与謝野晶子の義経堂の歌を鑑賞する 

−女性としての与謝野晶子の感性−

与謝野晶子(1878−1942)の晩年の歌集「白桜集」に、こんな歌がある。

 義経堂女いのれりみちのくの高館に君ありと告げまし

さてこれをあなたはどのように解釈するだろうか?
やはり一般的には、晶子の義経公を慕う歌とみる見方をする人がほとんどだろう。

それにしても情景がありありと見えるような情感たっぷりの歌だ。きっと晶子は、高館山に登り、義経堂の当時かなり古ぼけていたはずの義経公の木像を見たのであろう。「女いのれり」というこの言葉が実に印象的だ。おそらくこの地に来て、晶子の心の中には、750年も前の時代に義経の若き妻と幼い娘が、この地で義経公と共に亡くなったことを悼む思いが沸々と湧き上がってきてどうしようもなかったのであろう。晶子は、女性である自分をことさら意識している歌人であった。芭蕉が夏草の繁茂に、「あわれ」を催したように、晶子は、ほとんどの人が意識することのない義経公の薄幸の妻子のことが脳裏に浮かんだのに違いない。

だからこの「君あり」の君とは、この薄幸の妻のことを指しているのは明かである。もしもこの「君」が義経公であるとすれば、実につまらない凡庸な歌となってしまう。だからこの歌は、このように解釈されなければならないと思う。
「私は義経堂に女として祈りを捧げます。この高館には稀代の英雄の源義経公だけではなく、若くして亡くなった妻のあなたも眠っているのですね。そのことを誰に告げたらいいのでしょう…。」

さて同じ「白桜集」のなかに、鎌倉の由比ヶ浜で詠った次のような歌がある。

 我が見るは由比が沙浜悲しみにくれて曇れるかまくらの海

義経公を好きな人物であれば、由比ヶ浜に義経公の愛妾静御前が生んだ男児が、生まれて間もなく、名もなきまま殺されてうち捨てられた場所であることを知らない人はいまい。晶子の夫の与謝野鉄幹は、義経公を讃える文語調の詩を創作している位だから、晶子もまた義経公にまつわるこの話は熟知していたはずである。

吾妻鏡によれば、文治二年閏七月二九日(1186年)、静は、図らずも頼朝によって殺害される運命にあった男児を出産した。静は、頼朝の命を受けた安達某の「子供を渡しなさい」という言葉に随わずその男子を抱きしめて離そうとしなかった。母としては当然の抵抗だ。最後には見かねた静の母の磯禅師が、これを取り上げ、安達某に渡したというのである。頼朝の妻政子はこれをかわいそうに思って何とかしようと思ったが、結局これも叶わず、男児は由比ヶ浜にうち棄てられてしまったのであった。晶子は、この歌によって、女性としての静の悲しみを時代を超えて引き受けているように思える。

与謝野晶子は、義経公に係わった二人の女性の精一杯の生き方に共感を持ち、また「あわれ」を催して、この二首の歌を詠んだのである。さてあなたはこの二首を読んでどのような感慨を持つであろうか・・・。佐藤
 

 


2001.7.5

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