大日本地名辞書
吉田東伍著
陸中(岩手)胆沢郡



胆沢郡

東磐井郡の北にして、東は北上川を以て江刺郡と相分ち、西は大山脈を以て羽後雄勝郡と相分ち、北界は、和賀郡に至る、渓流数派、皆東下して北上に帰 す。今面積五十六万里、人口六万、十四町村に分ち。水沢に治む。

胆沢は、和名妙、伊佐波と注せられ、七郷に分つ。蓋、延暦年中の建置にして、当時、城柵を築き以て辺塞の固と為さる、胆沢城是なり。後、鎮守府を本 城に移され、将軍常に之に居る。されば、平安朝の上期の王化は、胆沢、江刺を以て北辺置郡の極界とし、延喜式の国郡、及び和名妙の郡郷は、此に終止せし。 又本地以北には、遠胆沢(とおいさわ)の凡称ありしという。
 

衣川

今、衣川村といひ、胆沢郡の南界に居り、即、衣川の渓谷を占めて、上衣川、下衣川の両区に分つ。其下衣川は、直に駅路(国道)の西に方り、瀬原(磐 井郡平泉村)の地と相違なる。上衣川は更に下衣川のの西にして、戸河内(へかない)、五串(磐井郡)の北なる山村とす。

衣の邑里名は、もと、衣川の両岸(即。磐井胆沢の二郡管)に渉る。されば、古人の日への衣川、衣の城館等は、或は河北に其跡を遺し、或は水南に其事 を伝ふ。各其実に就きて分を為すを要す、漫然一律に論じがたし。

○仙台封内風土記云。衣川、名所也。其源有二、北出自本邑北増沢、南出自清水大森、而至磐井郡中尊寺邑号百袋(もたい)地。両流相会、東流中尊寺 後、入北上川、古昔隷磐井郡、今属胆沢郡、此河及北上川、共以百年以前図考之。大異也。

○平泉名勝志云、胆沢郡衣川村、南は西磐井郡平泉村及び厳美村と境を接し、古くより上衣川下衣川の二つに分れ、昔安倍貞任が居城を構へたる所なり、 又、延暦七八年の頃、奥夷征伐のため、紀古佐美、池田真枚、安倍墨縄等の東下せし時、衣川営を構へたる地も此処ならんか。

○仙台封内名跡志云、衣川邑、薄田、往時乏溝洫、憂旱魃有年、邑山田次右衛門者、自少有高志、平日以救郷隣為任、依茲以善行所称、且一郷毎歳苦渇 水、仍欲引衣川河流而濺(せん)之田畝、郷党會言、先是有行之者必死神崇、不敢、彼曰、豈有鬼神而疾救郷患之誠哉、若有其神為崇、則請予受之代郷党而死、 是則我之所欲也、於是強忤(ゴ=さからう)土人、引之為溝洫、而転耡稼穡(シュク)、得其実、次右衛門亦無恙(ヨウ)、自是毎年得水而致秋成焉、延宝元 年、次右衛門五十八歳而歿、邑民感其志。同七年丁七周忌辰、立碑祭之、儒臣桑名松雲作碑文。
 

瀬原

今、平泉村の管内なれど、関山の北、全く衣川を隔てて、胆沢郡下衣川村の東に居る。(木賊川(とくさ)川という細溝あり、近世は中尊寺村の管内な り)
その北は即白鳥村とす。瀬原柵址は、白鳥との堺なる鵜木の関址に擬すべく、小松楯とよばれしも、蓋(けだし)これに同じ。

臥雲日件録、享徳二年十一月六日条云、去月二十日頃、自山階(ヤマシナ)送弁慶石、置于南禅門前外、蓋此石在奥州衣河中流、昔弁慶立此石上而死矣、 此石有霊告人、要到京城五条橋、此石出河時、水逆流者三日矣、由是郡県逓相送、巳到此云、石縦横尺七八寸、色紫、又小石三相加、亦紫色也、

○按、封内記に、瀬原「衣川中瀬、弁慶戦死処」云々は、俗諺、立往生の遺址なり、此瀬原は、往昔、衣川と北上川を左右に頸地にして、東灘(北上)西 渓(衣川)の間なれば、瀬原の名も起り、或は、洪水氾濫の日には、実に急瀬とも変ぜしならん。中瀬の名も、其理あるごとし。後世、北上の大水、瀬原の南に て直に衣川を合せ、河道一変す。

平泉志に、「衣川中の瀬と称し、弁慶最期(俗に弁慶立往生と云へり)の所と伝へたるは、今、北上川に変じて、是に衣川央より落合ひたれば、其辺なる べしとぞ、」とあるも、此意に外ならじ。

平泉志云、七高山観音堂(祠堂か森の南)?原にあり、比叡、比良、伊吹、葛城、金峰、愛宕、大峰の七神を勤請し、古へは祠堂が森にありしを、中古今 の地に遷せしか、沿革により仏堂に帰せり、別当瑠璃光院なり、中尊寺に属す、(七高山観音は、巳に嘉暦中の中尊寺文書に見ゆ)
 

譲与中尊寺御経蔵別当職事
 
所領骨寺、磐井郡之内在之、免田七段燈油料畠所、瀬原村在之、屋敷一所、麓在之、赤岩麓在之。

真密房幸玄所
右件於御経蔵別当職事者、奉以金銀之泥一行交一切経書写佑、為其奉行之功、自清衡御館、経蔵別当職領、其時往古私領骨寺、被令寄進一切経蔵処也、雖有若幸 玄之弟子等、一期之後者、蓮光為親類、且為同宿、寄相此譲状、義城房蓮心所譲与也、仍不可有他妨之状、如件
保延六年三月廿八日

中尊寺御経蔵別当自在房蓮光(判)


安倍氏の瀬原柵を、七高山観音堂に擬せる説あれど、信じ難し、後の白鳥の鵜木の古関址に合考すべし。

○平泉名勝志云、瀬原柵、安倍頼時の置きし柵なり。今七高山観音堂のある所にて隍渠(こうきょ)の跡残れり、其近隣の地名皆瀬原という。

○永正古図に、瀬原徳沢と想定せられるる路の辺、北上川の西岸に、小松館、衣関と標す。是れ、恐らくは、同地にして異名の者か、やがて瀬原柵址に擬 すべし、今の七高山観音堂の地には非ず。又、陣場跡とて、近地に二所あり、相望む。  

 陣場跡二箇所、下衣川村にあり、徳沢山の西畔なり、頼義の貞任等征伐の 時、陣せられし地なりとぞ、陣場は、七高山観音を十二丁ほど距り、西北に方れり、頼義軍勢を張り其数を量るに、升形を作り千人を入る、今に升形の跡顕然た り、升形明神と称し石堂あり、是即磐井胆沢両軍の境なり。(平泉志)

もしくは是等の遺跡は、延暦八年紀四月軍奏に、衣河の北なる三営(ミツノタムロ)と見ゆるものにあらずや。

五月、勅征東将軍曰、省比来奏状、知官軍不進、猶滞衣川、去四月六日奏■、三月二十八 日、官軍渡河、置営三処、其勢如鼎足者、自爾以還、経三十余日、未審縁何事、故致此留連、居而不進、未見其理、夫兵貴拙速、未聞巧遅。又六七月者、計応極 熱、如今不入、恐失其時、悔何所及。将軍等応機進退、更無間然、但久留一処、積日費粮、朕之所恠(アヤシム)、唯在此耳、宜具滞由及海軍消息、附駅奏来、

何となれば、此の後六月の軍奏に、賊師阿弖流為との会戦を言い、阿弖流為は今の水沢駅東の跡呂井戸(アトロイ)の酋長と推断せられ、進止行路の形 状、其三営は、胆沢郡の南方にして、衣川の近地と想定せられるるなり。海軍は河東の誤写ならん。江刺郡の条に引ける証文に合考すべし。


下衣川

今、上衣川と相合せ、衣川村という。平泉管内の瀬原の西にして、中尊寺の北に一渓(衣川)を隔てるのみ。

封内記云、下衣川邑、戸口凡百八十五、有号瀬原地、歩卒二十五口、月山権現社、文明一七年。田野勘四郎者創建、或日長治中清衡造営、勘四郎再興也、 未知執是、神明宮、有鰐口、銘記「貞治四年乙巳、卯月十五日」吉次宅跡、古昔、金商三条吉次信高(或云季春)所居也、家門等之旧礎猶存、磐井郡一関山目両 駅間、亦有号吉次宅跡地、

観聞志云、橘吉次居宅在衣川北、旧礎猶存焉、吉次奥州大買、往昔在京師、而合牛若于鞍 馬寺、約東行携之至于平泉、秀衡相喜、賞之以貸財及第宅、此其遺址也。

平泉志云、京三條の金売吉次宅地跡下衣川にあり、里俗此邊を長者が原といふ。吉次の舊跡とて、栗原郡金成駅近傍の畑村、其他所々にあり。

古塁凡三、其一号小松館、伝日安倍貞任之叔父官照所居、而其後破石又三郎居之、按、破石亦葛西家臣乎、

平泉旧跡志曰、安倍頼時之子境講師官照居所、、前太平記曰、小松柵、頼時之子僧良照所居、其二、号雪踏屋館(セツタヤカタ)、伝日藤原秀郷母堂所居、其 三、不詳何人所居。

観聞志云、衣川邑、近瀑布、有古塁址、永承之役、安倍貞任叔父官照者所守、小松館是 也。
○平泉志云。小松館旧址、月山の麓也、境講師官照が居所なり、東鏡に「凡官照小松楯、成通琵琶柵等、旧跡、有彼青巌之間」云々。

今按、永正平泉古図に、小松館というを、瀬原の東北と想定せらるる北上の岸辺に標示し、其傍mに衣関とうをも標示す。されば、此小松館衣関は、やが て安倍氏の瀬原柵と異名同地か。然るに、吾妻鏡に、小松柵、琵琶柵を「並びに彼青巌之間に在り」といい、観聞志、平泉志、並びに其跡を衣川村の西に擬す、 大に惑あり。蓋、境講師官照とは、胆沢磐井の郡堺なつ瀬原に居れるが故の名か。然らば、衣川村の西なる月山の麓、琵琶柵の辺に、小松柵を求むるは、誤れる に似たり。

衣館址

上衣川

霧山

上衣川の西嶺にして一渓の真源とす。其絶頂を善城と呼ぶ、蓋、禅定の訛。往時道士修験の場なりし也。○封内名跡志云、霧山、登坂東西、有不測之壑 (ガク)、南乃層巒(ラン)入雲、北又崎嶇羊腸、山下有長川之曳練。曰之麻衣川。山頂平夷、自下望之、則断岩千尺、容易不能登、山高雲霧常暗、故之霧山、 山下東有窟洞、伝日、往古、夷賊姦党、伏竄(ざん)潜居之地也、(邑人方言、日之切山、麻衣川今無知之者)善城、名跡志日、隔霧山一里余、鬱林尤深、三方 乃川流深谷、西方山勢稍(やや)平、大半湿地、古昔拠此城、則険要得其処、仍日之善城、或以山勢之高峻、日之絶頂。

○幸若舞曲、高館云、弁慶、舞を一番舞はうぞ、やう囃いて給べや人々、鈴木兄弟は、予て用意やしたりけん、鼓を取り出し、敲き上げて囃す、地体、武 蔵は、三塔にても、乱舞延年の上手、舞をば一手習うたり、長刀の柄をとうとうと打って、調子を伺うて立ったりしが、かすみにかすんで、大きなる声をはった とあげ、一声をぞとったりける。
「嬉しや、とうとうと、鳴るは滝の水、日は照るとも、何時も絶えせじ、面白や、花を流すは吉野の川、筏を下すは大井川、紅葉を流す立田川、都辺に名川、様 々多かれど、遠国ながら名所かな、きり山高嶺の残の雪消え、谷のつららも融けぬれば、衣川の水嵩勝って、奥方軍兵を、弁慶が薙刀にて、湊をさいて斬り流 す」と、揉み烏帽子という曲を、一拍子はらりて踏んで、開いた扇を、櫓より、衣川へ颯(さっ)と投げ入れたりけり
 
 

衣滝

白河郷

白鳥郷

白鳥

小松楯址

前沢

下野郷

中畑

上麻生

小山

寿庵堰
 
 
 

 陸中(岩手)磐井郡 続く



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