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ドン・キホーテ」論
狂気を克服して正気に戻ること−


佐藤弘弥

1 ドンキホーテ藤沢に現る

「ドン・キホーテっていったい何者だ・・・人は誰でも心の中に一人のドンキホーテを飼って いるのか・・・しょぼくれた初老の狂人が、世界中で四百年以上も、愛され続ける理由は、それ以外考えられないではないか・・・」 

そんなことをつべこべと考えながら、敬愛する岩下浩氏主演の「ドン・キホーテ」を観に藤沢 に向かった。 

会場は、高校生で満ち溢れ、むせ返るようなエネルギーが充満していた。今回の藤沢公演を演 じる劇団「愛」は、1998年に中城まさお氏が起こした演劇集団で、学校公演を中心に、現在は『ドン・キホーテ』、『王さまのかんむり』、『海賊船のおし ばいがはじまるよ!』などを中心に活動を展開しているとのことである。 

静かに幕が上がる。型通りの口上があり、岩下氏が演じるスペインのラマンチャ地方に住む初 老の地主ケサーダが登場する。主人公ケサーダは、ヨーロッパの中世で、盛んに愛読された「騎士道物語」に感化されて、その騎士道への憧れが高じて、ついに は自分の名を「ドンキホーテ・デ・ラ・マンチャ」と代え、農夫のサンチョ・パンサと痩せ馬のロシナンテを引き連れ、更には、村娘のアルラドンサをドルシ ネーヤという「思い姫」に仕立てて、愛と冒険の旅に出るのである。 

目前で繰り広げられる奇想天外な物語を観ながら、芝居の原作者セルバンテスとこの物語につ いて、つべこべと再考をはじめていた。  

セルバンテス(1547−1616)が、当初この物語を書くにあたって、考えていたこと は、今我々がこの物語に抱く思いとは少々ことなっている。作者のセルバンテスが、意図していたことは、世の中が、現実とはかけ離れた「騎士道物語」に毒さ れている風潮を風刺し、徹底的に笑い飛ばすことによって、世の中の眼を醒ますことにあった、と言われている。 

この「ズッコケ騎士物語」とも言うべき小説「ドン・キホーテ」が、出版された年は、 1605年。時にセルバンテスは58才であった。ところが、セルバンテスの意図はともかく、この小説は、発売と同時にスペインの民衆に熱狂的に支持され た。これは作者にとっては、遅い春の到来のような出来事だった。それまでの彼は、下級貴族の出でありながら、戦争に参加して長い捕虜生活を送るなどを経験 した挙げ句、売れない芝居や短編小説を書いて生活しているような有様であった。その意味でも、「ドン・キホーテ」というキャラクターは、セルバンテスの分 身とも言える存在だった。 
 
セルバンテス・スペイン関連年表
1512  アルバ公爵、スペイン統一終了
1519  コルテスがメキシコを征服
1519  マゼランの世界周航
1521  エルナン・コルテスがメキシコを征服
1528  ナルバエースがフロリダにて黄金を発見
1531  ピサロ、ペルーを征服
1534  イグナティウス・デ・ロヨラがイエズス会を創立
1543  インディアンの奴隷化禁止
1545  ボリビアにてポトシ銀山発見
1547  セルバンテス、マドリッド郊外で誕生10月9日
1557  国家破産宣告
1565  セルバンテス(18才)のミゲル家家財差し押さえ受ける
1569  セルバンテス(22才)、ロペズ・デ・オイロスの学校に入学
1571  セルバンテス(24才)、レパントの海戦に参戦
      (スペイン・ベネチア連合軍がトルコ軍を破る)
1575  セルバンテス(28才)海賊に拉致されアルジェ連行され捕虜となる。
1577  スペイン、ルソン島占領
1580  セルバンテス(33才)、キリスト教僧侶団により、身代金を払い救出される。
1584  セルバンテス(37才)、カタリーナ(1565-1626)と結婚。
1585  セルバンテス(38才)、以前に書いた小説「ラ・ガラテーア発表。
           その後20〜30の戯曲を1587年までに発表しているが現存しているものは、
           「アルジェの取引」と「ラ・ルマンシャ」の2作のみ。
1587  セルバンテス(40才)筆を折って、セビリアに移り、小麦買付係りの職を得る。
1588  無敵艦隊の食糧徴発員に任命される。
1588  ところがアルマダ海戦において無敵艦隊がイギリス海軍に負けてしまう。
1592  セルバンテス(45才)越権行為(不正?)により投獄を受ける。
1594  セルバンテス(47才)グラナダで徴税吏の職を得る。
1597  セルバンテス(50才)銀行が破産し、
           頭取が逃亡したことに連座したためと言われる。
       この牢獄の中で「ドン・キホーテ」は着想された。
1598  ペストがカスティリアで流行し、60万人が死亡?。
1602  セルバンテス(55才)再び投獄。この頃、ドンキホーテ執筆専念。
1605  セルバンテス(58才)ドンキホーテ前編刊行される。
1615  セルバンテス(68才)同年ドンキホーテ後編刊行。
1616  セルバンテス(69才)4月23日逝去。命日は奇しくもシェークスピアと同日。
1627  スペイン破産宣告
1635  フランスがスペインに宣戦布告
1640  カタロニアの反乱
1640  ポルトガルスペインから独立
「ドン・キホーテ」正編一永田寛定著などを参考に佐藤作成


これほどに「ドン・キホーテ」という作品が、過去現在に至るまで支持される理由は、ほとんど狂気に近い所まで、自分の憧れる「騎士道」に邁進する「思の強 さ」のようなものに人々が限りない郷愁をそそられるからに違いない。誰でも人は、幼い頃、大きくなったら「こんな職業に就きたい」、「こんな人物になりた い」と思って過ごす。ところが時が経ってくると、次第に人は、かつてあれほど思いこんでいた「夢」をいつしか忘れ去って、ただただ「現実」の生活に埋没し ていく。要するに、民衆は、ひとつのことに狂人の如くになるほど、その夢あるいは信念というような方向に向かって真一文字に突き進む「ドン・キホーテ」と いうキャラクターにしびれ、ある種の共感をもって受け入れていることになる。
 
 

2 「ドン・キホーテ」計算違いの成功?!

セルバンテスが創造した「ドン・キホーテ」とそれを読んだ民衆の受け取った「ドン・キホー テ」の間には、大きな意識の差異がありそうだ。著者は、騎士道物語の、俗世間に対する悪しき影響を打破し、それを利用する連中に風刺によって批判を与える ことだった。ところが、これをスペインの民衆が熱狂的に支持した理由は、ドン・キホーテという人物の滑稽の中に、自分の中にあるドン・キホーテ的なる感覚 を刺激されたからに他ならなかった。  

当時のスペイン(イスパニア)は、異民族支配から脱皮し、ようやく国家統一も成し遂げた時 期であった。王族も貴族も民衆も、スペイン中が、大航海時代に突入したヨーロッパの他国に負けまいと海外へ乗り出した。それは異様なほどの熱狂振りであっ た。メキシコのアステカ文明を滅ぼしたコルテスやインカ帝国を滅ぼしたピサロはその代表的な人物だ。彼らはみな「騎士道精神」(?!)をもって海を渡り、 現地で営々と文明を成してきた歴史ある人々(他民族)を暴力によって侵略し、自国に黄金を持ち帰ってきたのである。

一見、この時期のスペインの新大陸の人々に対する理不尽な侵略と征服と略奪と虐殺は、国家 統一は果たしたものの、国家財政が常に不安定だったことを抜きにして語ることはできない。この不安と熱狂の中にセルバンテスは生を受けたのである。奇しく も、彼が生まれた年に、アステカ文明を滅ぼしたコルテスが亡くなっている。この新大陸の侵略に関しては、キリスト教の神父たちも命を賭けた布教活動を通じ て荷担しており、その経緯の一端は、ロバート・デニーロが主演した映画「ミッション」でも描かれている。 

「ドン・キホーテ」という主人公の中にあるある種の熱狂と狂気は、当時スペインの民衆の心 の中に潜在していた無意識の反映そのものである。セルバンテスは、時代性もあって、その狂気の中にある不気味なものが何物であるかは明確には掴んでいな かったが、それが実に危険なもので、その狂気を捨て去って、正気の感覚に戻らなければならないことを、世間に訴えたかった。しかし民衆は己の中で、くす ぶっているある種の熱狂を呼び覚まされてしまったのである。民衆にとっては、セルバンテスの執筆意図などどうでも良いことであり、騎士道をもって、世界に 冠たる無敵艦隊を擁して、世界中の富みを我が手にするような大いなる夢想をするような人物に、無意識的に共感の意を示したのである。 

もちろん以上の「ドン・キホーテ」成功の秘密は、私の仮説に過ぎないが、おおむねの所、こ の感覚は間違ってはいないと思う。この成功は、誰よりも、セルバンテス自身を驚かせた。自分が書いた意図とは、裏腹に、まったく意図しない箇所で笑う民衆 を前にした時、セルバンテスは、首を傾げて、「何てこった?!」と、叫んだかも知れない。 

前編完成後、10年後に刊行された続編において、セルバンテスは、主人公が狂気から醒め て、正気の人間として、静に意気を引き取っていく、主人公を感動的に描いている。おそらく成功から10年のセルバンテスの文学的営為は、どのようにして自 国スペインの民衆が陥っている「ドン・キホーテ」的熱狂を醒ますという一点にあったと推測する。 

その意味でも、「ドン・キホーテ」の続編は、前編以上に重要であり、価値のある作品であ る。このような言い方が正しいかどうかは分からないが、前編が、スペイン人のドン・キホーテ的熱狂という悪しき心の状態を糺そうとして書いたセルバンテス の祖国の世論に向けた第一回目の「文学的闘争」であったとすれば、続編は、思わぬ逆襲にあったセルバンテスの第二回目の戦いであったことになる。既にこの 時、セルバンテス自身に残された時間は僅かであった。 

このように、「ドン・キホーテ」という作品は、セルバンテスの民衆の心(深層意識)に対す る笑いによる挑戦ではなかったか。そこでセルバンテスは、一人のキャラクターを誕生させた。我々がよく知っているように風車に体当たりをし、数々のとんち んかんを繰り返すという狂気に陥った人物「ドン・キホーテ」である。しかし民衆は、この人物にスペインのナショナリズムのような意識も投影させて熱狂的に 迎えてしまった。仕方なく、セルバンテスは、続編において、このドン・キホーテが、いかにして正気を取り戻し、一人の人間「ケサーダ」としてして死んでい くか・・・ということで魂の遍歴の物語として完結させることを決意し、この「ドンキホーテ」の最期の物語を、自分の人生をオーバーラップさせながら、完成 させたのである。 
 

3 小説「ドン・キホーテ」畏るべし

我が家に、ダリの描いた「ドン・キホーテ」のリトグラフがある。十数年前に大枚を叩いて購 入したものだ。ダリが描いた「ドン・キホーテ」ということで直感的に買ったものである。ダリがスペインの荒涼として丘の上に腰を下ろし、股の間にヤリを挟 み、右手にはリンゴのようだがどうやら智慧の象徴としてのイチジクを掲げていて、それをじっと見ている。彼方の里の道端には三美神がボッティツェリの 「春」の構図で、描かれている。またケンタウルスに似た怪物や妖精などが渾然一体として描かれている。画法としては絵の具の厚塗りしないで、書道の かすれ字のように一気呵成に描いたような極めて即興的な作品に見える。ダリは、自分で自分の芸術の方法を偏執狂的誇大妄想的などと称している通り、彼自身 がまるでドン・キホーテのような言動を繰り返し、騎士を思わせるまき髭を持って、世界中を煙に巻いたような画家であった。ダリに限らず、スペインの芸術家 というものは、やはり国民的な文学としてセルバンテスのドン・キホーテを読み込んで育っているので、作品のテーマとして、取り上げることが多いということ だろう。確かゴヤもエッチングか何かで描いていた記憶があるし、ピカソも描いていて、我が家にもピカソの絵皿が飾ってある。 

さてキリスト教的道徳観を持ち合わせた妄想の騎士となったドン・キホーテは、言葉巧みにし がないフトッチョの農夫サンチョ・パンサにこのように言う。 
「手柄をたてて、お前を島の王にしてやろう」 

これを聞いたサンチョはいっぺんに舞い上がって、ブタが木に登るような状態なる。まさに夢 も希望もなく、ただただ毎日の野良仕事に追われ、女房には無能扱いにされているサンチョは、夢のような申し出にころりと参ってしまう。余談だが、このよう な誘惑は日本でもあった。「満州に渡れば、君も大地主になる」と言って満州事変後に30万人の日本人が満蒙開拓団として中国に渡ったが、結局戦争で日本が 敗北すると彼らは多くの犠牲者を出し散々な目に遭う。今日の残留孤児問題はここから派生したものである。

サンチョの頭の中には、次々と夢のシーンが溢れ出す。自分が王様となり、金の王冠を被り、 多くの従者を従えて、善政を施すべく、頭を悩ましている姿。隣には、自分を無能呼ばわりしていた古女房が、乙女のような初々しさで、自分を頼もしげに見つ めている。この世の春がやってきたのだ。嘘とハッタリは大きいほど、人はころりと騙されてしまうものだ。「お前を王様に」の殺し文句によって、ともかくド ン・キホーテとサンチョパンサという天下の名(迷)コンビが誕生するのである。 

この二人の構図は、大海原を乗り越えて、アメリカ大陸という巨大な島に渡れば、そこには黄 金郷があって、財宝が山と積まれている。そこに行けば、お前も億万長者になり、王様にだってなれるという誇大な妄想とどこか共通する心理が働いていること に気づく。つまりドンキホーテという作品は、戯画化された形で、喜劇仕立てにしているので、分からないのだが、この作品は、実は非常に怖いテーマを孕んだ 作品なのだ。 

それはドン・キホーテの妄想が、多くの場合「ひとつの夢」、あるいは「夢見ることの力」な どと肯定的に解釈される場合が多いが、実は一人の人間の誇大妄想が、周囲の人間に影響を及ぼし、ますますその妄想が膨らんで、初めは狂気の戯言と思ってい た人間をも、その妄想によって、次第にその誇大妄想的夢の世界に巻き込んでいく心理ドラマなのである。そしてこの間違った「夢見ることの力」とその素晴ら しさなどという間違ったドン・キホーテ解釈が、大手を振って、400年間も世界を巻き込み、ますます強まっているかのようだ。その意味でもこの「ドン・キ ホーテ」という小説は、実に畏るべき驚くべき作品ということができる。 
 
 

4 スペインの運命の戯画化としての「ドン・キホーテ」

次のような「ドン・キホーテ」論がある。

セ ルバンテスは、初めから終わりまで生活の失敗者だった。だから彼がいたましくも好んで失敗者の物語を、ドン・キホーテの物語を書いたということはいささか も不思議ではない。(中略)

この本は、奇抜な争闘と滑稽な挿話の連続であって、しかもその底に常に何か人の心をと らえる意味がひそんでいる。ドン・キホーテは存分に歩きまわり、散々に戦い、さんざんに痛めつけられたあげく、いやでも生まれた村に帰らなければならない 羽目になって、村で死ぬのである。だからこれは失敗の小説であり、敗北の小説だ。

しかしその敗北を、彼は−いやセルバンテスはも彼とおなじく−それを極め て平静に受けいれたのである。だからこそ、その道徳的ないましめの中で、最も聡明な気高いものをその中からとり出すことができたのだ。」 (「スペイン文学史」ジャン・カン著 会田由訳 白水社 クセジュ文庫185 1956年刊)


これを書いたジャン・カン氏は、フランスにおけるスペイン文学の権威であった人物である。残念だが、まったく「ドン・キホーテ」という小説の秘密を分かっ ているとは言いがたい。まずドン・キホーテという小説をことさらセルバンテスの人生とだぶらせて、ドン・キホーテの失敗の物語を、セルバンテス自身の生涯 の戯画化(パロディ)のように解釈しているが、凡庸で非常に退屈としか言いようがない。そもそも芸術家というものは、何を描くにしろ大体自分の肉体と頭脳 を駆使し、己の経験を元に世界を見、それを芸術として昇華される存在である。だからドンキホーテという主人公の中に、己が投影するのは、当然であって、そ れをことさら強調されてもちっとも面白くない。

そもそも「敗北の小説」という考え方は、まったくこの小説の本質とはかけ離れている。はっ きり言えば、これは「敗北の物語」などではなく、「自己回復の物語」あるいは「アイデンティティの物語」とでも称すべき作品である。すなわちこの小説の本 質は、時代の空気(騎士道)というものに毒されて、自分を見失い狂気に走った孤独なる魂が、周囲をも巻き込み、混乱に陥れながらも、周囲の善意とその助力 によって、魂の遍歴を続けた哀れな老人が正気を取り戻し、最後の最後になって救われるという物語なのだ。

しかしここで注意しなければならないのは、夢想家としてのドンキホーテの奇行を「初老の落 ちぶれ貴族の夢」として、けっして肯定してはならないということだ。何故ならそれは、海を渡り他国を侵略するスペインの国家的野望や民族主義と、簡単に結 びつく性格の危険なものだからである。実はこの小説の成功は、衰えゆく、国家スペインに対する一種の郷愁でもあった。ドン・キホーテは、どこか落ちぶれゆ く国家スペインに似ている。

小説「ドン・キホーテ」は、スペインという国家が凋落する過程で現れた象徴としての側面が どこかにある。それは同時にセルバンテス自身の古き良き祖国スペインの信じがたいほどの栄光への熱い思いと深く結びついていることは明らかだ。だからこそ スペイン民衆は、この「ドン・キホーテ」という作品を、単なる喜劇としてではなく、スペインの黄金時代と自らの青春時代の栄光を甘酸っぱく想い出すような ストーリーとして熱狂的に受け入れたのである。

思えば、わずか数十年前までは、スペインという国家には、輝かしい未来が待っているように 誰の目にも見えたはずだ。しかしもはやそれは過去の栄光に過ぎなかった。1492年当時のスペイン女王イザベラは、イタリア人のコロンブス(1446− 1506)を援助をして、新大陸アメリカに到達した。コロンブスは、その時の航海日誌を女王に献上し、晴れがましく次のように書いている。
 

「我 らの主イエス・キリストの御名において
まことに信仰深きキリスト教徒であり、またまことに貴くも秀でた、力強い君主で ある我らの主君。エスパニャス(イスパニア)と海上の諸国の国王並びに女王陛下(中略)私に対し、十分なる船隊をひきいて、インディアスの前記地方に赴く よう命ぜられたのであります。そしてそのために、非常な恩恵を与えられ、私を貴族に列せられて、爾今「ドン」の称号を付して名乗ることを許され、私を大洋 提督、兼副王に任ぜられ、さらに今後大洋において発見し、獲得するであろうすべての島々、および大陸の終身総督とされ、かつ私の長子がそれを継承し、その 後は永遠に、代々これを相つぐことをされました。(後略)」(コロンブス航海誌」コロンブス著 林家永吉訳 岩波文庫 青428−1  1977年刊)


コロンブスという冒険家は、スペインという国家の夢想をテコとして、己の男の野望を遂げた。彼は、1492年スペインの港パロスを出帆、その後、西インド 諸島サン‐サルバドル、キューバ・ハイチに到達したのである。更に94年にはジャマイカ、98年には南アメリカ北部、15022年には中央アメリカに上陸 を果たすという快挙を演じた。俗に言う「新大陸の発見」である。その後も、スペインには、コルテスやピサロのような冒険家が現れ、海を越えて、異国の文明 を搾取していった。

ところが、歴史の栄光は、そう長く続くものではない。セルバンテスの生きた時代は、時代と しては、国家としての海洋国家スペインが絶頂から衰退に向かう時期にあたっていた。事実、スペインは、世界の海を支配するという壮大な夢想を掲げて「無敵 艦隊」というものを建造した。これは時のスペイン王フェリーペ二世がイギリス艦隊をうち破るために造った130隻もの大艦隊である。しかし1588年(ド ンキホーテが世に出る一七年前に当たる)に英仏海峡で、イギリス艦隊の巧みな機動作戦に遭い、また運悪く暴風も重なって、壊滅的な打撃を受け、惨めな敗北 を遂げた。これによって、スペインの制海権は失われ、時代としてはイギリスが最強の国家として繁栄を謳歌していくことになる。

奇しくもセルバンテスは、この時、この艦隊のための食糧調達の役職に就いていた。無敵艦隊 の敗北は、一つの象徴的な出来事である。こうしてセルバンテスもスペインという国家も、未曾有の不安に包まれてしまった。スペインの国家的な栄華は、風前 の灯火となり、一時の野望と夢想から醒め、現実を直視したセルバンテスが、己の夢と国家スペインの行く末というものに、大いなる不安と覚醒の願いを込め て、これを一種の戯画というオブラートに包んで発表したのが、「ドン・キホーテ」という小説なのではあるまいか。
 

5 ドン・キホーテ・シンドローム

昨日、電車に乗っていると、向かいの関に年の頃なら25,6才の青年が、嬉しそうに雑誌を 開いている。表紙を見れば「雑学図解 新撰組」とかいうタイトルであった。特に思想的な人物とも思えない。脂っ気のない前髪を眉毛の前まで垂らしていかに も「自分はオタクでございます」というような表情をしている。
その時、ふと思った。「きっとこの青年は、武士道の説く義の精神をひたすら愛し、己の信じる大義のために最後には敗北していった新撰組に限りないロマンを 感じているのであろう。そして新撰組という言葉に何かしらの癒しのようなものを感じているのであろう。さすれば、このような自分の手の届かないような夢に 向かって突き進んでいった人物に殊更の憧れを抱く心理状態を「ドン・キホーテ・シンドローム」(ドンキホーテ症候群)と名付けていいのかも知れない…」 と。

新撰組とは、1863年(文久3)、江戸幕府が、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三などの浪士を集 めて編制した京都守護職に属する警備隊のことである。彼らは、その後「新撰組」を名乗り、薩長などの反幕府勢力の鎮圧に当たった。しかし後には形勢が極め て不利となり、局長となった近藤勇は、官軍と甲斐勝沼に戦って敗れ、板橋の刑場で斬首された。また副長だった土方も、幕臣榎本武揚に従って、北海道に渡 り、形勢を立て直そうと奔走したにも関わらず、歴史の流れは如何ともし難く、箱館五稜郭にて壮烈な最期を遂げる。彼らは、正確に言えば、武士階級ではな い。近藤勇の生家は、調布上石原にあり、広大な田畑を有して、屋敷の中に寺子屋を持ち、の剣術道場(天然理心流)を開くような豪農だった。一方、土方歳三 の成果は、薬の製造と販売を生業とする商家で、近藤とは、姉が嫁いだ日野の佐藤家に出稽古に来ていた近藤勇と知り合ったと伝えられる。時に近藤25才、土 方は一つ下の24才の青年だった。

考えてみれば、幕末の時期には、戦らしい戦もなく、武士道というものが急速に廃れて形式的 なものに成り下がっている傾向があった。つまり一般に士農工商における武士階級というものは、例えば、江戸城に毎日登城する連中のように、彼らの役割は、 今で言えば、国の官僚か東京都の職員のような役人の仕事が主なのである。昔であれば、戦争に供え、鷹狩りなどをしながら、戦に供えるのが、本来の武士の武 士たる存在意義なのであるが、それがいつの間にかなくなってしまったのだ。幕末から見れば、赤穂の義士たちが、主君浅野浅野長矩の敵を討った世に言う「忠 臣蔵」事件は、元禄15年12月14日(1703年1月30日)であるから、近藤達が新撰組を組織した時から160年も前の出来事である。それが美談と言 われる訳は、その当時から武士の死生観が変化し、武士道精神そのものが、廃れかけていたことを物語るエピソードと言えるだろう。

武士道の思想については、山本常朝という佐賀藩士が、忠臣蔵の事件から間もない享保1年 (1716年)に有名な「葉隠」という書物を口述にて書き上げているが、そこでは次第に廃れてゆく武士道を憂うるように、武士の生き方の大義を次のように 説いている。
 

一、 武士たる者は、武道を心懸べき事、珍からずといへども、皆人油断と見へたり。その子細は、「武道の大意は何と御心得候哉」と問かけたる時、言下に答る人ま れなり。兼々胸に落着なき故也。さては、武道不心懸けのこと知られ申候。油断千万の事なり。
一、武士道と云は、死ぬ事と見付たり。二つの場にて、早く死方に片付ばかりな り。別に子細なし。胸すわつて進むなり。図に当らず、犬死などいふ事は、上方風の打上たる武道なるべし。二つの場にて、図に当るやうにする事は及ばざる事 也。我人、生る方がすきなり。多分すきの方に理が付べし。もし図にはずれて生きたらば、腰ぬけなり。この境危きなり。図にはずれて死にたらば、気違にて恥 には成らず。是が武道の丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく家職を仕課すべきなり
一、 奉公人は一向に主人を大切に歎くまでなり。これ最上の被官なり。(後 略)


一般に現代でも「武士道とは死ぬことの美学である」(武士道とは死ぬことと見つけたり)という考え方があるが、この考え方は本来の武士道からは、かけ離れ た「葉隠」の間違った解釈である。山本常朝翁が、「葉隠」を書いた理由は、武士がおおよそ武士らしいものでなくなって、単なる形式的なものに成り下がって いる在り方を正し、本来の武士道の姿を筆記したものである。きっと山本翁は、「武士道とは、死ぬとか生きるとかいうような単なる理念や形式的な思想ではな く、生きる時の心構えにこそある」と言いたかったに違いない。それが、「死ぬと見つけたり」ばかりが強調されて曲解されているが、武士という概念を越え て、「人間いかに生きるか」ということが、この葉隠の著者が一番言いたかった事だし、この著作が古典となって、これほど永く読み継がれていることの秘密な のである。きっとかの山本翁も、赤穂の浪士の生き様にも触発を受けたに違いない。しかしこの微妙な感覚を分かる人間も居なくなり、そんな時代が延々といつ 果てることもなく続いて、とうとう近藤・土方の生きる幕末の激動の時代がやってきたのである。

新撰組の近藤や土方が憧れた武士というものは、ただ単に腕っ節が強いというだけではなく、 武士道というものの大義をしっかりと知り、その大義の為には、死をも厭わないという、理想化された武士道にあったような気がする。周囲をみれば、本当の武 士階級の連中は、自分の保身ばかりに汲々とする弱ったらしい男ばかりで、これでいいのか、武士というものはこんな者のことだ。という熱い思いが彼らの心の 何処かにあったはずだ。その美学に日本の若者は、限りない美学とロマンを感じてしまうのであろう。

目の前で、嬉しそうに「新撰組」の雑学を読む素朴な青年の姿を見ながら、そこにドン・キ ホーテシンドロームとも言うべき心の状態が見えるような気がした。同時にまた新撰組の近藤と土方のイメージの中にドン・キホーテの影を見たような気もし た。きっと近藤と土方の心の中には、ドン・キホーテ的なる心が間違いなく宿っていた。近藤と土方の心には、騎士道という美しい理念に対し限りない憧れを持 ち、世の不正を憂いながら、騎士でもない自らを、騎士と思い込むことによって、自らの胸の内にあるある種の理想化された騎士を敢然として演じ、そしてあく までも古き良き正義を実現しようと必死で行動したドンキホーテその人が棲んでいたのである。ドン・キホーテを自称した郷士キハーノは、正確に言えば、騎士 階級ではなかった。郷士というのは、スペイン語で言えば、ヒダルゴ(HIDALGO)と表記する。それに対して騎士は、カバジエーロ (CABALLERO)である。この違いは、「騎士は馬に乗れる身分であるが、郷士はそれ以下の存在であった。日本に当てはめると、郷士は”庄屋”であっ て、名字帯刀は許されたものの、武士ではなかった」(「丸かじりドン・キホーテ」中丸 明著 NHK出版刊 1998年)ということになる。

要するに近藤・土方の二人も武士でなければ、ドン・キホーテも騎士ではなかったからこそ、 その美意識や人生観に憧れて、人生の旅に出たのである。一般的に言えば、先のジャン・カン(フランスのスペイン文学者)のように、冷め切った人の目から見 れば、新撰組もドン・キホーテも敗北の人生を送った人物と見るかも知れない。しかし私はそうは思わない。自分のアイデンティティを探しながら、全身全霊で 必死で生きたからこそ、新撰組の二人の生き様にシンパシーを感じる人間が、現代にも多くいるのだし、たとえ老人の戯言、あるいは狂気のなせる業と言われな がらも、ドン・キホーテの生き様に限りない愛着を感じ、精神を癒されている人がいることを忘れてはならない。このような自分の理想に燃えて、しかも手の届 かないような行動様式を持った人物に漠然とした憧れを持つ心理状況(ドン・キホーテシンドローム)が存在することによって、超ロングセラー「ドン・キホー テ」という作品は、永遠の命を持って読み継がれて行くのであろう。
 

6 ミュージカル「ラマンチャの男」論

「ラマンチャの男」というミュージカルがある。1965年11月にブロードウェイで初演さ れるとたちまちのうちに大ヒットをして、トニー賞など様々な演劇賞を受賞して世界的な大ヒットミュージカルとなった。日本でも、69年4月に、当時の市川 染五郎(現松本幸四郎)の主演で初演され、毎年のように上演され、彼のライフワークのようにまで言われる作品となっているのは、周知のことである。もちろ んこの作品は、ドン・キホーテを翻案したものだ。この劇の妙は、主人公がセルバンテスで、ドン・キホーテ役のこの主人公が劇中劇として演じる点にある。

時は、16世紀末のスペイン。場所はセビリアの地下牢という設定で幕が開く。教会を罵った 不敬の罪によって、囚われの身となったセルバンテスと従者が、この地下牢にぶち込まれる。人相の悪い囚人達にこづき回され、セルバンテスは、持参していた 「ドン・キホーテ」の原稿を奪われ、火にくべられそうになる。そこに一番人相の悪い牢名主のような悪党が登場し、我々を納得させたら、無罪にしてやる。つ まり原稿を戻してやると言われて、原稿の「ドン・キホーテ」の即興劇をして彼ら申し開きをするのである。

そして劇中劇が始まる。小説「ドン・キホーテ」の即興劇であるが、もちろん原作とは、かな り想定が違う。まず一番の違いは、原作の村娘のアルドンサ(ドン・キホーテの想い姫ドルシネーヤ)が、街の娼婦役で登場する点だろう。

このミュージカル「ラマンチャの男」のテーマは、届かないような夢追う一人の男のロマンと いうものにある。しかしよく考えてみれば、そのロマンとは、騎士道物語というものを読み過ぎ、頭がいかれてしまった初老の男の狂気なのである。周囲の人間 は、そのロマンを初めは狂気と認識していながらも、どうしようもなくその男が好きになっていく。もちろん従者のサンチョ・パンサも、娼婦のアルドンサもで ある。このラマンチャの男では、原作よりも、より鮮明に、ドン・キホーテという男の悪魔的(?)な魅力を引き立たせて、サンチョにこのような歌を歌わせて いる。

I really like him(ミュージカル「ラマンチャの男」から)

「オ イラはあのお方(ドンキホーテのこと)が好きだ。本当に。
このオイラの爪を一枚ずつ剥がされたとしても、オイラはあのお方が好きだ。
ちゃんとした訳なんて無いけれど。
あのお方を見た時から、あのお方は、だんだんとおかしくなってきた。
私にはどうすることもできゃーしない。
切り刻まれてオニオンシチューに入れられても、
それでもまだオイラは天に向かって叫ぶだろう。
理由なんて無いけれど、
オイラはあのお方が好きなんだ、と。
(中略)
オイラはあのお方(ドンキホーテのこと)が好きだ。本当に。
鶏のように、羽を毟られても、オイラはあのお方が好きだ。
訳なんて聞かないでおくんなさい。
こうだとか、ああだとか、うまい言葉が見つかりません。
あんたに鼻をバーベキューにされても、
足をスープにされても、
氷付けにされても、
フライにされても、
それでもまだオイラは天に向かって叫ぶだろう。
理由なんて無いけれど、
オイラはあのお方が好きなんだ、と。」(訳は佐藤)


原作の方は、もう少し、教養のない農夫のサンチョが、島の王様にしてやる、というドン・キホーテの決定的な口説き文句によって、サンチョ自身も、ドンキ ホーテの狂気の世界に誘い込まれる様が、滑稽かつ論理的に表現されているが、この「ラマンチャの男」では、初めからドン・キホーテという人物が、人の気持 ちを己の狂気に一瞬で誘い込むような悪魔的な魅力に満ちた男という前提で、表現されるのだ。

つまりドンキホーテが登場すれば、農夫のサンチョだろうが、娼婦のアルドンサだろうが、一 言殺し文句を吐かれて、彼の狂気の世界の住人になってしまう。娼婦のアルドンサには、「姫」という言葉を使う。これまで、泥の中をはいずり回るような人生 を送ってきた女性が、本気で、「あなたは我が心の想い姫、ドルシネーヤ姫」などと再三言われると、初めは何を言ってるのさと思って相手にしていなかった者 でも、最後にはころっと狂気の世界にはまりこんでいるのである。

次に狂気の世界にはまるのは床屋である。
床屋の洗面器をドン・キホーテは、マンブリーノの黄金の兜と言い出す。初めは馬鹿げていると思っていた床屋だが、サンチョの「あのお方が、黄金の兜と言っ たら、その通りと答えた方が」と耳元で囁き、ドンキホーテは、その洗面器を得意げに被って「マンブリーノの黄金の兜、これほど素晴らしき兜はふたつと無 い。お前たちと共に今から死ぬまで、黄金の歴史を作ろうではないか」と歌う。するとサンチョと床屋は、声を揃えて、サンブリーノの黄金の兜で、黄金の歴史 を作ろう」と答えるのである。

次は神父。アルドンサをついには、ドンキホーテの狂気のなせる虚構とは知りつつも想像の思 い姫ドルシネーヤの歌を、こんな風に口ずさむのだ。

「ドルシネーヤなんて居はしな い。
彼女は、情熱と気で出来ている。
それでも何と愛らしく見えることか。
もし誰もが夢を紡ぐことができたならば、
その人は絶望から逃れるために、
その人自身のドルシネーヤを見つけるだろう。
それがたとえ情熱と気で出来た無の女だとしても。」


こうして冷静で知識も教養も経験もある神父ですら、ドンキホーテの狂気の世界を半ば容認してしまう。このような人物も、騙されてしまうのだから、どうしよ うもない。宿屋の主人も、狂気とは知りつつ、からかい半分ではあるいが、ドンキホーテの狂気に迎合しつつ、騎士の称号授与の式を執り行い「憂い顔の騎士」 などという名を付けたりする。

このように次々とラマンチャの人間達がドンキホーテという人物の狂気(あるいは妄想)の世 界に引きずり込まれる様を、吉本隆明の「共同幻想」という概念で捉えてみよう。共同幻想というものを一種の流行病であるとすれば、その幻想の根源は、ドン キホーテという個人の心に浮かんだ妄想なのである。もちろんそれを夢として肯定的に見る考え方もあるが、所詮は偏った読書を繰り返した挙げ句の思考回路の 暴走に過ぎないのである。その暴走した観念が、現実に一人一人の魂に触れる時、一人の人間の妄想は、ある種のバランス感覚を伴いながら、一人の妄想から、 二人の妄想すなわち対の幻想を構成するようになる。初めは、狂気と完全に無視してかかっていた人間も、その余りの真剣さとひたむきさを見て、魔法にでも罹 るように、ドン・キホーテ・シンドロームとも言うべき、流行病に感染をしていくのである。

こうしてたった一人の思考回路の暴走から始まった妄想は、人から人へと心を通して感染して いくなかで、ある種のバランスを伴いながら、共同幻想という生き物の如きものに変化を遂げていくのである。その幻想性の中では、必ずキーワードが、現れ る。個人レベルで言えば、サンチョ・パンサにおける「島の領主」であり、アルドンサにおける「姫」であり、神父における「夢を紡ぐ」という言葉であり、そ れは個人の妄想が対なる妄想となるための触媒の役割を果たすのである。そうして一人の妄想あるいは狂気は、ラマンチャという地方全体に広がって、ドン・キ ホーテ幻想という共同幻想を形成してしまうのである。

「ラマンチャの男」という作品を描いた作者のデイル・ワッッサーマンは、このことを全く理 解できていないであろう。それは夢と狂気あるいは妄想というものを明確に区別して使用していないことからも分かる。でもそれは作者の罪では無い。ある意味 では、「ドン・キホーテ」という幻想のパロディを書いた原作者「セルバンテス」自身も、この作品に潜む空恐ろしいような意味を理解しているとは言い難いか らだ。

ミュージカル「ラマンチャの男」で、作者のデイル・ワッッサーマンは、原作に添い、ドンキ ホーテの狂気あるいは妄想破りの人物を用意する。それは「鏡の騎士」になるカラスコ博士である。(原作では、神父もまた「銀月の騎士」として、ドンキホー テを何とか正気に戻そうと奮闘する。)

それが実に面白いのだが、鏡の騎士は、鏡の盾を持ち、それをかざして、ドンキホーテに現実 の自分の姿を映して見せるのである。「よく自分の姿を見ろ」という訳である。ドンキホーテは、その姿に目が眩み、精神が耐えきれなくなって、気絶する。狂 気に包まれていた精神が、正気に戻る瞬間である。こうして、一人の男の狂気は、周囲の人間の主人公キハーナ(ドン・キホーテ)を思いやる気持ちによって、 正気に戻される過程を踏む。

正気に戻ったドンキホーテに、娼婦アルドンザが、未練たっぷりに歌う。

「ドルシネーヤ、
ドルシネーヤ
あんたはかつて一人の娘を見つけて
ドルシネーヤと呼んだ。
その名があんたの口から漏れた時、
まるで天使の囁きのようだった。
ドルシネーヤ
ドルシネーヤ
もう一度言って
ドルシネーヤの夢を
どうかもう一度私に
明るい光りと輝きを戻して
ドルシネーヤ
ドルシネーヤ」


しかしドンキホーテならぬキハーノに戻った男は、もはや狂気の世界に彷徨っていた過去を思い出せない。そこでアルドンザは語る。

「あんたは、夢につ いて語った。
冒険についても。
いかに戦うべきか。
冒険の道を進むならば、勝負は二の次だとも。」

すると、ドンキホーテの中で、今までの悪夢のようなものが、どこかに蘇ってくる。

「悪を糺すた め、
愛のため、遠く離れた純血で貞節なる人に、
試すのだ。たとえどんなに腕が疲れていようと。
届かぬ星にも、この腕を伸ばしす」

こうして狂気から正気に戻ったドンキホーテは、一人の娼婦アルドンザのために、正気におい て、狂気を演じて見せるのである。アルドンザにとっては、一時の夢ではあったが、確かに生涯にない心地良き風を感じた「姫」という響きであったのだ。そし てドンキホーテは、一領主キハーノとして死んで逝く。そして最後に一同は、あの有名な「見果てぬ夢」を大合唱して終わる。


7 ドン・キホーテ が狂気に見舞われたナゾ

セルバンテスは、長編小説「ドン・キホーテ」の最終章74章を次のように始める。

人間にかかわ ることで永遠なのものは何ひとつなく、すべてはその始めから最後にいたるまで、つねに河口を続けていくものである。」(牛島信明訳 後編 (三)P400 岩波文庫 2001年刊)

不思議なことに、ドン・キホーテは、死の間際において、狂気から解放され、正気に戻った。 最近、日本では認知症により、人生の終焉において、自分を見失ってしまう老人が多いが、ドン・キホーテは、分別を取り戻して逝くことになった。

相続人の姪にむかってドン・キホーテは語った。

神のお慈悲の なんと広大無辺なことよ。・・・おかげで、わしは今や曇りのない理性を取りもどし、あのおぞましい騎士道物語を読みふけったがためにわしの頭にかかってい た、無知という黒々とした霧もすっかり晴れたのじゃ。それゆえ、今ではああした物語がいかに荒唐無稽でまやかしに満ちていたかをはっきり認めることができ る。ただ残念でならないのは、この迷妄から覚めるのが遅すぎたため、魂の光明となるような種類の書物を読んで、その償いをする時間がもはや残されていない ことじゃ。姪よ、わしはもうすぐ死ぬことになろうが、せめて、死にいたるまで狂人であったという評判を残すほどわしの生涯が不幸であったわけではないこと を、人に分かってもらえるような死に方をしたいと思う。つまりなるほどわしは狂人であったが、今わの際にその事実を認めたくないのよ。ついては、・・・遺 言書をつくるつもりだから、・・・わしの親しい友人たちを呼んでくれぬか。」(前掲書 P402-403 岩波文庫  2001年刊)


しかしここで集まった友人たちは、ドン・キホーテの言葉を信じない。きっと新たな狂気に支配されてしまったのではと疑う。もちろんドン・キホーテが嫌いな 訳ではない。彼らは皆、ドン・キホーテを名乗るアルホンソ・キハーノを心底愛し、サンチョ・パンサに至っては、狂気に支配されたドン・キホーテの狂気を承 知で、一緒に各地を遍歴して歩いたのである。ひとりの農夫が、ここまで僅かな耕作地の領主であるドン・キホーテに付き従ったのは、それまでのキハナーノと いう人物が人間として立派な人格を備えていたことを物語るというものである。

こうして狂気から覚めたドン・キホーテが友人たちの前で、独白をするのである。そしてこの原稿用紙にして三千枚に達する長編小説の最大の謎、つまりどうし てドン・キホーテが狂気に走り、それを克服したか、ということが静かに明かされるのである。

   「ドン・キホーテ」という人格は、言うならば実在の人物「アルホンソ・キハーノ」が騎士道物語の過剰な摂取によって妄想によって誕生したキハーノの別人格 である。小説「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスは、この物語を、当初、スペイン国内に蔓延っていた「騎士道物語」による精神的支配をパロディによっ て、笑い飛ばそうと書いたものである。

この着想がどうして起こったのか、詳しくは分からない。ただこのような事実がある。1557年、セルバンテスが50歳の時、3年前からグラナダで徴税吏の 仕事をしていたが、銀行が破産し、頭取が逃亡する事件に関与しているとの疑いにより投獄される。

彼はこの監獄の中で、騎士道物語という時代錯誤の害毒を「ドン・キホーテ」の着想を得たようだ。要はセルバンテスは、この史上空前のベストセラー小説を、 クサい飯を食べながら執筆したことになる。

セルバンテスは、「ドン・キホーテ」 序文の中で、このように高らかに宣言する。

・・・この書 物のねらいは、騎士道物語が世間と大衆とのあいだで享受している権勢と、名声を打倒すること以外にはないのだから、・・・世の多くの人に嫌悪されながら も、それよりはるかに多数の連中によってもてはやされている、騎士道物語という基盤の怪しげな虚構の打倒にたえず狙いを定めておくことだ。(後 略)」(前掲書 岩波文庫 前篇(一)P23)


1602年、セルバンテス(58歳)は、「ドン・キホーテ」前篇を世に出した。すると、国内は熱狂的にこの愉快な騎士道のパロディ小説を受け入れたので あった。余りに面白いためか、「ドン・キホーテ」の贋作(がんさく)が「続編」と称して出版されたりもした。

自分の作品が読まれることは、作者のセルバンテスにとっては、うれしい出来事のはずである。ところがこれまでの一連の「騎士道物語」を笑いによって打倒す るという当初の目論見は見事に外れてしまったのである。つまり小説「ドン・キホーテ」への熱狂は、新たなパロディ「騎士道物語」という潮流の誕生を招いた のである。それはセルバンテスにとって、小説の成功とは別に、スペイン人と国が向かっている根拠のない熱狂をこの一作によって覚ますという意思(ライフ ワーク?)が、皮肉にもはぐらかされたことを意味するものであった。

そこでセルバンテスは、この贋作(続編)騒ぎまで巻き起こした国内の熱冷ましのために、老骨にむち打ちながら、後篇を書くことを決意したと思われるのであ る。

セルバンテスは、満を持して、前篇刊行から10年後の1615年(68歳)に後篇を世に問うことになった。その序文で、セルバンテスは次のように語る。

あなたが手に している『ドン・キホーテ』の後篇は、・・・後日のドン・キホーテの言動を縷々(るる)述べたうえ、最後には彼の死と埋葬にまで言及していますが、それは 彼の生涯に関して新たな証言をしようなどという気が何人にも起こらないようにするためです。・・・一人のまっとうな男がラ・マンチャの騎士の思慮分別に富 んだ狂気沙汰をすっかり報告しおえ、もう二度とそれを取りあげたくないというのだから、それで十分でしょう。(後略)」(前掲書 岩波文庫  後篇(一)P18)


セルバンテスが鎮めようとした「騎士道物語」への熱狂が静まらないというところに、少しばかり焦点を当ててみる。社会心理学の側面から言えば、これは当時 のスペイン人の中に、ドン・キホーテの狂気を受け入れる心理的素地(無意識)があったことを物語る問題である。もっと分かり易く言えば、スペイン人はある 面で狂気に振れていたということになる。だからドン・キホーテの狂気を、提示したところで、老いても、自分の夢を捨てず、それに挑戦する姿は美しいではな いか、となる。農夫のサンチョは、ある意味では、教養もない当時の一般庶民(下層)の心を象徴しているのだが、主人のキハーノが狂気に見舞われていること を薄々知りながらも、これを止める術を知らないのだ。それはひとつには封建的身分制度というものがある。また人がすこぶる良く純朴なために、ついつい主人 の狂気を受け入れてしまうのである。

これは国家と庶民の関係にも当てはまる。今でも日本人の多くは、選挙権を持ちながらも、国家の力には如何ともし難い対抗すらできぬ高い壁があるという諦念 がある。つまりサンチョは、我々一般市民の象徴でもある。

セルバンテスが描いた世界は、スペイン人のある方向へ向かう熱狂という狂気があり、その狂気に向かって、人は何か得体の知れない魅力を感じ、空前のベスト セラーとなった。またこのスペイン人作家の中にある無意識が、世界中で受け入れられ聖書に次ぐベストセラーになっていることは、人間精神の極みに在る普遍 的なるものに振れていることを物語るものである。セルバンテス自身は、自分の作品がそこまでの奥深いものであることを意識していなかったに違いない。とど のつまり、「ドン・キホーテ」の中には神の声があるということか・・・。

だからこそ、ドン・キホーテの最後の独白の解読は大切なのである。

正気に戻ったキハーノは、まず従士として付き従ってくれたサンチョ・パンサに向けて語り始 めた。それは率直な感謝の言葉であった。

・・・わたし と彼のあいだにいささかの貸借関係はあるものの、彼にその清算を求めたりしてはならない、・・・それどころかこちらが支払うべき支払ってのち、なお残金が ある場合には、それをすべて彼に与えてもらいたい。・・・わたしは狂人であったとき。彼を島の領主にするために努力したが。正気に戻った今でも、できるこ となら。彼に一国の支配でさえゆだねたいと思っている。実に単純で素直な性格と誠実な人柄は十分それに値するからである。・・・友のサンチョよ、どうか赦 しておくれ。この世に遍歴の騎士がかつて存在し、今も存在するという、わしのおちいった考えに思いをおとしいれ、わしだけでなく、お前にまで狂人の思われ るような振舞いをさせて本当にすまなかった。」(前掲書 後篇(三) P407)


確かに狂気に陥った領主のキハーノが、各地を遍歴しようとして、一番迷惑をかけたのはサンチョ・パンサである。素直に、そのことを死の床で詫びようとす る。それに対してサンチョは、泣かせるセリフを吐く。

ああ、旦那 様!・・・おいらの大事な旦那様。この世で人間のしでかす一番でかい狂気沙汰は、別にたいした理由もなければ誰に殺されるってわけでもねえのに、ただ悲し いとか侘(わび)しいとかいって死に急ぐことですよ。(後略)」(前掲書 後篇(三) P407)


要するに、サンチョは、正気に戻った主人キハーノが、狂気に陥った自分を恥じ入り、死ぬ意思を固めているのではないかと思い、三途の川を渡らせないと必至 で説得をしているのである。

しかしキハーノは、己の死期というものを覚っている。自らが狂気に陥った根源にある「騎士道物語」の弊害を語り、これを呪うようにして、キハーノはあの世 に旅立とうする。

わたしの所有 する一切の財産は、・・・ここにいる姪アントニア・キハーナに譲るものとする。そして・・・わたしの家政婦に・・・給金をすべて支払ったうえ、加えて衣装 代として二十ドゥカード与えるものとする。・・・キハーナの結婚に関しては、まず相手が、騎士道物語とは何であるかさえ知らない男であることを確認したう えで結婚すべし、というのがわたしの意思である。」(前掲書 後篇(三) P410)


もしも姪が、騎士道物語を知る者と結婚した場合には、遺言執行人は、姪から財産をすべて没収し、慈善事業に寄付する事と遺言状には書き記されることになっ た。

最後の力を振り絞って、キハーノはしゃべった。

ドン・キホー テ・デ・ラ・マンチャの武勲 続篇」という題で世に出まわっている物語の作者といわれる人物に合うような機会があったら、わたしになりかわって、できるだ け丁重に詫びていただきたいということです。つまり、知らなかったこととはいえ、あの本に書かれているような途方もないでたらめを彼に書かせる契機となっ たのはあくまでもこのわたしなのですから、どうか赦してもらいたいと、言ってほしいのです。実際わたしは、彼にああいうものを書く動機を与えたことを悔や みながらこの世を去らんとしております。」(前掲書 後篇(三) P410-411)


このドン・キホーテの贋作とされる「続篇」の作者へ詫びて欲しいというのは、セルバンテス一流のアイロニカル(皮肉っぽい)な表現だ。「詫びる」という表 現を使いながら、その贋作作者をこき下ろしているのである。同時にそれは、自分がせっかく、「ドン・キホーテ」という一作によって「騎士道物語」を一笑に 付そうとした思わくが打ち砕かれて、お笑い版「騎士道物語」ともいうべき一潮流を作ってしまったことに対しての作者自身の自責の念も含まれていると考えら れる。

ともかく、正気に戻ったキハーノは、この遺言を認(したた)めさせた後、意識混濁に陥り、 カソリック特有の秘跡(サクラメント)を受け、三日後、サンチョや姪、家政婦、司祭ほかの友たちに見送られて従容として死を受け入れたのであった。

8 結語 本物の狂 気について

さて改めて、アロンソ・キハーノを狂気に落とし込めた「騎士道物語」の熱狂の本質について 考えてみる。端的に言って、騎士道の根底にある精神は、戦 への渇望にあると思われる。騎士は戦によって、己自身の出世と栄達というものを得られる。騎士道はある種の倫理観を伴いながら、「戦への渇望」という生々 しい現実をオブラートに包む役割を果たした。事実、騎士道の最盛期というものは、七度にわたる十字軍のエレサレム遠征というものを頂点として、ローマ時代 からのゲルマン的傭兵精神とキリスト教的倫理観が混じり合って、出来上がったひとつの空気というべきか精神風土(エートス)なのである。

十 字軍の第一次遠征(1096-1099)の熱狂は、聖地エレサレムを奪回するというひとりの狂信的な僧侶の呼びかけに始まり、わずか一ヶ月余りで、全ヨー ロッパに拡がりを見せて、我も我もと、十字軍という巨大な軍隊が構成されたものである。1099年、エレサレムに入った十字軍は、無抵抗な市民を殺害し、 女性たちには乱暴を働き、様々な財宝をヨーロッパに運び去ったのである。

それからほぼ二百年間、十字軍とイスラム軍は血みどろの抗争を繰り返すことになる。結局、騎士道精神とは、この十字軍の遠征において培われた精神風土なの であり、それをデュ・ピュイ・ド・クライシャンは、「騎士道」このように簡潔に説明している。

騎士道とはキ リスト教徒たる武士の友愛精神であった、各人はその同輩の一人によって騎士に参加すべくよばれ、よばれれば、騎士として万人から認められる制度であった。」 (川村克己・新倉俊一訳 白水社 文庫クセジュ353 P11 1963年刊)


セルバンテスが書いた「ドン・キホーテ」は、もちろん十字軍のような心底熱狂的で抗戦好きという十字軍的な騎士に憧れたものではない。それは各地を遍歴し ながら、恋をし、騎士道の忠誠や勇気や名誉、寛容というムードに酔って、自分を騎士と思うようになったものである。つまり、善良な老人キハーナの陥ったさ さやかな狂気の奥に本当の怖ろしい狂気が眠っていることを、セルバンテス自身は薄々気付いて、これに警鐘を鳴らしているということが言えるのではなかろう か。

セルバンテスの少し前の世代のコルテス(1485?-1547)は、スペインの下級貴族出 身の人物であったが、大航海時代の夢と冒険を求めて新大陸アメリカに渡り、メキシコにあったアステカ文明を滅ぼして大量の黄金をスペインにもたらした。

同じくピサロ(1475?-1541)は、ペルーのインカ帝国を滅ぼして財宝を奪い、地元 の人々を友愛や博愛とは無縁の残虐なやり方で滅ぼして財宝を自国に持ち帰ってきた。

結局、騎士道がむき出しのままで猛威を振るった時、ドン・キホーテのようなささやかな狂気 ではなく、目を覆うばかりの残虐性を滲ませた本物の狂気が歴史となって現れるのである。

聞けば、コルテスもピサロも一個人としては、必ずしも残忍で好戦的な人間ではなかった らしい。特にコルテスなどは、マルモンテル著の「インカ帝国の滅亡」 (岩波文庫 赤592ー1 1992年刊)などによれば、非常にストイックで理性的な人物だったようだ。まさかこの人物が、黄金に目が眩んで、狂ったよう に異民族を収奪するとは思えない。ところが結果から言えば、彼らは間違いなく狂気を演じて虐殺と収奪を神の名により、スペイン国王の名によ り、実行しているのである。私はこれこそが本物の狂気の正体かも知れないと思う・・・。

セルバンテスの小説「ドン・キホーテ」は、人類の精神史の中で、人間の奥底にある怖ろしいものを、小さな狂気を扱うことで気付かせる役割を果たした大作と いうことが言えるのではないだろうか。 了


9  付録 ド ン・キホーテは笑えない

人にはどこか他人さまの愚かな一面を垣間見てほっとするようなところがある。例えば落語の 「はっつあん・くまさん」の間抜けな掛け合いや漫才師のボ ケとツッコミのとぼけた会話に、思わず、「バカだね?」といってニンマリしたりする。

これは間抜けな他者の行動やセリフによって、それを聞く者が癒され、それが笑いに結び付いたものである。芝居の喜劇もこの原理を応用したもので、「愚 (ぐ)」というものを通じて、笑いを誘うように、ストーリーが構成されたものである。日本における伝統芸能の狂言もやはり笑いを誘うために、工夫された高 度な「可笑し味」を味わう芸事である。

考えてみると、小説「ドン・キホーテ」も人間の愚かさを扱って史上空前のベストセラーとなった長編小説だ。タロットカードに「愚者」(フール)というカー ド がある。絵柄はヨーロッパ中世の格好をした若者が、木を肩にかけて、どこかに旅に行くような呑気なもので、以下にも愚かな青年の面もちだ。

ドン・キホーテの場合は、身分もとりあえず田舎の領主ということで下級貴族の出自で、一般市民からすれば、格上の人物である。それが時代錯誤の中世騎士道 に憧れた挙げ句、現実と虚構の見分けが付かなくなって、騎士の格好をし、従者まで付けて、遍歴の旅に出るというのだから、もうそれだけでも笑みが自然とこ ぼれてくるのである。しかもドン・キホーテは若者ではない。分別盛りの紳士である。それが次々と考えられないようなドジを踏むのだからたまらない。

さてそこで作者セルバンテスの本意について少しばかり考えてみる。笑いによって彼が言いたかったことは、愚かさのなかにある真実ではなかったか。それは、 「ドン・キホーテは、作者の私であり、読み手の君そのものの姿ではないか!?」という主張である。

しかし読み手は、「ドン・キホーテと私は違う。そんなに私は愚か者ではない。」という区別によって、笑いの世界に入っているのである。古今東西、すべての 笑いの芸というものは、癒しを誘発するように構成されており、そのセオリーに沿って、人々は笑いと癒しを感じるのである。ところがセルバンテスは、本来癒 しというよりは、私たち人間の中にある愚かさというものを、ドン・キホーテという作品の中で、これでもか、これでもか、と見せつけているのであって、従者 である農夫サンチョ・パンサは、愚かな者に巻かれて、共に愚かに走る庶民の悲哀を描いていると思われる。

つまりサンチョは、愚かなリーダーにどうしようもなく翻弄される者の象徴であり、例えばナチスドイツのヒトラーの口車に乗せられて、ナチの片棒を担いだド イツ国民の象徴でもある。あるいは南米の古い文明を破壊しつくし、その富を祖国スペインに持ち帰ったコルテスやピサロがドン・キホーテならば、サンチョ・ パンサはその怖ろしい略奪と大虐殺の行為を熱狂的に支持したスペイン国民である。

人はドン・キホーテを愚かというが、20世紀における狂気のドン・キホーテをヒトラーとするならば、20世紀最高の哲学者と言われるマルティン・ハイデ ガー(1889-1976)は、ナチに入党していた(?)という真実によって愚かなサンチョ・パンサということになる。何故、現代最高の知者が、愚かな者 に簡単に謀(たばか)られてしまうのか。そこにこそ「ドン・キホーテ」という可笑し味の物語に内在する本当の怖さはある。

さてこのようになると、愚かさということの定義が、すこぶる難しいものになる。ドン・キホーテは私であり、人間すべての心の中にそのようにあり得る、ある いは支持に回ってサンチョ・パンサにも成り得る。ここまで来ると、可笑しさは、怖さに変わる。もはやドン・キホーテを笑えなくなる私が存在するのである。

10 付録 ドン・ キホーテと現代

-現代のドン・キホーテは誰か?-

ドン・キホーテが、騎士道物語を夜も昼も読みふけって、現実と空想の世界の見分けがつかなくなり、ついには空想の世界に現実の自分を置いて、遍歴の騎士の 格好をし、クレージーな旅に出たのは周知のことである。

この騎士道物語というものを現代のインターネットの世界に置きかえてみると、現代にはインターネットそのものやインターネットゲーム、インターネットオー クションにはまっている人間が多いのだから、現代におけるドン・キホーテは、いっぱい居そうである。

2006年を賑わした「ライブドア事件」のホリエモンこと「堀江貴文」容疑者もそのひとりだ。

ただ彼と小説の主人公との性格上の大きな違いは、強い正義感や恋愛に対するロマンティシズムがホリエモンには感じられないことだ。その一点で、ホリエモン を現代のドン・キホーテとみることに、大きな違和感を持つ人もいるだろう。

ホリエモンは、今年で32か33歳の若者だ。学生時代から小さなホームページ作成会社(「オン・ザ・エッジ」)を設立し、そこからインターネットブームの 追い風を利用し、あれよあれよという間に、ナスダックに上場を果たしたものである。企業買収という強引な手法を使い、証券上場基準の大幅な緩和の恩恵を最 大限に利用したその手腕は、時代が生んだとは言え、彼に夢を賭け、群がった投資家の気持ちも分からないではない。

こうして彼は、わずか10年足らずで、買収した会社「ライブドア」をエンジンにして、「時価総額世界一を目指す」と、大言壮語をブチ上げるまでになる。世 間の注目を一身に集めた彼は、プロ野球の買収を試み、これが楽天にさらわれると、フジサンケイグーループ傘下のニッポン放送を買収するような動きに出る。 当事者の年長者は慌て、彼に夢を託す投資家たちは歓喜した。

不思議に思うのは、彼がインターネット技術を売り物にする企業のトップとは思えない言動を繰り返してきた。「時価総額世界一」というスローガン(?)がそ れだ。彼の手法は、とにかく雪だるま式に企業買収を繰り返し、大きな企業グループになろうとしたのであって、「マイクロソフト社」や「アップル」のように 技術志向の世界的企業を志したわけではない。私は彼にまったくのロマンを感じない。ここにホリエモンの虚偽的体質が露呈しているのであり、「おかしい」 と、ならなければいけない。

言うならばホリエモンは、「品格を欠く現代のドン・キホーテ」であり、ホリエモンの起こした企業の社員も投資家も、これを「異能の経営者」と錯覚し、彼に 一攫千金の夢を託して「現代のサンチョ・パンサ」となってしまったものである。

人のウソを見抜く眼は、意外に単純なところにある。その人物のひとつの言葉、繰り返される言動の中に、ヒントが眠っているのだ。ホリエモンの場合は、場違 いな「時価総額世界一」という言葉である。今になると、「なるほど」と、なるが、当事者で、連日のようにマスコミが新興企業の寵児として持て囃している最 中にあっては、その言葉の本当の意味を見抜くのは容易ではない。

結論である。現在、「ライブドア事件」は、公判中で、検察側は、ホリエモンに懲役四年の求刑をしている。これに対し、肝心のホリエモンは、ほぼ一貫して 「自分は知らなかった。無実」との主張を繰り返している。そして自分が「時価総額世界一」という思いに駆られて、危ない橋を渡ったことをやりすぎただった と反省するどころか、ますますその鼻息は荒くなっているように見える。彼は、小説のドン・キホーテのごとく、自らの行動を深く反省し、周囲に詫びる度量は どうやらなさそうだ。ホリエモンは懲りていないのである。もっと言えば、狂気から醒めていないということになる。確かに、こうなると彼を現代のドン・キ ホーテとみることは、狂気から覚めて亡くなった本物のドン・キホーテに対していささか失礼であるかもしれない。


11 付録 私の中のドンキホーテ

ロシアの文豪ツルゲーネフ(1818-1883)によれば、人格にはドン・キホーテ型とハムレット型に分かれるという。ドン・キホーテ型は、言うまでもな く、現実を忘れて独りよがりの正義感をもって、非常識とも思えるような行動に出るタイプである。それに対してハムレット型は、シェイクスピアの「ハムレッ ト」のように、思案ばかりが先行するが、一向に行動に移さないで優柔不断なタイプを言うのである。

ツルゲーネフは、1860年の講演で次のように語っている。

「『ドン キホーテハムレット・・・(中略)。私には、この二つのタイプの中に人間の本性の根本的なしかも相反する二つの特 質が具現されているように思われます。人間の本性がそれをめぐって廻転する同じ軸の両端なのであります。私には、あらゆる人間が程度の差こそあれこれら二 つのタイプのいずれかに属し、我々のほとんど一人一人があるいはドン キホーテの方に、あるいはハムレットの方に外れているように思われます。なるほど現 代においては、ハムレットの方がドン キホーテよりも甚だしく多数になりましたが、しかしドン キホーテも死に絶えているわけではございません。」 (河野與一訳 「ハムレットとドン キホーテ」 岩波文庫 1955年刊)

ツルゲーネフの話は確かに説得力がある。ハムレットとドン・キホーテは、思索型と短慮型に分かれる。後にツルゲーネフは「完全なハムレットもドン・キホー テもいない」旨の説明するが、人間には二つの面を持っているが、問題はどちらの側面が多く一人の人格の中に現れているかだ。要は程度の問題なのである。そ れで、深い考えもなしに行動しては、とんだ物笑いのタネになるが、考えてばかりで、行動に出ないのも、イライラしてくる。

さて自分は、どっちのタイプだろうと、考えてみる。大方の人間は、どっちというよりは、どちらの性格も兼ね備えていて、何かの切っ掛けで、ドン・キホーテ になってみたり、ハムレットになってみたりするというのが普通かもしれない。

ドン・キホーテは、イメージからすると、知的な人物というよりは、深い思慮なく行動する短慮の人間と考えてしまう。しかし実はこれは間違いで、もともとド ン・キホーテは、キハーダという地主でインテリのオヤジであった。しかし彼は、当時流行の騎士道の読み物が大好きになって、田畑を売ってまで、これに病み 付きとなり、自分もこの騎士道という道を貫いて生きてみたいと思うまでになって、あのように風車を巨人と思って突進していくようなバカ者になってしまった のである。「騎士道オタク」といえば聞こえはいいが、あまりにのめり込んで、自分を騎士と思い込んでしまったのである。

考えてみれば、このようなドン・キホーテ的な危険というものは、誰にでもある。それは社会や国家にもある。つまりは自分が理想とする姿があまりにも素晴ら しく見えて、自分をそれと結びつけることによって、人も国家も、狂気を演じることがある。

第二次世界大戦の最中で起こったことは、セルバンテスの小説「ドン・キホーテ」のように、愉快に笑い飛ばしては済まない空前の悲劇を生んだのである。ドイ ツにおいて、ヒトラーは、ドイツの恐怖のドン・キホーテとなり、イタリアにおいては、ムッソリーニがドン・キホーテを演じた。日本においても東条英機がド ン・キホーテとなり、日本人もまた「軍国主義」という狂気に陥って、三百万人以上の、戦争犠牲者を出すという悲劇を招来したのである。ドン・キホーテの郷 土の誰もが彼の狂気を止められなかったように、日本人の誰もがハムレットになってしまって思案ばかりに暮れてしまい、国家の暴走を止められなかった。、

セルバンテスが描いた「ドン・キホーテ」という小説が、今日まで全世界において、聖書の次に愛読されるている永遠のベストセラーとなっている理由は、その ように滑稽で愉快な「ドン・キホーテ」という人物に凝縮されている人間の見えない狂気(潜在意識)が描かれていることにあると私は考える。

不思議なことにセルバンテス(1547ー1616)とシェイクスピア(1564-1616)は、同時代の作家で、死んだ日が一緒だそうだ。実際には、十日 ほどの差があるようだが、この偶然の一致は、人間の叡智というものの発展における共時性(シンクロニシティ)を暗示しているものかもしれない。

ハムレット型のタイプは、仇である叔父の王に、ニセの狂気を装って事実関係を調べるのだが、なかなか復讐という手段に訴えられず結局は、恋人を失い自分も 復讐を遂げた後に死んでしまうのである。

第二次大戦において、日本社会にも、ホンモノの狂気に振れたドン・キホーテ型の人間と狂気に振れていないのに、狂気に振れたフリをして、ホンモノの狂気の 横行を許した社会風潮があったのではないかと思うのである。

セルバンテスは、この「ドン・キホーテ」を書くに当たって、騎士道という作られた美談を笑い飛ばして、正気ということの意味をまず世に示したかったのであ る。このことは「ドン・キホーテ」の序文にも明確に記されている。

とすれば、騎士道という一見美しい美談に装われたロマンチックな熱狂が、一人の「ドン・キホーテ」を生み、周囲をトンでもない騒動に巻き込んでしまうとい う、一連の流れが、日本における軍国主義の戯画(カリカチュア)にも見えてくるのである。

私の中にも、「ドン・キホーテ」が潜在しており、現代にも「ドン・キホーテ」になりうる人間は多くいる。


12 付録 日本にお けるドン・キホーテの変容

 松尾芭蕉は日本のドン・キホーテ?!

松尾芭蕉は、日本のドン・キホーテである」と言ったら、多くの人は笑うかもしれない。考 えて見れば、芭蕉と曾良は、あの余りにも騎士道物語を読みふけった挙 げ句、正気を失って、サンチョ・パンサという御者を引きつれて、遍歴の旅に出たドン・キホーテとよく似ている。

そう言えば、芭蕉も「風狂」ということを言った。「野ざらし紀行」の冒頭には次のような有名な句がある。、

野ざ らしを心に風のしむ身かな

この句には、芭蕉の風狂の心が詠み込まれている。この「野ざらし」の句は、己が旅の途中で野垂れ死んで、骨となって野に晒されて様をイメージして詠んだ覚 悟の句だ。良く「旅」と「句作」に狂うという境地が表れている。

このように「風狂」とは、風雅の道に狂うことである。「風雅」は、大きく言えば、詩歌の道のことで、芭蕉にすれば、俳諧というものに耽溺(たんでき)する ことをいったものだ。同時に風雅は風流にも通じ洒落た生き方という意味も含んでいる。

とかく現代日本で、芭蕉というと「俳聖」とイメージが強く、聖人のように捉えて、ひな壇に祀ってしまう傾向がある。風狂の旅としての「奥の細道」をもう一 度考えた時、まったく新しい別の芭蕉の姿が出てくる可能性がある。果たして、芭蕉は、どこがどのように、ドン・キホーテと似ているのだろう。

岩波文庫本「ドン・キホーテ」を訳した故牛島信明氏(1940ー2002)は、「ドン・キホーテの旅」を、2002年秋に上梓し、すぐに旅立たれた。この 著の中に、「ポエジーに命を賭ける」(サブタイトル”芭蕉とドン・キホーテ”)という章がある。

「・・・芭蕉もドン・キホーテと同じく旅のなかにおのれの使命を見出してそれを実践し、旅において死んでいるのである。なるほど二人とも最後は床に就いて 死んでいるが、象徴的に見れば旅の中で死んでいるということができる」(同書 P163)

風狂を示す句をもうひとつ上げる。

狂句木枯の身は竹齋に似たるかな
(佐藤訳:狂句をひとつ。自分がこうして木枯らしに吹かれて旅をしながら、狂ったように句作に励む姿は、あの竹斎 の姿に似てきただろうか?)

これも「野ざらし紀行」の中にある句だが、訳をみても何だか分からないかもしれない。しかも「狂句」という五字が字余りを生み、破調である。昔からこの 「狂句」を取り去って「木枯らしの身は竹斎に似てるかな」とする考え方もある。しかし芭蕉は、「野ざらし紀行」の出版の際に頑として「狂句」を前に置いた のだから、このままで鑑賞すべき句である。おそらく芭蕉は、この破調によって自らの「風狂ぶり」を天下に知らしめす意図があったのではなかろうか。

実は「野ざらし紀行」には句しかないが、「冬の日」(1684刊)には次のような詞書き が添えられている。

笠は長途の雨にほころび、紙衣は泊まり泊まりの風に揉めたり、侘びつくしたる侘び人、我さへあはれにおぼえける。むかし狂歌の才士、 この国にたどりし事をふとおもひ出でて申し侍る。

(佐藤訳:笠は長雨打たれてすっかりボロボロ となり、紙の如く薄い着物は旅から旅の風に揉まれてヨレヨレとなった。たいていのことでは気落ちすることのない私ではあるが、今回の旅ではさすがに情けな く思うほどである。そう言えば、昔歌狂いの人物が、この尾張の辺りに辿り着いた時のことをふと思い出して私も次のような狂歌ならぬ狂句を詠んだのであ る。)


これでよく話しが呑み込めたと思う。この「竹斎」(ちくさい)とは、富山道治という人物の書いた仮名草子の主人 公で架空の人物ある。この本は、当時のベストセラーで、山城国(京都)のやぶ医者「竹斎」は、狂歌の才には長けているが、医術の腕前は並み以下だった。食 い詰めた竹斎は、お供に家来の睨ノ介を連れ、京都から東海道を江戸へ向かうのである。道 中、騒動を起こしながらその度に狂歌を詠み滑稽な話しである。この著者の富山道治は、セルバンテ スのドン・キホーテから着想を得たと言われている。もしかりに芭蕉が、この物語に触発され、「風狂」という言葉を思いつき、野ざらしも厭わず、放浪に明け 暮れた人生を送ったのだとすれば、芭蕉を日本のドン・キホーテと考えることは、まんざらの大ホラではないということになる。

ドン・キホーテは、騎士道に恋い焦がれ、ついにその主人公のアマディス・デ・ガウラに自分を擬して、遍歴の旅に発ったものである。それに対して、芭蕉は風 雅の道に憧れ、西行法師という理想の歌人を自分になぞられ、まさに俳諧の道のドン・キホーテとして、従者サンチョならぬ曾良を引きつれて「奥の細道」の旅 に発つ。その旅先には、旅の折々、風雅の道の師である西行の足跡が至るところに遺されている。

先に紹介した「ドン・キホーテの旅」で、著者の牛島氏は、こんな面白い指摘をしている。それはドン・キホーテが風車を巨人と勘違いして立ち向かって跳ね返 されるイメージを、芭蕉が栃木の芦野にある遊行柳を見て詠んだ句のエピソードを上げて比較していることだ。

つまり芭蕉にとっての風車が「遊行柳」という名所だということになる。

芭蕉はここで、

田一枚植ゑて立ち去る柳かな

と詠んだ。実はこの句は、次の西行の歌に対する返しの句だと言われている。

道の辺に清水流るる柳陰しばしこそとて立ち止まりつれ

である。西行は、何気ない道の辺に清水がこんこんと流れでる遊行柳があるから、少しの間立ち止まってその謂われなど読んでみなさい。という歌を作った。そ れに対して芭蕉は、丁度田植えの季節の頃、農民が田植え歌を歌いながら農作業に勤しんでいるその田んぼの中に遊行柳があるのを見つけた。そこで芭蕉は、し ばし立ち止まれ、という西行に、田一枚植える間、実はじっとこの遊行柳の前にかなりの時間いたのであるが、これを表現としては、田を一枚植えて間見て、立 ち去ることにしましたと、洒落ているのである。

遊行柳には私も何度も足を運んでいるが、本当に田んぼの真ん中にある。こんもりとして森のようになっている。奥には神社がある。確かに形状をとれば風車の ようにも見える。したがって牛島氏の指摘にはうなずけるものがある。この遊行柳は、能の演目にもなっている。名跡で、何でも遊行上人が白河の関を過ぎた 時、不思議な翁に出会う話である。実はこの翁は老木の柳の精というわけである。

この二つ話しをイメージの力で結合させるように牛島氏は、芭蕉とドン・キホーテを次のように語る。

風車を巨人とみなしたドン・キホーテ、そしてありきたりの柳のなかに西行法師の影を認めて感慨 に浸った芭蕉。二人ながら、ある対象のなかに世間一般の人間には見えないものを見ていた、つまり幻視の力を持っていたという意味において狂人だったのであ る(中略)別の言い方をすれば、二人は洋の東西において文学(ポエジー)の力の普遍性を実証するために命を賭けた人間だったのである。」 (前掲書 P173ー175)

芭蕉は、旅の途中で、病気になる。そしていよいよ死期が迫った時、次のような有名な句を詠んで亡くなった。

旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る

それに対して、ドン・キホーテは、最後の時にこのように遺言をして亡くなった。

たしかにわしは狂人であったが、今では正気に戻っている」(岩波文庫版牛島信明 訳「ドン・キホーテ後篇三 P408)

松尾芭蕉は、風雅の道に狂おしいほどの思いを抱いて旅の果て風狂の道を貫いて客死した人 であった。一方、ドン・キホーテは、「騎士道」という道に恋い焦がれ「狂人」として旅に 出ながら、最後には正気を取り戻し、自宅の寝室で亡くなった。ド ン・キホーテには、死の床において、騎士道に狂った自分への自省の念があった。そして彼はドン・キホーテという仮面を脱ぎ捨て、アロンソ・キハーノという ひとりの人 間として亡くなったのである。しかし芭蕉には風狂に対する自省の念など微塵もなかった。言うならば芭蕉はドン・キホーテよりもドン・キホーテを貫いて「風 狂の人」 として亡くなったことになる。

もちろんこれは蛇足であるが、芭蕉の風狂とは、狂気が彼の精神を支配していたということを意味しない。風狂とは、彼の句作への
「普遍不動の熱い思い」を象徴する言葉なのである。

そのことを証明するように、芭蕉は先の「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」の句を詠む少 し前に、

この道や行く人なしに秋の暮れ

と風狂の道を行くことの孤独をポツリと詠んだのであった。この句は、芭蕉の最後の心の有り様(孤独な本音)をよく伝えている名句だ。それにしても「風雅に 狂う道」を行くことなど、口で言うほど簡単なことではない。風狂の道は修 羅の歩く道である。
その後、 俳諧は芭蕉の切り開いた道を踏み固めて大きな道となっていったが、厳しく言えば、芭蕉が西行法師などの先人の意思を受けて切り開いた風狂の道を真に覚り、 それを志す者など容易に現れるはずもない。弟子が全国に何百人いようとも、またその弟子が弟子を作って宗匠となり、したり顔で芭蕉の風雅の道を語ったと て、 それは所詮芭蕉の風狂を歩くこととは違うことなのだ。芭蕉は正気という知性と鉄の意思力をもって風雅に狂い狂い狂い抜いて風雅の道に殉じた真の芸術家で あった。確かかの葛飾北斎(1760ー1848)もまた自らを「画狂老人卍」などと称し、画に拘泥する自身の境地を「画に狂う老人」としたのである。

芭蕉が本当に遍歴の騎士「ドン・キホーテ」の物語を知っていたかどうかは正直に言って分からない。ただこの物語が、何かを強烈に思うという意味においての 「狂」と いうことや全てを捨て去って「遍歴の旅」に出るということなど、普遍的なテーマを含んだ物語であるということだけは言える。遠く離れた日本とスペ インではあるが、やはり人の心には文化を媒介とする地下水脈があるということだろう。まさに松尾芭蕉は、日本のドン・キホーテというよりも、本家スペイン のドン・キホーテよりも「狂」の道を貫き通した真に「ドン・キホーテ的」なる人だったということである。




2001.12.18
2007.01.20

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