最近のベストセラーに、この出版不況の最中に300万部を売り上げた「バカの壁」という本がある。ベストセラーと言われただけで、腰をひくクセのある私は、養老さんの本は、随分読んでいるから、いいやと敬遠していたが、余りにも周囲の人が、「読んだ?」、「感想は?」と聞かれるので、本屋で立ち読みをした。
冒頭で、BBCが作った出産に関するビデオを、作者の大学の学生に見せた話が出ていた。そこで面白い結果が出た。「面白い」、「勉強になった」という回答は、女子学生の方で、男子学生は、あの程度なら、すでに授業で習っているという答えが多かったという。
不思議ではないか。出産とは、そもそも女性がするもので、その位なら分かっているというのは、女子学生の方が言いそうだ。ところが結果は逆である。一生出産の苦労をしなくていいはずの「男子学生は、「知っている範囲」と意外に素っ気ない。
そこで作者は、何故、そのような回答結果になったかを考える。そして出た答えが、女子学生にとって、出産というものが、身近なものであるということだった。つまり彼女たちは、目前に出産を控えた連中で、出産に関わる情報であれば、どのようなものでも、頭に入れて置きたいのである。それとは逆に、男子学生の方は、出産については一般的な知識レベルで知っていれば良い、という考えが根底にあって、それにより深い知識を得るための努力を阻む「壁」が生まれている。
これを作者は、「バカの壁」というのである。バカの壁が発生するメカニズムを考えれば、男子にとって出産という問題が、自分のことではなく、将来結婚するパートナーに関することだから、無意識で壁を作って、深い知識を得る機会を遮断していることに繋がっている。簡単に言えば、男子学生にとっては、他人事なのである。もちろん知識としても、中学高校の授業で習っているだろうから、性的な興味を失せているということになる。
本来、出産をすることで、女性は女性として固有のアイデンティティ持つ。出産とは、男女の性行為という共同作業(?)によって為される厳粛な瞬間である。昔の男子学生であれば、出産などという知識もそんなに与えられていないから、きっと目を皿にようにして、画面に見入っていたに違いない。かつて出産は、男子が知るべきではないものとされ、出産にも立ち会わないのは普通だった。ところが、現代では、出産は、夫も立ち会うケースが多くなった。
出産の立ち合いひとつを取っても、男女平等の思想は進んでいるかに見える。しかし実際は違うのだ。出産を他人事と思う男子学生がもっと少なくならない限り、男女平等は、絵に描いた餅に過ぎない。男子学生が、出産について、知らないくせに知っていると錯覚をしている。ここに現代の「バカの壁」の特徴がある。全てが浅薄な知識としてのみ存在していて、深い知識が身に付かない心的構造が現代人の心には確かにある。
「出産、ああそれ、学校で習ったから、知っているよ」となる。でも深く考えてみれば、「知っている」と答えたはずの男子学生は、深く突っ込まれれば、「いや、そこまでは知りません」となる。実は彼は何も知らないのである。
以前、養老さんが、NHKの番組だったか、東大の医学部で教鞭を取っていた頃、「先生、オームの修行をすると、水の中に、三十分とか、一時間とか、座禅を組んでいられるんですよ」と医学部の学生が言っていて、愕然としたという話をしたことがある。人間あるいは人体というものに対して、もっとも深い知識と見識を持たなければならない者が、怪しげな雑誌で知り得た超能力の話を信じ、妄信していく姿は、滑稽を通り越して、空恐ろしい感じさえする。東大の医学部の学生にしてからがこうなのである。オーム事件は、まさに現代日本人の陥っている「バカの壁」の有り様を象徴していはいないか・・・。
「バカの壁」は、けっして現代の若者だけが陥っている特殊な現象ではない。ありとあらゆる世代と社会に「バカの壁」は、厳然として存在している。例えば、最近(2003年2月1日)、大阪知事選挙があった。まずこの選挙の投票率が40%だったことだ。これは低いというよりは異常な数値だ。どこの民主主義国家に、知事の選挙投票率が40%という数字の国があるだろう。この数字は、市民が民主主義を放棄しているようなものではないか。
大阪の有権者は、いつものように「誰がなっても一緒」と思って投票にゆくのを控えたのだろうか。阪神優勝ではあれほど大騒ぎをする大阪市民が、何故自分の一番身近な首長を選ぶ選挙をボイコットするのか。まったく理解できないのだ。ひとりひとりの市民にとって、すべてが、テレビの中で起こる他人事なのであろうか。
政権交代可能な二大政党時代の幕開けなどと、世間では言われているが、このような状況を黙認して投票にも行かない市民が多いようでは、それも夢物語に過ぎない。
選挙も政治にも「バカの壁」は、しっかりと存在している。ところが、これが、テレビ局にマイクでも向けられた日には、選挙を棄権した市民でも、それはそれは一流の政治評論家顔負けの熱弁をふるう。投票率は「○○%は市民の声なき声・・・」「**候補のここが駄目!!」という具合だ。しかしこれは政治や選挙を知っているということにはならない。目の前に高い「バカの壁」が聳えているのを分かっていないのだ。
さて、私たち日本人の心の中に厳然と聳え立つ巨大な「バカの壁」を打ち破るような柔軟な知識を身につけるためには、どうしたらいいのだろう。その答えは、「考える習慣を身につける」という意外なほど簡単な言葉に凝縮されると思われる。しかし「考える習慣を身につける」ということは、言葉ほど容易ではない。何事もずっと思考し続けるには、精神的なタフさとともに、結論を急ぎたい自分を気持ちをコントロールする強い理性がいる。
昔こんなことがあった。ある高名な政治学の先生に、私がつい「結論としてはこうですよね」と言うと、その先生は、きりりと私の目を覗きこまれて、「君、結論がそんなに簡単に導き出せるのかね。もっともっと考えなさい。たとえ、仮に今言った君の答えが合っていたとしても、直感で結論を言われては、学問は必要ないことになる。君にはまだ学問の意味が分かっていないね。」と諭されたことがある。
今、その教えが、やっと私の中で、光を放つようになった。一旦、自分の心に出来た「バカの壁」というものを、打ち壊すのは容易ではない。いったいいつまで、日本人の思考停止は続くのか。了
佐藤