山形の赤倉温泉
 

山形の赤倉温泉の名湯「三之丞」の軒先の雪囲いと干柿の風情
(2004年12月13日佐藤撮影)
  

2004年の師走も10日を過ぎ、山形の赤倉温泉(最上町)に行った。東北新幹線の古川駅で下車し、陸羽東線に乗り、鳴子温泉を経由して宮城から山形に越えた。

私は何気なく、汽車に乗って、温泉が点在する山間の国境地域(伊達藩と新庄藩)を抜けて来たのだが、この道は、今から300年余りも前に、芭蕉が平泉から踵(きびす)を返し、大変な思いをしながらやってきた難儀なところであった。この周辺は、仙台藩と新庄藩の関所に当たる。芭蕉と曾良は関守に怪しまれながら、堺田の辺りで、雨に降られ、日も暮れて、一夜の宿を求めた。もちろん気の利いた旅籠(はたご)などはなく、結局、国境を守る封人(役人)の家に泊めさせてもらった。当時、東北では人家と馬小屋が一体になった造りの家が普通である。家に蚤虱がはね回るのも珍しいことではない。芭蕉と曾良は、蚤虱の痒さに寝付かれず、あたかも耳元で放たれるように聞こえる馬の放尿する音を聞きながら、「こりゃー眠れんわ・・」と布団を被って一夜を明かしたのであろう。そこで詠まれた句が、「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(ばり)する枕もと」という滑稽な句である。結局、雨は翌日も降り止まず、この家で三泊もしたといわれる。雨が上がると、難儀な山刀伐峠(なたぎりとうげ)越えが待っていた。蚤虱の家の主人は、すっかり芭蕉とうち解けてたとみえ、難所を越える芭蕉を心配し土地の屈強な若者の先導につけてこの峠を越えさせたのであった。このエピソードなども、出羽の人々の温かな気質を今に伝えている。

しかし今、この辺りも道が整備され、猛スピードで車が行き交う便利な温泉街になっていた。それでもこの周辺は、最近でも猿の親子が軒先までやってくるような山間の温泉である。また今年は、クマが人里で九回も目撃されているとのことだ。赤倉温泉は、慈覚大師が貞観五年(862)に、持っていた杖で掘りあてたとの伝説があり、無色透明の質の良いお湯が豊富に湧き出す湯の里である。私は創業三百年を越えるという老舗の三之丞(さんのじょう)という宿に泊まった。

入口に入るなり、その看板に歴史の重みを感じた。古い伝統を大切にしながら、独特の風情を醸し出している姿に東北の人々の文化というものに対するこだわりのようなものを感じて嬉しくなった。でも、ひとつ感じたのは、東北弁が消えて行きつつあるという寂しさだ。宿に泊まる人々の会話を聞いていると、お国訛りがない。言葉が標準語化しているのだ。

言葉は文化そのものである。とすれば東北の固有のお国訛りが消えて行くことは、東北文化の重要な個性が消えて行くことに他ならない。地域教育が叫ばれている昨今、地方のアイデンティティを生み出す源泉は、お国訛りを残すことではないだろうか。その為には、小さなうちから標準語とは別に、国の言葉の時間というものを設けて、例えば、民話の語り部を呼んで聞かせるような授業を通じて、標準語とお国訛りがバイリンガルに喋れる環境を作るべきではないかと思う。

苦い炒りたてのコーヒーを呑みながら、大きな窓越しに外を覗くと、囲炉裏越しのサッシ越しに干柿を並んで吊してあるのが目に入った。その先の宿の門口には、小さな木を雪から保護する雪囲いが並んでいる。雪国の人々の自然へのさり気ない思いやりを美しいと感じた。

赤倉温泉での五首 
  赤倉の温(ぬく)き湯に入り遠き日の君との別れ思ひ出る夜
  柿の実の皮をむきつつ寄辺なき冬越す亡母(はは)の幻を視ぬ  
  雪国の師走と云ふに小春日の小国川行く清水の温し
  熊十頭今年の秋は人里に出没せしか奥山を見る
  雪深き出羽(いでは)の山を義経が逃げ行くと云ふ奥山を視る

佐藤
 


2004.12.14

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