傍観者の国と化した日本

 
 
最近、本屋さんで本が売れないらしい。売れるのは週刊誌などの雑誌で、活字離れが確実に進んでいるようだ。でも本屋さんに行けば、それなりに人がいて、とても本が売れないようには思えない。日本人は世界でも例がないような文盲率の低い国で、その「文盲率」という言葉もほとんど死語に近い言葉となっている。

にも関わらず本が売れない理由は、やはり世の人が、難しいことを考えなくなってしまった傾向と無縁ではないような気がする。本を読むことはそれなりのエネルギーがいる。一方テレビの前に座っていれば、知識は何となく頭に入ってくる。昔は、活字から漫画という移行期があったように思うが、今は、そこから更に進んでテレビやビデオで観て知識とする傾向があるように思われる。

確かに活字を読むことは、観ることに比べて面倒だ。それは分かる。しかし面倒だからこそ、そこに人間の意志力と集中力が養われる機会が生まれるのである。最近日本人は、若い人に限らず、歳いった人にしても物事を深く考える傾向が年々稀薄になっていることは確かだ。そして隣の誰がどうなろうと、テレビをみる傍観者のような態度で接してしまうのである。

今日の朝日新聞(3月19日号)にエジプトのカイロ大学で、日本について研究しているというイサム・ハムザという学者が、かつて留学していた大阪の電車の中で40代の日本人が、殴り合いの喧嘩をしているのを見かねて仲裁に入ったエピソードを書いている。

その時、止めに入ったのは、何と外国人の彼一人。他の日本人は、関わり合いになりたくないのか、みんな傍観者を決め込んでいた。「少なくてもエジプトではこんなことはない」と彼は言う。エジプト社会なら、二人が大声で言いたいことを言い合い、当の二人も周囲の人々が、仲裁に乗り出してくることを予定調和のように予想して、怒鳴り合い、それで仲裁が入り、終わるのだと言う。

彼はまたパレスチナに対する一番の援助国である日本が、パレスチナ問題で、イスラエルとパレスチナの間に入って仲裁の努力をしないことを、エジプトにおいて「日本」を研究する人間として恥ずかしい、とまで語っている。このことは、単に国民の精神的傾向として傍観的態度があるのではなく、日本という国家自体が、世界の中で、傍観者になってしまっている現実をずばりとい指摘しているのである。

少なくても日本は、国連に対する負担金でも、全体の2割を拠出している国である。これはアメリカに次ぐ二番目の拠出額であるが、にも関わらず国連における日本の発言力たるや、下から数えた方が良さそうなほど低い。それはいつも日本の国連関係者が傍観者のように振る舞って、勇気のある発言や行動をしないせいである。かつて今や有力な首相候補と言われる自民党の小泉氏が、ガンボジアに派遣した自衛隊員について「危険な地域でのPKO活動はさせられない」旨の発言をして、国際社会の猛反発を喰らった。

このような傍観者ばかりの国で、本当にいいのか。これで常任理事国入りなんて、ちゃんちゃら可笑しい話だ。
 


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2001.3.19