映画「ダヴィンチ・ コード」論
ーイエスもダヴィンチも影すら 見えないハリウッド流娯楽映画ー


見終わった後で考えると、他愛もない広告に釣られて行った自分がアホに見える。そんな映画だった。

残念ながら、映画「ダヴィンチ・コード」は、真正な宗教に漂う完全性、静寂性、神秘性、神聖性というものが微塵も感じられない娯楽という現代の毒にまみれ た作品でしかなかった。

映画の無内容は別にして、この映画の興行的成功は、イエスの物語に登場する「マグダナのマリア」のという女性とキリストの「最後の晩餐」を描いたレオナル ド・ダヴィンチをストーリーの「素材」として使用したことによってもたらされたと言ってよい。

私はこの映画に、イエスキリストの内面の声やレオナルド・ダヴィンチという天才の真実を見抜く眼というものが、幾分なりとも盛られているものと期待した。

ところが画面に登場するのは、最悪のハリウッド製のドタバタ追跡劇そのものだった。まずルーブル美術館の館長が殺されるというところからストーリーは始ま るのだが、この映画の最悪のリズム感は、あらゆる宗教的美意識をあざ笑うかのようですらあった。

周知のように、イエスの生涯については、2000年という壮大な時間軸の中で形成されてきたもので一種の神話そのものとも言えるものだ。そこでは当然のご とく事実と創作が複雑に絡み合っているのである。ただひとつの真実は、自分の命を犠牲にしてまで、人類の魂を救済しようとしたイエス・キリストという人間 が生きていたことだ。

世の中には、素晴らしい人物というものが時々現れるものだが、そのひとつのモデルあるいは理想型として一歩前にいるのは、西洋で言えば、イエス・キリスト やソクラテスであり、東洋においてはブッダや孔子という人物になる。人は、彼らのような人物の死を厭わない献身的な生涯に感動を覚え、少しでも近づきたい と願う。

映画「ダヴィンチ・コード」には、謎解きのようなスリルはあるが、感動がない。感動がない理由は、作者が単にイエスをネタにして一儲けしてやろうとする魂 胆が、画面の端々に透けて見えるからだ。

およそあり得ないルーブル美術館館長の殺人しかも館長は、イエスの血脈を守る秘密結社に関係していたなどの設定は下品そのものだ。またパリの街を軽自動車 でバックで逆走したり、飛行機でチューリッヒ、ロンドンと逃げ回る主人公ラングトン(宗教学者)とイエスとマグダナのマリアの血を引くというソフィー(フ ランス司法警察暗号解読官)の息をつかせぬ逃亡劇には激しい違和感を覚えた。私にとってこのようなウソは痛快ではなく、白けてしまうのである。

それでも歴史という大きな視点で考えれば、どんなに下らぬ作品でもマグダナのマリアという伝説的人物の名誉回復の一環としては、それなりの意味があるのか もしれない。1968年ローマカトリック教会は、マグダナのマリアを名誉回復した。すなわちそれまで娼婦と呼ばれていたのを訂正したのである。

今回の映画「ダヴィンチ・コード」は、そうしたカトリック教会の流れを汲んで企画された娯楽作品であって、キリスト教社会に、大きな地殻変動を起こすよう な作品ではない。

それにしても、映像はフィルムの進歩で格段に良くなっている。また音声も素晴らしくなっているが、私はパゾリーニの「奇跡の丘」(1964年)以上のキリ スト作品を観ていない。人は映画を自分の魂の奥にある感性で捉えるのである。必要以上のゴテゴテとした現代風の虚飾や大音響はかえって、自己の内にある感 性と想像力を鈍らせがちだ。それは丁度、1940年代や1950年代のモダンジャズ創生期のアルバムと昨今のジャズアルバムの比較と似ているような気もす る。技術が進んだ分、作品から発する熱のようなものを少しも感じない。

結局、私が観たいと思ったイエス・キリストの真実もダヴィンチの思いも映画の中では影すら見えなかったのである。佐藤

2006.6.19 佐藤弘弥

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