苦悩の人
ベートーヴェンのイメージ
−苦悩の人ベートーヴェンはいかに人生の苦悩を乗り越えたか−
1 そのイメージ あなたはベートーヴェンという名前からどんなことを連想するだろう…。 ピアノ曲「エリーゼのために」の作曲者。
そのイメージは人によって、それこそ様々であろう。ただひとつだけ共通点があるとしたら、それはベートーヴェンという人物に影のように寄り添う苦悩のイメージだ。彼には、苦悩の痕跡がありありと伺えるようなライフマスク(1812年彼が42歳の時のもの)が遺されている。私はそれを一目見ただけで、この大芸術家の苦悩が、我々凡人が背負っているようなものとは、次元が違う例えるならば人類の苦悩そのものを背負っているかの如き強烈な印象を抱いてしまうのだ。 べートーヴェンは、1770年、声楽で生計を立てていた父の下にドイツのボンで生まれた。しかし父は飲んだくれで、息子の音楽教育には、時折暴力も振るった。母は、彼にとって、素晴らしく優しい理想の母親だった。
しかしその母は、息子が17才の時に、肺結核で他界してしまった。思うに、ベートーヴェンにとって、すべての女性のイメージは、若くして亡くなったこの母親の中にあったのかもしれない。彼は白鳥のように飛び去った母の面影を追いながら恋をした。しかし彼の心の中で膨れあがったイメージ以上の女性は現われるはずもない。「不滅の恋人」と呼ばれる彼が遺した手紙の中で書いた女性との理想の恋愛も、ついに実ることはなかった。その原因はやはり彼の母親コンプレックスがどこかで影響していることは確かであろう。 父親の英才教育もあり、幼くして音楽的才能を発揮したベートーヴェンは、神童モーツァルトの再来とまで言われるようになった。11才でオーケストラに入団。13才にして、オルガン弾きとなった。父は飲んだくれで、母が亡くなった後は、ますます酒に溺れるようになった。すでにベートーヴェンは、17才にして一家の家計を支える事実上の大黒柱となっていた。同年には、そのモーツァルトの前でピアノの即興演奏を演じて、「諸君このベートーヴェン君を注目しなさい」とまで言わしめたという伝説まで残している。 ベートーヴェンの作品は、彼の苦悩の人生をのぞき込むかのような雰囲気がある。その独特の旋律は、演奏者という心臓を通り血流となって作品の隅々に注ぎ込んでいく。私は子供の頃、大きなステレオの前で、彼の音楽を聴いた時(確か運命だったと思うが?)、何かほっとした気分になったことがある。それは今考えると、飛行機に乗り、たまたま気流の関係で、飛行機が上下に揺れて、何とか空港に辿り着けた時のあの気分と似ている気がする。きっとそれは、初めて聴いた「運命」(?)という曲の中に織り込まれているベートーヴェンの苦悩の感覚をどこかで感じ取っていたからかもしれない。 彼の音楽の最大の特徴は、極めて情念的であることだ。彼は作品を創造しようとする時、モーツァルトのように、鼻歌や猥談交じりで、取り組むことは出来ない。眉間にシワを寄せ全身全霊で、自らの心の内部になる音階を拾い集めるのだ。それはモーツァルトがあたかも、天上界で流れている音楽を、この世に聴く音楽の触媒の如き創造ではない。彼は苦痛に顔を歪めながら、肉体労働者の如き大粒の汗をボトボトとしたたり落としながら、自らの肉体と精神を音楽に換えているに違いない。 ピアノソナタ「熱情」の旋律に感じるあのとうとうした旋律の流れからは、飛び散る汗が見えるようですらある。確かに人が大切な何かに本気で集中する時、例えば身を焦がすような恋をする時、あの熱情ソナタの如く、何振りなど構わず、一目散に汗をしたたらせながら、突進するのである。人は先験的に苦を背負って生まれてくる。同時にまた人は寿命という死刑執行猶予を持って生まれて来るのだ。これはそれぞれブッダと実存主義者サルトルが教えている通りだ。 しかしベートーヴェンは、人間存在に先験的に存在する苦悩を敢えて敢然と受け止め、それを音楽という表現手段により、自らの強靱な意志の力で乗り越えようとする。この強靱な意志こそが、彼の作品をして、他の作曲家のには見られない深い陰翳を持った作品に仕上がっている原因であろう。 少し大げさな表現を許していただければ、ベートーヴェンは、ブッダという人物が二千五百年前に発見した「苦」という人類に先験的に背負わされた重荷を受け止め、それを意志の力によって根本から跳ね返そうとしている稀有な芸術家と言える。もちろんその意志とは、彼の中にある個人的な無意識が第一義的には関わっているのだが、深層では、人類共通の無意識の次元にまで達していると思われる。その何よりの証拠は、彼の一連の作品群の中でも、最近とみに世界中の大晦日に、演奏されるようになった「交響曲第九番」の愛され方ひとつを挙げて置けば分かろうというものだ。 彼の作品が、全世界津々浦々、民族や宗教の枠を飛び越えて、これほど愛される理由も苦を全身で受け止め、そして全身全霊をもって跳ね返そうとする魂の音楽だからだ。おそらく彼は全人類の苦なんて背負う気はさらさら無かったろう。それは当然のことだ。しかし彼に次々と襲いかかってきた試練の数々は、天が彼に音楽という表現を通して人類の苦を癒す役割を与えたとしか、考えられないのである。 しかも、普通であれば投げ出すような苦難でも、彼はこれを、もろの手で、はっしと受け止め、耐えそして音楽に換えたのである。そしてベートーヴェンは、苦を背負って、最後の最後まで歩き、全人類の原罪を一人で背負い十字架に架けられて亡くなったキリストの如く逝った芸術家である。まさに彼自身の数々の作品は、彼自身が人生において苦悩の挙げ句に五線譜に書き残した魂の傷痕なのである。つまり我々聴衆は、彼の音楽を通して、彼の人生の苦悩そのものを拝聴していることになる。
2 最近発見された「日記」より つい最近に発売された本に「ベートーヴェン日記」(岩波書店2001年10月刊)というものがある。これは新資料を元にして、これまでの最高のベートーヴェン伝と評判の高い「ベートーヴェン」(1977年初版、増補1998年)を書いた研究者メイナード・ソロモンが、ベートーヴェンの寄せ書きのような日記風のノートに注釈を付けて発売した小さな本である。 既にベートーヴェンの著作では「音楽ノート」というものが岩波文庫から、随分前(1957年刊)に発売されているが、今回発売されたのは、この本の底本よりも、更に信頼のおける写本ということになるようだ。そこにはベートーヴェンののたうち回るような人生の苦悩模様が、余すところなく刻まれている。それが何とも痛々しいが、それだけにベートーヴェンの苦悩が、日常些細な事に思い悩んでいる我々の心に、深い感銘を呼び起こし癒しを与えてくれるのだ。まるで彼の数多くの名曲が、人生の旅路で深く傷ついた人々の心を永遠に癒し続けているように。 この日記の冒頭にこのような文がある。 「服従おまえの運命への心底からの服従、それのみがおまえに犠牲を?献身としての犠牲を負わせるのだ?おおきびしいたたかい!全力をつくして、遠方のへの旅に必要な計画を立てよ?(中略)おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためだけに。おまえにとって幸福は、おまえ自身の中、おまえの芸術の中でしか得られないのだ?おお神よ!自分に打ち克つ力を与えたまえ、もはや私には、自分を人生につなぎとめる何ものもあってはならないのだ。?こうして、Aとのことはすべて崩壊にいたる?」(1812年中旬) 作者の解説によれば、これは「不滅の恋人」との恋愛に終止符を打った時の心の葛藤を映す表現で、この最後にある頭文字の「A」とは、「不滅の恋人」宛ての手紙をい受け取ったと見られるアントーニア・プレンターノ(?)であろうとのことだ。要は、「不滅の恋人」とまで形容していた女性との恋愛に終止符を打ったベートーヴェンが、苦悩の果てに「自分という人間は、ただ己の創造する芸術の全面的なる献身によってしか、幸福は得られない」というある種の決意表明というようにみることができるであろう。 この時、ベートーヴェンは42歳、あの有名なデスマスクならぬライフマスクを作らせた問題の年である。これは私の個人的な感想だが、彼がライフマスクを深層心理は、おそらく自分の苦悩の表情を間近に見ることによって、己の苦悩そのものと正対したいという思いがわき上がってきたからではあるまいか。それは最愛の人を失ったベートーヴェンが、もう二度と己の為には生きない。全人類の苦悩を背負って、それを跳ね返す音楽を創造するのだ。という一種の昇華作用とも思えるのである。先の日記の中にあった「おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためだけに。」ということは誓いであり、祈りそのものである。 凡人の我々には信じられないことだが、自分の為には生きることを放棄することによってしか、ベートーヴェンの人生に救いも実りもない。それは天から与えられた彼自身の運命である。悲運という茨の冠を被ることによって、ベートーヴェンは、人間存在全体の音楽を創造しえる資格を得たことになる。この時期、ドイツの誇る文豪ゲーテとも対面をしたようだが、時代を代表する天才二人の個性は、互いに激しく鋭敏なるが故に親しく混じり合うことはなかったようだ。何か分かる気もする。 この年、特に彼の運命は変わり始めた。パトロンの貴族達に不幸が続くなどして、経済的にも苦しくなっていたと言われる。そして「不滅の恋人」と呼んだ最愛の人とは別れてしまった。耳の持病は20代後半に発病し、悪化の一途を辿っていた。
続いて、26段にこのようなホメロスの「イリアッド」第二四巻四九行、からの抜き書きがある。
べートーヴェンは常日頃、「自分は格言によって、教育されてきた」と語っていたと言う。深い苦悩を背負いながらも必死で運命と折り合いを付け、周囲と摩擦を避けようとする、彼の思いがひしひしと伝わってくるような言葉である。
3 晩年の苦悩 ベートーヴェンは、亡くなった弟カールの息子を養育することになった。これは弟カールの遺言だった。家族のいないベートーヴェンにとって、この話は、悪い話には思えなかった。事実、彼は養子のカール二世に大変な愛情を注いで育てようとした。しかしこのカール二世の養育は、ベートーヴェンに新たな苦難を与える以外の何ものでもなかった。すぐに養育をめぐって、カール二世の母親との裁判が始まり、これが彼の音楽生活にとって大きな障害となった。いやそれだけではない。この裁判は、彼の晩年にとって大きなストレスの源泉そのものだった。また養子となったカール二世は、ベートーヴェンと容易にうち解けなかった。何度もいさかいが起こり、1826年(ベートーヴェン56才)には、自殺未遂の事件まで引き起こしてしまう始末だった。 晩年のベートーヴェンは、本当に孤独だった。親しい友人は、ウィーンを去ってしまい、彼自身の音楽そのものが、世間からは、古くさい理想主義の音楽と見なされるようになっていった。社会は苦渋が音楽になったようなベートーヴェンの重厚な音楽よりは、明るく、ロマンチックで、はずむような軽快な音楽を、より趣向する傾向が強かった。もはや苦悩する芸術家が、眉間に皺を寄せて紡ぎ出すような音楽が好まれる時代ではなくなっていたと言った方が適当かも知れない。 この頃になると、耳はまったく聞こえなくなり、目は落ち窪み、頬は痩けていった。もう若い頃のようなとれたてのジャガイモのようなエネルギッシュな風貌のベートーヴェンではなかった。そして性格は、ますます内向的となり、作品においては、自分の人生の総決算をするが如き重くて深刻な作品が多い。「荘厳ミサ曲」(1823年:53才)や「最後のソナタ」呼ばれる5つのピアノソナタ、そしていくつかの「弦楽四重奏曲」、そしてもちろんあの「交響曲第九番」(1824年54才)である。中でも「交響曲第九番」は、やはりベートーヴェンという一人の音楽的天才が、天命というものを意識しながら、自らの持てる全生命力をつぎ込んで完成した遺言とも言うべき作品である。最後にこの「第九」に込められたベートーヴェンの思いというものを考えてみよう。
4 ベートーヴェン「第九交響曲」の思想 1
これほどに、この第九という交響曲が、愛される根拠は、やはり最後の第四楽章(合唱のパート)の圧倒的な存在感があってのことだ。この「歓喜に寄せて」という歌詞は、元々ドイツの大詩人にして劇作家そして哲学者でもあった「フレデリック・フォン・シラー(1759−1805)」が26才の時に書いた同名の詩から採られている。 その歌詞は、あらゆる悪や陳腐なものを、正面からはねつけて人間が本来持っている善的なるものを大いなる楽観主義をもって全肯定するような歌詞である。詩の本題に入る前に、ベートーヴェン自身の短い「挿入詩」がこのようにまず置かれている。
おおー友よ、この音ではない。これではなく、もっと楽しい音だ。もっと喜びに満ちたの音を!!(O Freunde, nicht diese Toene! sondern lasst uns angenehmere anstimmen,und freudenvollere.)
ともすれば、ベートーヴェンの音楽は、重厚で陰鬱な作品が多くを占めている。この第九だって、第一楽章(アレグロ・マ・ノン・トロッポ・ウン・ポコ・マエストーソ)と第二楽章(モルト・ヴィヴァーチェ)は、私の感想からすれば、むしろ美しいというよりは、人間の運命が神秘さと醜悪さをもって描かれている楽章だ。まるで運命の前では、人間は苦難に振り回される道化の如き悲しい存在だ。何故このようなけっして耳に心地よくない楽章を冒頭に持って来たかと言えば、ベートーヴェンには、それなりの明確なプランがあったはずだ。それはこの交響曲を「人間の人生の如くに構築してみせよう」という強固な意志とヴィジョンである。 そして聴衆は、この苦渋に満ちた二つの楽章を通りすぎて始めて、はじめて限りない静謐な美しさに満ちた第三楽章(アダージョ・モルト・エ・カンタービレ)を耳にすることが可能となる。この楽章は、実に素晴らしく美しい楽章で、全体を通して、人生の平穏と安らぎに満ち溢れた調べが延々と流れてゆく。まるで満月の夜にボートを浮かべ、静かな波間をゆらゆらと漂っているような感じだ。実に心地いい。聴く者一人一人の心に染み渡るように響いてくる。この楽章には、何か人間の魂を癒す力さえあるように思える。 ここでベートーヴェンの明確な創作プランが浮かび上がってくる。すなわち苦渋を含んだ第一第二楽章をまず前に配置し、次に静謐な安らぎに満ちた癒しの第三章を置き、そして最後にはそれまでの三章を全否定するかのような気迫に満ちた第四楽章(プレスト−アレグロ)が配置されている。第三楽章が、余りにも静謐で平坦なイメージが強いだけに、合唱が始まる第四楽章はまるでそこに巨大な山脈がそびえ立っているような感じさえ受ける。聴衆は、最後の楽章を聴き終えると、音楽という魔法によって、自分の中に眠っていた善的なるものにスイッチを入れられてしまうことになる。
2
この詩が巷に知られるようになった頃、二十才前であった若きベートーヴェンは、ボンにいて、フランス革命の動向に胸を躍らせながら一喜一憂を繰り返していた。だからこそ五十才を過ぎたベートーヴェンは、この時の思い出のこもった「歓喜に寄せて」を第九交響曲のフィナーレに持って来たはずだ。つまりベートーヴェンは、若き日に目の当たりにした「自由」と「友愛」と「正義」を掲げたフランス市民革命の精神を、自らの青春の思い出とともに、交響曲第九番というそれまでの交響曲の常識をうち破るような革命的な音楽としてに定立させようとして、これに成功したのである。だからこそ誰が聴いても、この第九には、芸術家ベートーヴェンの並々ならぬ気合いというものに圧倒される思いを感じざるを得ないのである。 ところで、ベートーヴェンは、シラーの原作をただそのまま歌詞として使用した訳ではない。彼が実際に使用したのは、第八章のうちの第四章までである。つまりシラーの原詩の内の半分は、没としていることになる。 そこで下にベートーヴェンが、どのようにこのシラーの原詩を使用したかを、一目で分かるように表にしてみたので見てほしい。詩の意味については、後ほど詳しく分析するので、まずはどのような構造にとして、ベートーヴェンが、シラーの原作を再構成したのかを、頭に入れていただきたい。赤で記したのは、ベートーヴェンが、新たに書き入れたものである。第四番のLaufet(走れ)は、シラーの原作のWandelt,(歩め)を、ベートーヴェン自身が変えたものである。ここからはっきりすることは、一番から三番まで、コーラスの部分は、除いて、原作に忠実に並べていること。次に最後の四番においては、極めて意図的(?)作為的に四番のコーラスの部分、一番コーラス、三番のコーラスの部分というように原作序列をまったく、無視して配置していることである。
(表作成:佐藤)
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では何故このような順番にしたのか、ベートーヴェンの「第九」の「歓喜に寄せて」の歌詞を読み解きながら、ベートーヴェンの意図というものを推理して見ようと思う。 「歓喜に寄せて」 (原詩シラー、ベートーヴェン構成、日本語意訳佐藤) 1
私はこの第九という奇跡的な作品の完成には、少なからぬ超自然的な力が関与していると考えざるを得ない。もちろん「神が、ベートーヴェンに創らせた作品だ」などという、とんでもないことをつもりはないが、この作品自身が、音楽の神様から選ばれた芸術家ベートーヴェンが聴いた「神から恩寵」あるいは「声」と言ってもちっとも嘘にはならないと思う。 ここにおいて、ついにベートーヴェンという苦悩の芸術家は、シラーという人間が、フランス革命という自由への渇望と熱狂の中で書き上げた「歓喜に寄せて」の原詩をもとにしながらも、決してそれに限定されず、さらに普遍的な価値観を付加することによって、人類が未来に向けて志向すべき精神の「在り方」を音楽にすることに成功したのである。
では次ぎに細部を見てみよう。
これに続く「Tochter aus Elysium.」を日本語に直訳すれば、「エリゼウムからの娘」となる。英語訳すれば「Daughter of Elysium」(エリゼウムの娘)である。このElysiumの語源は、ギリシャ語の「Elysion」(エリュシオン)である。これがラテン語の「Elysium」となり、ドイツ語に転用されたものと考えられる。 意味は、「極楽」とか、「極楽浄土」「至福の島」「仙境」などと訳される。フランス語読みでは「Elysee」で、「エリゼ」と発音される。現在のフランス大統領官邸が「エリゼ宮」であり、並木道で有名なシャンゼリゼ通りは「Champs Elysees」で、まさに「エリゼの野」(エリュシオンの野)なのである。 ギリシャ最古の英雄叙事詩ホメロスの「オデッセイア」では、このエリュシオン(エリゼウム、エリゼ)のことが、このように説明されている。
「遙かなる世界の涯、エリュシオンの野に送られるであろう。金髪のラダマンテュスの住む所、人間にとってここよりも安楽に生活を営むことのできる場所は他にない。雪はなく激しい嵐も吹かず雨も降らぬ。外洋(オケアノス)は人間に爽やかな涼気を恵むべく、高らかに鳴りつつ吹きわたる西風(ゼピュロス)の息吹きを送ってくる」(岩波文庫版、松平千秋訳「上」第四歌P111)
ギリシャ時代におけるこのような極楽浄土の考え方は、シルクロードを通じてインドにも伝わって行った可能性がある。仏教にも、浄土教という宗派があるが、先のギリシャ神話における「エリュシオンの野」の考え方が、東方に伝播して起こった可能性は高いと思われる。その根拠は、浄土経にある「西方浄土」という思想である。この西の果てに楽園があるという考え方は、東に東に移って、インドから中国から、日本に移入されてきたと見る。 周知のように浄土教は、紀元百年頃、すなわちブッダ死後四百年後に、大乗仏教が興起した時代に浄土三部教(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)を根本教典として起こった部派宗教である。浄土教は「阿弥陀仏・弥勒菩薩・観音菩薩などの本願や慈悲にすがって,各々の仏・菩薩の国土である極楽・兜率天トソツテン・補陀落山フダラクセンといった浄土に往生することを目的とし,念仏などの行業を実践する教えや部派」(岩波書店、日本史辞典)のことである。私はこれをギリシャの「エリュシオンの野」の極楽浄土思想のインド的展開ではないかと推測している。日本では鎌倉期に法然(1133‐1212)によって、浄土宗として結実し、その後には親鸞(1173‐1262)によって、浄土真宗として日本仏教界の一大勢力に発展した。 この宗教の根本教典である「無量寿経」は、以下のように、極楽浄土の素晴らしさを延々と説明している。 アミターバ(無量の光りある者)が「幸あるところと名づける世界は、富裕であり、豊かであり。食物が豊饒であり、美麗であって、多くの神々や人間で充満している。(中略)種々の香しい香りがあまねく薫っており、種々の華や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、(中略)妙なる音声をもつ種々の鳥の群が住んでいる。(中略)かしこには、黄金色の、黄金でできた宝石の木々があり…」(岩波文庫版「浄土三部教」中村元訳p62−63)と言った具合だ。考えてみれば、人間という者は、洋の東西、人種の如何を問わず、自らの死後においては、「エリュシオンの野」のような楽園に住みたいと思うのは、至極自然なことだ。第九を書き上げたベートーヴェンの潜在意識の中にも、きっと「エリシュオンの楽園」において、現実の生涯とはまったく違う所の平安な暮らしを手に入れたい、という強い願望が、どこかにあったの誰も否定できないであろう。第一番の歌詞を、以上のようにベートーヴェン自身の「エリュシオンの野」への憧れとして考えてみると、実に豊かな気持ちさせられる。きっとこの思いこそが、第九を聴く聴衆の潜在意識をも刺激し、熱狂的支持者を産むのであろうか。 二番の歌詞の中に、「そうだ、この地上でただひとつの心しか自分のものと呼ばない人も
この部分は多くの解釈があると思うが、私は偏屈な人、あるいは自分の宗教にこだわる人という解釈ができると思う。全体としては、シラーの原詩そのものが、様々な人々の価値観の違いに配慮した詩である。ベートーヴェンは、自分が今作っているこの第九というものは、ドイツ語によるキリスト教的な観念で創り上げた音楽ではあるが、彼自身は、フランス革命の熱狂の中のインスピレーションから創作された詩を、更に普遍化することによって、その作品を創造の神に対する感謝の供物として捧げているようにも見える。要するにベートーヴェンは、この第九を書き終えた時点で、すでにドイツ人であってドイツ人でなく、キリスト教を信じるものであって、キリスト者ではなくなってしまったのだ。地球人類の偉大なる音楽的遺産を創造した世界のベートーヴェンとなったのである。 つづく
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2001.11.19