写真展木村伊兵衛と土門拳を観て

-日本人がキラキラと輝いていた頃-
 

昨日、有楽町の朝日ギャラリーで開かれている写真展「近代写真の生みの親-木村伊兵衛と土門拳」に行った。

そこには、戦後の懐かしい日本や日本人が写っていて、何ともいえない郷愁を感じた。戦争に負けたはずなのに、日本と日本人が生き生きしている。貧しいカッコウをだが、ちっとも貧しさは感じない。

今とはまるで逆のような気がした。戦後が朝ならば、21世紀になったばかりの今は、夕暮れのようだ。日本と日本人は、戦後のめざましい復興期を経て、経済的には確かに豊かな社会になった。着ているものも、写っている建物もまるで違う。

何が違うといって、特にやはり子供たちの目が違う。戦後の子供の目は、みんな目がきらきらと輝いている。特に紙芝居の前に群がっている子供たちの興味津々の目は、今の子供たちにはないいい意味でのどん欲さが浮かんでいる。写っている子供たちは、一様に痩せている。栄養状態が、今とはまるで違っているためだろう。それでも、戦後の子供たちの目には希望が溢れている。そして何よりも、今の子供たちが失ってしまった子供らしさがある。

私は、写真の中で、特にメンコやコマで遊ぶ子供たちの写真に惹かれた。その場面の中に、すぐにでも入って行けるような気がした。傍らでは、背中に風呂敷を巻き、手には棒きれを持った子供が、近藤勇と鞍馬天狗に扮してチャンバラをしている。

また、梅原龍三郎、イサム野口、志賀直哉、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などの画家、建築家、小説家などの写真もある。アップで撮った川端の目を剥いた表情には、狂気が宿っていて、得体の知れない怖さがある。それぞれ立派な顔をしている。今の日本人の顔は、たいそう貧相になったと嘆いてしまう。

まさに、写真というものは、真実を伝える歴史の資料であると同時に、アートでもある。戦後の時代を活写したふたりの写真家の写真家魂が、写真の一コマ一コマから、強烈なメッセージを発している気がした。

今でもこそ、写真というものは、誰でも楽しめるものになってきたが、一昔前は、写真館で撮ってもらうものだった。いい写真を撮るには技術がいった。しかし今は、カメラの性能が上がり、アングルさえ決まれば、偶然だろうが、何だろうが、とにかく、ピントのあった写真が撮れる時代となった。

しかし、だからこそ、写真には、「この一コマを何故撮って残すのか」という思考がいるような気がする。写真というものを生涯において究めようとした二人の写真家の戦後の写真を前に、明日の日本と日本人のことを思った。この写真展は、3月3日まで同会場で、催されている・・・。

佐藤

 


2004.2.26
 
 

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