大日本地名辞書
吉田東伍著
陸中(岩手)磐井郡




西磐井(ニシイワイ)郡
北上川の西岸にして、磐井川、金沢(カサハ)川の灌域を管内とす。今、面積三十四方里、人口五万、十五町村に分ち、治所を一関町に置く。郡の西界に酢川岳屹立し、山谷重畳す、南界は陸前栗原郡登米郡に至り、北界は胆沢郡に至る、大道は南北に貫通す。葛西実記に、西岩井三十郷、東山四十郷、流十五郷云々、異本に、東山三十三郷、西岩井二十四郷、合五十七郷ともありて、流郷とは、則、金沢川の灌域をいふ、和名抄の中村郷なり。而て西岩井郷は、和名抄、磐井磐本の二郷にあたると知るべし。

仲村(ナカムラ・ナガレ)郷
和名抄、磐井郡仲村郷、訓奈加無良。○今、西磐井の南偏なる流郷にあたる、即、金沢川の灌域にして、涌津、花泉等の諸村是なり、仲村の遺名は花泉に在り。

陸奥話記云、康平五年八月、賊衆捨小松城迯走、則放火焼其柵、休士卒、整干戈、不追攻撃、亦遭霖雨、徒送数日、粮尽食尽、軍中飢乏、磐井以南郡々、依宗任之■、遮奪官軍之輜重、往反之人物追捕、件姦類分兵士千余人、遣栗原郡、又磐井郡仲村地、去陣四十余里也、耕作田畠、民戸頗饒、則遣兵士三千余人、亦令刈稲禾等給軍糧、如此之間、経十八箇日、留営中者、六千五百余人也、貞任等風聞此由、語其衆曰、如聞者、官軍食乏、四方求糧、兵士四散、営中不過数千、云云、吾以大衆襲撃、必敗之、則以九月五日、率精兵八千余人、動地襲来。

仙台封内風土記云、西磐井郡流(ナガレ)、号流之謂未詳、一説曰清水邑内有号花立泉、其流之所至、曰之流、云々。○流(ナガレ)は葛西実記に流十五郷と云ひ、近世にも流郷と称し、西磐井の属なれど、栗原郡登米郡に連接して、別に一境をなす。其流、仲村は、本来一語の相転に似たり。伊波礼(磐余)を石村と書せる例に拠りて、仲村ももと奈加礼に仮借せられしを悟るべく、之を奈加無良と訓むは、文字に拘せられて転声したる者のみ。又、陸奥話記に、

康平五年八月十六日、官軍赴松山道、次南磐井郡中山大風沢、翌日到同郡荻馬場、

とある南磐井も、必然流郷の異称とすべきか、されば其中山とは、やがて栗原と南磐井の界嶺か、さなくば南磐井と荻馬場(磐井村)の界嶺にて、今の赤児(アカチゴ)普賢堂(金沢川の源地)の辺たるべし。

永井(ナガイ)
今、永井村と云ふ、郡の東南端にありて、北上川の西岸に居る。金沢川は、此に至り北上に帰す。南界は、登米郡、上沼村石越村に至り、対岸は東山黄海村とす。
明応八年薄衣状に「薄衣美濃入道経蓮、弟某、引登米郡軍兵数百人、入長谷城、既而没落」云々、長谷(ナガヤ)の地名、今之を東山に聞かず、永井と訛れるにあらずや。

涌津(ワクツ)
今、涌津村と云ふ、永井の北、花泉の南に居り、金沢川に縁り、流郷内の大邑とす。一之関の南二里、佐沼(登米郡)の北四里。
封内記云、涌津邑、有市店而駅也、護法龍天善神社、不詳何時祭何神、八幡宮、明応二年、葛西家臣本邑主岩淵民部(諱不伝)所勧請也、鉄五輪塔、在八幡社地、古昔鑿号五輪堂地得之、高二尺六寸、広三尺五寸、銘記「文永五年二月二十五日、沙弥西信」。

油田(ユタ)
今、蝦島(エビシマ)と合して油島村と改む、涌津の西にして、丘陵の間にあり。この地に油田城址あり、平泉雑記に「泰衡の部将金七郎某の拠る所なり、油田は、即、中尊寺の燈油料所なり」と見ゆ。(此地の形勢、登米栗原二郡の属村と相出入する所多し、水流は夏川に帰し、佐沼川へ入る)

日形(ヒガタ)
今、日形村と云ふ、涌津の東にして、北上川の西岸に縁り、赤沢野あり。
日形と涌津花泉の間なる峠(タウゲ)、男沢は今合併して老松(オイマツ)村と改称す、何の故に老松の名を命ぜしにや。

金沢(カザハ)川
一名金龍川といふ、末野(マツノ)川、有壁川の合流に成り、東南に降り、永井、日形の間に至り、北上に注ぐ。末野の奥、赤児より測らば、長七里にも及ぶべし。

花泉(ハナイヅミ)
今、奈良坂(ナラサカ)を併せ、花泉村と云ふ、涌津の北隣にして、金沢川に縁り、鉄道停車駅とす、一関へ北凡七哩、石越へ南凡五哩。
平泉名勝誌云、花流泉、花泉村(もと、奈良坂、金森、清水、中村の四村なりしに、之を合併し、此泉あるが故に、斯くいへり)にあり、藤原秀衡茶水を汲みし石泉なり、其頃は岸の辺に桜樹あり、春風之を吹きて、香紅水に浮ぶ、故に名づくとぞ。○封内記云、清水(シミヅ)邑、二桜古城、今号清水城、弘仁二年、征東将軍文室綿麻呂所陣、而源頼義東征時、亦軍監熊谷二郎直季陣之、文治中、秀衡家臣照井太郎高春居之、其後葛西家族式部少輔清秀、至子孫亦皆居之、文禄中、宮城郡利府城主留守上野介政景、移住于此、元和初移於一関、後為空地。

金沢(カザハ)
今、金沢村と云ふ、花泉の北に接して、金沢川に縁る。金沢は、元歌沢にも作れりとか、一関の南二里。
平泉名勝誌云、大門(ダイモン)地蔵堂、金沢村にあり、平泉より南方三里余を隔つ、里俗大門地蔵権現と云ふ、堂中地蔵尊、多聞天、広目天、水月観音を安置す、二天は、元大門にありしとぞ、其門荒廃の後、堂中に移せるなり、相伝へ、昔藤原秀衡居館の大門ありし所なりといふ、元禄中蕉翁が此をば「一里こなた」といひしは如何にや。

陸奥千鳥云、石の巻より佐沼、新田へかかり、清水(シミヅ)を離れて高館の大門あり、平泉より五里手前、城郭の惣構なり、少し行きて一の関なり。

封内記云、金沢飯倉(イヒクラ)館、千葉四郎兵衛泰常所居也、泰常者、寺崎彦九郎清次之末孫、而葛西家之族臣也、天正中戦死于桃生郡深谷荘糠塚、其以前熊谷伯耆居之、呼之曰要害、大槻(オホツキ)館、泰常自飯倉館移住于此、称大槻但島、今西磐井郡之郡長、其子孫也。○復軒氏葛西事歴云、葛西氏の二代伯耆前司清親が末男、彦九郎清次、始めて寺崎氏を称し、子孫、桃生郡寺崎の地を領せしに、清次より十代寺崎刑部大輔常清に至て、磐井郡、流荘(ナガレ)、峠(タウゲ)村に移て居城とし、常清の弟左近将監明清は、同郡、同荘、楊生(ヤギフ)村に城きて居たり、明清の孫左近信泰、(此後裔、平泉、毛越寺(マウツウジ)衆徒山繞坊となる)、其弟但馬守泰常、同郡、同荘、金沢(カザハ)村の大槻館に居て、始めて大槻氏を称せり、天正十八年、葛西氏宗族没落の後、一族、再び兵を起し、領主木村伊勢守を逐ひて、佐沼城に拠りしに、明年、伊達氏に攻落されて、泰常之に死し、其子阿波常範、逃れて赤荻村に隠れ、其子孫、中里村に住して、十代、郡長を世襲せり、其支流大槻玄沢茂質、(泰常より八代)、是れ、不肖文彦が祖父なり。

一関野田氏来書云、陸奥話記の大風沢は、金沢(カザハ)にて、大金沢か、或は今真滝村の牧沢(マキサハ)のドブサハに擬す、また同書の中山は、今金沢村と日方村の間に、其名遺存す。

左の一通は、大槻但馬の裔孫、寺崎清慶、宝暦中の採録也、信否不知。

今度、富沢日向守逆意に附、其辺野心之輩令同心、流大門迄出馬之刻、寺崎石見守に打続、早速無二之働、無比類候、依之、岩井郡内五串村五千刈、沖田村にて三千刈、永代宛行者也、仍証文如件、
  天正七年三月七日  晴信
   石川丹波守殿〔葛西記附録文書〕

楊生(ヤギフ)
今、弥栄(イヤサカ)村と改め、富沢を合す、金沢の東にして、北上川の西岸に位し、川を隔て、東磐井郡の薄衣と相対す、(流郷の北限とす)。
封内記云、流庄楊生邑、熊野神社、有上棟古牒記「弘治二年丙辰、九月吉日、千葉山城守持家造立」千葉者、葛西家族臣也。

末野(マツノ)
今、陸前栗原郡管にして、萩野村といふ、而も流郷の西に連接して、金沢川の上游なるを以て、本篇之を東磐井郡に係く。近世の奥州大路は、之を過ぎ、金成(栗原郡)へ一里、一関へ二里(花泉の西一里半)。
金沢川は、此にて末野川ともいふ、藤渡戸(フヂノワト)は、末野の西一里なる山中の小里とす。

赤児(アカチゴ)
末野の西二里余、即、渓流の源地とす、栗原郡岩崎駅(イハガサキ)(黒岩口)より、斜に此を過ぎて、市野々黒沢に往来す。又、古の駅路津久毛橋松山道といへるも、赤児の辺を過ぎしものの如し、栗原郡の諸地に合考すべし。
赤児に普賢堂(フゲンダウ)あり、地方の一名跡とす。○佐久間氏観聞志云、白象峰(ザウガミネ)普賢堂、永寧中平低重所建、有寺号白象山、洞雲寺、傍有熊野叢祠、鰐口記銘曰「永寧十二年、四月廿二日、平低重納之」舞童墳、在紅袴村、相伝、往時秀衡好歌舞、於是選舞童数十輩、常舞歌曲於庭、以為楽焉、有一少年、号春風、容貌閑麗、技亦秀出于群児、歌歇行雲、舞飄紅袖、衆人移心于此児、無致顧眄于佗者、仍群童悪之、潜令人殺之、以■于此、其児好紅裳、故後人称之紅袴村。○按、陸奥話記に「康平五年八月十六日、官軍赴松山道、以南磐井郡中山大風沢、翌日到同郡荻馬場」とある中山、大風沢(オホカゼサハ)は、赤児普賢堂の辺の地名なれど、今遺名を聞かず、扶桑略記に引ける陸奥合戦記は話記と異文ありて、相対校すべし、

康平五年七月、武則率子弟、発万余人兵、越来当国、到栗原郡営崗、於是、将軍大喜、率三千余人軍、七月廿六日発向、八月九日、到彼営崗、迭陳心懐、拭涙悲喜、十六日、定七陣、押領使武則赴松山道、次磐井郡中山大風沢、翌日、到同郡萩馬場、彼此合戦、射斃賊徒六十余人、被疵迯者、不知其数、賊衆捨城迯走、則放火焼其棚了、官軍死者十三人、被疵者百五十人也、

以字を次に正せば、文理明白なり、南字は竄入か、宜く削るべきに似たり。されど、仲村郷は本郡の南偏なれば、南磐井の名ありとするも、妨なし。一説、大風沢を金沢に擬して、金沢村の東には、中山の地名現存すといへり。されど、松山道より荻馬場に至る路頭にあらねば、信け難し。市野々に、中山口(ナカヤマクチ)の地名現存すといふに、聞くべきか。
補【中山】○陸奥話記、天喜六年八月清原武則到栗原郡営崗、定諸陣、赴杉(松)山道以南、磐井郡中山大風沢、翌日到同郡荻(萩)馬場、去小松柵五町有余也。
補【大風沢】○改正三河後風土記、田村岡より松山を越て磐井郡中山大風沢に着陣、翌日は同郡萩の馬場に着、此所は小松柵を去る事僅か五丁余なり、今日は日並宜からず、殊更晩景におよべば、軍は明日と定めらる。
○陸奥話記によれば、小松柵は南磐井郡中山大風沢の翌日程地にて、萩馬場と相去ること五町とす、康平五年九月五日将軍之を破りしかば、賊は磐井河に退却す、将軍翌日河南の高梨に到ると見ゆ。

有壁(アリカベ)
今、末野に合せ、萩野(ハギノ)村の管内とす。末野の北にして、小駅市を為す、花泉の西北一里半、金成一関南北各一里半。(栗原郡の現管なり)

息軒天保壬寅紀行云、一関南二里曰有壁駅、宝亀十一年、紀広純建言、宜造覚鼈城、以遏胆沢之賊、案、覚鼈読与壁同、地又当肝沢之衝、疑即此地也、又南曰十万坂、源鎮守之征清原武衡也、賊伏兵十万以俟、時秋、雁声?唳、公指示其人曰、軍志有之、飛雁乱行、野有伏兵、今雁行乱、賊必置伏、使前軍探之、伏起、大敗之、遂囲金沢、故名焉、然金沢在羽、距此猶二十余里、清衡亦拠豊田而防之、武衡雖武、豈能置伏於此哉、且十万非軍法也、或云、秀衡命工造弓十万張於此、名十万弓、又名蒲鉾弓、坂因以名焉、此説近是。

封内記云、栗原郡有壁邑、古塁凡二、東館或号丸森城、或号沢口城、頼義朝臣所陣営也、延文中、大崎家臣後藤美濃居之、元亀以来、葛西家臣門田淡路居之、西館或号有壁城、又号白岩城、新井城、初大崎家臣後藤美作、後同家臣菅原帯刀、元亀以来、葛西家臣有壁尾張、同安芸、同摂津、父子三世相継居之。

磐井(イハイ)郷
和名抄、磐井郡磐井郷。○今、荻荘村、及び厳美村にあたる。仲村郷の西北にして、磐本郷の西とす。もと、磐本と倶に一郷なりしを分ちたるならん。延喜式、

栗原  磐井  白鳥  胆沢  磐基

とあるに通考すれば、和名抄、本郡に駅家郷と挙げしも、本郷に外ならず、(郷にして駅を兼ぬるなり)。駅家は、荻庄村の上黒沢に擬せらる、即、陸奥話記に荻馬場と録せらるる地也。○復軒雑纂云、陸奥話記の征戦進軍の次第を考ふるに、荻馬場は、封内風土記に西磐井郡の南境なる上黒沢下黒澤赤荻山目(アコギヤマノメ)一関等十二村を荻荘と称すと見えたれば、荻馬場は荻の里の駅舎の義にて、上黒沢村基地なるべきか、(松山道と黒岩口と相会する処)即、兵部式の磐井駅、和名抄の磐井郷も此処なるべし、陸奥郡郷考に「上黒沢村の沖屋敷と云ふ地の田間の細路を、東平王の通り路と称す、東平王とは按察使の人の称なりと伝ふ」とあれば、是れも上黒沢の古駅なりし旁証とすべし、又磐井郡仲村は、和名抄の同郡仲村郷の地にて、今涌津村の西なる中村ならむ、上黒沢村より四十余里(六町一里)といへるに恰当す。

荻荘(ヲギノシヤウ)
元、一関、赤荻の諸邑に渉る荘名に呼び、今上黒沢、下黒沢、達古袋、市野々を併せて、荻荘村を立つ。一関町の西南にして、磐井川の南にあたる。陸奥話記に「源頼義与清原武則、整兵進至荻馬場、逼小松柵」とある荻馬場(ヲギノババ)も、此に外ならず。


市野々(イチノノ)
今、荻荘村の大字とす、黒沢の西にして、南に市野々原を控へ、陸前栗原郡の岩崎と一嶺を隔つ。東鑑に「泰衡置兵一野(イチノノ)似拒敵兵」とあるは、即この地のことなり。(一関の西南二里半、岩崎の東北二里許、赤児の北に連接す)

復軒雑纂云、吾妻鏡に、栗原さんは様、黒沢口、一野とある三は様は、栗原郡の北境二十八村の称にて、其地の岩が咲きの内に、今も黒岩館とて古城址存す、(岩が咲きは黒岩が崎の略か)、黒岩口の名此に起りしなるべし、又一のとは今の磐井郡の皆南境なる市野々村なり、封内風土記の市野々の条に「仏森、村中之高山也。伝云、藤原秀衡世、此山産矢■竹、呼村名、曰一之■(イチノノ)とあり。


封内記云、市野野邑。 保呂羽権現社二。共在號自鏡山頂上及中腹。伝云。所祭吾勝尊。而配祭日本武尊。號吾勝宮。或號勝宮大明神。自鏡山。或作自経。邑中之高山也。古昔號忍骨(ヲシホネ)山或小笹森。又號地形森。
 

黒沢
今、萩庄村の管内にて、上下の二区に分ち、市野々と一関の中間とす。北に大江堰あり。市野々、達古袋の渓流を容れ、末は磐井川に帰入す。

 岩手叢書磐井篇云。下黒沢村に、正和三年、応安元年、貞治二年等の古碑あり、年月明に読むべし。
明応中の薄衣状に、黒沢、金成の二氏か。富沢河内守を殺すということ見え、此旧邑主か。
○封内記云、黒沢古塁、葛西家臣黒沢豊前義住所居、柏木堰、本邑及一関二関三邑用水也。


小松柵址
今、上黒沢の地に擬せらる、此を荻馬場(オギノババ)ともいひ、磐井駅亦此に外ならず。小松は、駒津、又は駒処の義に出づるごとし。

陸奥話記云。康平五年八月、官軍赴松山道、以南磐井郡中山大風沢、翌日。到同郡荻馬場、去小松柵五町有余なり、件柵者、是宗任叔父僧良照柵也、依日時不宜井及晩景、無攻撃心、而武貞、頼貞等、先為見地勢、近到之間、歩兵放火、焼柵外宿廬、於是城内奮呼、矢石乱発、官軍合應争求先登、則以騎兵圍要害、以歩卒攻城柵、件柵東南帯深流之碧漂潭、西北負壁立之青巌、歩騎共泥、然而兵士深江是則・大伴員季等、引率敢死者二十余人、以劔鑿岸、杖鉾登巌、斬壊柵下乱入城内、合刀攻撃、城中擾乱、賊衆潰敗、宗任将八百余騎、城外攻戦、賊衆捨城逃走(去)、則放火焼其柵了、所射斃賊徒六十余人、被疵迯者、不知其員、官軍死者十三人、被疵者百五十人也、休士卒、整干戈、磐井郡仲村地、去陣四十余里也、耕作田畠、民戸頗饒、則遺兵士三十余人、亦令苅稲禾等給軍糧、如此之間、経十八箇日、留営中者六千五百余人也、貞任等風聞此由、以九月五日、率精兵八千余人、動地襲来、両陣相対、交鋒大戦、自午至酉、 義家義綱等、虎視鷹揚、斬将抜旗、貞任等遂以敗北、官軍乗勝追北、賊衆到磐井河、或墜高岸、或溺深淵、云々、貞任遂棄高梨宿並石坂柵、逃入衣河関、投壑墜谷、三十余町之程、斃亡人馬、宛如乱麻、云々、即曰欲攻衣河関、云々。


復軒雑纂云、小松柵、今知るべからず、然れども、荻馬場を去ること五町余、深淵を帯び絶壁を負うとあれば、磐井川の南岸なりしこと知るべし、仙台領古城書立に「上黒沢城、山城、貞任弟黒沢尻五郎正任居住と申伝候」となり、是れならむか、磐井川の流路は、黒沢西北なる五串より、両岸絶壁なり、(下流一関に到れば、断崖なく両岸平遠となる)されば、廃兵の高岸より墜ち深淵に溺れし処は、南岸は上黒沢村、北岸は赤荻村の辺に当るらん。


赤荻(あこぎ)
今、山目村の管内なれど、離れて西一里半に居り、上黒沢の北半里、磐井川をい隔つ。照井堰は、赤荻、山目、東西二里に濯ぐ、磐井川の一分派なり、封内記云、赤荻、市店遺址、在日光館下、伝曰、葛西家臣濃いわ大膳重光住居時之市店、而今有市店存者、千貫石在り観音寺中、高八尺、横一丈二尺、長二丈、坂上田村麻呂所掛腰而憩也。

○蜷川記に、赤荻氏見ゆ、葛西の部類なり、葛西を笠置(かさぎ)に作るは、訛言に従へるならん。
 

蜷川親俊日記。天文八年七月、奥州笠置同名、赤荻伊豆守、貴殿へ御礼にまいる。御太刀一腰、御馬一三疋、小鳥羽十尻、進之。
又、宝暦中の葛西記附録に、。下の一章ありて、赤荻氏は、即、小岩氏に同じ、と注せらる。
 請取日牌之事

合 空舜禅定門逆修者
右彼日碑者、至五十六億七千万歳迄、毎日無退転、可奉供養、然者所志□依日牌奉献徳、可至安養之宝刹給者也、去爰大師曰、送置我山処之志亡者舎利、以我三密加持力故、送先安養宝刹、慈尊之暁者、可観衆菩薩、憑哉彼誓約、豈可疑之乎、仍
、仍請取処之状如件、

天正七年八月十二日 高野山五大院、法印盛(判)
奥州葛西 赤荻三河守殿



阿久利川(あくりがわ)
陸奥話記に見えて、胆沢鎮守府と宮城国府の間なる水名にして、駅路に由れりと知らる。而も、後世之を伝へず、今、阿久利。阿古幾(赤荻)は、音相近きを以て、仮に此に係く。

陸奥話記云。源頼良、為相模守、俗好武勇、威風大行、 拒棹之類皆如奴僕、後拝為陸奥守、兼鎮守府将軍、討安部頼良、入境着任之初、俄有天下大赦、頼良大喜、改名称頼時、(同大守名、有禁之故也)委身帰服、境内両清、一任無事、任終之年。為行府務、入鎮守府。数十日経廻之間、頼時傾首給仕、駿馬金宝之類、悉獻(献)幕下、兼給士卒、而帰国府之道、阿久利河辺、夜有人窃討権守藤原朝臣説貞之子光貞、元貞等野宿、殺傷人馬、将軍召光貞、問嫌疑人、答曰、頼時長男貞任、以先年欲娉(へい)光貞妹、而賤其家族不許之、貞任深為恥、推之貞任所為矣。



石坂
高梨と共に陸奥話記に見ゆる地名なり。磐井川の北岸に属し、赤荻の邑内といふ。古の駅路は、上黒沢(荻馬場)より赤荻に出で、胆沢郡衣川、白鳥に向へりと云へば、赤荻より東北直径を求めて、達谷の辺りを過ぎ、関山に至りしに似たり。

九月五日、貞任襲荻馬場、小松柵、遂以敗北、官軍乗勝追北、賊衆到磐井河、或迷失津、或墜高岸、或溺深淵、暴虎憑河之類、襲撃殺之、自戦場至河邊、所射殺賊衆百余人、所奪取馬三百余疋也、将軍語武則曰、深夜雖暗、不慰賊気、必可追攻、今夜縦賊者、明日必振矣、武則以精兵八百余人、暗夜尋追、分敢死者五十人、偸従西山、入貞任軍中、俄令挙火、見其火光、自三方揚聲(声)、攻撃貞任等出于不意、営中擾乱、賊衆駭騒、自互撃戦。死傷甚多、遂棄高梨宿並石坂柵、迯(逃)入衣河関、歩騎迷惑、放巖墜谷、三十余町之程、斃亡人馬、宛如乱麻、肝膽塗地、膏貳潤野。
復軒雑纂云、高梨宿は、封内風土記の赤荻村の条に、高梨館とて、古城址の見ゆる是なり、小松の柵を陥れられ、磐井川を渡り、赤荻村に逃れしこと、地理合へり、又宿といふにて、此処の駅路なりしをも知るに足る、下黒沢村にも、高梨といふ地あれど、赤荻村の高梨ならでは、地理違ふ、小松柵の跡あるにや尋ぬべし、又吾妻鏡に、衣川流れて云々、官照の居にて、叔父の良照の柵ならぬを、後の諸書に、下衣川村に小松館の地とてあるを、良照の柵としたるは、皆非なり、さては、荻馬場と、相去ること五町余とあるにも合はず、賊此柵より逃れて、磐井川に陥るといひ、三十余町人馬の死屍乱麻の如く、逃れて衣川の関に入ると云ふにも合はずして、南北地理を転倒せり、石坂柵知るべからず、然れども、封内風土記の赤荻村に、駒泣坂、鐙越(あぶみごえ)等の地名を挙げて、「駒泣坂、伝云、古昔往還之道、而大嶮所也、田村麻呂経歴之路也」、などある。此辺ならぬか。

○今按、陸奥話記に、又、「六日、将軍到高梨宿、即日、欲攻衣川関、(中略)武貞攻関道、頼貞攻上津衣川道、武則攻関下道。」とあれば、三道並進の状想ふべし。其関道といふは、即、官駅の往来なるべきが、関下道とは、岩井川、衣川の下游を踰(こ)え、すべて北上の西岸によりて進めるに似たり。後世、河流の変遷せるがため、関下道は、今之を探り難し。

平泉志に

古道は今の道と別にして玉造郡より栗原を経て磐井郡に入りては黒澤村赤荻村「此二村古の萩莊荻莊にして其境の磐井川に橋を架し荻萩橋と云しとそ」平泉村より中尊寺に掛り衣川に出しと云り是當時の官道なり。
とあるは、よく説かれたり。されど、
平泉時代の山ノ目村より平泉舘の東北を過て彼古關に通せし古道と云へるあり。是亦官道に次く道なりしなるべし。
これは関下道にあたるや否や、不審の点あり。上津衣川道は、平泉の西方を過ぎて、胆沢郡上衣川村に達する間道ならん。
 


五串(イツクシ)
今、猪岡を併せて、厳美村(いつくし)村と称す、一関の西凡三里、磐井川の上游に緑る。(赤荻を去る一里半)

大八州遊記云、五串、此為磐井川上流、両岸水底皆石、無一沙嘴、巨石連延、牛蹲虎踞(じゅうそんこきょ)、質皆円滑、不巉刻(ふぜんこく)、其水紺浄、或為石所穿。盤旋衝激、噴雪翻銀、大石生松、楚々為趣、岸右植桜数十株、至天狗橋、橋上俯瞰、激流為滝、故人呼為五串瀑、度橋而左、有一亭臨流。幽致可愛。

封内記云。山王窟、伝曰、嘉祥三年、慈覚大師勧請、土人称之、曰厳宮大明神、或作厳美宮(イツクシノミヤ)。
 


厳美滝(イツクシノタキ)
又五串滝に作り、砕玉の瀑布(すいぎょくのたき)と云ふ。磐井川の渓流、五串村中に於て、流紋岩の上を走り、両岸の断崖忽■りて、峡湍を成し、水怒り石舞ひ、東奥屈指の奇勝たり。

観聞志云、「在五串村直下二丈余広六尺余翠涛分巉岩白練界青山最足致壮観也」
○高平氏平泉志云、

五串滝は、達谷窟の西南一里半、骨寺の南に在り、大小(だいせう)三湍、奔浪白雪(ほんらうはくせつ)を吐(は)き、碧潭飛沫(へきたんひまつ)を呑む、岩中流に飛橋を架し、岸辺に望楼観亭あり、地方の名所(めいしょ)之に若(し)くものなし、巌美橋の碑あり、碑文は松崎慊堂、題額は松平定信公なり、平泉より三里程山路を阻(へだ)つといへとも、古官道の近傍にして(義経此に吟杖(ぎんぜう)を曳ける由語伝(かたりつた)へたれは)当時藤氏の遊場(ゆうぜう)たりし事知るへきなり。



照井堰
五串の北にて、磐井川を堰き入れて、戸河内、中尊寺(平泉)の方へ濯ぐを北照井堰といふ、又、南照井堰あり。

○平泉志云、岩井川の上、五串村に照井堰あるい、其水隧道を疎通し来り、黒澤村一関村の田に注けり、岩井川の下、前堀村(中里)にも照井と云ふ所ありて、川の北岸に古石塔(ふるせきとう)あり、照井太郎高春の墓と云傳へたり。側に碑の如きものあれど、文字全く湮滅せり。又其館跡と稱する地も沿岸の農地にあり。
 


猪岡
今、厳美村の管内とす、五串滝の西にして、磐井川の西にして、磐井川の南辺にあり。この地の水山に温泉あり、即酢川の湯是也。

人類学会雑誌云、五串村山屋アオキといふ地は、磐井河の流る、平原中にありう、北に山脈ありて、太古の人類住居に適する如し、僅距りて横穴二所あり、之を山王の窟(猪岡村瑞山の内ヤブチ)不動の窟(五串村字本寺)といふ。並びに人工の物と見ゆ、此アオキには、角石にて作りたる石鏃石器多く、石屑は畑の中に充満せり。
 


骨寺
又、本寺に作る、猪岡法遍寺の字なり、此寺は、平泉諸寺塔の濫觴(らんしょう=物事の始め)なり、根本なりとも説かるるも、其の微証に乏し。

○吾妻鏡、文治五年九月(十日)、

十日丁卯。(中略)今日。奥州関山中尊寺経蔵別当大法師心蓮参上于二品御旅店。愁申云。当寺者経蔵以下仏閣塔婆。清衡雖草創之。忝為 鳥羽院御願所。年序惟尚。被寄附寺領。又所被募置御祈祷料也。経蔵者被納金銀泥行交一切経。於事厳重霊場也。然者始終無牢籠之様。可被定歟。次当国合戦之間。寺領土民等。成怖畏逐電。早可令安堵之旨。欲被仰下云々。則召件僧於御前。清衡基衡秀衡三代間。所建立之寺塔事。尋聞食之。分明報申之上。可注進巨細之由言上。仍先経蔵領当寺堺四至。東鎰懸。西山王窟。南岩井河。北峰山堂馬坂也。被下御奉免状。逐電土民等可還住本所之由。被仰下、云々。
平泉志云、骨寺は五串村の北に存り、今本寺と呼ばる。一説にこの地蓮花谷に逆芝山(さかしばやま)と云ふありて、此山に慈覚大師の髑髏(どくろ)を座(おさ)めて建てし塔あり、故に骨寺と號(ごう)し、其寺跡及ひ尼寺(あまでら)の跡あり、又平泉野と云ふ所もありて、野中(のなか)に冷水あり旱魃(かんばつ)といへとも涸(か)るることなし、即、平泉の本源(ほんげん)なりと云り、又、山王窟(さんのうくつ)あり、堂は窟に拠りて造れる様、達谷窟の毘沙門堂(びしやもんどう)に準す、(吉田博士はカットしている箇所=嘉祥年中中尊寺にも遷(うつ)すと云り) 按ずるに、平泉、始め慈覚大師の開基せる毛越寺ありて、当初之を「ゲゴシデラ」と呼し山の縁起あれは、後に清衡に至り、此骨寺及僧坊をも平泉に遷し、彼の高屋に逆芝山の名を遺し、塔もありしなるへし、相原氏の雑記に、東鑑に古津天良と訓せしは誤なるへし、云々。(吉田博士はカットしている箇所=何れの時より骨を改て本の字になしけん中尊寺の古文書に拠れは百一代後小松帝の応永年中迄は骨寺と書り此地に山王窟あり寺の事は伝へ知れるなし云々)尚按ふに、逆芝山の故事撰集抄に見えたるを以て證し難けれと、慈恵大師の塔の事、骨寺に取り其謂なきにはあらさるへし、(吉田博士はカットしている箇所=さて骨寺は元名にして後にほねをほんと訛り終に本寺に書しなるへし土人伝へて元政宗卿の時其文字を改められたりと清衡此地を以て中尊寺の経堂に寄附せしも其所縁ならん逆芝山の物語は附録に挙く。)骨寺の古文書、天治文治以降のもの頗る多し。
平泉中尊寺、一切経蔵領、骨寺村之事、
右所者、依り近年動乱、雖令知行、世々為無異之間、別当遠郷律師行栄方、彼所者如元相渡申候也、
仍如件
延文三年二月二十八日 
若狭守行重 判
(至徳四年前越前守親重の寺領渡状もあり)
今按、中尊寺経蔵文書、天治三年、蓮光経蔵別当職下知状に「蓮光、八个(ケ)年内、書写金銀泥行交一切経。寄進往古私領骨寺、然間、限永代、任蓮光相伝」云々と明記したれば、骨寺は村名にして、中尊寺経堂創立の由緒地なれど、慈覚大師に何等の関係する所なし、撰集妙の坂芝山の異事も、もとより骨寺に関係せず。
 

水山(みずやま)
鉱泉志云、水山、一に瑞山(みずやま)に作る。猪岡村にあり、五串の西凡一里、二鉱泉林中に湧出す、両泉相距る凡五十間、泉熱百度に余る、寛政七年発見せしと云ふ。

瑞山温泉 関 元龍

渓流隔人境 宛之武陵源 ■地青山合 窺天白日昏
懸崖将堕石 虚壑欲燕雲 策杖吟行処 湯泉芳冽薫


平泉名勝志云、水山の山王窟は、形勢達谷窟に相似たり。東鏡に骨寺の四至、西は山王窟と曰への即是也。
 
 

酢川嶽(すかはだけ)
一名栗駒岳、陸前栗原郡へ重出す。磐井川の源頭にあたり、中央分水山脈の一雄峰なり、本部、栗原、雄勝(羽後)を交界し、南は須金岳、北は大森山を望む。五串の西凡六里。山中に温泉一所あり、水山を去る五里。

封内記に「磐井郡、西隣羽州、界黄ハタ森、白須前、剣山」とあるは、酢川岳の北、胆沢郡に至る連峰の名なるべし。

観聞志云、栗駒山、西跨千歩句、絶頂曰大日岳、半腹有駒社、延喜式駒形根神是也、山下之寺曰宝福、今廃。

○ 封内記云、西磐井郡須川岳、温泉在岳中、浄土在北領、土俗号五百羅漢。石高三尺乃至一丈五尺許、数百相並、胎内クグリ石、高二丈許、其中有穴、人皆クグリ之、八万地獄、沢中而四方大小湖池相連、剣山尖石並峙、死出山小峰也、白洲峠産硫黄、三途川、源出自須川大日沢、会磐井川、岩井渤化、磐井川之源也。

○ 山崎氏地誌云、剣山は、栗駒火山の中央火口丘にして、高さは遙に大日岳に劣り、千百米に突に過ぎず、削剥作用によりて、円錐状の原形を失ひ、火口を存せず、其の北腹に字八幡及び極楽野と称する所あり、幾多の噴気孔此処に存して、硫黄の好積夥だしく、今傍に鉱業所を設けて、盛んに之を採掘し、鉄索によりて直ちに之を東麓水山に輪送す、年額一千万斥とぞ、渓間温泉の湧出多く、須川温泉は剣山の西北麓にあり。

補【須川岳】磐井郡○地誌提要、五串村一野々腹より四里十三町、陸奥国栗原郡羽後雄勝郡に跨る、駒ヶ岳栗駒山等の数称あり、栗原郡に亘るを栗駒山と称し、磐井郡に亘るを須川岳と云ふ。
 
 
 

 陸中(岩手)磐井郡 続く



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2003.4.18
2003.11.20   Hsato