百目鬼・さて何と読む

 

ふと「百目鬼」という字が目に付いた。

しかし読み方が分からない。まあ名字か、妖怪の名だろうと軽く検討をつけて、三省堂難読辞書に目を通して、何とか「どうめき」と読む字だとわかった。そこで意味を知ろうと、明解国語、岩波国語、広辞苑、字通、と目を通すが、見あたらない。段々焦りが出る。そこで古語辞典辞典を三冊ほど、漢和を二冊ほど目を通すが駄目である。更に大塚民俗学事典にも目を通すが見あたらない。柳田国男の「妖怪談議」にもない。水木しげるの妖怪ものを引っ張り出すが見あたらない。中国の妖怪辞典とも言える「山海経」にもない。時は既に夜中の一時半となっているではないか。知りたいという意欲は募るばかり、寝付かれないまま、白々と夜が明けて、飢えたカラスがやかましく鳴いている。悔しさは募るばかりだ。

うーむ、と考えながら、布団を上げて、最近出版された一冊の本が頭に浮かんだ。「妖怪事典」(村上健司著 毎日新聞社2000年4月20日刊)という本である。早速、昼にこの本を立ち読みして、全てを知ることができた。別に暗記したので買うまでもなかったが、著者に敬意を表して買うことにした。

百目鬼は、どうやら「瀬音」や「淵の音」に関係する地域の地名らしい。ドウメキはドメキとも読み、百々目鬼と書いて、ドドメキとも読む。各地にあるトドロキの地名もここに由来するようだ。そのトドロキは「轟き」と表記することもある。確かに世田谷区にも等々力という地名がある。ここには等々力渓谷という美しい涌水が流れている場所がある。おそらく等々力の地名は、この渓谷の瀬音に因んで付けられたものであろう。

また「ATOK13」で「ドメキ」あるいは「ドウメキ」と入力すると、確かに「百目鬼」と変換してくれる。これは全国にこの「百目鬼」という名字が残っていることの証である。

ところで、宇都宮には、こんな伝説が残っているらしい。
 

今から千年も昔、平将門という武将が、時の朝廷に反旗を翻して、下総国猿島(現在の茨城県の猿島)において、自らを新天皇と名乗って即位しようとしたことがある。しかし無理は通らないもので、将門は朝廷から派遣されてきた藤原藤太秀郷らの尽力によって、討ち滅ぼされてしまった。この藤原藤太秀郷は、若い頃は、たいそうな乱暴者であったが、近江において大百足(おおむかで)を退治して一躍名を馳せた豪傑で、その腕力を期待されて、東国の平将門の乱に派遣されたのである。その秀郷が、下野国(現在の宇都宮市大曾あたり)に差し掛かった時、突然白髪の老人が現れて、秀郷にこう言ったそうだ。

「そなたは、万民のために、悪鬼を退治されにきたと聞く。大曾村にその悪鬼があらわれる。そこでしばし待たれよ」

秀郷が、その場所まで行くと、ただならぬ雲行きとなり、風が吹いて、その百目鬼という悪鬼が現れたのであった。身の丈は3mばかり。手には百もの目を持って、すごんだが、すでに大百足を退治した秀郷にとっては、物の数ではなかった。さっと弓を引いて、矢を放つと、百目鬼の心の臓に突き刺さって、苦しみながら逃げていった。秀郷の部下達は、その後を追って、明神山の辺りまで行ったが、百目鬼は最後の力を振り絞って、体から火炎を吐き、近づくことが出来ない有様となった。

そこに本願寺の智徳上人という僧侶がやってきて、法力をもって、「汝、我が法力により得度せよ」と呪文を唱えると、百目鬼から発していた炎は消えて、人の姿となって、死んでいった。以来土地の人々は、その地を百目鬼と呼ぶようになったというのである。


私なりにこの百目鬼という鬼の話を推理してみると、どうも藤原藤太秀郷の平将門の乱を平定する過程での、戦さを鬼退治の伝説として抽象化したもののような感じがする。近くには百目鬼川という川もあり、反乱軍である平将門一派との戦の凄まじさが偲ばれるエピソードである。悲しいことだが、破れた方は鬼となって残るしかなかったのかもしれない。佐藤 

追記
藤原藤太秀郷の子孫たちは、その後、関東から東北一円に広がって、秀郷流と言われるような一族を形成する。奥州藤原氏もその流れを汲み、佐藤一族もまたこの豪傑藤原藤太秀郷の流れを汲んでいる。
 


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2000.5.26