チャンバラ映画「座頭市」を観たいと思う感性を分析
する
−すり込みの怖さ−
日本人は、実に不思議な感性を持っている。暴力はいけないと言いながら、一
方では、チャンバラ映画「座頭市」が、何とか映画祭の銀獅子賞(監督賞)か何かを取ろうものなら、ネコもシャクシも朝日もサンケイも歓喜の声を上げて、こ
れを褒め
上げる。かの小泉総理までが、「素晴らしい快挙」と手放しの喜びようだ。
ちょっと待てと言いたい。チャンバラは、暴力ではないのか?日本という国は、世論が一方に傾く時は、歴史から見て、危険な時と相場が決まっている。大体
が、チャンバラ(刺殺)シーンを、子供の頃から見慣れているから日本人は、感覚がどこかでマヒしているのだろう。外国人からすれば、必ずしもチャンバラ
シーンを肯定的に観ている人ばかりではない。残酷極まりないと見ている人もかなり多いことを想起すべきだ。
チャンバラシーンは、言い方を換えれば、殺人の舞踏であり、立派な殺人肯定の思想である。映画は、ある種の「すり込み機能」を持っている。日本人には、子
供の頃からの様々なチャンバラシーンによる「すり込み」があるため、初めて観る外国人から観れば、強烈過ぎる暴力シーンも、ちっとも残酷と感じない感性
が、確固として出来てしまっている。
少し前に、深作欣二監督の「バトルロワイヤル」という映画があった。その中の学校を舞台にした暴力シーンが残酷過ぎる、という理由で成人指定になったこと
があった。これだって、現実の学校が舞台だったから、問題にされたもので、映倫で審査をしている連中も、これが時代劇だったら、「成人指定」などはされず
に、すっと通ったことだろう。早い話が、日本人全体が、チャンバラ映画の横行によって、感覚がマヒしているのである。
いったいこの日本人の感性のダブルスタンダードを何と表現したらいいのだろう。つまり日本では、人を殺すということが、社会の中で犯してはならない罪悪と
認識されている一
方で、イメージ(映画)による殺人は、チャンバラシーンとして国民的な合意がなされて許されている。冷静に判断するならば、チャンバラというシー
ンは、悪を成敗するにせよ懲らしめるにせよ、まったくの殺人肯定の思想に他ならない。
昔から、チャンバラ時代劇でも、ミネウチと言って、刃の後ろで、敵を討って、意味のない殺人はしないという時代劇があった。現在の「暴れん坊将軍」がそう
だ。無
益な殺生はしないというわけだ。しかしこのような気づかいも、まったくチャンバラの暴力性を中和する役割を果たしているとは思えない。結局、何だかんだ
いっても、最後には、松平健演じる将軍吉宗が、悪人を切って切って切りまくって、難事件を解決するシーンで
終わる。そして主人公吉宗が、美保の松原を馬で駆ける定番のエンディングシーンを観て、我々日本人は、何
ともスカッとした気持ちに浸っているのである。要はとにかく「痛快」に切って切って切りまくる。これがチャンバラシーンの真骨頂な
のだ。当然最新映
画「座頭市」も、このセオリーをしっかりと踏まえている。だから日本人の誰もがワクワクする状況があるのだろう。
これではいくら学校で、先生たちが、「暴力はいけません。」と、口をすっぱくして、言っても始まらない。何しろ小泉総理が、「日本の誇り」と絶賛している
のだ。ということを書いている私だって、何を隠そう北野武の映画はたいして好きでもなければ、観たいとも思わないのだが、今度の「座頭市」の痛快なチャン
バラシーンだけは、是非見たいと心
が疼いている有様なのである。妙な話だ。おそらく子供時代からの時代劇のチャンバラによる「すり込み」というか、心のどこかにイメージとして出来上がった
チャンバラ幻想のせいであろう。ま
さにこのことは、日本人の多くがチャンバラという幻想(すり込み)をもって、暴力に対しダブルスタンダードの態度
を無意識にとっていることを意味している。つまりチャンバラシーンに代表される「暴力というもの」あるいは「殺人の思想」に対し、日本人の理性と感性
が別の方向を向いていることになる。
さて、普遍的な意味において、人間にとって、暴力とはなにか。兄弟や友人同士の喧嘩から始まって、共同体間の戦争に至るまで、人間の歴史は、暴力の歴史で
もあった。それを誰しもその現実を否定することはできないであろう。そして暴力というものは、相手の暴力を抑止するために、同程度の暴力装置が必要とな
り、ついにはその暴力装置の開発合戦は、この50年間で急速にエスカレートし、地球という母なる星を破壊できるまでになっている。
しかしながら、どこかで、多くの人は、そこまで愚かではないだろうという、「まさか」の理論を持って楽観視しているところがある。でも世の中には、私たち
の発想とは、まったく違う考え方をする人間がいることを忘れるべきでない。
私たちは今こそ、もう一度私たちの中に根強く残っている暴力の思想というものを、その根本から考え直してみる必要がありそうだ。イメージによるチャンバラ
シーンもこれはもう立派な暴力シーンであり、殺人肯定の思想なのである。考えてみれば、いつしかアフガンやイランの戦争のシーンも、はじめのうちは、嫌悪
感一杯で見ていた。しかしどこか感覚がマヒしたのか。いつかみた戦争映画を観る感覚で見てしまっている自分にふと気付いて背筋が凍ってしまったことがあ
る。
・・・それにしても子供の頃から何気なく観ていたチャンバラが、まさか心の奥深くで、こんな形で自分の趣向
や善悪判断にまで影響を及ぼしていたとは驚きな発見だった。佐藤
2003.9.17 Hsato
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