綾取りの呼吸

 

「言葉のあや」という言い回しがある。「あや」とは、「文」や「綾」と書いて、あやと読む。意味は、言葉の技巧のことであり、人に物事を話したり、説明するときに使用する表現上の工夫のことである。

我々はよく、たまたま言った言葉に、相手が不機嫌になった時など、「まあ、そんなに怒るなよ、言葉のあや、じゃないかよ」と言って、相手の損ねた機嫌を回復させようとする。「あや」は、糸が複雑に絡みあった状態のことも意味し、織物はまさに立糸と横糸のあやそのものなのである。

そこで、社会の動きに「あや」という言葉を当てはめてみると、複雑に絡み合っているように見える社会そのものの動きも、実は単純な一本の糸の複雑な絡まりに過ぎないということになる。

我々は「あや」というものに目を奪われて、実は「あや」が一本の糸の絡み合いであることを忘れてしまっている。他人の「言葉のあや」や「社会のあや」にごまかされてはならない。要するに単なる「あや」を、難しく考えすぎてはならない。人の心もまた、「あや」であり、家族も国家も、また「あや」のような見
かけの複雑さなのだ。

子供の頃に、誰もが「綾取り」というものを経験したことはあると思う。あの時、人が作った、東京タワーとか、橋を、指で受け取って、更に別の形にして、相手に渡す、だから、綾を取る、と書いて「綾取り」なのである。あの時、確かに一本の毛糸が、複雑怪奇に見えてしまっていた。

世の中の仕組みも、この「綾取り」に似ている。人は死んでも、過去から渡された伝統を「綾取り」の糸のように、過去から未来へと、引き継いでいく。それを我々は「社会の綾取り」と命名してもいいかもしれない。

「社会の綾取り」で問題なのは、通常の「綾取り」と同じように、人が作った形のまま、また別の人に渡さないことだ。人に渡す時には、自分なりの工夫と創造があって、しかるべきだ。創造性の欠けた「綾取り」では、受け取る側でも、何の面白味もないということだ。普段から、人に何かを、渡そうとす
る時には、この「綾取り」の呼吸を忘れずにいたいものである。佐藤
 


義経伝説ホームへ

1998.4.20