第一稿

藤原秀衡の死をめぐって(その一)

(秀衡調伏に利用された弁天様)



吾妻鏡、養和二年(1182)四月五日に、こんな下りがある…。

その日、頼朝公は腰越近くの江ノ島にお出かけになられました。(臣下名は略す)これは高雄山神護寺の文覚上人が、頼朝公の御請願の神事を執り行うためのものでした。(文覚上人は)弁財天をこの島に勧請し、供養の間、自分で隅々まで取り仕切りなさいました。この事、実は鎮守府将軍藤原秀衡を調伏するための密議でありました…。そこで(頼朝公一行は)今日、鳥居を立てて、お帰りになったのでした」(現代語訳は佐藤)

養和二年(1182年)と云えば、頼朝が関東の武者たちの御輿に担がれて、打倒平氏に立ち上がった治承四年(1180)8月14日から二年後に当たる。しかも吾妻鏡は、この儀式の目的が、「秀衡の調伏の密議である」とはっきりと言明している。この時、義経も鎌倉にいたはずであるが、この儀式への参列は当然ながら、許されなかった。頼朝はまだ平家打倒に立ったばっかりなのに、既にその次を見越して頼朝は行動を起こしていたことになる。

だかこの「秀衡調伏」の密議の裏には、それなりの伏線がある。それは清盛に幽閉されていた後白河法皇が、策士の清盛に請われて院政を再開し、源氏方封じ込めを始めたことである。事実、後白河法皇は、養和元年(1181)8月、藤原秀衡に頼朝追討を命じ、平資永(すけなが)に木曽義仲追討を命じている。つまり平氏との政治的妥協として、一端平家と和睦をしておいて、一大勢力となりつつある関東武者の旗印としての頼朝を封じておくことであった。

そこに怪僧文覚が歴史に登場してくるわけであるが、実はこの人物も後白河法皇には、一種の敵意を持っている可能性が強い。彼は承安三年(1173)御所に参内して、高雄山神護寺の再興を直訴して、暴言を吐き、伊豆に流刑になった過去を持つ男である。この時文覚は、同じく伊豆に流されていた頼朝に会って、その父義朝のドクロを見せ、平家打倒の挙兵を促したという伝説が残っている。その後、治承二年(1178)に文覚は罪を許されて帰洛していたはずであるから、この時(1182年)、文覚は神護寺より、頼朝の招請に応じて鎌倉へ来たことになる。

さて何故、文覚と頼朝は、弁財天を、勧請しようとしたのか。ここで少し弁財天について考えてみることにしよう。

岩波の仏教辞典によれば弁財天は、
「弁天と略称し…リグ・ヴェーダのなかに現れる河川の女神、水の女神、豊壌の女神で…弁財天と記される場合は、財福神の性格を示す…七福神の一人」とある。

次に調伏ということも知っておこう。
同じく岩波の仏教辞典には、このように説明されている。
「…威力ある…本尊をいただき、護摩を焚いて敵や怨霊などを打ち破る修法…調伏法の語源は、…魔法をかける意。我が国では平安中期以降鎌倉期にかけて流行し、対立者の破滅や呪詛の消除、内乱の鎮圧、外的の征服などを祈願して行われた」

確かに現在の鎌倉にある銭洗宇賀福神社(通称:銭洗弁天)は有名である。お金に御利益のある福神に呼んで、非福である秀衡の調伏を頼むとすれば、答えは決まっている。おそらく頼朝は、まず奥州藤原氏の財力を封じようとしたのであろう。その上で、奥州の富そのものを己の手に入れようとした形跡が伺える。事実、頼朝はその後、以下のように奥州の富ばかりか命運を封じるような行動にでることになる。

1 文治二年(1186)四月二四日、頼朝、秀衡に朝廷への貢ぎ物は、鎌倉を経由して献上すべきを進言し、
  秀衡渋々了承。秀衡を屈辱に追い込み、奥州を鎌倉の支配下に置こうとする。 

2 文治三年(1187)三月五日 頼朝が義経奥州に入ったこと知りすぐ院に報告。

3 文治三年(1187)四月頃 秀衡が義経を匿っていることを非難、
  また奥州に亡命している山城守基兼を帰京させないことを責め、
  あわせて大仏滅金料として、三万両を献金することを院に進言。

4 同年九月四日 秀衡は叛逆の意志がないことを述べて鎌倉に謝る。頼朝はこれを、また院に報告。

5 同年九月二九日 秀衡はこれに文書にて弁明をする。
  曰く「基兼は、自らの意志にて奥州にとどまっていること、三万両については、余りの高額で応じがたい」

さしもの北の王者秀衡も、それから一ヶ月後の文治三年十月二十九日、心労が重なったのか、持病の脊髄カリエスが急に悪化し、あっさりと薨去(こうきょ)してしまう。享年66歳。この奥州の巨星の死によって、庇護されていた義経はおろか奥州の運命も一気に決してしまった感がある…。秀衡は、最後の力を振り絞り、遺言を残し、息子たちに起請文を書かせたと言われる。その遺言の骨子は「義経公を要として、兄弟まとまって、頼朝に備えよ」であった。息子たちは書いた誓詞を父の前で呑んで誓ったとも言われる。それをどんな思いで秀衡は見たのであろうか。

周知のように、秀衡のその思いは叶わなかった・・・。
その後、陸奥奥州は、富と血に飢えた頼朝によって、いとも簡単に蹂躙されてしまうこととなる。秀衡が頼りとした義経は、秀衡の死から、一年半後、文治五年閏四月三十日、皮肉に嫡子泰衡によって殺されてしまう。泰衡にしてみれば、精一杯の判断だったかも知れない。明らかに泰衡もその背後にいる基成も頼朝という人間を読み違えていた。義経の首で満足している頼朝ではなかった。頼朝の本願は、奥州が蓄えている無尽蔵の金と豊かな荒野にあったのだ。哀れ運命の子泰衡も、文治五年九月三日、あろうことか家臣河田次郎に首を取られ、ここに奥州藤原氏四代百年の夢は、無惨にも潰えてしまうのであった。

* * * *

こうして文覚と頼朝の調伏の秘技は結果として、成就したことになる。

それにしても七福神のあの弁財天の優しい姿とは似ても似つかない実におぞましい話ではないか。


 資料

【原文】

養和二年四月五日

四月小。五日乙巳。武衛令出腰越辺江島給。足利冠者。北条殿。新田冠者。畠山次郎。下河辺庄司。同四郎。結城七郎。上総権介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文学上人。為祈武衛御願。奉勧請大弁才天於此島。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事為調伏鎮守府将軍藤原秀衡也云云。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗沢辺。有牛追物。下河辺庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。

【読み下し】

養和二年四月五日 四月小 五日乙巳 武衛(頼朝)、腰越の辺、江島に出でしめ給ふ。足利冠者(義兼)、北条殿(時政)、新田冠者(義重)、畠山次郎(重忠)、下河辺庄司(行平)、同四郎(政義)、結城七郎(朝光)、上総権介(広常)、足立右馬允(遠元)、土肥次郎(実平)、宇佐美平次(実政)、佐々木太郎(定綱)、同三郎(盛綱)、和田小太郎(義盛)、三浦十郎(義連)、佐野太郎(忠家)等御共ぶ候ず。 これ高雄の文学(文覚)上人、武衛の御願を祈らんがため、大弁才天を此島に勧請したてまつり、供養の法を始め行ふの間、ことさら以て監臨(かんりん)せしめ給ふ。密議なり。この事、鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんがためなり云々。今日、鳥居を立てられて、その後還られしめ給ふ。

 

参考文献

吾妻鏡 国史大系 吉川弘文堂 昭和七年

新釈吾妻鏡 新人物往来社 1976年

源頼朝のすべて 奥富敬之編 新人物往来社 1995年

藤原四代のすべて 七宮A三編 新人物往来社 1995年

藤原秀衡   高橋崇著 進人物往来社 1993年

平泉  荒木伸介著    プレジデント社 1993年

人物叢書「源義経」 渡辺保著 吉川弘文堂 昭和41年

人物叢書「後白河上皇」 安田元久著 吉川弘文堂 昭和61年

人物叢書「奥州藤原氏四代」 高橋富雄著 吉川弘文堂 昭和33年


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2000.1.30