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宮沢賢治「雨にも負けず」2001

−賢治が星となる瞬間−


今日2001年12月14日、改めて宮沢賢治の余りにも有名な一節を読み進もうと思う。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
賢治がこれを書いたのは、昭和六年(1931)十一月三日である。この年の二月に賢治は、「東北砕石工場」の技師となり、宣伝販売を任され、夢を抱いて上京した。しかし運命は皮肉だった。賢治は急に発熱をして倒れてしまった。その症状は思いの外深刻なもので、九月三日に遺書を書いたほどだった。何とか花巻の実家に戻った賢治だったが、床に伏せる日が延々と続いた。そんな時、枕元に置いていた手帳に書いたものが、この「雨にも負けず・・・」という散文だった。特に初めから、作品として意図して書かれたものではないはずだ。きっと、死に対する不安を抱えながら、己の人生を俯瞰(ふかん)し、その時の心情を、さり気なく綴ったものと思う。病に倒れた賢治の心境がつくづくと分かる書き出しである。そこには健康であることへの儚い望みが見え隠れしていて、どこか悲しい・・・。
慾ハナク 決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
35才になった賢治にとって、依然として人生は不可解極まりないものだったに違いない。10年前に25才の賢治は、作家になる覚悟をもって、東京に出たものの、まったく中央の文壇からは相手にされなかった。「どうしてこんな私の才能を認めないのか」きっと賢治は、こんな思いを持って、故郷の花巻に戻ったに違いない。どうも東京という所は、賢治にとって、鬼門のような雰囲気を持つ都市だ。しかも今回は、東京に行った途端に発病である。だからこの「雨にも負けず・・・」を書いた賢治の心境は、諦めに近い深い落胆に支配されていたと言っても決して嘘にはなるまい。
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
通常人間というものは、諦めという境地に至った場合、悪いことばかりを考えがちだが、賢治にとって「諦め」は、彼自身の思想的バックボーンとも言える「法華経」の大乗精神が、大いに顕現するためのきっかけを与えている。簡単に言えば、賢治が若い頃に望んでいた人生の夢が、無惨にも次々とうち破られて、健康までもが、原因不明の病によって害されるに至って、初めて御仏の有り難さを実感として受け取ったようなものだ。

若い時分には、賢治に限らず、誰でもとてつもない大きな夢を抱く。健康な時には、たとえ100才になっても生きる生命力が自分にはあると思うものだ。体力が充ち満ちていると、ナイフひとつあれば、百獣の王でも倒せると思ったりもする。だからそんな時には、誰にも頼ろうとはしないし、神や仏がどこに居て、どのようなものであろうとも、それは経典の中の言葉に過ぎないのである。言葉の上で、「大乗の教え」「白蓮の教え」として、理解したつもりでも、けっしてその意味を実感を持って分かっている訳ではないのだ。

賢治が、35才になり、発病の結果、もう長くは生きられないと直感した時、賢治は初めて、御仏の有り難さとその教えの深きを心から知ったのである。この「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ」というフレーズは、私がこの「雨にも負けず・・・」の詩の中で、最高に美しい心境と思う一言だ。このようにありたいと思うが、どうしても多くの私欲や我執というものに縛られ、がんじがらめの精神状態で生きているのが、偽らざる私であり、世間というものだ。

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
庵というものにひっそり住みたい。そこで余命短い自分の人生を、人のことを思い、世の中のことを思い、そして静に最期を終えたいものだ。という一種の死への準備あるいは助走のような感じを受ける。
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
賢治の心は、この文脈に至って、急に機関銃のように激しく言葉を放つ。そしてそれはそのようにできない自分の肉体に向かってむち打つ時の苦悶の叫びのようでもあり、またそれは世の中が、余りにも自己中心的な感覚に毒されていて、万人が幸せを共有しようという崇高な人間精神を拒絶していることに対する憤りを良心と道徳心によってカモフラージュした言葉とも取れる。

この中で、私は特に「南ニ死ニソウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ」という言葉に注目したい。これは賢治の死生観そのものである。何故怖がらなくていいか、と言えば、賢治は来世というものを、間違いなく信じている。再び自分が生まれ変わって、何者かに転生してくる確信しているのだ。だからきっと死にそうな人の耳元で賢治は、きっとこう囁くはずだ。
「大丈夫。**さん。生命というものは巡るものです。良い心を持ち、静かに清浄な気持ちを持って旅立てば、仏様が迎えてくれますよ。良き心、そして静に逝きなさいな。もうじき私も逝くのです。その時は私を迎えに来てくれますね・・・」そしてその死に逝く人の手を取り、にっこり微笑むはずだ。この言葉は、賢治が最後に到達した生命あるいは魂というものに対する秘密の独白なのである。

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
これは農業というものを愛し、寒冷地花巻での農作業の厳しさ肌で感じた自然あるいは天というものに対する賢治の心情を表している言葉であり、結局役立たずの「デクノボー」として死に逝く自分というものを敢えて、これで良かったのだという自らの生様に対する自己容認ということになるであろう。
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
最後のこのフレーズは一種の謙譲である。この謙虚さがあることによって、この「雨にも負けず・・・」の詩文そのものが、救われるものになっていることは明らかだ。おそらく高き理想を歌った全フレーズを全肯定し、永遠回帰の憧れあるいは夢として「デクノボー」の自分であることを誇りとし、賢治は、晴れ晴れと青く澄み渡る空に向かって真っ直ぐに伸びる天国への真白き階段を一歩また一歩と昇っていくのである。

  星空を眩しき梯(はし)の下り来て賢治は昇る星となるため  ひろや
 

改めて賢治の「雨にも負けず・・・」を読みながら、人間というものは、死というものが、身近なものに感じられるようになった瞬間、初めて生というものの尊さを実感として受け止められるのだな、と思った。そして賢治死後、68年経った2001年賢治がこれほど日本中の人々に愛され、新たなる国民文学とまで表されている秘密の一端が分かったような気がした。それはあらゆる事について、彼の紡ぎ出す言葉の一語一語が、他人や世間に「こうしろ」「ああしろ」などとおこがましいことは一切言わずに、「サウイフモノニワタシハナリタイ」としてあくまで「一人称」(自分の問題)として語る賢治の心の優しさと謙虚さにあるのではないか、ということである。このようにして、賢治個人の「諦め」は、一種の悟りの心境にまで変化を遂げ、ついには単なる諦めが「諦念」となり、日本人いや人間精神のもっとも美しい心境を描いた「雨にも負けず・・・」の詩文として結晶したのではあるまいか。

佐藤
 

 


2001.12.14

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