとジョージ・ルーカスが居た。

映画の歴史は、まだたかだか100年にも満たない若い芸術でえある。しかし映画は、人間が到達した最高の芸術的創造をなし得る素晴らしいキャンバスなのである。スピルバーグは決して多弁な芸術家ではない。むしろ寡黙な映画人である。私たちは映画というものだけではなく、自分が関わり合っているものの中にも、スピルバーグのオスカー像に該当するような大切にすべきものがあると思う。その意味で、私は金に換算できないものもあるのだ、ということを行動で教えてくれたスピルバーグを心から讃えたいと思う。佐藤
 

 


2002.12.22
 

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