武 蔵坊弁慶イメージ論
−固定化された弁慶のイメージの源流探るー

【1 弁慶は何故あのように剛胆なイメージなのか?】

おそらく弁慶という人物は、小柄で理知的な人物だった、と言えば、多くの人はそんな馬鹿 なというに違いない。実際の弁慶は、今伝えられているイメージとはまったく違った人物の可能性が高い。

まず、生まれも、熊野の田辺ではない可能性がある。義経記の巻第三は弁慶の出生譚で、 「弁慶物語」というべき巻であるが、その影響下に、私たちは、弁慶を強烈な異相の大男のイメージで見てしまうのである。少しばかり弁慶について、固定的な イメージから離れて考えてみることにしよう。

平家物語に登場する弁慶は、一ノ谷で一度、鷲尾三郎を連れてくる段と、西海に逃げようと して難破をした時の二度ほどに過ぎない。そのいずれも、義経の一の家来というには、余りにも存在感の薄い人物として描かれている。

しかしながら、どうしたわけか、弁慶は、平家物語成立後の200年前後の間に成立したと 思われる「義経記」で飛躍的なイメージチェンジを遂げて、スーパーヒーロー義経の分身とも言えるようなヒーロー像に祭り上げられて絶大な人気を得ることに なる。

最近では、義経記の成立に、熊野の修験者の介在が言われるようになった。弁慶が熊野別当 の子であるかどうは別にして、ひとつ言えることは、弁慶という人物が、義経伝説の発展の中で、異様なまでにイメージが肥大化してしまったことは否定しよう のない事実である。

私は所謂「義経伝説」というものについて、義経を自国に引き寄せる動き(あるいは運動) であったと考えている。全国至るところに、義経の腰掛石とか、弁慶の力石というものがある。あるいは義経主従が置いていったという笈の類が至るところに遺 されている。

これは、日本各地の民衆が、「オラが故郷も義経となんとか関わりたい」との思いから、そ こを義経が通ったか、あるいは通らなかったかにも関わらず、手頃な石や木を見つけては、「○○石」と名付けたものと考えられる。それは民衆の歴史的ヒー ロー義経と関わりたいという無意識がそうさせたのであろう。もちろん村おこし、地域おこしという明確な意図があって、作られたものも多分にあったと思う。

そうした中で今日我々がイメージするあの大男の弁慶が出来上がってきたのである。では 「力持ちの僧兵」のイメージの源泉には、いったい何があったのであろうか。


【2 弁慶のイメージと僧兵】

さて僧兵について、源平盛衰記ではこんな記述がみられる。

「飾磨(しかま)の褐(かち)の冑直垂に紺の頭巾に黒糸威(くろいとおどし)の大荒目 (おおあらめ)の冑(よろい)の一枚交じりなるを、草ずり長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒塗りの太刀の三尺五寸あるに、練鐔(ねりつば)入れ て、熊皮の尻鞘(しりさや)をさす。同毛色の貫(つらぬき)をぞ帯したりける。黒塗の箙(えびら)も塗篦(ぬりへら)に黒つ羽を以てはぎたる矢を二十四差 したるを頭だかに負いなしつつ、七もちりなる真弓の湿塗りにぬりたるに、塗弓懸けて真中を取り、烏黒の馬の七寸にはづみたる黒鞍置きて熊皮の泥障(あお り)指してぞ乗りたるける」

これは義経存命中弁慶が修行した延暦寺と敵対関係にあった三井寺(円城寺)の僧兵を描写 したものである。紺とか黒、それに熊皮とか、烏黒、黒羽とか、やたらと、仰々しいイメージでコーディネイトされていることに注目したい。しかも相当にお金 がかかっている。この装束の根底に、当時の僧侶の美意識すら感じる。実にオシャレな印象だ。

何故、当時の僧兵が、このようなオシャレが、できたかと言えば、当時の大きな寺は、荘園 を持ち、経済的にも潤沢であったからだと思われる。先のような武装した僧兵を当時の延暦寺や三井寺、東大寺、興福寺などは、二、三千規模で抱えて武装して いたのである。彼らは、気が荒いことでも有名である。延暦寺の僧兵たちは、日吉神社の御輿を振って、山を下り、朝廷に強訴をしたことすらある。たとえ京の 朝廷や公家、源平勢力と言えども、この寺社勢力を怒らせたならば、大変なことが起きる。

このように、弁慶という存在は、平安末期から鎌倉時代にかけて、「悪僧」と呼ばれて怖れ られた「僧兵」の仰々しくて怖いイメージを借りて創り上げられたキャラクターだということができる。 


【3 弁慶のイメージの源流はインドにある?!】

弁慶が熊野別当湛増の子であるという説は、御伽草子の「橋弁慶」からだそうだ。仏教民俗 学の五来重氏が「熊野詣」の中でそんなことを語っている。さらに、弁慶が母のお腹に18ヶ月もいたとか、そのために神も歯も生えそろっていたという異常出 生譚は、熊野修験が好んだ唱導の型であると言う。

確かに、奥州には、熊野修験が、唱導して歩いたと思われる説話が多く残されている。たと えば、継桜王子の物語がある。これは藤原秀衡と奥方が熊野に詣でる途中に産気付いて、滝尻王子付近で、王子を出産したが、仕方なく山中に捨てて、熊野を巡 るという話である。また金売吉次の館跡と言われる金田八幡神社(栗原市金成)には、炭焼藤太夫妻が、子を授かるために熊野詣をして、吉次ら三人の兄弟が生 まれた説話がある

熊野修験が唱導して歩いた大きな理由に、熊野詣の観光案内役的な側面がある。おそらく奥 州に来た時に、彼らは、先の秀衡夫妻の話や金売吉次の出生譚あるいは弁慶の話を交えておもしろおかしく語り、話の終わった後には、「熊野那智参詣曼荼羅」 のような極彩色の絵図を見せながら、奥州の人々の熊野への旅心をかき立てたのに相違ない。

先の五来氏の説によれば、弁慶の出生譚の原型は、インドのマカタ国の物語に遡れるとのこ とだ。それはこんな物語である。

マカタ国の王には跡継ぎが生まれなかった。そのため王は、占いによって、宮殿に千人の后を侍らせた。しかしなかなか子が生まれない。やっと最後の千人目の 13才の女性「五衰殿」が懐妊する。そこで999人の他の后は嫉妬して、その王子が誕生すれば、きっと父王を殺すであろうと讒言をする。最初は聞く耳を持 たなかった王も、最後には讒言が気になって、妊娠中の后を山中に捨てることになった。山中で王子が誕生する。直後に護送してきた武者に殺されてしまうが、 王子は死んだ母の乳を呑み、虎や狐に育てられて成長する。そこに叔父の高僧がやってきて、父の宮殿へ連れ戻されるのである。そこで母の五衰殿も蘇生する。 めでたし、めでたし、となる。ここからが熊野唱導のトリックが発揮される。すなわち、王宮へ戻った王子は、世の無常を感じて、王位を捨てて、父王と母五衰 殿にも勧めて、神国日本に飛来するというものである。


そして大王は熊野本宮に、母の五衰殿は那智権現に、そして王子は若王子社の神となって顕 れたという話である。熊野信仰には、そこで「かならず子をにくむべからず・・・よくよく心得るべし」という教えがあるそうである。

何となく弁慶のイメージの源流にたどり着いた気がする。ベースにあるのは、日本古来の神 々の話ではなく、完全な仏教説話である。

次に弁慶の異常出生譚を少しばかり細かく分解しながら、熊野修験との関わりを考えてみる ことにしよう。

つづく
2005.9,22-   Hsato

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