ダライ・ラマの言葉

 

 ダライ・ラマの言葉

最近ダライ・ラマが、「ニューズウイーク」(1999.8)のインタビューに答えてこういった。

「次のダライ・ラマはチベット社会以外の所でチベット人としてではなく現れるだろう。次のダライ・ラマは、インド人でも、ヨーロッパ人でも、アフリカ人でも、または女性でも構わない。肉体というものは、さしたる問題ではない」

現在、ダライ・ラマは、故郷のチベットを、中国政府によって追われ、インドの片隅の町に、亡命政府をつくって、活動している。要するにダライ・ラマは亡命者なのだ。しかしその温厚な人柄と含蓄のある発言から、世界的にもダライ・ラマを心から尊敬する人も多く、ノーベル平和賞も受賞しているほどの人物だ。今やダライ・ラマ14世は、カトリックの法王と並び賞される仏教徒の象徴的人物である。したがってその発言の影響力というものは計り知れないものがある。

その人物が、次の「ダライ・ラマは、チベット人ではないかもしれない」と語ったことは注目に値する。すでに中国政府は、チベットのもう一人の生き仏であるパンチョン・ラマの死後、その転生者を勝手に選んで、認知の儀式を終えてしまった。中国政府からすればチベット社会を、支配するためにチベット人の信仰と政治の中心人物であるダライ・ラマとパンチョン・ラマを自分たちの言うことを聞く人物にしたくてしょうがない様子だ。おそらく強欲な中国政府は、現在のダライ・ラマが亡くなったとしたら、すぐにチベットにおいて、その転生者を、血眼になって探し回るに違いない。

何故ならば、ダライ・ラマ(観音様の化身)とパンチョン・ラマ(阿弥陀様の化身)は、代々世襲性ではない。元来、チベットの人々は、転生者と思われる数人の人物を探し出し、試験をし、間違いなく、その人物が転生者であるかどうかの厳密な段階を経て、はじめてダライ・ラマやパンチョン・ラマが認知される仕組みを守ってきた。その場合、世襲や親の家柄や経済的な問題で転生者を決める訳ではない。日本の天皇性とはまったく違うシステムだ。ちなみに現在のダライ・ラマは14世で、14回目の転生者と言われている。

そのダライ・ラマが、今度のダライ・ラマは、チベット人ではなく、別の人種になるかもしれないと言ったのは、半分は中国政府に対する、政治的な発言である以上に、これからの仏教の目指す方向を指し示す言葉である。映画「リトル・ブッダ」でも、チベットの坊さんたちが、偉い坊さんの転生者を捜してアメリカの少年に会いに来る話があったが、まさに今回のダライ・ラマの発言は、映画のようなことが現実にあるかもしれないことを匂わせていて、実に面白い。

今人間の精神が荒廃し、人間の価値が、ともすれば経済的な成功や、人種的な偏見、男女の差別でくくられる世にあって、そんなものは 問題ではない、と明確に言い切ってしまうダライ・ラマの強靱な精神に、21世紀の宗教のあり方を垣間見せられた気がした。

さて結論である。先の発言でダライ・ラマが言いたいことは、次のことではあるまいか?

ダライラマという存在は、人種とか肉体的な存在ではなく、人々に平和と安らぎをもたらすために転生してくる人種や肉体を越えた存在である」?!佐藤
 



 

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1999.08.16