「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産決定と平泉

平泉-高館の最新の眺望からの不安
 
 


高館からの最新の眺望(2004.7.4)
文治五年(1189)閏4月30日源義経が自害し、その五百年後松尾芭蕉が「夏草や・・・」と絶句した平泉第一の景勝地高館の景観はバイパス工事によって完膚無きまでに破壊されてしまった・・・。
「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」世界遺産決定の意義

2004年7月1日、中国の蘇州市で開催された第28回世界遺産委員会で、奈良の吉野から和歌山の熊野と高野山が、「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」として世界文化遺産に登録されることが決まった。

日本としては、12番目の世界遺産となる。素晴らしいことだ。何しろ、この新しい世界遺産は、奈良の吉野から和歌山の熊野、高野山、三重の伊勢路という三県二十九市町村に広がっている点で大いに評価できる。

奈良から紀伊半島全体が世界遺産として認知されたようなものである。日本人の信仰の道そのものが世界文化遺産として認められたことにもなる。そして各地には、コアゾーン(個)としての吉野の金峯山寺があり、熊野の各神社があり、高野山金剛峰寺から奥の院まで広がる寺寺が点在し、更には、お伊勢さんとして日本人に親しまれてきた伊勢神宮までが、「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」として世界遺産となった。遺産の規模を考えると実に壮観である。各地で様々な意見の食い違いを乗り越えて世界遺産登録に漕ぎ着けた当事者の皆さまの努力に対し拍手を送りたい。

本来なら、日光も、日光山全体が、霊山として評価されて、世界遺産となるべきであった。しかし残念ながら、幾つかのゴルフ場やいろは坂や新しいバイパスなどの評価が分かれて、結局、寺社のみの登録となってしまった。今回は、日光のケースと違って、古来からの信仰の道が古道としてそのまま残っていることが評価された形で登録される運びとなり、意義深いものがある。


今のままで平泉は世界遺産になれるのか?!

ひるがえって、我が「平泉」を観る。かつて環境問題のジャンヌダルク天野礼子さんが、平泉に来て、周辺の山河を廻って語った言葉をしみじみと思い出す。

「平泉は、単なる平泉という町にある中尊寺と毛越寺というような小さなものではなく、豊かなブナ林が広がる奥羽山脈の栗駒山の領域に広がった地域全体として見るべきです。その意味では、世界遺産登録の運動は、単なる『世界文化遺産』というのではなく、『世界自然文化複合遺産』として展開すべきではないか。だってこのブナの自然林は白神山地まで広がっていて、北上川の豊かな水源なのでしょう。平泉の二つの寺はもちろん素晴らしいけど、それでは、世界遺産委員会を納得させられないのでは・・・」
彼女の本意は、「平泉が世界遺産になるに当たって、奥州の山河も入れるような広域の文化を巻き込んだ形が必要だ」と言っていることになる。世界の様々な都市や自然を廻って来ている天野さんの発言を、当事者は重く受け止めた方が良い。「世界遺産平泉」とは、象徴的な意味であって、何も平泉という中世都市をそのまま指していると思ってはならない。つまり、中尊寺と毛越寺というものは、その「平泉文化」の顕在部分を指す概念であって、その奥には、明らかに大和文化とは質の違う奥州独自の文化が眠っていることを自覚する必要がある。

ではいったい何をもって「平泉」が世界遺産たり得るのか、このことを私たちは真剣に考えなければならない。分かり易く言えば、「平泉とは何か?」ということになる。世界遺産というものに、同じものは必要ない。そうなると奈良や京都の寺社や日光の寺社と平泉は、どこが違うのか、ということこそが登録要件として大事になるのである。

そのことを解く鍵は、おそらくアザマロやアテルイの時代から始まる苦難の歴史の中にある。中世の奥州に突如として花開いた「平泉」という黄金文化の根底には、蝦夷(エミシ)と呼ばれた東北の人々の平和への祈りがあるように思われる。彼らは大和朝廷から再三の侵略を受け、尊い犠牲と忍従を強いられながら、徐々に自らのアイデンティティを形成していった。日本文化の根底には、縄文と弥生の文化の源流があると言われる。蝦夷の人々の文化は縄文に通じ、大和の文化は弥生に通じる。その中で、フランスで最新の民俗学も納めた画家岡本太郎は、蝦夷文化の発見者としても有名だが、金色堂に入って、京都や奈良の寺社とは、まったく異質の文化を感じたと記している。また現代最高の肖像画家と言われる村山直儀氏も、金色堂を評して、エジプトやギリシャ文明に通じると興奮して語ったことがある。

黄金という特産物を得た東北は、その黄金の産出故に逆に不幸をかこっていたが、中世において、安倍、清原、藤原と受け継がれた蝦夷の文化は、大和から来た文化を、いつの間にか吸収融合させて奥州文化として、綜合を計ったのである。こうして辺境と言われた奥州平泉に人口十万を数える絢爛豪華な大都市を出現させたのであった。 その象徴が中尊寺にある金色堂というわずか6m四方に納まる黄金の御堂なのである。

これは、私個人の空想や妄想などではない。初代藤原清衡公は、中尊寺を建立する折に「中尊寺供養願文」を起草させた。その中において彼は自らを「弟子は東夷の遠酋なり」(私はエミシの酋長に連なる者です)と明確に語った。彼は中央の貴族たちの血を引いていながらも、自分の血の中にある蝦夷の血を逆に誇示し、奥州平泉を平和の楽土とすることを高らかに宣言したのである。そこにこそ、「平泉」が世界遺産になる価値があると思われる。侵略を受けた側の蝦夷の血を受け継ぐ者が、苦闘の果てに勝ち取った平和を尊いものとして深く感謝し、この平和を永遠のものとすることを祈願するために、中尊寺は建立され、平泉は建設されたのである。まさに平泉は、平和宣言を行った理想都市だったことになる。

平泉という言葉に象徴されるもの。それは「平和」の「平」と「泉」ということから、水辺に建設された平和都市の概念であろう。かつての中世都市平泉には、いたるところに池が掘られ、猫間が淵と言われるような水が都市の周辺まで遊んでいたような都市であった。ところが、昨今の平泉バイパスに象徴されるものは、水を平泉という都市から遠ざけ、しかも遮断している。このことは、世界遺産の価値としての、かつての黄金の都市「平泉」の概念を根底から否定し、遺産としての価値を損なうものである。何故、そのことに当事者は気が付かないのか。実に不思議だ。このような開発思想は、すでに破綻した考え方である。にも拘わらず、一度立案された企画は、テコでも変更しない国土交通省の頑迷さを、いったいどのように考えたらいいだろう。環境省も文化庁も、国家予算の大半を保持する大省の国土交通省に遠慮してか、何も発言をしない。

日本という国力で、世界遺産委員会が動かせるとでも思っているのだろうか。平泉文化という都市の本質を理解した上で、糺すべきは糺して行かないと、同委員会において、平泉の世界遺産登録は、先延ばしになるか、立ち消えになることだって、あり得ることを指摘して置きたい。つつがなく、平泉が晴れて世界遺産として登録されるためにも、やはりもう一度「平泉とは何か?」という原点に立って、今回の「紀伊山地の霊場と参詣道(さんけいみち)」の世界遺産登録から学ぶという姿勢が必要となる。その意味でも、世界遺産登録の運動が、単に平泉町一町、または岩手県というレベルを超えて、かつての平泉の周辺地域全体が広域的に平泉文化圏ということで強い自覚と連帯意識を持って取り組むことが大切であろう。 (佐藤弘弥記)
 


 平泉なる価値を知りせば路ひとつ造る際にも哲学は要る



2004.7.5 Hsato

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