高 館の眺望の文化的価値を考える

芭蕉は平泉で何を発見したのか?

2008年平泉ユネスコ世界遺産登録へ向けての平泉景観論



夏草に覆われた 高館からから北上川を遠望する
(1999年8月28日 佐藤弘弥撮影)
佐藤弘弥

 はじめに  美しい風景とアイデンティティ

平泉の風景を六年間見つづけた立場から、最近つくづくと思うことがある。それは「美しい風景はどこから生まれてくるのか?」という素朴な思いである。

一般的に言えば、美しいと感じる風景は、人様々であろうが、何らかの条件や要素のようなものが揃った時に、はじめて感じるものかもしれない。ということ は、美しいという風景には、一定の法則性があるということにもなるであろう。

日本の風土研究で著名なフランスのオギュスタン・ベルク(1942ー)によれば、「風景は文化的アイデンティティの指標であるばかりではなく、さらにその アイデンティティを保証するものでもある。」と「日本の風景・西洋の風景」(講談社現代新書 1990年刊)の中で述べている。

風景が文化的アイデンティティだとすれば、煎じ詰めて言えば、風景とは、そこに生まれ、暮らしている者にとってのアイデンティティということにもなる。文 化とはそもそも人間が自然との関わりの中で、長い年月を経て作り上げてきたものである。

人は誰でも自分が納得できる美しい風景の中で、心地よく暮らしたいと願うものである。これが2年前の6月に施行された景観法の目的であり趣旨である。最近 では、住んでみたい県や町を選ぶアンケートが公表されるようになって、人は一層美しい風景の中に暮らす意味合いを理解するようになっている。

そこで今回は、芭蕉が「奥の細道」という作品の中で結実させた彼の有名な「夏草や兵どもが夢の跡」と詠嘆した平泉高館直下に拡がる風景についての文化的価 値を考えながら、芭蕉の作品の奥にある独特の美意識にまで触れてみようと己の浅学非才をもかえりみず思った次第である。




高館から束稲山方向を観る
(2000年4月21日 大雨の翌日 佐藤弘弥撮影)

1 芭蕉の「夏草 や」の句と高館からの眺望

ところで、東北地方のほぼ中央部に存在する平泉という町は、今では人口1万人を切る小さな町である。しかし往時には、京の都にも負けないほどの繁栄を誇っ て、人口も10万を越える大都市だったと言われている。大きいのは、都市としてのスケールだけではない。そこには現代にも通じる恒久平和を希求するような 崇高な理念があった。それは奥州藤原氏という一族が、奥州を巻き込んだ30年に及ぶ戦争(前九年・後三年の役)で亡くなった人々の魂をことごとく成仏させ ることを祈願し、極楽浄土をこの世に出現させようとしたというのである。

ところが、この平泉は建都からわずか、100年ほどで、鎌倉政権の源頼朝によって滅ぼされ、その後は、中尊寺、毛越寺の当代無双と云われた寺院なども荒廃 が進み、ほとんどが遺構となって、夏草の下に埋れてしまった。

滅びから500年後、ひとりの旅人が平泉を訪れた。俳人松尾芭蕉である。彼は、夏草が生い茂る中に「平泉の美」を発見した。その場所は、中尊寺の東にある 高さ100mにも満たない小高い高館という小山であった。芭蕉は、この下に拡がる茫洋とした風景に美を見たのである。

それ以来、ここを訪れる者は、芭蕉の発見した美に共鳴し感嘆の言葉をもらすようになった。芭蕉は、何もないただ眼下に夏草が生い茂り、北上川が流れ、田野 があり、束稲山が聳え、衣川が遠くに見える、その風景にいったいどんな美を見たのだろう・・・。


芭蕉が高館で詠んだ句に「夏草や兵どもが夢の跡」という有名な句がある。これを詳細に分析すれば、芭蕉の心の中にある風景が見えてくる。

高館に芭蕉が登ったのは、旧暦の5月13日。新暦では6月29日にあたる晴れた日であった。前日は登米(とよま)から一関に入るのであるが、大変な雨が降 り、合羽を着て芭蕉と曾良は一関の宿に泊まった。

梅雨時であるから、眼下の北上川には、濁流が流れていたであろう。朝食を一関の宿で取った二人は、10時頃平泉に入った。一関と平泉は10キロに満たない 距離である。南の太田川に架かる橋を越え、田野と民家が点在する合間をぬって芭蕉らは、一目散に高館に向かった。田んぼには、たっぷりと水が張られ、まだ 若々しい苗が薫風にそよいでいたであろう。畦には、夏草が生い茂り、草花がそちこちで咲いていたはずだ。

もっとも目についたのが、緑色に輝く初夏の緑だった。どこを見渡しても、一面の緑である。芭蕉は、その印象を「夏草」という季語に託し、自分の目に映った イメージを読み手に植え付けることに成功した。この「夏草」という植物と「夢の跡」という場所をつなぐものが、兵どもである。もちろんこの「兵ども」と は、高館に居を構えていたと言われる源義経である。その頃、高館には、建設されたばかりの、義経堂(ぎけいどう)が立っていた。しかし芭蕉は、新しい義経 堂などまったく眼中になかったに違いない。眼下の景色を見ながら、芭蕉の心には、この地で義経とその郎等たちが命の炎を燃やし尽くして、果てたという思い が支配している。これが「夏草や」の句が誕生する契機になった感情である。

今も高館の周辺には、クズなどのツタが根を生やして群生していているが、それにウツギなどの植物が、白い花をつけて芭蕉らを迎えたのであろう。緑に囲まれ て、雄大な北上川、それに河の向こうには、人が布団をかむって眠っているような姿とも形容される束稲山がどっかと聳えている。10時頃であるから、通常で あれば朝霧は消えているはずだが、昨日の大雨のために水をたっぷり含んだ大気は、束稲山に白い雲となって少し掛かって風情を醸し出していたことも考えられ る。

また、束稲山は、敬愛する西行が登って、「聞きもせじ束稲山の桜花吉野のほかにかかるべしとは」と詠った場所である。芭蕉は、その白い雲に西行の面影を追 想したことだろう。芭蕉は、むせかえるような夏草の臭いの中に永遠なる真実を感じ取ったのである。それは単なる風景とか景色というようなものではなく、人 間だけが感じ取れる美しい永遠の美というものであったと思われる。ここで英雄義経が腹を切り、弁慶が立ち往生をし、一族郎等は、こぞってこの地で滅び去っ たのである。また義経を亡き者にした泰衡もまた無惨に、自らの臣下によって殺され、奥州平泉は滅びた。この高館にまさに自分が立っているという強烈な感慨 が、芭蕉の脳裏に、永遠の風景として固着し、あの「夏草や」の風景が、造形されたとも言える。




高館から北上川と夏草の遠望
(2004年7月4日 佐藤撮影)

2  芭蕉以前以後で変化した高館からの眺望の文化的価値

私たちが見る高館からの景色というものは、「奥の細道」で芭蕉が発見した景色というものを、追体験しているようなものではないかと思う。「そんな馬鹿な」 と反論する人もいるであろう。その主張は、おそらくこのようなものであろう。

「すでに芭蕉が存在する以前に、高館は景勝地として知られていた。芭蕉も、十分そのことを知っていて、平泉で真っ先に、この高館を訪れたはずだ。」と。

確かに伊達藩は、源義経を顕彰するため、この高台に「義経堂」を建てた。多くの旅人や近隣からの来訪者が、高館を訪れて、義経の悲劇の生涯とあっけなく滅 び去ってしまった奥州の古都平泉を感慨深げに眺めてきたのである。それと芭蕉の観た景色はどこが違うのか?と言われれば、違ってはいないようでもある。

しかし私から言えば、芭蕉以前と以後では、高館からの眺望の文化的価値が変わってしまったということ言えるのである。芭蕉以前高館は、一地方の景勝地に過 ぎなかった。ところが、芭蕉が訪れて、この地の醸し出す風景に人類普遍の価値を見出した。それは唐の大詩人杜甫の「春望」の「国破れて山河在り」、「城春 にして草木深し」の風景をたぐり寄せ、日本の文化の源流であった中国の文化を咀嚼(そしゃく)しながら、「夏草や兵どもが夢の跡」と極めて短く、高館の風 景を短く切り取ったことによるのである。これによって、高館の風景が日本人の人々の心で奥州の代表的な景観イメージとして固着化したのである。

「夏草や兵どもが夢の跡」という句を、分解してみれば、三つのパートにわかれる。一つは「夏草」、二つ目は「兵ども」、そして三つ目は「夢の跡」である。 この中で、実景はただ一つ目の「夏草」しかない。三つ目の「夢の跡」とは、夏草に埋もれて実景としては目に見えない義経が生きていた時代の心象風景であ る。

ただ単に美しい風景を芭蕉は探し当てたのではなく、実景として見える「夏草」のみに意識を置くことによって、すべての実景を、この緑のイメージの中に押し 込めてしまったのである。このことによって、茫洋とした白昼夢のような景色が、芭蕉の心の中で再構築されたのでないだろうか。

芭蕉が発見した高館からの景観の奥には、圧倒的な黄金の産出によって、日本の歴史上でも空前の栄華を誇った奥州平泉そのものが、義経という稀代の英雄の夭 折とあい前後して滅び去ってしまうという歴史の現実を受け入れたところから始まっている。同時に芭蕉は、感傷的になる自分自身を抑えながら、少し悲しい現 実とは一定の距離を置いて、目の前に拡がる風景を、俳諧という世界でもっとも短い詩形に心を納めたことになる。

つまり芭蕉は、今自分が高館に訪れて感じ取っている感慨を、「夏草や兵どもが夢の跡」と詠むことによって、ここに訪れる誰もが漠然と感じる思いを普遍的な 感情として、昇華したことになる。

芭蕉は高館の風景の中に、かつてこの地に暮らしていた人物とその臣下たちが、必死に生き亡くなって逝った、その滅び行くイメージが、この周辺の景色と一体 となっていること深い感動を覚えたのである。

以後、芭蕉の感じた思いは、ここを訪れる日本人の思いと重なり、時を経るごとに、芭蕉の見た景色が、平泉の代表的な景色として、光輝くようになったと思う のである。逆に言えば、もしも芭蕉が、高館を訪れて、「夏草や」の句を詠むことがなかったならば、高館からの眺望というものが、これほど有名なものには なっていなかったとも言えるのではあるまいか。



高館からの風景を撮影する旅人
眼下ではバイパス工事が工事中
(2003年3月21日 佐藤撮影)



3 「夏草や」の句から観る芭蕉の心

芭蕉の境地を伝える言葉として「不易と流行」という言葉がある。「不易」は普遍なもの、時代が移り変わっても、けっして変わることのない真理を指す、一方 「流行」は一時期もてはやされたと思っても、すぐに忘れ去られる一時の流行(はやり)のことを指す。

芭蕉は、自分が携わっている俳諧の道が、「不易」だとは、少しも思っていないように感じる。それは芭蕉の謙虚さというよりは、芸術家としての芭蕉の冷徹な 信念ではないだろうか。むしろ俳諧は一時の流行に過ぎない。肝心なのは、17文字という短い言葉に込められた「けっして変わることのない思い」である。芭 蕉はそう思っていたに違いない。それは「不易の念」ともいうべきものなのである。

芭蕉は、「笈の小文」(1687)の中で、「西行の和歌における、宋祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その道を貫くものは一つな り。」と明確に語っている。世の中には、さまざまな表現の形がある。俳諧の道もそのひとつに過ぎない。形を代えれば、それは世阿弥の能とも通じ、あるいは 江戸歌舞伎へと変化をしていく。

日本人が小さな島国で育んできたさまざまな芸道の道は、不易という境地を得ることによって、人類普遍の精神と交わることになる。一見、西洋の考え方とは異 なる独特な異文化と見られていた視点が実は、人間精神そのものの体現であったということもある。それが芭蕉の発見した「モノの見方」(視点)だったのでは ないだろうか。

芭蕉の有名な句に、「古池や蛙飛び込む水の音」がある。

これも「夏草や」の句に習って分解すれば、「古池や」と「蛙飛び込む」と「水の音」となる。古池は、そこに存在する実景であり、「蛙飛び込む」は、変わり ゆく変化そのものであり、そして「水の音」は変化そのものの余韻である。この句と「夏草や」の句を比較すれば、構造そのものが非常によく似ていることに気 づく。

まず、「や」の用い方である。「古池」も「夏草」も「や」で切れ、「夏草」の逞しさや、「古池」の古めかしさのような佇まいが強調されている。しかしこの 句の主語あるいは主題は、けっして「古池」でも「夏草」でもない。芭蕉は、この実景をとしての一番目につくものを初五に持ってきながら、実は実景の背後に ある永遠性こそが詠みたかったこと(主題)なのである。おそらく、芭蕉は「古池」(実景=現在)という変わらないものと、「蛙飛び込む」というその池で起 きている変化とが、渾然一体となって、現在の風景を構成し、そしてやがてそれが未来に受け継がれて行くものだ、という真理を含ませているように思われる。

そのようにして、「古池や」の句を考えてみれば、「古い池というものに蛙が飛び込んで小さな波紋と音を立てた」という単なる通俗的なワビ的世界観ではな く、「古い池という浮世に飛び込んだ蛙の自分ではあったが、それなりに世に音を立てられたものだ」、という新解釈も成り立つはずである。つまり芭蕉は、こ の句の中に己自身を「蛙」と擬人化させて盛り込みながら、自らの到達した境地が、どこかで永遠性(不易)なものに交わっていることを自覚していることにな る。

ところで、奥の細道の旅の山形山寺での句に、有名な「閑かさや岩にしみいる蝉の声」がある。

これも分解してみれば、「閑かさや」と「岩にしみいる」と「蝉の声」となる。

この時期に行ってみれば一目瞭然であるが、山寺に「閑かさ」などはない。耳に付くような蝉の鳴き声が、うるさくてうるさくて仕方がない。「夏草や」にあた るものが、実は「蝉の声」である。これが芭蕉の最初の山寺の印象であった。つまり、蝉の声がうるさいのである。しかし見渡せば、そこに岩がある。そしてそ の岩には穴が空いていて、この穴には、周辺の人々の人骨が納められていることを聞く。

その時、芭蕉の中で、殴られたような衝撃があった。これまでうるさいと思っていた蝉の声が一瞬で消えて、芭蕉の中には、このように懸命に鳴いている蝉もや がては、あっけなく死んで、消えてしまうのだな、という感慨が湧き上がってきたのである。

「夏草や兵どもが夢の跡」
「古池や蛙飛び込む水の音」
「閑かさや岩にしみいる蝉の声」

この三つの句を並べてみると、芭蕉のモノの見方、風景の見方、句の読み方、人生観などがよく分かる。まず芭蕉は、実景というものを見ながら、その奥に永遠 なものを探しているようにみえる。つまり芭蕉は、実景(現在)を見、そこから過去(歴史)との関わりを思い、次に未来にはどのようになるかという視点だ。 そして芭蕉の視点で一番大事なことは、常に自分が、その句の中に納まっているということだ。

「夏草や」の句を独立したものとして考えるならば、「兵ども」の中には、おそらく「芭蕉自身と曾良」もいるのである。同じように二句の「蛙」とは、先に述 べたように芭蕉自身と思われる。この句の中には、ある境地に辿り着いたという芭蕉なりの自信のような観念を感じる。そして第三句の蝉は、やがて死んでこの 岩の中に自分も入って行くのだという覚悟のようなものに感じるのである。



高館直下を走る平泉バイパスを夏草で隠して撮る
(2004年7月4日 佐藤撮影)

4 「ワビサビ日本文化論」と芭蕉の視点

しばしば、一般に広まっている句や歌の解釈というものは、間違って場合が多いものである。この「夏草や」も、例外ではない。どうもそれは、日本人の精神を 「ワビ」や「サビ」論で、解釈してしまうための短絡的な誤解ではないかと思う。日本人は、特に国学の本居宣長などによって強調された「もののあわれ」とい う美意識でこの世界の森羅万象を捉えようとする傾向が強い。本来、日本文化の底流には、縄文的なものと弥生的なものが、織りなす綾のようになっているもの と解釈されれうべきであり、弥生的な流れを汲む「もののあわれ」というフィルター(色眼鏡)のみで、日本文化全般を規定してしまうことは、錯誤の元とな る。

そもそも、「夏草や」の句を、ワビサビで、解釈してしまうと、この句の中で芭蕉が発見した歴史的景観や文化的風土の持つ永遠性が損なわれてしまうと思う。 景観や風土というものは、現在そこに住む人々が、以前にそこに住んでいた人々の思い受け継いで守っている文化の連続性ことである。

美しい風景というものは、一夜にして出来上がるようなものではなく、現在の人間が過去の歴史を受け継いでゆくことで、保たれる永遠性のことである。それは たとえその国が滅びたとしても、風景や風土として残り、そこに住む人々が、その思いを受け継いで、後世に伝えてゆくことになる。

例えば「奥の細道」の中で芭蕉は記していないが、高館の前にある三代秀衡が建立した無量光院の跡を見れば、文化的な風景というものがそこに住む人々によっ てどのように守られて行くかということが、一目瞭然である。この寺は、宇治の平等院を模して建設されたも のであるが、奥州滅亡後、火災にあって焼失してしまった。しかしそこを所有した地元の民は、当時の中島や池の形状をそのまま残して、そこを田んぼとして利 用していたのである。だから、今でも、当時の礎石が中島に置かれ、また池の向こうに燦然と鳳凰が翼を拡げたような姿をしていたイメージがありありと浮かん で来る。きっと住民の心には、「無量光院は復元できないが、せめて礎石や池の形や松は、そのまま後の世に伝えてやろう・・・。」私はこの風景に強い感動を 覚えたものである。

芭蕉も、高館に登った時、この何もない風景の中に、歴史的風土が、この地の人々によって、大切に守られ、アイデンティティとなり、誇りとされていることに 感銘を受けたに違いない。芭蕉の「夏草や」の句に、地元の民も何も存在は見えて来ない。そこに登場するのは、かつてこの地に住んでいた、源義経とその郎等 たちのイメージだけである。芭蕉の目には、追悼のために建てられている義経堂と顕彰碑が映っていたはずだ。しかし芭蕉は敢えて、この新しい建造物を句の世 界から一切排除し、「夏草」とすることで、歴史的風景を自分の視点としてイメージ化することにしたのである。

私は、芭蕉の「夏草や」の句の「夏草」には、生き生きとした強い生命力のようなものを感じる。特に高館直下の周辺の夏草はツタ類も生い茂っていて、怪物の ように見える ことがある。そうすると「夏草」は、「兵ども」に掛かって、いっそう、義経とその郎等たちの魂が、この地に眠っていて、その精神が受け継がれていることを 芭蕉は、詩人の直観として受け取ったのではないだろうか。「国破れて山河あり」の杜甫の詩思い出した芭蕉は、高館から見渡せる山河の中に、この地に生きて いた人々の思いが、そこかしこに息づいていることを発見したのである。

世の中には、すべてのことを「ワビサビ」解釈して、納得している人も多いが、そんな態度では、芭蕉という天才的な人物が、四十も半ばを過ぎ、行き倒れる覚 悟をもって、日本中の風景を己の目で凝視して発見したものなど追体験できるはずもないのである。つづく


中尊寺西物見から高館・束稲山方向を望む
(2004年8月13日 佐藤弘弥撮影)


5 ドナルド・キーン氏の「平泉は一度も死なず」説と芭蕉の感性

現在、世界最高の日本文学研究者と言えば、文句なくドナルド・キーン博士(1922ー)と誰もが答えるだろう。氏は故三島由紀夫や故川端康成などの大作家 との親交を持ち、日本の古典作品にまで研究対象を広め、「日本文学の歴史」という全18巻にもなる大著を上梓した巨人である。

氏は、その著「日本文学の歴史」(巻7)の中で、芭蕉の「夏草や」の句を下のように英訳をしている。

The summer grasses-
For many brave warriors
The aftermath of dreams

と訳した。直訳すれば、

夏の草
勇気ある戦士たちのために
夢の余波

となる。この英語訳されたものを意訳してみる。

「夏の草が生い茂っていることが、勇気ある戦士たちのための慰めとなり、しかし一方で彼らの生き、そして戦った敗残の思いでが夢の余波のようにして漂って いるようだ・・・。」


氏の深い鑑賞眼に敬服する。「夢の跡」を「The trace of a dream」とせず、「夢の余波」としたことで、夢が「跡」として断絶せずに、継続していることになる。この場で、不遇の最後を遂げた源義経とその一党の 悲劇が走馬燈のように芭蕉の脳裏に甦った後、夏草の勢いの中に、彼らの思いが続いていることがこの「余波(aftermath)」という単語を選んだこと で見事にイメージされている。

ドナルド・キーン氏は、昭和30年(1955)年、初めて平泉を訪れているが、その後、盛岡で行われた「東北文化シンポジウム 平泉」(昭和59年9月 於:盛岡 主催岩手日報社)という席で次のように語っている。


「・・・芭蕉の俳句の中で、いちばん感激する のはどれかと言われたら、高館にのぼれば・・・として詠んだ、”夏草や兵どもが夢の跡”です。そういうことで私は平泉を『おくのほそ道』を通して見ていた のです。・・・だいたいにおいて『おくのほそ道』にはウソが多いのです。・・・しかし、結局の ところ、芭蕉は平泉のいちばん大切な真実をつかんでいます。・・・平泉の特別類まれな美しさや偉大さについて、芭蕉以前にも、芭蕉以降にも書いた人 はひとりもおりません。私はこのように確信しています。・・・元禄年間でも、塩竃や平泉は辺境でした。芭蕉の常識では文化の中心地から遠かった土地です。 文化の中心地から遠く隔たった土地の文化、それが平泉文化のひとつの特徴でしょう。しかし考えてみますと、同じような性質の場所は地球上至るところにあり ます。特に仏教と関係の深い遺跡はだいたい現在では非常に不便な場所にあります。中国の敦厚がそうです。カンボジアのアンコール・ワット、ビルマのバガ ン、ジャワのボルブドゥール、全部極めて不便なところにあります。・・・多くの場合。いったん死んだこともあります。つまり・・・人々が、仏教があること を忘れた時代がありました。・・・しかしこれにくらべて、平泉の一番の特徴は、一度も死ななかったということです。・・・」「シンポジウム『平泉』高橋富 雄編 小学館昭和60年11月刊より)

この「平泉は一度も死ななかった」という指摘は極めて重要である。

滅 びたはずの平泉は、実は滅んでいない。ドナルド・キーン氏はそのように語っているのである。氏が芭蕉の「夏草や」の句の下五「夢の跡」を「跡」ではなく、 「余波」と訳した意味は、ここにあったと思われる。つまり、平泉においては、夢の余波は、滅びたのではなく、文化的風景に紛れるようにして続いているので ある。もちろんこれを守り抜いているのは、そこに息づいている文化と風土を大切に引き継いでいる地元の人々である。一般的に言って、英語の 「aftermath」(余波)と は、肯定的なイメージではない。むしろそれは嵐とか戦争の後の余波という否定的な意味も含まれている。しかし芭蕉は、けっしてこの平泉の高館を滅び去っ て、何も 無くなってしまった文化的継続性のない「跡」とはみていない。このことをドナルド・キーン氏も、高館を訪れることによって実感したのだと思われる。芭蕉が 感じ、ドナルド・キーン氏が見事な英訳をした奥州平泉に遺る「夢の余波」とは、ここに住む人々が大切に守り伝えてきた平泉文化の持つ何ものかなのである。つ づく


2005.6.19−6.20 佐藤弘弥

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