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大好きなオヤジさんが亡くなった。「小笹寿司」のご主人岡田周蔵翁だ。2004年5月27日、
翁はたった独り旅立って往かれた。享年79才。
東京浅草で生まれた岡田周蔵は、生粋の江
戸っ子で、ガキの頃から、家業の寿司屋を手伝うなど、寿司職人に成るべく生まれたような人だった。祭りの時なども、家業の手伝いでよその子どもたちのように遊んでなど居られなかったと聞く。
翁の長年の顧客で大親友でもあった作家故山
口瞳氏は、「行きつけの店」(初版TBSブリタニカ、後に新潮文庫で出版)という本の中で、岡田周蔵の人
となりを思い入れたっぷりに記している。
その中で、印象に残っているのは、無名時代の山口氏が、実父を亡くした時のエピソードだ。当時、山口氏には、親しい寿司屋が、小笹寿
司の岡田周蔵しかいなかったらしい。そこで山口氏は、岡田に通夜の夜の振る舞いを頼んだらしい。すると岡田は、「よがす」と一言云って、通夜の夜に黙々と寿司を握り続
けた。「こんな旨い寿司は生まれて初めて」と、通夜の客から評判は上々だっ
た。
一方、金欠病の山口氏は、当
夜の代金を岡田に聞くのがドキドキだった。何しろ、銀座の小笹と言えば、高い寿司が軒を連ねる銀座の中でも、飛び抜けて
高いと評判の高級寿司店。百万も請求されるのかと思って、恐る恐る「幾ら?」と値段を聞けば、岡田は、「10万円でよがす」とサラリと答えたというのだ。
岡田周蔵はそういう人だ。一見、強面(こわもて)で、口は悪いが、人一倍、義理と人情を大事にする性分の人
物だった。
ところが、巷では、小笹のオヤジさんと
云えば、「ガンコオヤジ」の代名詞のように云われることが多い。あの人を「ガンコ」以外で形容する人を私は知らない。大きな誤解なのだが、まあ、それも無
理からぬことだ。何しろ、店に入って来るなり、有名人だろうが、政治家だろうが、ギロリとあの眼孔で一瞥を呉れて、容赦のない毒舌が、機関銃のように放た
れる。
やれ「醤油を付けすぎ」。
悩んで居るアベックのアンちゃんをみれば、「まるでハムレットのよう。オフェーリアがお待ちか
ねだよ」。
しゃべりに夢中になっていると、「待っているお客がいる」。
「卵は最後で、しかもウチの卵はシャリは付けないよ」。
子供連れには、「高い寿司だから、子供が食べるようなもんじゃない」。
よくまあ、という位に、毒舌が出る。それで、面白いとなれば、馴染み客になる。気に入ら
なければ、二度と敷居を跨がない。そんなことが日常茶飯事であった。
ゴマすり社会と化してしまった日本社会で、岡田周蔵のガンコさは、まさに天然記念物「トキ」かユネスコ世界遺産のように実に貴重な存在だった。
2
私が岡田周蔵翁を知ったのは、何かの雑誌で、
「小笹の穴子に宇宙を感じる」とか何とか、書いていたのを見て、「ほんとかいな?!」と思って訪れたのが最初だった。あれからもう16年の歳月が過ぎたこ
とになる。
「宇宙を感じる」という一風変わった言葉の主は、山口瞳氏のものであった。小笹の穴子は、生の穴子を生地(きじ)から焼くから「キジ焼き」と云う。通常寿司屋で賞味する穴子と言えば、甘辛
く弱火で煮たもので、口に入れた瞬間、トロリと溶けるような触感のものを想像しがちだ。ところが小笹の穴子は、生地から焼くから歯ごたえがあり香ばしい。
焼きの途中で何度かタレを落とし、キウリを添え、その上に特別に調合した七味を掛ける。またこの七味がいい。柚の風味がプーンと来て、これが小皿に乗っ
て、ひょいと出る。その時に、こちらが手を出して受け取ろうとするものなら、仕事の流れが中断されるとばかりに、眉間に皺を寄せて岡田が鬼になる。しかし
これが絶品の味で、口に含んだ瞬間、頑固も鬼も忘れて、口中に宇宙の広がりかどうかは分からないが、絶妙な味覚を感じる。そしてそれまで固定観念で持って
いた穴子観を見事に打ち砕かれるのだ。
この小笹の穴子を、はげ上がった頭にねじり鉢巻きをキリリと巻いた岡田周蔵が、ジリジリ
と食欲をそそる音と匂いをたてながら、丹念に焼く。たまに秘伝のタレを塗る度に、こちらの食欲が刺激されて唾が出る。
穴子を焼くのは、炭火ではなくガスである。様々な局から、テレビ出演を依頼されながら、
「職人風情がテレビなんぞに」と頑なにどんな番組にも、拒んできた岡田だが、こともあろうにテレビのコマーシャルに出演したことがある。それがこの「東京
ガス」のコマーシャルだった。一度どころか、何度もテレビに登場して、評判になると、照れたと見えて、その件に話が行くと、決まり悪そうな顔をして、「あ
れは行きがかり、でしかたなく、出だだけ」とムスッとして、しゃがみ込んで、タバコを燻らせたことがあった。
このキジ焼きは、小笹寿司の名物だが、これを出された客が、熱いうちに食べないと、岡田
の機嫌が途端に悪くなる。そして決まってこんな言葉が飛ぶ。「穴子はね。熱いうちに食べなきゃー」と言って、ドングリ眼をギロリと剥くのだ。稀に店が空い
ていて、シャリにこのキジ焼きを乗せてくれたこともある。これがまた絶品だった。気が向いた時しかしてくれない。15年ほど通っても、3回か4度ほどしか
食していない。しかし今は幻の食べ物となってしまった。
3
2004年6月3日、満月の夜。私は故岡田周蔵翁の家に向かった。亡くなって丁度7日目に当た
る。時間は八時前だったか。下北沢から茶沢通りを三軒茶屋方面に歩くと、満月が森巌寺の木々を掠めて昇って来ていた。昔、この道を小笹に向かいながら、
「この道を行けば小笹か冬銀河」という句を詠んだことがある。この時は、冬の道だが、今夜は初夏である。しかもオヤジさんの霊前で手を合わせるために歩い
ているのだ。今この道は、骨董品を扱う店が多くなって、下北沢骨董通りというような感じになって来ている。
ローソンの前の信号の前に来ると、嫌でもかつての小笹寿司のあったビルが目に入った。も
うビルではない。かつての小笹の入っていた建物は、取り壊しの最中で、恐竜の首のように見える大型のショベルカーが、白い覆いから鋼鉄の首を天に向けて伸
ばしていた。オヤジさんの死とこのビルの取り壊しについて、深い因果があるようにも思えた。長年商売をした銀座からオヤジさんが、この下北沢で店を出すま
での経緯はよく知らない。しかし様々なことがあって、この下北沢に本物の江戸前寿司を食べさせる店を開店したということは聞いている。
こん身の思いで、この店を出店し、そして誰もが羨むような名店「下北沢小笹寿司」が誕生
したのだ。わずか10名も入れば、いっぱいになる店だ。大量消費の時代にあって、ここまで旨いネタをここに座った人に食べさせるということにこだわった店
はないだろう。かといって、自分では、「高い店」と言っているが、他の高級寿司店と比べて、そんなに高い訳ではない。また馴染みの客ばかりを相手にしてい
るということもない。予約が一切できないということは、「一見(いちげん)のお客さんでもどうぞ」というオヤジさんの強い姿勢の現れだ。
じっと整地されつつある地面に視線を向けた。丁度、ショベルカーは、小笹の店の上に止
まっていた。あの辺りに、頑固オヤジ岡田周蔵が立っていて、優しい女将さんはあの辺りに座っていらした。そして私はあの辺りで、オヤジさんの小言を聞きな
がら、寿司を握って貰っていたんだ。そんなことを思うと、満月が眩しくて悲しくて、「きっとこの光景をオヤジさんは見たくなかったのだろうなあ」と心が揺
れた。
北沢八幡の方に向かって行くと、真新しい「小笹寿司」が目に入った。すべては変わった。
ただ店の前の壁に貼られた電飾入りの楯の看板と袖看板はそのままだ。ほっとした。茶沢通りからひとつ通りを入って、新しい小笹寿司は、名実共に代替わりを
遂げたのである。
それにしても、まだ先代のオヤジさんが亡くなって一週間だというのに、小笹寿司は、何事
もなかったように新店舗で営業をしている。これは岡田周蔵翁という人物の哲学の反映でもある。かつてこのような話をオヤジさんから聞いたことがある。
「職人というものはね。佐藤さん。何があっても、店を開かなければならないものなんだ。
こっちが忙しい時、親戚の子がね。入ってきて、亡くなった親戚の話しを始めてね。クダクダとしゃべる訳さ。こっちは、お客様を相手にしなきゃいけない。そ
れで、お前帰れ、って追い出したことがあったな」
この考えに従って、オヤジさんのお弟子さんたちも、必死で悲しみを堪えて、店を開けているの
だ。
私がオヤジさんが亡くなったことを聞いたのは、5日後の「6月1日」だった。その時、新
ご亭主の西川さんは、平生と変わりなく、何事もないように、寿司を握っていた。最後に、私が、「この新しい店にオヤジさんは来たんですか」と聞くと、急に
表情を曇らせて、「実はね。佐藤さん。オヤジさん。昨日の27日亡くなりました」と小声で言った。天地がひっくり返るほどびっくりした。「ああー、そうで
すか・・・」そう答えるしかなかった。しばらくして、西川さんは、「車をこの前に、止めて、じっと遠くから店を見ていたそうです」と語った。
見事なものだ。ここまで自分の死後にも、自分の手塩にかけて育てた弟子たちに思いを伝
え、弟子もまたそのようにする。あの時のショックを思いながら、新しい店を通り過ぎて、故岡田周蔵翁の自宅にたどり着いた。
4
門の前には、「岡田周三」の表札が目に付いた。戸籍上は、「周蔵」だが、「周三」と表記するこ
とをオヤジさんは好んだという。もしかすると、姓名判断による字数の問題かもしれないが、真意は不明である。とうとうオヤジさんに会いに来たという感慨が
わき上がって来た。表札に手を合わせ、頭を下げた。ベルを押すと、一人娘の直己さんの「はい」という声がした。
「どうも、先ほど電話をした佐藤です。線香を上げさせて頂きに参りました。」
「どうぞ、お上がりください」という声に促されて、仏間に行くと、女将さんの貞子(てい
こ)さんが、座っておられて、「まあ、佐藤さん。よく来てくださいました。」と一言云うと、仏壇の方を向かれて、「おとうさん。おとうさん。佐藤さん。佐
藤さんが来てくださったわよ。おとうさん」と大きな声で言われた。
仏壇の中央には、銀色の遺骨袋に納まって眠る岡田周三翁がいた。その背後には、ふたつの
遺影が掛けられていた。ひとつは、藍色の半纏(はんてん)を羽織って、少し微笑みを湛えている半身が写っている写真。もうひとつは、いつものお店で来てい
る白衣に、ねじり恥巻きをキリリと締めて写っている表情のアップの写真だ。二枚とも、生前のオヤジさんの人となりをよく伝えている。味があって立派な遺影
だ。享年は数え年で81才とある。
ぶ厚い座布団に座り、写真をしみじみと拝見しながら、長い線香を二本取って、火を付け
た。「オヤジさん。長い人生、本当にお疲れ様でした。美味しいお寿司を握って貰って、ありがとうございました」自然にそんな言葉が沸いてきて合掌をした。
目を瞑っていると、笑ってこちらを見ているオヤジさんの顔が浮かんだ。思わず、般若心経
の最後の呪文を唱えていた。
「ガーティー、ガーティー、パーラー、ガーティー、パラソー、ガーティー、ボーディー、ス
バァーハー、ハンニャ、パラミッタ、シンギョウ」(行ける者よ。まったく行ける者よ。彼岸に行けるものよ。悟りよ。幸あれ。)
座布団を降りて、女将さんと直己さんの方に挨拶をした。一通りの話を終えると、女将さん
がこんな話をしてくれた。
「佐藤さん。ありがとうございました。一年半ぶりかしら。本人は、生前、『俺は自爆的な男だか
ら、店で倒れてサッと逝くつもりでいたようですが、このようなことで亡くなりました。』佐藤さんには、いつも贔屓にしていただいて、どうもありがとうござ
いました。」
「そうですか。あの遺影の写真ふたつともとてもいいですね。オヤジさんの人柄がよく顕れていま
すね。」
「ありがとうございます。あの写真は、やはり佐藤さんという写真家の息子さんに、撮っていただ
いたものです。お葬式には、弟子たちが、皆あの半纏を着て、オヤジを送ってくれました。・・・」
生前のオヤジさんのことを考えた。頑固一点張りに見えるオヤジさんだが、実は相当の照れ
屋で、ある女性の送別会で、「オヤジさん彼女といっしょに写真一枚撮らせてくれませんか」と言ったら、「俺はいい」と逃げられたことがあった。そのオヤジ
さんが、自分の亡くなった時のことを考えて、遺影用の写真を用意してあったことを聞いて余計にジンとくるものがあった。
小笹寿司の雰囲気は、岡田周蔵翁の頑固と女将さんの優しさのハーモニーにあった。
いつか、俳句と和歌の話になったことがある。岡田翁はこんなことを言った。
「まったく、佐藤さんには、困ったものだ。オサムライの感覚だからな。大体江戸っ子というもの
は気が短い。だから俳句なんだよ。五・七・五でポンとよむ。寿司もその感覚なんだ。和歌なんて、長くていけない。」
そんな会話をじっと聞いていて、会計になった時、女将さんが、優しい声でこんなことを言ってく
れるのだ。
「オヤジが頑固で、どうもすみませんね。本当にね。佐藤さん」
私は恐縮して、「いやいや。楽しかったです。あれはオヤジさん特有の言い方でして、全然気にし
ていませんので、女将さん気になさらないでください」
「そうですか。それならよろしゅうございました。」
帰り際、横目で、オヤジさんを見れば、一見不機嫌そうに、タバコなんぞを燻(くゆ)らせている
のだ。
女将さんの気遣いは、誰に対しても同じである。実に素敵なご夫婦であった。
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いざ帰る段になって、改めて女将さんに挨拶をすると、女将さんは、現役時代そのままに、優しく
微笑んでおられる。心に爽やかな風がそよいでくるようだ。最愛の人を亡くしたのだ。女将さんの気丈さに、私は日本女性の気高さと美しさを見た。
「佐藤さんには私たちが引退した後もご贔屓いただいて、感謝しております。ツトム(西川
さんのこと)も一生懸命頑張っているようで、今後ともどうぞよろしくお願いします」
「いや、西川さんの味も、素晴らしいですよ。穴子のキジ焼きなんかも、オヤジさんがつくってく
れたかと思うほどですよ。後は経験ではないでしょうか」
「いや、いやまだまだだと思いますが、佐藤さんにそう言っていただくとうれしいです・・・」
「流石に、オヤジさんの薫陶を受けたお弟子さんは違いますね。オヤジさんの商売の哲学をそのま
ま実践していて立派です。オヤジさんが亡くなった事を、実は私が伺ったのは、6月1日でした。新しいお店で、食べた後に、『オヤジさん元気すか?』と西川
さんに聞くと、『佐藤さん、オヤジさんは、実は5月27日に・・・』と聞かされてびっくりしたのです」
「そうでしたか。ツトムも日曜日には、『わがままさせていただきます。』と言って、来てくれた
のですが、弟子たちが、集まって、おそろいの青い半纏を来て、よくやってくれました」
そんな短い会話をして、岡田邸を出ると、雨上がりの満月が、かなりの高みに昇って来てい
た。こんな美しい月を見たのは久々だ。「明鏡止水」(めいきょうしすい)という言葉が浮かんだ。オヤジさんの最後の心境は、この言葉に辿り着いたのではな
いかと思った。
少し行くと、新しい小笹寿司が見えた。「オヤジさんの味を偲んで食べて帰ろう」そう思っ
て、入口を覗くと、中はお客でごった返していて、新オヤジの西川さんが、笑顔で応対をしている。オヤジさんの精神は、見事に引き継がれている。岡田周蔵の
寿司は、伝説と化し、その人を知る人も又知らぬ人も、「この寿司、何て美味しいんだろう」と歓喜の声を上げ続けるに違いない。
「井の中の蛙大海を知らず」という言葉がある。小笹の穴子を食さずして、穴子を語るなか
れ、と言いたい。その穴子の作りのなかに、岡田周蔵が丹誠込めて創りあげた江戸前寿司の本領が眠っているからだ。人は人を知ることによって、新しい世界が
開ける。私にとって、小笹のオヤジさんは、山口瞳氏が見事に表現した如く宇宙の神秘や広がりそのものに触
れる体験だった。あの見たこともない世界遺産級のガンコさの裏には、実は江戸っ子気質というよりも、日本人特有の慎みと照れが隠されていたのではないだろ
うか。口数はけっして多くないが、人をよく見ていて温か味のある人物だった。純粋に自分が子供の頃から関わった寿司というものに心底惚れ込んで、考えられ
る最高のものを目の前の客に賞味させようと努力した人生だった。
オヤジさんの声が頭の中で夏の嵐のように駆けめぐった。
「穴子は熱いうちに食べなさい」
「握ったら、すぐ食べなさい」
「今日は何からどのように食べるというストーリーを描きなさい」
「子供が食べるような寿司ではない」
「醤油つけすぎ、不気味だよ」
「寿司屋に寿司の話はするな」
「ネタ札をみて注文するの」
「ウチはお好みはないよ」
「マグロはマグロ」
「ぬる燗?江戸前では人肌って言うの」
「卵は最後。シャリはつけないで」
「ビール飲み過ぎでは寿司の味分からないよ」
「はい、サトさんお勘定だよ・・・」
古い小笹寿司の店の前に来た。土塊の上に相も変わらずショベルカーがどっかりと腰を下ろ
している。見れば、満月は天高く昇って、かつてオヤジさんが立っていた辺りを煌々と照らし始めた。世田谷のひと隅に店を開き、「宇宙の広がりを感じさせ
る」と形容されるほどの寿司を、ひと筋に握り続けた岡田周蔵翁は逝った。(佐藤弘弥拝)
ありし日に岡田
周蔵穴子焼く辺り見回し満月の夜
了