水晶のドクロの秘密

 
 

1927年、南米のマヤ遺跡の中から、不思議な水晶のドクロが発見された。いったい何のために、使用されたのかは今もってわかっていない。ただこの水晶のドクロを作るために、何百年もの間、研磨されたものであるということだけは判明している。おそらくこの水晶は、その道のつかさどる家の者が、親から子へ、子から孫へと受け継がれて、現在の輝きにまで達したのだろう。

最高の品質の水晶を使い、その水晶の性質を熟知した研磨のプロが、幾世代にも渡って磨いてこそ、世界に二つと存在しない人類の宝は完成した。最初に水晶を手にした者は、気が遠くなるような、完成の時間を思い、きっと心が震えたにに違いない。彼は、きっと自分の子孫達が、この作品を完成させてくれることを信じて死の間際まで、心を込めて磨き続けたのだ。その子孫達も父や祖父の、人生を思いながら、また同じように、ただ磨き上げるだけの人生を送り、そして死んでいった。

この水晶を手にした者は、何故か、心を洗われるような感覚を持つという。それは当然だろう。何人もの才能ある人間達が、気の遠くなるような時間をかけて、一心にこの水晶を磨いたのだ。気が入り、魂が宿っても一向に不思議はない。

つまり「私のマスクを見よ。生きているあなたもかなわないその輝きを。死とはあなたが単純に思っているような恐怖の世界ではない。生だけが美しいのではなく、死もまた美しい。なぜなら死とは新しい生への入口なのだから…」と。そもそもドクロとは、死の象徴であり、人間が誰しも皮膚の奥にしのばせている真実の姿だ。そこに我々の常識を越えたこの水晶のドクロ創作の秘密があるような気がしてならない。

時の権力者が、なぜ皮膚のある人間の顔ではなく、「美しいドクロ」を作らせたのかは永遠の謎かもしれない。しかし私は感じている。もしかしたらこのドクロは我々に、こう語りかけているのかも知れない。

人の一生もこの「水晶のドクロ」のようなものだ。つまり人も水晶も磨かれてこそ、初めて価値ある存在となる。人は水晶の原石にすぎない。磨かれた水晶も美しいが、磨かれた魂も美しい。若い人間だけが美しいというのは表面の皮膚しか見ていない愚かな人間の幻想そのものだ。佐藤
 


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1996.12.4