に会う

千手院斎藤黙仙禅師のこと


 

秋田に行って、斎藤黙仙(ぼくせん)禅師にお会いした。当年88歳になるというこの人物は、書道の達人にして達磨を書かせたら、当代随一と言われる芸術家でもある。現在では、千手院(秋田市近郊の河辺町にある曹洞宗の寺)住職の立場を息子の貫英(かんえい)師に譲り、自分は悠々自適で禅三昧(ざんまい)の生活を満喫しておられる。

まず先手院の本堂に入る。すると黙仙禅師が襖(ふすま)に描いた二十数枚に渡る達磨がこちらをじろりと見ている。何か内面を覗かれるような強烈な印象があった。

いよいよ黙仙禅師との初対面である。奥から和服で出てきた、師は、こちらをちらりと見ると、達磨のような目で、私を凝視された。まさに達磨そのもののような人物であった。まるで隙というものがない、それでいて、人を拒否しているような感じではなく、お茶を自分で入れてくれるなど、非常に気さくな一面がある。

師の描く達磨の特徴は、瞳に特徴がある。瞳の輝きを描くことによって、ドキッとするような緊張感が伝わってくる。今後のことについて、師は、「笑っている達磨を描いてみたい」と語っていた。しかし笑っている達磨に挑戦し、これに成功している芸術家はいない。「是非ダヴィンチのモナリザのような傑作をものにしてください」と私は言った。すると師は、「そうだな」と言ってにやりと笑われた。この笑顔か?と私は心でそう思った。実に魅力的な人物である。

師との会話の中で、一番驚いたのは、墓石の字を書いて下書きをみせていただいた時のことだ。何と、字の達人と言われ、達磨を書かせたら、当代随一と言われる黙仙禅師ですら、細かく鉛筆で線を引き、その上に字の形を下書きしているではないか。禅師位の人ならば、思うままに書いて、後は石屋の腕に任せるような仕事をしているのかと、思っていた。

ところが禅師曰く「石の上の字と言うものは、大変だ。石屋の仕事のことも考えてやらねばならない。誤字脱字は許されない。永遠に残る仕事には、寸分の狂いがあってはならない。だから石の字はつかれるのだ」と語っておられた。

字には無限のバリエーションがある。ひとつの字といっても、楷書があり草書があり行書があり活字体がある。さらに仮名があり変体かながある。変体かなだけでも500ほどを暗記していなければならないのだそうだ。「最近は字を忘れることも多い。だから四種類の辞書は離せない」とも語っていた。

達人でもこれほどの神経を使い、それこそ一字一字に心(念)を込めて書いているのである。我々がつまらない字しか書けない理由は、才能もさることながら、無神経に字を書いているせいである。

何時の間にか、その無神経に書く習慣が付いてしまったのである。かつては、子供たちの弟子を130人ほど持っていて、その弟子にあった手本を一人一人に手渡すために、夜中の二時ごろまで、筆を持っていたこともあるという。

その黙仙禅師と、たった一夜ではあったが、寝起きをともにさせていただいた。朝身支度をを整えて、食事となった。すると私の前の禅師は、生卵をご飯にかけて、するすると軽く持った二膳のご飯を食べてしまった。するとそのご飯の茶碗に味噌汁を入れて、味噌汁をすすり、さらにお茶をかけて、茶碗は、洗わなくても良い状態になってしまった。それが実に手慣れていて、手際がよい。まるで修業そのもののようだった。

禅師曰く「朝ご飯は、通常は一杯、卵は二杯、とろろは三杯と決めている」とのことだった。道元禅師が開いた曹洞(ソウトウ)宗の総本山福井永平寺の修業の様子をテレビで見たことがあるが、88歳の人物の手際の良さは、道元禅師の食事作法そのものであると改めて実感した。更に「食は大切だ。毒にもなり、薬にもなる。だから健康を保ち、長寿をまっとうするためには、バランスの良い食事を心掛けなければならない」と身を持って教えてくれたのである。

今回の旅行の目的は、黙仙禅師にお会いすること、そして禅師の描いた達磨の絵を拝見することであった。またあわよくば、達磨の絵に字を添えて一筆書いて貰おうと考えていた。しかしこの人物に会って、もはやそんなことはどうでも良くなってしまった。禅師の描いた字や絵にとらわれてしまっていては、師の心を受け継ぐことにはならない。

大切なのは師が言ったように「何物にもとらわれずに生きる」ということにあるのかもしれない。佐藤
 
 


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1998.5.25