桜と日本人

-西行・芭蕉と吉野桜-

世田谷の桜

世田谷区東宝撮影所の桜
(佐藤信行撮影)

何とはな狂わしきほど人恋しならば明日 には花咲き初むる哉 ひろや
佐藤 弘弥

はじめに

「野ざらし紀行」と「笈の小文」をテキストとして、西行法師にあこがれた松尾芭蕉の生涯を「桜」と「道」をキーワードとして辿ってみよう。
 

1 西行さんと吉野桜

今年もまた桜の季節が過ぎ去ろうとしている。「桜と云えば、西行さん」と言うほど西行法師は、桜の歌人として名を 馳せている。

何しろ、

願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃
(解釈:願いが叶うならば、何とか桜の下で春に死にたいものだ。しかも草木の萌え出ずる如月(陰暦二月)の満月の頃がい い)という辞世の歌を残しているほどだ。そんな西行さんだが、吉野山の桜について、数多くの歌を詠んでいる。新古今集には、以下の三首が採られている。

よ し野山さくらが枝に雲散りて花おそげなる年にもあるかな
(解釈:吉野山の桜の枝に掛かっていた雲が散ってみれば、さっきまで、桜が咲いていたように見えたが、実は咲いてはいな かったのだ。花の咲くのが遅い年であることだなあ)

吉 野山去年(こぞ)のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ
(解釈:今年は去年尋ねた花を尋ねる道を換えてまだ見ていない辺りの花を探したいものだ)

ながむとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ
(解釈:ずっと花を眺めているせいか、花に情が移ってしまい、花たちと散り分かれてゆくのが悲しく思われることだ)

西行さんは、奥吉野の金峯神社の近くに庵を結んで、三年間桜の園の中に埋もれるように暮らした。現在でも、西行さ んが棲んだ跡が西行庵として遺っているが、桜は吉野山の麓の辺りから、徐々に標高の高い方に向かって、花を咲かせてゆく。きっと西行さんは、桜の頃になる と、そわそわとまるで恋人が、庵に尋ねて来るような心地で、花の開花を待ったことだろう。西行庵が、在ったこの辺りは、桜の名所の吉野でも一番最後に、桜 が開花する場所でもある。

山家集には、こんな歌もある。

雪と見てかげに桜の乱るれば花の笠着る春の夜の月
(解釈:雪が降っているのかと思ってみれば夜桜が風に吹かれて舞っているのであった。桜の彼方には、春の月が花の笠を着 ているように見えた)

日本人にとって古来、「桜」と言えば「山桜」を指した。今は何か、「ソメイヨシノ」(江戸期に豊島区の染井村の植 木職人が作ったヒガンザクラとオオシマザクラの交配種)なる新品種が、全国を早く成長するというので、持て囃されてしまっているが、まったく風情というも のがない。山桜は、吉野山の厳しい環境のなかで、豪雪と寒風に耐えながらやっと大人の木となって花を結ぶ。だからこそ吉野の桜は美しいのである。

吉野の金峯神社は、周知のように役の行者(小角)が開いた古社である。修験道の祖と言われる役の行者は、金峯山の 山上で桜木で金剛蔵王権現を彫り、一心不乱に祈りを続けると、霊験があった。そして桜は神木となり、この地方の人々は、桜の木と言えば、たとえ枯れ木一 本、信仰の対象とし、薪などにはしなかったのである。

もしかすると、西行さんは、吉野山の桜というよりも、ここに宿っている目に見えぬ祈りの華ににこそ美を見いだした のかもしれないと思う。やはり吉野の桜を何処に咲いている桜よりも西行さんが心に掛け、多くの吉野の山と桜に関する歌を詠んでいる理由は、吉野に住む人々 たちが、この山を山岳信仰の対象として、おらが山の桜を、「神の花だから大切にしなさい」と、親から子へと連綿と語り伝えて、丹精を込めて育んできたから に他ならないのである。

そもそも桜とは、勝手に山に群生し、勝手に増えて行く類の花ではない。吉野という山に対する深い信仰があり、この 祈りが、吉野山をして、桜の名所としてきたことは明らかだ。
 
 

2 芭蕉と吉野桜

芭蕉の生涯は、西行さんの辿った道を、俳諧という新しい感性をもって巡る漂白の生涯ではなかっただろうか。

41歳(1684)になった芭蕉は、このままでは、自分の生涯が、ただの俳諧という道の宗匠(そうしょう=師匠) で終わってしまうのではという危惧を持っていたように思われる。

きっと芭蕉は、心のなかで、
「西行さんは、一生を旅と歌の道に捧げて、日本中を歩いて歩いて歌の道の奥まで分け入って果てたのだ。それに引きかけ、 この深川の庵で、日々他人の俳諧の評や、直しに明け暮れていていいのか。自分の一生とはいったいどんなものか…」

そんな風に、ジレンマを感じ自問自答したに違いない。最近では心理学者が「中年クライシス」などという言葉を生み 出して使用しているが、要は自分の生涯に対する懐疑が生じたことになる。でもそんなことは、どこでもよくあることだ。少し時が経ってしまえば、何であの 時、自分はあんなに悩んだのか、と思うようになる。厳しい言葉で言えば、「諦め」であるが、みんなそのようにして凡庸な生涯を終えて土に帰るのである。し かし芭蕉は、己というものを徹底的に見詰めた稀有な人物の一人だ。最後に芭蕉が出した答えは、漂白の道を究めるという覚悟と決意だった。これは禅の高僧た ちの悟りに近い心境だったかもしれない。この時、芭蕉には、目の前にある道が、はっきりと眼前に広がっていた。

芭蕉が四十五歳で書いた「笈の小文」(1987〜1988)という紀行文の中で、そのことを、はっきりと記してい る。

「(前略)しばらく出世のことを願っていたのだが、この為にかえって自分の思うようにならず、しばらく学んでは、 己の愚をしっかりと見詰めかえそうと思ったのだが、やはりこの立身出世という雑念のために思いを果たせなかった。ついにこうして無能無芸のまま、俳諧とい うこの一筋の道に繋がっていることに気づいた。思えば、西行の和歌も、宗祇(そうぎ)の連歌も、雪舟の絵も、利休の茶も、それぞれの奥に通じている道は たったひとつである。しかも風雅(ふうが=詩歌文芸の道におけるもの)の道というものは、やはり道の思想(中国の老子や荘子が万物を創造する自然の流れに 帰れと説く思想。道家または老荘思想と云う)に従って、春夏秋冬を友とすればよいのである。そのようにすれば、見るものが花でないということはない。また 月でないものはない。(すべては風雅の心で見れば花鳥風月となるのだ。)(中略)」(現代語訳佐藤)

そして、

旅人と我名よばれん初しぐれ
(解釈:旅先では、ただ一言、「旅人」呼ばれたいものだね。旅に出ようと思ったらどうやら初時雨が降って来たようだ。)時は冬吉野をこめん旅のつと
(解釈:冬の旅ですから、旅の土産には、吉野のものはありませんぞ)

と詠んでいる。

松尾芭蕉という固有名詞ではなく、「旅人」と呼ばれたいという心境というものは、少し大げさに聞こえるかも知れな いが、悟りの境地に近いものがあるように思われる。栄達の夢を捨てきれず、花の都の江戸に出てきた芭蕉だったが、いつしか自分が、突き詰めてきた道の奥に は、自分が考えもしないような深い道に連なっていることを発見した時の境地は、

「そうだ。自分には俳諧の道しかないではないか。でも今のままでは西行さんや、その他の道の達人たちが為したよう な道の奥までたどり着くことはない。名も家も宗匠という肩書きも捨て去って、旅の道で自分を生かすしか道はない」そう思ったのである。

これは少し褒めすぎかもしれないが、ブッダが、自我との苦闘の果てに、自己の内部になる私欲というものと戦って菩 提樹の下で悟りを得たことと似ている。きっと芭蕉は、ブッダのように、己を生かす道がこんなに身近な処にあったことに驚いたはずだ。

「野ざらし紀行」(1684.8〜1685.2)は、決意と覚悟をもって行われた最初の紀行である。

芭蕉は、その紀行文の冒頭で、次のような実に印象的な句を残している。

野ざらしを心に風のしむ身かな
(解釈:野ざらしとなった旅人の骸骨のイメージが浮かぶほど、今日は風が心までしみいるような旅立ちの日であることだな あ)

そして住み慣れた深川の芭蕉庵を後にして、奥吉野にある西行庵へと向かったのである。おそらく芭蕉は、西行さんの 住まいの跡に、花を探し、西行さん自身の臭いを感じ、西行さんの跡を、俳諧という道を通して、歩いてゆくことを報告に向かったのではなかっただろうか。

芭蕉が、この旅に出かけたのは、初秋の頃(陰暦8月中旬)であるから、もちろん桜は咲いているはずもない。しかし 野ざらしを思わせるような寒々ととした風が吹いているはずはない。その意味で、この冒頭の句には、かなりの誇張が感じ取れる。芭蕉の心には、西行さんとい う満開の桜が咲いていたはずだ。だから「野ざらし」の冒頭句は、これまで考えられたような死も厭わないというような悲壮な覚悟を表す句というよりは、芭蕉 一流のユーモア心で作られた句と介すべきだ。苦しい旅になるかもしれないが、そこには憧れの西行さんやら能因法師やら、その路の先人たちが待っていてくれ る。それをユーモアで柳に風と軽く受け流す。芭蕉の句の「軽み」(かろみ)は、こんなところにも現れているのかもしれない。だから「野ざらしになっても、 私は旅に行くよ」などという大げさな解釈は、愚の骨頂であり、第一風情というものがない。芭蕉は、初めて世の中に自分の悟った真理を説く、若きブッダのよ うに、どきどきわくわくとしながらの旅だったことになる。

芭蕉は、東海道を西へ西へとどんどんと行く。箱根を越え、富士を見、大井川を渡り、西行さんが、

年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
(解釈:年を取りこの佐夜の中山を越えて、再び奥州へ行こうとしている私だ。ああそれもこれもこの命が保ってくれてのこ とだなあ)

と詠嘆した小夜の中山を越えた。かつて芭蕉は、この西行さんの名歌にちなんで、

命なりわずかの笠の下涼み
(解釈:まったく西行法師が云うように小夜の中山を越えるのは容易ではない。命あってのことだ。ましてやこの盛夏のこ と。少しばかり笠の松の下で涼んでゆくことにしようか)

という句を詠んだことがあるが、今回は、馬に乗ってこの難所を越えたのである。そして馬の背中でこんなとぼけた句 を詠む。

道のべの木槿(むくげ)は馬に喰はれけり
(解釈:花がかわいそうだ。何しろ乗っていた馬が、道ばたのむくげの花をパクリと喰って、そしらぬ顔で歩くのだから)
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
(解釈:唐の詩人の杜牧(とぼく)の詩にもあるが、馬の背に寝て、うつらうつらと夢心地で行くと、夜明けの前の月が遠く の西空に懸かっている。あのゆらゆら立ち上っているのは茶の煙かそれとも行き倒れた旅人を焼く荼毘から上る煙か…。)

第一句を読むと、この辺りにも芭蕉のユーモアとジョーク感覚が、存分に出ている。乗っていた馬が道ばたの花をパク リとやって、そしらぬ顔で歩いて行く様は、人間のようでもあり、吹き出しそうになる。また馬の持つ生命力のような逞しさも感じる。「野ざらし」と云うイ メージを冒頭で提示しながら、実は自分の足で、西行さんのように歩くのではなく、図々しくも若い芭蕉は、馬に乗ってテクテクと涼しい顔で歩いている。まる で西行さんの歌という花をパクリとやるこの馬そのものが芭蕉にも思えて来る。名句とは云えないが、芭蕉のユーモア精神がよく出た面白い句である。

第二の句は、また馬上で、あたかも真夜中に小夜の中山を越えて行くような情景を詠んでいるのだが、おそらくこれは 芭蕉の脚色だろう。それよりも、鼻ぼこ提灯を出しながら、馬の背に揺られている旅の芭蕉が連想されて長閑な感じのする句である。句の言外には、やはり、西 行の「命なりけり」の歌への追慕があり、最後に亡くなった旅人の骸(むくろ)の煙のイメージが、私には浮かぶ。それではあまりに句が、寒々しくなるので、 ここでは茶の煙としたのであろう。

まあそれにしても、今の世の現代俳句というものは、何かあまりに高尚な文学になってしまって、芭蕉も俳聖として奉 り過ぎである。そもそも俳諧は、江戸庶民の滑稽味(ユーモア感覚)から生まれた庶民の言葉遊びであった。ただの滑稽だけではない蕉風とよばれる作風を確立 したと云われる芭蕉であるが、その芭蕉の句にも、この滑稽味が含まれていることは至極当然なことだ。芭蕉は、いささか俳聖として、神格化され過ぎてしまっ ているように感じる。冒頭の「野ざらし」の解釈でも分かる通り、「野ざらし」(野に曝された骸骨)という言葉のイメージは、芭蕉一流のユーモア感覚なので ある。そうした方が余計に句に風情がでる。人生のすべてをかけて一生を風雅の道に捧げるというような解釈では、重たくて芭蕉の句の心を正しく感知すること にはならない。
 

3 吉野西行庵の芭蕉

こうして芭蕉は、桜のない初秋の旧暦9月十日頃、桜の名所の吉野に着いた。その時の吉野の印象をこのように記して いる。

「ひとりで吉野の奥を辿って行くと、実に山は深く、白い雲が峰々を覆い、谷を煙るように降る雨が谷を埋めるように 降っている。山に暮らす者達の家は山の所々に点在し、西からは木を伐採する音が東に木霊して響いて来る。寺院の鐘の音もまた人の声のようにわが心の奥を揺 さぶるのだ。昔からこの山に入りて、浮き世を忘れたる人の何と多かったことか。その多くは詩作に逃れ、歌に隠れてこの山に隠棲(いんせい=隠れ住むこと) したのである。まさに中国にあるという廬山(ろざん)という処も、吉野のような処ではなかっただろうか。

そこである僧坊に一夜を借りて

碪打ちてわれに聞かせよ坊が妻
(解釈:吉野の秋はしんしんと冷えてきた。こんな秋の夜には、この僧坊の妻が夜なべに衣を打つ碪(きぬた=衣を柔らかに するために打つ道具)の音を聴かせてほしいものだ。)」(現代語訳佐藤)

芭蕉は吉野に来る前、伊賀(三重県西部)の兄が住む実家によって、近年亡くなった母の菩提を弔っている。この旅そ のものが、母への追慕の旅でもあった。その意味で、この句が出来た背景には、よく云われるように新古今集(藤原雅経作)の

「○み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり
(解釈:吉野の山の秋風は、夜が更けて来て、故郷を遠く離れた我が衣をいっそう強く打つことだ。)

という歌を下敷きとして、故郷への郷愁(ノスタルジー)の気持と母への追慕の情を詠ったものと考えて差し支えある まい。きっと芭蕉が幼き頃、秋口から冬にかけて、伊賀の実家では、母が夜なべ仕事で、衣を打っていたことだろう。

いよいよ、芭蕉は、奥吉野の金峰神社の近くにある西行さんの庵に向かう。
芭蕉は、内心あれやこれやと思いを巡らせながら、奥吉野に歩を進めたことあろう。そしてこのようにその印象を記してい る。

「西行さんの草深い庵の跡は、金峰神社の奥の院より右の方へ二町(一町は108mほど)ばかり入った処にあった。 柴をかる人が通う道の道ばたの険しい谷を隔てた処にあって、実に貴い感じがする。西行さんが、

とくとくと落つる岩間の清水くみほすほどもなきすまいかな
(解釈:我が庵のそばに、とくとくと清水を湧かせている石清水があるのだが、そこは独り身のこと、たいした炊事もするわ けでもなし、水くみをするほどもないことであるよ)

と詠んだ清水は、昔と変わらず、とくとくと音をたてながら流れ落ちている。」(現代語訳佐藤)

露とくとく心みに浮世すすがばや
(解釈:何ときれいなとくとくの清水だろう。この清水の露をもって、浮き世の汚さをすすいでみたいものだ)

結局、芭蕉は「野ざらし」の旅で、吉野の桜には、会えなかった。もちろんそれは初めから分かっていたことだ。しか し芭蕉は、この旅で、吉野の山に、何故西行さんが、この地に草庵を結び三年間も棲んでいたかを実感したはずだ。その理由は、この吉野の地が、桜の名所だっ たからという単純な理由からではない。ここには、都にはない雛びた風情がある。西行さんは、権謀術数に明け暮れた都の中枢にいた北面の武士というエリート 貴族であった。しかしながら、西行さんの周囲では、貴族や宮中の貴き人々が、相手の腹をさぐり合い、骨肉の争いをし、あっけなく失脚し、あるいは命までを も失って行く様を身近に見ていた。いったい若き西行さんに何があったのかは歴史の謎である。それにしてもかわいい盛りの幼き女児と妻を捨てたという現実 は、一種異様にすら感じる。結局、二十三歳の若者佐藤義清(のりきよ)は、自らの名を「西へ行くと書いて「西行」と読ませて、仏法を唱え、風雅の道に活路 を求めて、日本中を身ひとつで、それこそ命の尽きるその時まで歩き続けて亡くなったのである。

吉野の西行さんの庵に辿り着いた芭蕉は、歳を取ったとは云え、四十一歳の青二才であった。現実にこの時の、芭蕉自 身の「野ざらし紀行」を丹念に読めば納得できると思うが、吉野山の景観の表現ひとつにしても、中国の漢詩のイメージを出し切れていないように思う。厳しい ことを云うようだが、日本の山々の景観描写になっていない。またそこで作られた句も、己の世界を確立した詩人のそれではない。やはり、どこかには談林風の どこか大衆の感情に媚びたような臭さが私には感じられる。要は芭蕉が、芭蕉に成りきっていないのである。

もちろんそれでも芭蕉は、必死で西行さんに食らい付いて行こうとしている。深い感動を持って、庵の前で、あるいは 「とくとくの石清水」の前で呆然と佇んだはずだ。それで何とか、未来に通じるヒントを得たことになる。言い方を変えれば、芭蕉は、吉野で西行さんというこ の世ならぬ美しい桜花(はな)を見つけたことになる。桜花の咲かない頃の吉野に来て、石清水を句に詠んだのである。これはどうも象徴的な意味を持つように 考えられる。しかもここにある石清水は、生まれたての純粋な混じりけなのない美しいを誇っている。それは西行さんの人生が込められた歌同様に何の衒(て ら)い我欲もない。するとこの石清水こそが、芭蕉にとっては、西行さんそのものなのである。きっと、芭蕉は、この清水を口に含んだ瞬間、何かを感じたはず だ。そして一気にごくりごくりと西行さんの思いを呑み干した時、「ああこのまま西行さんの歩んだ跡を、もっと辿りたいな」と、強く思ったに相違ない。西行 さんの跡を日本中辿ることによって、日本人の風雅の道に連なれるかもしれない。漠然と芭蕉はそう思ったはずだ。それがゆくゆく、「奥のほそ道」という日本 文芸史上に残る傑作として結実してゆくことになるのである。
 

4 芭蕉、吉野桜と初対面

芭蕉が、憧れの吉野桜の開花に出会ったのは、貞享五年(1688)春であった。この時、芭蕉は四十五歳。「野ざら し」の旅から四年後のことである。この年は、奥の細道の旅に出る一年前に当たる。この旅のことは、「笈の小文」と呼ばれる紀行文集として、後に刊行される ことになった。又この旅のきっかけであるが、芭蕉の実父の三十三回忌に当たり、亡夫を偲ぶ旅でもあった。

前年の貞享四年の旧暦十月二十五日に江戸深川を出立した芭蕉は、名古屋の熱田神宮を訪ねた後、実家にて越年をし て、二月二十八日に父の三十三回忌の法要を終えると、三月十九日に、念願の吉野桜と対面を果たすべく、故郷の伊賀を後にしたのであった。

芭蕉は、浮き立つような気持ちを「笈の小文」の中で、このように記している。

「弥生三月の半ば過ぎに、何となく心が浮き立っていた。心の中に吉野の桜のことが思い出されて、西行さんの歌が浮 かんだ。

『○吉野山こぞの枝折(しおり=枝を折って帰り道の道しるべとすること)の道かへてまだ見ぬ花の花を尋ねむ
その歌が、どうしようもなく、私を枝折のように吉野の山へ吉野の桜へと導くのである…。」(現代語訳佐藤)

そして芭蕉は、旅で知り合った万菊丸と名乗る旅人と、

よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
(解釈:ひの木の笠よ、さあ吉野に連れて行って、桜を見せてやるからな)

と、句を詠んで、吉野に向かって歩いて行ったのである。

そして吉野に向かう途中の箕面(みのお)の滝(現大阪府箕面市にある)の側の道ばたの桜をこのように詠んだ。

 桜
桜がりきどくや日々に五里六里
(解釈:いや我ながら桜を見ると云っては飽きもせず日々に五里や六里歩いているのだ。こうして私も風狂の道に分け入って しまったのだろうか。)

日 は花に暮れてさびしやあすならふ
(解釈:桜の花を見ていて、時を忘れていると、もう日が暮れようととしている。しかも夕日は翌檜(あすなろ)の花の中に 沈んでしまった。今日にもっと桜を見たかったのに。寂しいことではあるが、仕方がない。また明日に桜の園を見に歩くことにしよう)

扇にて酒くむかげやちる桜
(解釈:戯れに幽玄を気取り扇を杯にし、花見酒を決め込んでいると、その陰で桜がはらはらと散ってくるのだ。)

この桜の連作の第二句目は、実に思わせぶりな句だ。
「笈の小文」が刊行される原文になったと思われる「笈日記」の方で、次のような言葉が句の前に添えてある。
「”明日は檜の木になろう”という古い言い伝えがあるが、昔、谷の老木が云ったということである。

『昨日は夢のように過ぎて、明日は今だに来ないでいる。ただ死ぬ前には、一献の美酒を飲むことだけが楽しみだった が、明日には、明日には、と云いながら暮らして来て、終いにとなって、賢者から怠慢のそしりを受けることになったのだ…』(現代語訳佐藤)

さびしさや華のあたりのあすならふ
(解釈:実に寂しいことだ。桜の近くには、翌檜(あすなろ)の花が立っている。あすなろう(明日なろう)やあすならおう (明日習おう)ではいけないのだ。今日いま出来ることを精一杯やっていなければ、明日など来る訳はない。それほど人生は短いのだ。)」

現代人は、芭蕉のことを俳聖とか言って持ち上げているが、芭蕉は、西行さんという旅の巨人を前にして、「自分は翌 檜の木だ!」と本気で思った。芭蕉でもこのようだ。だからこそ、人は誰でも、この翌檜(あすなろ)の話を教訓としなければならない。ここには我々と同じ自 らの惰性を嘆く、人間芭蕉がいる。彼は、きっと旅寝の枕を抱きながら、「こんなことをしていたら、いつまでたっても、西行さんに追いつけないぞ。もっと気 を引き締めなければ。」そう思ったに違いない。
 

5 芭蕉にとっての吉野行

芭蕉にとって、吉野に旅をすることは、西行さんに出会う旅であった。西行さんという檜の木(本物という意味)に行 き会うことによって、翌檜(あすなろ)の木である自分を鍛え直そうとした。風雅の道に限って云えば、芭蕉の前には、西行さんという高峰にも似た師が遠くに あり、そこに至る長いほそ道がずっと続いていた。しかし西行さんが人生において達した地点まで、到達するのは、容易ではない。まして俳諧の道において、も はや芭蕉には、師と云うべき人物など、日本中を探しても見あたらないのである。こと俳諧という江戸の庶民の言葉遊びから発した文芸を、西行さんの和歌の高 みまで、引き上げることは、深雪の積もった高峰をひとりで、道を切りながら、踏破するようなものである。

では芭蕉は、どのようにして西行さんという高峰に登る術を獲得するのか。そのことを、「笈の小文」では、暗示的に このように記している。これは先に紹介した句、「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」 のすぐ後に連なる文章である。

「旅の所持品が多いのは、道を歩くの障害になると思い、ほとんどの物は捨てたのだけれども、旅寝に役立つと思っ て、紙子(防寒具)をひとつ入れ、雨よけの合羽、硯(すずり)、筆、紙、薬、弁当箱なども包んで、背負ってみれば、情けないことに足が弱って、体力がない ものだから、後ろに引かれて倒れるような有様で、道を歩いても歩いても、先には進まないと云った具合で、ただ苦しいことばかり多いのである。

草臥(くたび)れて宿かるころや藤の花
(解釈:旅すがら、一日中歩いて歩いて歩き疲れて日も暮れて、宿を探していると、紫の藤の花がそっと咲いていたよ)」

この藤の花のエピソードは、ひとつの暗喩(あんゆ)のように感じられる。人間というものは、本来であれば、必要も ない荷物を目一杯に背中に背負って、人生という旅をするものだ。しかし必要最小限で事足りるはずの荷を目一杯にしてしまう理由は、つまらない我欲が、心に あるからだ。そしてあれもこれもとなった挙げ句に、芭蕉が云う如く、後ろに反ったような妙なカッコウで歩く羽目になる。これでも芭蕉にとっては、随分捨て たはずであった。しかし捨てられないのが、人間の悲しい性分(さが)というものである。それでも芭蕉にとっての救いは、目的あるいは目標がはっきりしてい たことだ。吉野に行き、西行さんの感じたことを自分でもこの目で見、肌で感じて見たい。荷は途中で何とかすれば、捨てられる。多くの人が、人生という長い 旅の中で、立ち往生をしてしまうのは、旅の目標や目的を途中で見失ってしまうからではあるまいか。

さて人間の感性が研ぎ澄まされる瞬間というものは、それこそ妙なもので、体力の有り余っている時ではない。ふっと 力が抜けた瞬間にこそ、何ものにも囚われない自分らしい感性というものが、思わず湧出(ゆうしゅつ)するものだ。この時、芭蕉は、背負った荷の重さに負け て、疲れ切っていた。「何でこんなものまで、入れて来てしまったのだろう」などと、後悔もしていたことであろう。そこで、ふっと宿の側の道ばたに、藤棚が あって、藤の花が、匂うように咲いていたのだろう。そこで一瞬にして、芭蕉は詩人と化す。本来芸術というものは、このようにして作られるものではなく、心 の奥から湧き出してくる性格のものである。この「草臥れて」の句は、その意味で、力の抜けた名句というべきであろう。芭蕉研究者の今栄蔵氏によれば、この 句は、吉野を出て、現在の橿原市の辺りで、詠まれた旧暦4月21日頃の作ではないかということだ。考えてみれば、藤の花が桜の前に置かれているのも不思議 なことだから、おそらく吉野の旅に出る前のわくわくした気持ちに少し水を差す意図をもって、「笈の小文」の推敲の過程でこの句を添えたのであろう。

このことによって、芭蕉の腹が据わりながらも、気負いが無くなったいる心の有り様が明確にわかる。明らかに4年前 の「野ざらし紀行」の時分とは、別人の芭蕉が、この「笈の小文」という文章の中にいる。
 

6 芭蕉の奥吉野再訪

芭蕉は、再び、奥吉野の西行庵の側にある「とくとくの清水」の前に立った。

四年前の「とくとくの清水」で詠んだ芭蕉の句を思えているだろうか。

露とくとく心みに浮世すすがばや
(解釈:何ときれいなとくとくの清水だろう。この清水の露をもって、浮き世の汚さをすすいでみたいものだ)

次に今回は、同じ「とくとくの清水」を彼はこのように詠んだ。

今回はこのような句を詠んだ。

春雨の木下(こした)につたふ清水かな
(解釈:春雨が降っている。西行さんが呑んだという岩間清水にも、春雨が梢を伝って混じり合い共に清水となって流れてゆ くのだ)

一目瞭然。ここには、4年前の強い心の動きはない。ここには感動はやや抑制され、表現されており、特に「春雨」と いう言葉の響きと視覚的なイメージによって、山間の里の奥深さのようなものが、ひしひしと実感として感じられる句となっている。ここにはある種の日本の美 としての「幽玄」世界への昇華があるのであろう。岩間の清水は、永久不変のもの、すなわち「西行」を暗示させ、そこに解けてゆく「春雨」は芭蕉とも受け取 れる。結局、「春雨」という新しく誕生した水が、梢を伝って、この「清水」と合流する様は、芭蕉が心の中で念じる西行さんという高みに解け合うことを連想 させる。

それにしてもこの4年間の間に、芭蕉の心の中で、どのような葛藤があり、このように肩からすっと力の抜けた句を詠 めるようになったのであろうか。何としてもその辺りが、気になる所ではある。

四年前の「野ざらし」の旅では、冗談半分ではあったが、「野ざらし」となる覚悟を決めて西行さんの跡を尋ねる旅に 出た芭蕉であったが、その紀行の最後の辺りの句に、

死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
(いやはて、野ざらしとなる覚悟を持っての旅ではあったが、私は死にもせずこうして元気で秋の暮れを迎えていること だ。)

というものであった。ここには、やはり四十一歳とは云え、旅をものともしない若さがある。しかし人はいつもでも若 く足が丈夫であるはずはない。みな同じように足は萎えて、昨日までは、苦もなく歩けた道のりでも、四苦八苦するという現実をあじわうのである。やはり、こ の四年間の歳月の流れこそが、芭蕉の心に大きな変化をもたらしていることは、確かであろう。こうして芭蕉は、己の命の有限というものを、つくづくと感じて いるのである。

そうなると初めは冗談のつもりであった「野ざらし」のイメージが現実味を帯びながら、芭蕉の心の中で膨らんでゆく ことになる。そして様々な人間の死が、芭蕉という生の周囲で立て続けに起こってゆく。確か古き仏教の教典の中に、人は屠殺場に牽かれて行く牛にたとえられ ているものがある。順番が来れば、屠殺人は、情け容赦もなく、人牽いてあの世へと送ってしまうのである。
 

ところで、貞享三年(1686)芭蕉が、四十三歳の時に、あの名句が詠まれた。この年は、丁度「野ざらしの旅」と 「笈の小文の旅」の中間地点に当たり、この時点での芭蕉の心の中や句境の変化を覗くことができる。

古池や蛙飛びこむ水の音
(鑑賞:何気ない長閑な一日、わが家の古池をのぞいていると、どこからともなく小さな蛙が、池にポチャリと飛びこんだの で、消えてしまった。ああ今年も蛙たちがさえずる春がやって来たのだなあ…)

この句は、深川の芭蕉庵の古池の前で詠まれた句とされている。蛙の句をみんなで持ち寄って、新しい趣向の句を詠む 席で、発表されたものならしい。この句は、様々な物議を醸す句であるが、この古池が、吉野だろうが、深川だろうが、そんなことはどうでも良いほどの無我の 句で、一種の悟りの句とも評されるほどの句である。確かに、まるで禅の悟りの象徴として描かれる円相(○)のようでもある。
「古池や」というのであるから、古池を強調した句にもみえるが、主語はあくまでも蛙である。しかし蛙を詠んだ句とも言い 難い。そうするとポチャリとなった水の音が。もちろんそんなはずはない。強いて云うならば、「古池」と「蛙」と「水の音」が三位一体となって、この芭蕉の 詠んだ「古池」の句の枯れた空間を緊張感をもって構成しているのである。三つのうちどれが欠けても、この句は名句とは成り得なかった。長閑な景色を思わせ る十七文字の世界で、極度の緊張が漂う句である。

そのように考えれば、「古池」とは、宇宙とか地球という大きな生命を育む自然の空間のことであり、そこに生きる生 命を代表するものが「蛙」である。また「水の音」は、その自然の中で、生命というものが、行動を起こした時に巻き起こる一時の波紋であり、やがては、消え る類のものである。このように考えるとこの三位一体の正体というものは、自然と生命とその営みというものに置き換えることができる。

更にこの「古池」の句は、後に「不易流行」という芭蕉の俳諧の到達点を示す境地がほぼ完璧な形で示されていると云 えるであろう。不易と流行は、極論をすれば、変わらぬものと常に変わりゆくものが対置している関係のことである。この古池の句には、「古池」という変わら ぬものがあり、「蛙とその行動が引き起こす波紋」という変化の構図がみて取れる。しかしこの古池という自然が、水を満々と湛えて、この池に棲む蛙を育んだ のである。その蛙が引き起こす波紋もまた流行である。しかし考えて見れば、すべては古池という宇宙にも似た不変の中で、起こった出来事で、またしばらくす れば、古池は、元の静寂な古池に返ってしまう。

おそらくこの古池の句は、芭蕉が、これまでにない新しい作風というものを創ろうと考えた挙げ句、思わずふっと口を ついて出た句であろう。しかしそこには新しい句ながら、西行さんや藤原俊成、定家が目指した和歌の道に通じるような心の深まりというものが感じられるので ある。芭蕉の心には、漠然とした雲のようなものが湧いていただろう。その雲こそが、芭蕉がひとつの道を歩き通して、つかみかけた真実の雲なのである。人は それを「悟る」という言葉で表現することもある。

芭蕉は、「おくの細道」の旅が終わった後の元禄二年(1689)に年の暮れに、京都に滞在した折、弟子の去来に、 この不易と流行に関してこのように漏らしたという。

「(不易も流行も)、元をたどれは、ひとつのものである。不易ということを知らなければ、基本を押さえた句を詠む ことはできず、流行ということを知らなければ、詠んだ句の風体(姿)というものが、新しく見えることはない。不易の句というものは、むかしに聞いてもいい なと思ったのに、時間が経っても、古さを感じさせない句のため、「千年も不易の句」というのである。流行は、その時代、その瞬間の変化に応じて、昨日は良 く聞こえたが、今日には、何故あんな句をいいなと思ったような句を云うのである。今日いかに良く見え、耳に心地よく響こうとも、明日には捨てられるような 句だからこそ、「一時の流行の句」と云うのである。」(去来抄より現代語訳佐藤)

この古池と同じ時期に作られた句に、このようなものがある。

  担堂(たんどう)和尚を悼み奉る
地に倒れ根に寄り花の別れかな
(鑑賞:担堂和尚は逝ってしまわれた。地に倒れた和尚という花に寄りそい、その根にまで、別れを惜しみたいほどの悲しみ が込み上げてくる)

この和尚と芭蕉が、どのような親交があったかは知らない。芭蕉は、近しい人の死を目の当たりにし、命の儚さという ものをつくづくと実感したはずだ。いずれは自分だって土に帰るのである。だいぶ肉体もがたが来ていたことを、おそらく芭蕉も自覚していたことだろう。その ように考えれば、芭蕉の心境の成熟というものは、自らの老いというものによってもたらされたものかもしれない。
 
 

7 芭蕉と老い

人は誰も目標というものをもってこそ、大成することが可能となる。目標は、憧れの人と言い換えても差し支えない。 芭蕉にとって、それは西行さんであった。西行さんが歩いた道を歩きながら、またその西行さんが庵を結んだ吉野の山里に佇みながら、その足もとにも及び着か ないであろう自分を悟った。でもどうしたら、その感性を自分のものとすることが出来るか?と必死で考えるうちに、芭蕉は己の背負っていたもの、すべてを捨 て去って、ただ旅の中に身を投げてみることにしたのだった。

芭蕉は、ひたすら西行さんの辿った道を歩き、心のままに詠った歌を実感し、その心に触れようとした。そしてそれを 新しい俳諧の中に生かすこと…これ以外にはないと感じていた。

幸いなことに、芭蕉には老いがやって来た。老いは、若い生命力が、次第に衰えて、別の生命力が目覚めるる頃であ る。こんな喩えは適当ではないかもしれないが、人工衛星の打ち上げで云えば、老いは、丁度、第一弾ロケットが、切り離されて、第二弾ロケットが点火するよ うなものだ。空気が薄い高層圏では、第一弾ロケットほどの推進力はいらない。問題は、第二弾ロケットによって、衛星の軌道の上にきっちりと乗ることであ る。

別の言い方をすれば、老いは、新しい感性の目覚めの時である。これまでは、若過ぎて、見えなかったものが、はっき りと見えてくる。それは人の心でも、景色でも何気なく見過ごして来たものが、実はものすごい価値のあるものにも感じられる。老いた人間にとって、時間は早 い、一年が若い時の倍にも早く過ぎるように感じる。しかし時間が早いから良いとも云える。はっきりと、先が見え、物事が見えだしてくる。時間がないと焦る 必要などない。既に定めた通り、西行さんの歩いた道を辿り、その軌道の上を歩いて行きさえすれば、たとえ、西行さんとは行かないまでも、近い所に到達でき る…。芭蕉は、薄ぼんやりながら、そんな確信を持ち始めていたに違いない。

若さと違い、老いてからの感性にとって、重要なのは、己を信じ、絶えず目標となる地点から目を離さないことだ。老 いは、死期がどんどんと迫ってくることに他ならない。しかし人は自分の命の有限さを自覚するからこそ、良き歌や句が詠める。詩歌ばかりではない。このこと は何でも同じだ。人は生命の有限によって、尻を叩かれ、良き仕事を成すのである。

芭蕉の句の深みは、西行さんという人生の師とも云える目標を得て、残り少ない人生を自覚したことによって、実現し たものであろう。

その意味で、私は「笈の小文」は、「老いの小踏」と言い換えても良い気がする。すなわち「笈の小文」で、芭蕉が到 達した境地は、老いという自然の営為がもたらしたものとも云えるのである。笈の小文の旅で、場所は、桜満開の吉野を越えて、高野山に辿り着く。その辺りの ことをこのように記している。

「吉野の桜に三日滞在して、日が昇り、夕暮れの吉野の景色に向い、また明け方の月の風情ある姿など目にして、万感 胸に迫る思いがした。また昔、

昔だれかかる桜のたね植ゑて吉野を春の山となしけむ
(解釈:昔どこの誰が、こんな風に吉野に桜を植えて、春の山と成したことだろう)

と詠んだ藤原義経公の、「ながめは」の春の吉野に目を奪われ、西行さんが、吉野桜を見んと連日歩いた山に魅惑され たのだった。
俳諧の貞室も、

これはこれはとばかり花の吉野山
(解釈:なんだこの桜は、いったいこの桜はなんなのだと云う他はない。この吉野山の桜であることだ)

と殴り書きのような句を詠んだのであるが、私はと言えば、云う言葉も見つからず、ただ無口になるばかりであった。 実に悔しいことだ。良き句を作ろうと、思い立って出てきた風流の旅であったのに、ものものしく考えすぎたのかもしれない。こうなっては興ざめなことであ る。

 高野
ちちははのしきりにこひし雉(きじ)の声
(解釈:しきりに雉が鳴いている。きっと父と母を恋しくて泣いているのであろうか

 和歌(和歌山の和歌浦のこと)
行く春にわかの浦にて追付たり
(解釈:早足で北へ行く春にやっと和歌の浦にて追い付いた気分だ)」(現代語訳佐藤)

 
この二つの句の解釈は重要であるように思う。第一句の雉は、父母を亡くして鳴く雉は、芭蕉自身である。子は、両親の死と いう冷厳な事実によって、生命の有限を教わるものだ。すでに父を三十数年前に亡くし、たったひとりの母もまた数年前に他界している。こうした現実を受け止 めることによって、やがて旅の中で死にゆく己自身のイメージも芭蕉は意識しつつあるように感じる。

第二句の和歌の浦の句は、芭蕉の西行さんに近づきつつあるという、ある種の確信のように感じる。「行く春」とは、 西行さん自身であり、「和歌の浦」は、もちろん和歌のことである。だからこの句を私なりに解釈し直せば、「行く春のような存在である西行さんの和歌の心を 自分は、何とかこの吉野から高野山そして和歌浦の旅をする中で、捕まえた気がする。そうだ私は西行さんの歌の心を分かるようになったのだ」

芭蕉は、こうして、俳諧という一本の道を旅しながら、日本の風雅の奥の道に分け入ることが叶ったのである。
 

8 芭蕉の歩んだ「道」の根元にある花 

西行さんの歩んだ道を辿る旅人としての芭蕉を見てきた。これから芭蕉は、「奥の細道の旅」へ向かうことになる。そ れは西行という人物を慕い続けた芭蕉という人間の当然の帰結でもあった。

旅人の芭蕉にとって、西行さんは、吉野そのもの、吉野桜そのものであった。日本中至る所に西行さんの足跡が遺され ており、そこを尋ねる旅は、花を観る旅に他ならなかった。芭蕉はひとりの先人の跡を辿ることによって、俳諧の風雅の道を切り開いた開拓者となった。

五十一歳で、俳諧の道の大家となり、芭蕉翁と呼ばれるようになった松尾芭蕉について、私は、もしも芭蕉が「翁」と 呼ばれるようになった自分のことを聞かれたならば、とたんに、顔を赤らめて、このように言うであろうことを信じて疑わない。
「とんでもありません。私はただ、西行さんを初めとするその道の先人の後を追いながら、才能もなき自分でも、少しでも近 づこうと思って、歩いただけに過ぎません。過大評価は無用に存じます」

芭蕉は、常に「道」というものの根元について、「老荘思想」における万物の根本の法則である「道」というものを強 く意識していたように思う。芭蕉の遺した文書には、「荘子」からの引用が数多く見られる。「野ざらし紀行」の「千里に旅立ちて…」という冒頭でもそうであ るし、「笈の小文」の冒頭の「百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に…」も「荘子」からの引用であった。

芭蕉が意識しているという「道」というものは、どんなものであるのか。「老子」は、「道」というものをこのように 説明している。

「何かものか、一つにまとまったものがあって、天と地よりも以前に生まれている。静まりかえって音もなく、おぼろ げでいて形もなく、何ものにも頼らずに独立して不変であるり、どこまでもひろくめぐって止まることがない。それはこの世界のすべてを生み出す母と言えよ う。わたしはそのほんとうの名を知らないから、仮の字をつけて「道」と呼ぶ。」(講談社学術文庫「老子」上篇二十五ヨリ 金谷治訳)

このように「老荘思想」における道は、世界が生まれる以前に存在していた自然の法則のようなものだ。芭蕉は、その ような「道」を会得するために、おのれの自身を虚しくして、ひたすらその信ずる「道」を歩いたと思われる先人たちに学びつつ、その中でもとりわけの西行さ んという風狂に生きた僧侶にして歌人にあこがれの念を抱いて日本中を歩いたのである。そして芭蕉はついにこの道に通じて、翁(おきな)と呼ばれるように なったのである。もちろん翁とは、年老いた人という意味ではない「知恵のある人」という尊敬の念を込めた呼称である。
 

9 結び

最後に、芭蕉の桜の句の中で、私が一番好きなものを上げておこう。その句は、何の変哲もない次の一句である。

さ まざまのことおもひ出す桜哉

この句は、二度目の吉野行(「笈の小文」の旅)の途中、実家のある伊賀国上野で詠まれた句である。誰でも詠めそう な平凡な句にも聞こえる。でも、何度も味わうと、何の講釈も要らないしみじみとした良き句である。人はこの句から、自分の人生における桜について、それこ そ人さまざまに色々なことが浮かんでくるであろう。

芭蕉がこの句に込めた思いは、この句に付されている詞書から想像することが可能である。

詞書には、「探丸子(たんがんし)の君、別墅(べっしょ=下屋敷のこと)の花見もよはさせ給ひけるに、昔のあとも さながらにて」(現代語訳:探丸子の君が上野の下屋敷で花見の宴を開かれたのに招かれて行けば、そこは昔の宴もさながらにて)とある。「探丸子」とは芭蕉 が、若い頃に仕えていた故藤堂良忠の息子良長の俳号である。良忠は蝉吟(せんぎん)という俳号を持つほど俳諧を好んだ。その子良長は父同様俳諧の道に長じ ていて、元禄元年(1688)当時、23歳の若者であった。

若い頃、芭蕉(松尾宗房)は、この探丸子の君の父君に当たる良忠に仕える近習であった。近習はエリートである。芭 蕉の将来は約束されたようなものだった。しかし運命は分からない。寛文六年(1666)春、桜の宴を催した直後、突如としてこの良忠が25歳の若さで急逝 してしまう。時に、芭蕉、23歳であった。この後、若き宗房は、世を儚んだのか、脱藩という重い罪を犯しながら、伊賀上野の故郷を離れることになるのであ る。

この句を詠んだ元禄元年(1688)は、良忠公が主催した桜の宴から22年後に当たる。おそらく脱藩までした芭蕉 は、仕えた良忠の息子殿が、藤堂家を継いで、父君と同じように主催した桜の宴に招かれ、深く感じ入ったのであろう。芭蕉の中では、22年前の花見の光景 が、彷彿として脳裏に浮かび上がってきたはずだ。良忠公の顔が桜の花影に懐かしく浮かんできたかもしれない。あるいは、22年経っても、昔と少しも変わら ぬ桜木の樹勢を羨ましく眺めたかもしれない。また父良忠の面影を伝える23歳の探丸子の君を見て、頼もしさを感じたのかもしれない。そんな様々な感慨があ りながら、45歳にして枯淡の句境に入りつつあった芭蕉は、ありふれた言葉を用いて、「さまざまのこと思い出す桜かな」と、詠んだのである。一見凡庸にさ え感じる句だ。しかしながら、極めて抑制を利かせたこの句に込めた芭蕉の全胸中を考える時、私は涙があふれてくるのを禁じ得ないのである。

誰が自分の仕えている若殿が二十五歳の若さで急逝してしまうと考えるだろう。こんなことがあってよいものか。若い 芭蕉は、自分の開き掛けた運命の扉が、重たい音をたてて「バタン」と閉まるのを聞いたであろう。

かつての主君良忠の俳号が「蝉吟」というのも暗示的である。蝉という虫は、七年を土の中で暮らし、蝉となって飛ぶ ようになって、一声鳴いたかと思うと、儚くも土に帰ってしまうのである。

周知のように芭蕉には、

閑 かさや岩にしみ入る蝉の声

という名句がある。そうかといえば、

や がて死ぬけしきは見えず蝉の声

という怖い句もある。

芭蕉が詠んでいる「蝉」とは、儚き命の象徴である。山形県の山寺と呼ばれる「立石寺」に行ったことのある人は、す ぐに分かると思うが、蝉が驚くほどのうるささで鳴いている古寺である。それを何故、芭蕉は、「閑かさ」と表現したのか。おそらくこの「閑かさ」というもの は、周囲の「静けさ」のことを言っているのではなく、あくまでも芭蕉個人の主観の中での、音がとぎれて何も聞こえなくなった状態を「閑かさ」と表現したの である。立石寺の山門の岩には、実は近在の民の墓となっており、岩には穴が掘られ、骨が埋葬されている。芭蕉は、そのことを、この句の奥にひしばかりに封 印したのである。儚きもの移ろいゆく象徴としての蝉が、ごうごうと鳴いている。ふとその岩肌を見れば、そこには民の骨が埋葬されていると聞かされる。驚き の中で、芭蕉は、不易と流行が岩の中にとけ込んで、一体となることを背筋が凍るような思いで悟ったのである。それがこの「閑かさ」の句である。またこの句 は、このかつて若き芭蕉の主だった藤堂良忠の寂しく悲しく儚い生涯のことを、芭蕉の無意識が象徴的に詠ませたものかもしれない。

もし仮に、この主君が、亡くならずに、生きていたならば、芭蕉という人物は、伊賀上野で、松尾宗房として、重用さ れ、両親も泣いて喜ぶような出世を遂げたかもしれない。そうなると現代の我々は、今日「奥の細道」も読めず、数多い芭蕉の名句も拝めないことになる。歴史 とは、そして人の運命は、実に不思議なものだ。そんな二十数年前の若き日のことを考えながら、芭蕉は、自らの人生と儚く逝った若様の生涯を、変わらぬ桜の 花の中に見ていたのかもしれない。若かった自分と主君良忠の溌剌とした笑顔、その頃の生涯に対する野望や夢、すべては夢の跡のように消え去って、桜ばかり が凛と咲いているのである。ここにも移り変わるものとしての自分を含む人間とそれから、桜という永久不変の花の姿が対置されていることに気付かされる。了



2003.4.9
2004.8.30 Hsato 改訂版

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