奥羽沿革史論 第四
 平安朝仏教史上に於ける
中尊寺の地位


凡例
  • 底本は、「奥羽沿革史論」所収(元版大正5年6月刊の復刻本−昭和47年刊 蒲史図書社)である。
  • デジタル化にあたり、旧仮名使いを現代表記に改めた。
  • 見出しや文節の区切りについては、内容を考えて、佐藤が附したものである。
  • 一部差別に通じる表現があるが、歴史的表現であり、そのままデジタル化した。(支那など) 
  • 当文章は、大正4年夏に、平泉の中尊寺で開催された歴史地理学会での講演記録である。
  • 一年後の大正五年六月に、日本歴史地理学会編として「奥羽沿革史論」に納められ刊行された。
2003.3.01 佐藤弘弥
          文学博士 辻 善之助
はじめに

「平安朝仏教史上に於ける中尊寺の地位」と云う題で、私はこの「中尊寺」並に「毛越寺」の歴史上における地位、尚言い換えて見ますると、「中尊寺」、「毛越寺」を歴史の材料として扱うにはどう云う風に吾々が見るかと云う事を申したいつもりであります。かの中尊寺、毛越寺について見まするに、私は二つの重大なる意義が含まれていると云う事を見るのであります。

第一は仏教に伴う所の地方の文化発展、仏教に伴って地方の文明が進んで行くということ、それから第二は仏教の信仰に伴う所の趣味の発達又遊楽的分子、言い換えて見れば堕落の分子が著しくなったということ、この二つの意味が、中尊寺毛越寺に含まれていると云う事を見るのであります。もちろんこの二つと云うものは、中尊寺毛越寺には限らないで、平安朝の末の時代一般の相である。一般の姿と云うものが、この中尊寺、毛越寺において最も著しく現れていると云う事が注意すべき点であろうと思います。それにについて申したい。
 

仏教に伴ふ地方文化の発展(仏教の地方への波及)

<清衡の中尊寺建立の本音>
第一仏教に伴ふ地方文化の発展、之を申しますについては、中尊寺の建立について少し申さぬければならぬのですが、中尊寺建立の目的と云うものは、現に経蔵に納めてあります天治三年の願文中に明かに書いてある。それを一口に申して見ると、前九年なり後三年の戦争において死んだ敵味方の菩提を弔わんが為めであると云うに帰するだらうと思います。極く長い文章で、色々な事が書いてございますけれども、一口に言えばそれに帰する。しかしながらこれは極く表面的の話、上辺の話である。もっと外の意味が、この中尊寺の建立の内に含まれているだろうと思う。

私の見ました所では、別に大した変った意見ではありませぬが、京都の文化、昨日原博士から言われたように、上方の文化の中心を造ると云う事が、清衡の大目的であったろうと思う。清衡の事は御承知でもありましょうし、又外の講師からも詳しい御話がありましょうが、その時分の富強に任せて、京都の文化をこの方に真似て取ろうとしたのである。

この事は、ずっと後の話でありますが、戦国時代に武田信玄が甲斐を中心として、東国に一つの文化の中心を造ろうとした事があります。そこには色々な事実がありますが、一つの例を挙げて見ますと、彼の延暦寺が信長の為めに元亀二年全焼になって潰されました。それで三千もいた坊さんが皆散り散りバラバラになった。

その時に主な僧侶を信玄が自分の所へ呼び寄せやうとした形跡が、明かに古文書の中に残つております。それと大いに似ている所があると思います。中尊寺の事を考えるについて、思い出されるのは、かの京都の「法成寺」。道長の建てました法成寺であります。法成寺の装飾の状況を書いてある物によつて、これを金色堂に現今残つている模様と合せ考えますれば、法成寺の非常に富麗であった事を想像するに足るのでありますが、それと共に中尊寺もこれに勝るとも劣らざるものがあったと云う事を想像せしむる事であります。恐らく中尊寺の装飾などと云うものは、当時、なお京都に残っておりました法成寺の堂塔或は京都の大原の三千院の極楽院等に倣(なら)ったものと思います。これは京都を真似た一つの例であります。

次に大長寿院の二階の大堂を清衡が建てました。これらは京都の逢坂の関に関寺と云う物がありまして、それが二階造りになっている。これは有名な源信僧都が再興したと云う寺であります。ただし早く無くなっております。この如きものが、二階大堂の手本になったものではないかと考えます。
また、かの一切経でありますが、現今、「経蔵」に蔵してありますかの一切経は、金銀泥の入り交りで五千七百巻ありますが、これは「蓮光和尚」が主裁しまして千人の僧を使つて、七八ヶ年の間に写した。さうして天治三年供養の為めに五百三十人の僧をして読ました。

その又、蓮光と云う人はどういう人であるかと云うと、これは昨日も、現今の御住職「霊光師」に種々伺ひましたり、それから尚、此方に残っている古文書から推察して見ますと、恐らくこの土地の人であったろうと思います。平泉の骨(ほん)寺辺りの人であつたかと思う。それが比叡山に入って修行をされた。即ち叡山の僧であります。昨日、原博士が言われたように、東北から出て行って上方の文化を受け入れようとした一つの例になる。蓮光がこの方へ帰って来まして、そうして八ヶ年掛って、一切経を写した。

それから後はずっと続いて経堂の別当職になって、現今まで血統を続けております。天台宗の教義を書いたもので有名な書物に「西谷名目」と云う書物がありますが、この著者は何人であるか明かでなかったのでありまして、今尚、分りませんが、恐らくはこの蓮光が作ったものではないかと云う説があるのです。そういう上方の文化を吸収された人をこの方へ呼び戻して、そうして上方の文化の中心をこの方に造ろうとしたのであります。

かの有名な白河の関から外ヶ浜に至る迄の間、二十余日の行程中、一丁々々に卒塔婆を立てた。今も尚、白河の関の旧趾にその名残りの一つだと称する物があるそうでありますが、その白河の関から外ヶ浜に至る間を、自分の勢力範囲として、そこに平泉を以て文化の中心を造ろうとしたのであらうと思ひます。
 

<供養願文の事>
そう云う風にしまして、かの中尊寺を造る。その中尊寺は天治三年に大略(が)出来まして供養を修したのであります。即ち落成式であります。その時に読み上げた願文と云うものは、誰が書いたかと申しますると、これは(絵葉書にもなつております)願文の奥書にありまして、原物は経蔵で既に御覧になったでありましょうが、その奥書を見ますと云うと、北畠顕家卿の筆で、この願文は敦光卿が起草されたものだと云う事が書いてある。この敦光と云う方はこの時代の非常に偉い学者である。その学問は内外を兼て窺(うかが)わざるなしと称された人でありました。著しました書物に「本朝帝記続本朝秀句」と云うものがあります。当時、何か文章に関係した事、銘を書いて貰うとか讃を書いて貰うとか云う場合は、必ずこの人に頼んだと云う程の人であります。そう云う敦光の如き偉い学者に関係を付けた事も、ここに上方文化を吸収しようとした一つの証拠である。

それから敦光の書きました願文をだれが写したかと云うと、これは原本は無くなっておりますが、それを影写したものが残っていたので、それから又顕委家卿が写されたのであります。その原本を書きましたのは冷泉朝隆と云う人であります、この人も当時一流の能書家である。その当時、能書家が二人ありまして、朝隆ともう一人教長と云う人が有名な大家である。これはかってある人が有名な悪左府の頼長に朝隆と教長といづれが能書かと聞きました所が、頼長は何方もなかなか能く書かれるので、いすれが偉いと云う事はいずれとも言えないと云う事を答えたと云う事があります。その朝隆が願文を写したのであります。そう云う第一流の人によって起草せられ第一流の書家によって作られた願文を、今度読み上げます所の者は、当時の比叡山の本山の「相仁」巳講と云う者がやったのであります。そう云う風に京都の方からそれぞれその道の達者を呼びまして、文化の吸収に努めた。

丁度、この中尊寺が落成する少し前に、鳥羽天皇の天永元年に、清衡は外記の「良俊」を呼び下したと云う事があります。これは昨日、原博士の言われた通り、「中右記」に出ております。天永二年の條に書てあります。即ち五位以上の人が畿外に出ることは、制限のある事であるのに「良俊」は国家の制度に背いて遠く清衡の許へ行ったのは、その咎(とが)あるべきものであるという評議をしていることがしるしてある。この良俊と云う人は、相当な学識のあった人でありまして、「外記」と申しますと、中原か清原かでありますが、今迄調べました所では、そのいずれであるか分りませぬが、恐らくは清原氏の人ではないかと思います。

左大史と云う役をしているのでありまして、位は五位迄昇つている人であります。左大史と云うのは今日で申せばまづ内閣書記官ですから、相応の地位にある。今の書記官は事務を執ればよいのかも知りませぬが、その時分の書記官は相応の文筆が立ちませぬければなれない役であります。
それでこの良俊と云う者は、文筆の素養ある人で夫を清衡が呼び寄せて、自分の傍に置いた。そしてこの良俊は恐らく京都には帰らなかったらしい。
中原及清原の系図を調べても、何うも良俊と云う人は出て来ない。これで見ると恐らく清衡の所へ来ていた限り帰らなかつたのかも知れぬと想像致します。これは余程面白い事だろうと思います。

この後、頼朝の時になりまして、京都から大江廣元とか三善康信と云うような者が呼び下された。それを以て文筆の用に使ったのであります。清衡はそれよりも型は少し小さいかと思いますが、それと同じ意味の事をやっているのではないかと思います。かの良俊が下ったと云う事は、そういう意味に於て余程注意すべき事だらうと思います。即ちこれも清衡が文化の中心を造ろうとした一の例証として見る事が出来るのであります。
 

清衡は極く早い時から京都の公卿衆に縁故を求めようとした形跡がある。その関係を付けようとした事蹟の内で、最も重大な事は、荘園の関係であります。これはよくどこにでも引かれる文でありまして、詳しくは今日大森講師なり、又は他の方から御話があろうと思いますが、昨日もたしか原博士から御話があつたと思います。頼長の台記の記事であります。仁平三年に奥州の基衡から送る所の年貢が少いから、それを増せよと云う所の交渉をした。所が基衡がそれに応じないで、多年交渉が行き悩んでおりましたが、終いに三年間そのままほったらかしてありましたが、基衡の方で譲歩して、そうして話の折合が付いて、三年分を一度に納めたと云う記事があります。

この年貢と云うのは、恐らくこの基衡の持つておりました荘園の本家職、即ち本家株を頼長が持っておりましたのであろうと思う。それで基衡の持つていた荘園の本家職と云うものを頼長が持っていたのは、どう云う由来であるかと云う事を考えますと、これは「台記」に書いてある様に、親の忠実から譲り受けたのであります。親の遺産として貰ったのであります。それからその忠実は何うしてそれをもっていたかと云う事を調べて見たいと思いまして、私は忠実の日記、「殿暦」と云うものがありますから、それについて繰り出して見たのであります。そうすると六七ヶ所関係した記事があります。それは陸奥の男の清衡と云う者から、馬を贈って来たと云う風な記事が所々に見えている。その最も早く見えているのが長治元年であります。

今度はもう一つ遡りまして、忠実が何時頃からこれを持っているであらうかと云うので、その又親の方を調べて見た。そうすると忠実のお父さんの師通にもやはり日記があります。これは「後二條関白記」と申します。それを調べて見ると、大分繰り出しましたが、始めは徒労で功の少いものでありました。「後二條関白記」は三十二冊ありまして、それを詮索しました所が、寛治五年十一月十五日において、一つだけ発見致しました。それは陸奥の住人清衡から馬二匹進上したというので、その時の関白「師実」から「師通」の所へ送ったのであります。今度はこれを受けた所の師実の日記が見たいのでありますが、惜むらくはこの師実の日記と云うものは、今は殆んど欠けていて無いので、只今の所ではこの関係を遡り得るのは、後二條関白記の寛治五年位に止まる。そこで考えて見ますると、後三年の役の済みましたのが寛治元年で、それから四年経つと、早く清衡は京都の関白と連絡を付けております。

そう云う風に極く早くから清衡は藤原氏の方に関係を付けておりまして、かの後二條関白記の中にありまする所の、馬二匹を奉ると共に、二通の解文…何と申しまするか…陳情書とでも申しますか…その清衡より差出した文書が一緒に箱に入っていたとあります。それは只今申しましたように、師実の日記といふものはないので、内容は分らぬ。私が想像して見るに、藤原氏との関係と云うものは、この時に初めて付いたので、そうして清衡が藤原と云う氏を名乗るようになったのも、恐らくこの頃からではなからうかと思われます。

これは全く想像でありまして、極く危い話でありますが、恐らくそうではないかと云う当りを付けるのであります。尚、材料が出て来ましたならばこれらも調べて見たいと思ひますが、ただ思い付きだけを申して見ると、清衡は恐らく自分の領地の本家職を藤原氏に奉って、それによって藤原氏を名乗るようにしたのでないかと思います。清衡が混血であるか俘囚であるかと云う問題は別としまして、とにかく藤原と云う姓を名乗るようになったのは、この頃からの事ではなからうかと思います。京都の文化に憧がれ、これを模倣して斯く藤原氏とも関係を付けて、そうして東国に文化の中心を造ろうとしてのであろうと思われます。
 

<毛越寺の事>
次は毛越寺でありますが、この毛越寺の事も、いずれ詳しく外の講師から御話がある事だらうと思われますが、これについて私は一寸唯々京都の文化を吸収しようとしたそのの例として引いて置きたい事は、円隆寺の額を九條関白忠通が書いたと云う事が伝っている。これについては、昨日原博士が御話になつた様に、忠通は誰の寺のものかと云う事を知らずに、仁和寺から頼まれたままに、額を書いた。ところが後に「奥のえびす」基衡の寺だと云う事が分った。そのような者の為に字を書いてやるのではなかったと云う事で、遠く使を遣して取り返そうとしたと云う話が伝っているが、これは恐らく忠通が頼長との関係の上から額を書く事を嫌がったのではなからうかと思います。

それは忠通と頼長は仲が悪いので、その仲の悪い頼長は、基衡と深い関係があって、基衡の領地の本家職を持っている。そういう関係から、忠通が嫌ったのではなかろうかと思います。これは余談でありますが、多分そういう関係であったろうと思われる。とにかく忠通に額を書いて貰った。また円隆寺の堂の中に色紙型を教長に書いて貰った。先刻申しました朝隆と、その当時の二人の名高い書手であった教長に色紙型の字を書いて貰ったと云う事も伝っている。

そうして大阿弥陀堂の内に、京都の名勝の景色を書かせ、あるいは賀茂の祭とか、醍醐の櫻会の様子、宇治の平等院とか、嵯峨とか清水とか云う風な景色を書かせたと云う事が伝っている。それで、これらの画をかかせるには、京都から其の美術工芸家を呼び寄せたものだろうと思います。
かようにして当時、平泉に多くの京都の美術家がいて、したがってそれが京都の文化を大いにこの地方に入れたに相違ない。

中尊寺には寺塔が四十余りあり、坊が三百ばかりあった。
毛越寺にもやはり塔が四十許り、坊が五百ばかりあったと云う事になっている。

これらは恐らく京都の比叡山延暦寺に倣(なら)ったものと思います。谷々の名前も、いずれも比叡山に倣っている様子が見えるのであります。あるいは西谷とか東谷とか云う様子が、京都の叡山の真似をしたものだろうと思われます。
 

<秀衡の無量光院の事>
次に秀衡でありますが、秀衡は基衡の建てかけの「嘉祥寺」を完成し、又、新御堂即ち「無量光院」は京都の「平等院」を模して造ったのであります。こう云う風に、三代相続いて京都に対抗して、東北に文化の中心を造ろうとした趣が、明かに見えるのであります。尚、これは大森講師から特に詳しい御話があるそうでありますが、その時分、支那の文明、即ち宋の文明を輸入しやうとしていた形跡のある事は、又注意すべき事であります。

経蔵の文書中にその証拠が大分あります。大阿弥陀堂の本尊の羅網の玉は、唐人が作ったと云う事が書いてある。これは宋の人が来て作ったので、もしその伝えを本当としますと云うと、平泉に支那人が、しかも工芸家が来て居た。又、宋板の一切経を求めました。或は秀衡の館には、頼朝の征伐後焼趾に残っていた物の中に宋から渡ったかと思われるものが大分あった。それらは恐らく宋の貿易品であろうと思います。

かくの如く三代相続いて、東北文化の発展を試みまして、京都に対抗してその中心を造ろうとした結果は、今日では唯々僅かに残っている所の断片の材料によって窺(うかが)う事が出来るのであります。京都人は彼等を軽蔑して、いつも夷狄(いてき)視していたのである。

先刻申しました「台記」の内にも頼長が其の年貢を増加する事を要求しようとした時に、頼長の家臣が諫めまして言った言葉の内に、匈奴(きょうど)と云う者は無道であるから君命を受けぬ、仁を以て之を懐けるが宜しいので、威を以て畏れしめる事はできぬ。余り強く要求しない方が宜しいと言つて、諫めた話が書いてありますが、匈奴と云うは基衡を指したのであります。即ち彼等は夷狄視されて居つたのであります。夫から又例の忠通が額を書いた話、その時にも奥のえびすと云っている。そういふ風に、あるいは匈奴と云い、あるいは奥の夷(えびす)と云って、夷狄(いてき)視されておりました者も、いつの間にか京都を凌がんばかりの文化を得まして、京都人をして顔色なからしむるの概(おもむき)があったのであります。
 

<地方への文化の伝播の例としての都市「平泉」>
芸術史家の研究を伺って見ますと、彼の中尊寺に、芸術史上に、二つの他にない珍らしい物がある。その二つと云うのは、一は、かの一字金輪大日如来の像の玉嵌(ぎょくかん)が、今までに知られたる最古の物である。それから金色堂に「蟇股」と云ふ物を使ったのも、最古の例となっている。これらは京都の文化を凌いで、その右に出たものと見る事が出来ると思う。いわんや、二階の大堂の如きは、頼朝がそれを見まして大層気に入りまして、後、それを真似て、鎌倉に二階堂を立てた。即ち鎌倉の永福寺がそれでございますが、これは「東鑑」に見えている。かくの如きは上方から平泉に入つて来ました文化が、今度は逆輸入をして、鎌倉の方へ入って行ったものと見る事が出来るのでありまして、平泉の側、即ち藤原三代の立場から見れば、誠に痛快なる出来事であります。

以上、清衡以下三代が、この地方に上方の文化を移して、その中心を造ろうとし、京都に対抗しようとしていたと云う実例でありますが、そこで、一般にかの藤原時代の末、平安朝の末と云うものの、日本全体の文化についてて考えて見ますのに、この時代は、地方に文化の発展した時代である。
それは経済上の勢力が地方に於て発展して、地方の豪族が勃興した。それと共に文化が余程発展したのであります。これが一般の平安末期の姿である。その時代の相と云うものは、平泉において最も適切に例を見る事が出来るのであります。

そこで古から、日本文化の発展の様子を考えて見ますのに、奈良時代の文化は、一体に中央の文化で、文化が中央に集中していた。平安期になりましても、初めの頃は矢張りそうでありまして、その文化が貴族の文化であって、さうして中央にのみ発展している。それが鎌倉時代になりますると、その文化が京都の貴族ばかりでなく、武士といふ階級にも及び、さうして京都ばかりでなく、田舎の方にまで文化が拡って行った。そうして今度、室町時代、特に戦国時代から、段々と地方における平民の文化が発展した。江戸時代になると、平民文化の発達が特に著しくなるのであります。

そこで地方の文化の発展の初まりは、此の藤原時代の末から見る事が出来る。その適切なる例は、即ち平泉であります。尚、外にもう一つ西の方の九州において豊後の「富貴寺」と云うのがありまして、東西相並んでこの時代の相を最も適切に示しております。この点において、特に中尊寺、毛越寺は注意すべきものであります。これが私のお話したいと思つておりました第一の点であります。
 

仏教の信仰に伴ふ所の趣味の発達

<私寺の流行>
次に第二に移りまして仏教の信仰に伴ふ趣味、遊楽的分子という事であります。これについて申さなければならぬことは、一体、寺と云うものは、初めは少しの除外例はありますけれども、一般に公けの建物であった。お上の御役所であったのであります。寺という字は元来、支那では「官衙」を意味したのである。それで極く古い時には私の寺と云うものは禁じてある。勝手に寺を建ててはならぬと云う事が「大宝令」の内に明文があって、決して私寺と云うものは建ててはならなかった。

それが奈良時代に入ると云うと大分廃れておりますが、桓武天皇の改革において、寺の私(的)建立と云ふ事を厳禁せられた。それで空海弘法大師が高野山に寺を建てましたのも、彼は唯々初めは自分の墓場として、入定の土地として、弘仁七年に賜ったに止まるので、初めから空海は金剛峯寺と云う大きな寺を建てるつもりではなかった。単に墓場を貰ったに止まる。

それから京都の比叡山延暦寺の如きも、伝教大師が修行の庵を山の上に建てていたに止まった。それは桓武天皇が発布されました所の寺院の私建立と云う事の禁制が厳しかったからであります。ところが段々年が過ぎまして、特に仁明天王の頃からして、これ廃れ掛けて来た。一般の平安朝の仏教史を見ますと、仁明天王の頃から、迷信的傾向が盛んになっている。その処で信仰が少し堕落し掛けましたから、桓武天皇の制度が廃れ掛けた。

その後、「文徳実録」、「三代実録」等を見ますと、私(的)に建てられた寺の数は夥(おびただ)しいものであります。清和天皇の貞観年間になりますと、その寺の私(的)建立と云うものは、益々烈(はげ)しくて、桓武天皇の制度は廃れて、甚しいのは僧綱、今日で言へば宗教局長即中央政府に居つて宗教の戸締りをしている身でありながら、勝手に寺を建てた。桓武天皇の制度を廃すると云う御規則が出た訳ではない、いつまでも効力は持っていたけれども、その制度は宗教局長自ら破った。そうして自分で俗人の家を買ひまして寺を造つて、厚顔にも天皇に願ひ出まして、それを「定額寺」――これは、一定の数を限りて特別の待遇を受ける寺と云う事でありますが、其の特別の待遇と云うのも細かい定めがありますが、そういう特別の待遇を受ける一定の数の寺に列せられん事を願った者もあります。

左様な厚かましい奴も出て来た。それで大宝令の制度から桓武天皇の制度と云うものは、この時において、全く破れたのであります。そこで段々、御祈祷などと云うものが烈しくなって、雨が降らないと云っては雨の御祈りをする。坊さんに祈らしても一向に効がない。どんなに一生懸命に御祈りをしても、其の効験がない。中には法験がないのを恥じてその処をば逃げてしまった者もあると云ふ位、段々人を変へ日を重ぬる内に、気候の様子も変つて雨が降り出す。それでその時に当たった坊さんと云う者は、偉い坊さんになってしまう訳であります。

さてこの御祈祷と云うものは、古くからありまして、もちろん奈良時代にもあります。しかしながら奈良時代から平安時代の初に掛けての御祈祷は、多く国家的のものである。国家全体の為めに祈ると云う事が多かったのであります。ところが平安時代の中頃から以後になると、私人的祈りが多くなつた。私の寺が段々多くなつて来ると共に一私人、一家の利益の為めに祈る事が多くなった。そこでお互いに相寄つて、御祈りをする為めに、寺が必要であると云う訳で、私寺の禁が破れて勝手気ままに寺を建て、私の利益の為めにドンドン御祈りをするやうになつた。その御祈りが、今度は遂に政権と結び付くようになったのは文徳天皇の頃から特に著しい。はなはだしいのになると、「皇儲」即ち皇太子御世嗣の為めに両党(共に)、党を分つて争うて御祈りをしたと云うような例もあります。即ち惟喬親王と惟仁親王の争いで、真済とか真雅などと云う者が御祈をして、真済は惟喬親王の為めに御祈りをし、真雅は惟仁親王の為めに祈る。そこで惟仁親王が勝利を得て、これが清和天皇になられる。その結果として、今度寺を建てる。その時に出来た寺が即ち「貞観寺」と云う寺であります。

これは藤原の良房が建てました。段々時が経ちますと、初めは自分一人の利益の為めに建てた寺が、今度はそれさえも御留守になって、この次は、少しく道楽になって、遊楽の為に寺を建てるようになった。かの処において、平安朝の仏教史は中尊寺と結び付くようになるのであります。

藤原一族は、皆競争して寺を建てた。初めは自分の一家の為めに競争して寺を建てようとしたのが、今度は漸(ようや)く装飾等の為めに競争をして建てるやうになるので、それはもとより現世の安穏の為めにとか、又は子孫の繁昌を祈る為めとか云う事もありますが、実は一種の道楽であります。これは今日、多くの大官富豪などの別荘を建てる(の)と一向に違った意味はないと思います。しかしながら流石(さすが)に時代は、時代だけあって、時代相応の趣味というものがあります。美術とか芸術の愛玩に宗教的趣味を加えていった。その著しい例を申しますと、基経が「極楽寺」を建てた。その基経に次ぎまして、其の子忠平が「法性寺」を建てた。師輔が叡山の横川に「三昧堂」を建てた。兼家が「法興院」を建てた。それから為光が「法住寺」を建てた。こう云う風に段々建てて行きまして遂に最も偉い道長が「法成寺」を建てた。この時に至つて、最も烈しい頂点に達するのであります。

その次に、又頼通が「平等院」を建てた。これらの寺は皆、意匠を競いまして栄華を尽していたのでありますが、それらは皆かの寺の本来の意義、即ち宗教的儀式もしくは信者の集会場などと云うような寺の本来の意義を失いまして、多くは皆、「持仏堂」のような様子になっていって、即ち寺の内に住み込んで来ておりました、この点においては宛然(えんぜん=まさしく)別荘であります。故にその寺の造りにも、住居に適するようにいわゆる寝殿造りを用ひたものが多い。平等院の如きはその著しい例で、俗に伝える所では、鳳凰堂は鳳凰が翼を拡げている形であると云いますが、近頃、芸術史家の説に依ると、全く寝殿造りの意匠を模したものであると云う事になっている。寺が住宅にもなり、保養所にもなっている。

そこで道長が「法成寺」を建てました時の趣意は、明かに物語りの上に見えている。御堂を建てて、すずしく住むと言っている。つまり道長がむしろ公事は怠っても、寺役は怠る事なかれと言ったり、又はその造営をしますのにも、一族の者が造営の手伝いを為しまして、義務的にその手伝いをさせました。そうして一生懸命に建た所のその法成寺には、自分がその内に住み込んだのである。道長は、その最も力を籠めました「無量寿院」即ち「阿弥陀堂」の内に住み込んで、死にます時にも、その阿弥陀堂の内で死んだのでありまして、その本尊から糸を引いて、その糸を手に持ちながら、それに縁つて極楽往生をしたいと云って、阿弥陀仏を拝みながら、そこで死んだのであります。これらは寺が住宅風になっていったと云う著しい例であります。
 

<藤原時代の信仰>
そこで私は、藤原時代の信仰の性質について、もう少し詳しくお話して見たいと思います。藤原時代の信仰の性質と云うものは、一般に現世的であると云う事を誰でも云います。現世の安穏を求めると云う事を言いますが、所が唯々御祈りをして、今の世の中の安穏の栄華を祈ると云うばかりでなく、又その寺そのものにおいて、目前に、自分が色々な快楽を求めたのであります。

すなわち寺に参りますと云うと、そこにに非常に立派な絵が出来て居る。絵画装飾が立派である。彫刻も有名なものがある。その彫刻も今日でこそ燻ぶつた阿弥陀如来の像がどんなに優秀であっても、一部の美術家が喜ぶだけで、外一般の人は「ナンダ燻ぶつた阿弥陀さんか」と云うやうに喜びませぬが、その時分の人は、吾々が今日見るところの心持とは違っていたので、そういふ阿弥陀仏なり外の菩薩如来の姿の優美で神聖であるところを見ると、何とも言えぬ快感を覚えたのであります。従つてその仏像の姿と云うものも、それ相応に非常に優しく綺麗に出来ていたのであります。

そうしてその寺へ参りますと云うと、そこに音楽に非常に優れた者がいるとかいう風で、丁度寺と云うものは一種の遊び場のようになっておりましたので、唯々寺へ行って御祈りをするとか、法話を聞くと云うのみならず、寺において面白く生活を送ると云うのが多かったのであります。上流の貴族が皆寺を建てたのは、そこにおいて現在の楽しみを求めたのであります。

そこで、一二の著しい例を申して見たいと思う。
道長の立てました法成寺の内に、西北院と云うのがあります。これは道長の夫人が建てたのですが、その出来ましたのは治安元年でありまして、その年落成式の供養を挙行したのであります。その落成式が三日間続きまして三日三夜の間不断念仏を行ったのであります。その時の様子を書いた物を見ると、念仏の僧は、極く小さな子供許りを集めました。年は十二から三四までのものを撰り集めた。叡山の西塔東塔、横川、奈良の興福寺、仁和寺、三井寺、夫等の寺々から、十二から十四歳迄の小さな可愛い小僧を集めて、そうしてその僧が非常に綺麗な姿をして来まして、念仏を唱えた。

その着ております着物は、あるいは紫のものもあり、その紫にも濃紫、薄紫等あり、その装飾の如きも無紋の者もあれば、形のある者もあり、綺麗なものでありました。そうして頭には花を飾つて居りまして、顔には紅白粉を付けていた。それで実に何とも言えぬ美しい尊い様が見えた。そうして見渡した所、そういふ綺麗な小僧さん達がずっと集っておりますので、いかにも地蔵菩薩と云うものもかくやあらんと思われたという事である。それらの者が実に哀れにらうたき可愛らしき声を出しまして、細く美しげに念仏を唱えていた様子は、昔の迦陵瀕迦の声もかくやと聞かれた。そうして殿上人、上達部等、これを見ております人たちはかくの如きは、いまだかって見ざる所のものだと感心を致した。それで三日は誠に儚なき内に過ぎまして、名残り惜しいけれども、何時までもやっている訳に行かぬので、残念ながらそ日はそれで終えた。

後にも公家衆の話題は、何時もその事の話で満ちていたと云うことであります。これが切にその時代の信仰を物語っている。仏様に参つて御祈りをして、可愛い小僧を集めまして、それが綺麗な声で歌っているのを聞いて喜んでいる。先年、私はイギリスへ参りました。イギリスの日曜日は、遊覧者にとつては誠に困る日で、御寺参りでもするより外にしかたがないので、私も毎日曜日に御寺参りをした。さうすると、今日はどこの寺に行こうと云う相談を宿の主婦に掛けますと、必ず今日はどこどこの寺に上手な「カイヤボーイ」すなわち歌手がいるから、そこにへ行けと云う事を勧める。どこの御説教が好いから、そこにへ行ったがよかろうと云うよりは、どこの歌手が好いからどこの寺へ参れと、こう云う事を勧める。それと同じだと思う。現今のイギリスの信仰がそういう風になっていると云う訳ではありませぬが、趣味はそうなっていると云う例に引いて見たのであります。

次にもう一つこれに似たような話があります。
先刻申しましたのは治安元年でありますが、その後一年置きまして、治安三年になって、法成寺の内に萬燈会と云うものを行った。この萬燈会と云うものは、恐ろしく立派なものであったようであります。これは道長自身がやったので、道長の親しい人も遠い人も、皆一様に道長から求めまして、燈籠を一つ宛持って来いと頼んだ。そうすると畏れ多くも、上上皇から始めて、思い思い、いずれも意匠を凝しまして、燈籠を作る。その燈籠と云うのが一寸考えると経木か何かで紙でも張った様に思はれますが、そうではなくて、金銀で作り瑠璃とか七宝等種々の飾をつけ、非常に金を掛け意匠を凝して持って来たのであります。その意匠は皆秘密にしまして、当日までは人に知らせないようにして、一生懸命に競争をして作ったのであります。それであるいは金で造ったとか、銀で造ったとか云うものに網を掛けて火を点ける。あるいはは孔雀の形、鸚鵡の形、迦陵瀕迦の形と云うような風にして、燈火を点けるものを作って来た。また蓮華の形を作りました燈籠もあります。それは蓮の中から仏様が現われて来られる様子を作っていたものであります。金の余り無い者は、極有り觸れた物を作って持って来たのもある。それを法成寺の四町四方の境内の中に並べた。中には池の中に燈籠を点していたのもある。そういう風に皆が競争をして持って来たので、それが法成寺の境内一杯に満ちまして、至る所、火を点さぬところは無いと云うような有様である。実に萬燈会と云うのが、億千萬とも見えたと云う事が書いてあります。此の趣味は如何にも清新の趣がある。

しかしながら翻って見れば、これは唯々遊びにやるならば別ですが、萬燈会と云うものは、宗教の儀式としてやるものでありますから、かくの如きは、信仰が如何にも純粋であると云う事は出来ぬと思う。しかしながらこれがこのの時代の一般の風であったのであります。でありますから、この後平の重盛について有名な話がありますが、これは源平盛衰記にも出ております所の、燈籠大臣と云う名前をつけられた話であります。

すなわち、十二間四方の堂を建てまして、四方に四十八間をつくり、そうしてその一方の十二間の一間毎に、十二光仏を一体づつ立て、すなわち四方に四十八体の十二光仏を列べ、、その前に各一つの常燈をともし、仏様の前に上は二十歳下は十六歳の婦人を置いて、その燈籠に一人づつ附けておいた。その四十八人の婦人が日没になると、衣装を飾り凝らして、静かに礼讃し、念仏を唱へて四十八間を廻つていた。念仏が終れば六人を一組にして、皷バツをはやしつつ、今様を謡うて廻つたという。それで燈籠大臣と云う名が附いておったが、矢張りこの思想は道長などと同じ思想から来ていると思うのであります。言わばこれは道楽であります。こう云う信仰に伴ふ道楽と云うものは、特に平安朝の末から進んだのであります。

経文を瓦に書きまして埋めました瓦経と云う物があります。あるいはは石に経文を書く経石と云う物もある。石に御経の文句を一字宛書きまして、何萬何億と云う石を埋めたと云う事もある。夫から清盛が経石の信仰に伴ふ道楽を利用して、それを以て兵庫の港を築いたと云う話もあります。清盛は余程悪く言われますけれども、そういう智慧は偉いもので、その時代の思想を超越している。そういう時代の思想を利用して石に字を書かして、これをやれば功徳になるからと言って、その石を運ばして、そうしてそれを築港の土台に使ったのであります。
そういう巧い事をやる。あるいはは又、蛤の貝に御経を書いて埋めたと云う話もある。又木の葉に書いた事もある。次に後白河法皇も属々やられた事でありますが、柿の葉に御経を書きまして、それを流して功徳になると思ってうた時もある。それでこう云う風に、道楽の種類が色々と行われる。これは特に平安期の末期に多い。こういう風な点から見ると、彼の厳島の有名な立派な装飾のある御経、或は扇面写経の如きも、信仰に伴ふ道楽の骨董的趣味と見る事が出来ます。御経を写します料紙の装飾にも、非常な意匠を凝しました。紙は只の紺紙とか白い紙でなくして、種々の画を書きました。又は絵でも面白くないと云って、今度は字を書きまして、その字の上に御経を写したのもある。そうして料紙装飾に意匠を凝した。

今度は段々凝りまして、仏師の運慶の如きは石に書いたり紙の意匠を凝したのでは面白くないと云うので、御経を写します硯の水にまで意匠を凝した。その水は叡山の横川、三井寺、清水三ヶ所から汲んで来まして、その水で墨を磨った。そうして御経を写したと云う例もあります。この信仰に伴ふ道楽と云うものを、一々申しますと大分時間が掛りますから、これはこの位にして置きましょう。

右の如き一般の時代の風、すなわち信仰に伴ふ道楽の風を、今度翻って中尊寺、毛越寺について見れはいかがでありますか。金色堂も本堂も同じく三間四面であつた。これらも矢張りその時代の極く小さな持仏堂の住宅の式になっていたのであると見る事が出来る。金銀七宝を燦爛として輝かして造っている。この寺院の装飾の風も、矢張りその時代の道楽の風である。又清衡の天治三年の願文を見ると、萬燈会を行ったと云う事が書いてある。これらは、先刻申しました道長のやりました萬燈会のような意匠を凝したかどうかは分らぬけれども、とにかくその時代の風を行ったものである。

また現今でも経蔵に残ってあります一切経が、金銀の行を交え、あるいはその口絵に、立派な装飾をしておりますが、これらも矢張り今申しました道楽の風であります。この道楽骨董的の趣味と云うものは、矢張りそ時代の影響を受けたと云う事は争うべからざる事実であります。

かくの如く、この京都から離れた遠隔の平泉において、矢張り京都の同じ時代の相が現はれていると云う事は、実に時代の思潮の勢力の偉大であると云う事を感ずるのであります。これが私が説明しようとした第二の要点であります。

ここで私の申そうと思っておりました要点は、概略終ったのでありますが、かような風にこの二つの点、すなわち仏教に伴って文化が地方に発展した。それから信仰に伴う道楽が矢張り各地方に大いに進んでいたと云う風に見て行きますと、中尊寺、毛越寺と云うものは、文化史上仏教史上、余程重大な意味を有しておりますので、この意味から見ると、私の考えでは、中尊寺、毛越寺と云うものは、京都のいづれの寺を持って来ても追つ付かぬと思う。現今、京都に残っている寺においてこの時代の相を見る事が出来るものは大分ある。これは福井講師からいずれ詳しいお話もありましょうが、あるいは平等院であるとか、大原の三千院の極楽院とか、日野の法界寺等でありますが、中尊寺毛越寺は、これと同じく、余程重大の意義を持つて居る所の尊いものであります。

それにもう一つこの中尊寺、毛越寺と云うものが、京都でなくして平泉、すなわち遠隔の地方にあると云う事が、更にその平等院だの極楽院などよりも意義を重くし、興味を深からしむるものであると思います。これはただ美術史上、建築史上に重要なばかりではなからうと思います。要するに、京都の平等院だの極楽院などと云うものは、藤原氏が衰亡した原因を示しているものでありまして、時代思想が段々堕落して来て、その思想の堕落と共に、外に経済上の勢力までも段段と衰えました。

そういう意味を、平等院だの極楽院だのは語っているのでありますが、中尊寺、毛越寺は、尚、その上に京都の文化が地方に発展したと云う事を示しているのでありまして、言い換えますれば、地方が偉くなって、京都が衰えたと云う事を示しているのであります。中尊寺、毛越寺は、即ち公家が衰へて武家が盛んになったと云う事を語る所の史料である。

歴史の材料として、そういう風に見る事が出来る。しかしながら又翻って考えて見ますれば、その堕落し掛っておった藤原時代の文化は、それの発展と共に、弊害が伴つて出ている。その弊害をも同じく此方平泉へ持って来ておりますので、丁度、平等院、極楽院が藤原氏の衰微を示すと同じように、中尊寺、毛越寺も、矢張りこの平泉の藤原氏滅亡の原因を示していると云うのは、実に不思議な奇縁のように思われます。これで終ります。


 


 
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2002.1.17
2003.3.02
H.sato