「長崎チャット殺人事件」を考える



 

昨日(2004年6月1日午後)、長崎県佐世保市で小学6年生(11才)の女児が、同級生の子をカッターナイフで殺害するという痛ましい事件が起きた。原因は、インターネットでの書き込みが直接的原因になっているということだが、それにしても、ハナから同級生を殺害するという殺意をもって、冷酷にも首を切り、その死に至る一部始終を見ていたという行為の残虐性に驚くと共に、そこに至るまでの女児の精神的な動きに今ひとつ理解できない大きな闇が潜んでいるようで実に怖い事件である。

11才と言えば、まだ精神的にも肉体的も子供である。このような事件が発生するためには、起爆剤となる日常的でない非日常的なインパクトがなければできるものではないと思われる。最近言われはじめているのは、インターネットのチャットの書き込みと映画「バトルロワイヤル」を観ていたという説である。

もしも仮にインターネットと暴力映画というふたつの非日常的な要因が女児の幼い心に何かしらの犯罪に至るインパクトを与えたとしたら、どのようなことになるのか。確かにこのふたつのインパクトが女児の無防備な心の中に、得体の知れない悪魔のように取り入って、殺人という非日常的な観念が芽生え大きく膨らんで行くことは十二分に考えられる。

現在のインターネットの世界は、何でもありの無法地帯である。仮にその中で、犯罪を触発する書き込みや、行動を駆り立てるようなサイトに迷い込んでしまった場合、11才の女児の心では、どうしようもないことになったはずだ。いわば、そこは暴力と非行との誘惑のジャングルのようなものだ。少し前には、サイトを通じて知り合った者同士の心中が次々と起こった。

今度は、まるで仮想殺人のゲームのように引きおこされた現実の殺傷行為である。そうでなくても、インターネットのチャットや掲示板での書き込みは、双方に熱くなって、言ってはならない言葉で相手を罵り合うような諍いが絶えない。何故か分からないのだが、チャットや掲示板には、人の心の琴線に触れる何かがあるのかもしれない。

とすれば、社会は、現在の少年少女を取り巻いている有害なインターネット情報から子供たちを護る義務を有する。少年少女の健全な心の発育を阻害するような状況を改善することが急務だろう。この事件をきっかけとして、文部省が審議会を作るそうだが、実は対応が遅きに失しているのである。

現在、小中高ともに、インターネットを自由に使わせる教育が普通になっているようだが、その前にやるべきことはある。それはもう一度、心の発育が未成熟な子供たちに対するインターネットの心理的影響度を考慮し、そこで明らかに悪影響があると思われるようなサイトや、情報については、これを遮断する何らかのファイアーウォールを築かなければならないということだ。

ただ遮断するだけではなく、心が未成熟なものが、サイト構築の技術などによって、インターネットの世界を自由に徘徊できるとしたら、それはインターネットというハイウェイを無免許の者が猛スピードで、走り回っているようなもので、サイト構築には、一定程度のモラルに対する価値観や、サイト開設に関わる義務を理解させることも必要になるかもしれない。

次に映画であるが、確か映画「バトルロワイヤル」は、R指定の映画だったはずだ。それが貸しビデオ店で、小学生が行っても平気で借りられる状況があるのはどのように考えてもおかしい。制作者側の問題もある。映画「バトルロワイヤル」は、勧善懲悪(正義と悪の境目)のないまったくの学園暴力映画で、観ているこっちが気分の悪くなってしまうような映画である。

大映画作家の故深作監督には、何の偏見もないが、「何で最後にあんな映画撮ったの」とだけは言って置きたい。あのような無節操な暴力シーンを映像化する感覚が分からない。これが「地獄の黙示録」や「プライベート・ライアン」のような映画は、戦争の否定的な面を、それを観る観客が吐き気を催すのを覚悟で撮っている。それほどのリアリティをもたらすために。あのように凄惨にしているのであって、映画「バトルロワイヤル」には、あのような非日常の仮想的暴力を演出する必然があるとはどうしても思えない。あのような非日常的でしかも仮想的な暴力シーンを日常のウサを晴らす映像と感じる観客がいることに、現代の日本社会の心の病巣を感じる。

やはり、映画にも忌避すべきことはあると映画人には言いたい。自分が制作した作品が少しでも社会が良くなる方向にインパクトを与えることこそ芸術の役割ではないのか。少年少女が、何らの善悪の脈絡もなく、人形のように次々と死んでゆく映画を作る感覚のどこにアートがあるのかと言いたい。もちろん映画人だけではない。現在のテレビメディアのあり方をこれで良しと考えている人は少ないはずだ。特に民放各社の娯楽番組の質は著しく低い。使う言葉も汚い。体良く若手のお笑いタレントを使い捨てする姿勢には報道の良心というものを感じない。ドラマも余りに質が低い。視聴率至上主義が、良いドラマが生まれない体質を作っている。今のままでは才能ある者は業界を去ってしまうであろう。

結論である。今回の事件の分析が進むことを通じて、社会全体が、本気になって、歪んだ形で増殖するインターネット社会の改善に取り組むことが必要があると感じる。肝要なのは、社会全体の宝である少年少女の心が、どのようにしたら健全な発育を遂げられるか、という一点にある。すべての施策はそこから決定されるべきだ。その上で腰の据わった方針を打ち出せばよい。今回の事件の根本は、やはり教育問題そのものである。文部省のリーダーシップが問われている。インターネットの未来を指向している者も映画人(テレビ関係者)も、己の安易な製作態度が、今回のような不幸な事件の起爆剤にもなることがあることを肝に銘じて自浄作用を利かせるべきだ。

最後に亡くなった被害者とそのご家族には心からの弔意を述べたい。同時に、心に忍びこんだ魔のために罪を犯した女児もまた未成熟なインターネット社会がもたらした被害者の一人でもあることに変わりはない。罪を償いながら、自分がしたことの深い意味を噛みしめて穏やかな日々が一日も早く訪れることを祈りたい。了

佐藤

 


2004.6.7

義経伝説ホームへ

義経エッセイINDEXへ